2024.05.16

東洋史学――日本人オリジナルの学問から学びなおす

シノドス・オープンキャンパス05 / 岡本隆司

社会 #シノドス・オープンキャンパス

はじめに――現代から歴史へ 

現代世界の誰もに共通する問題といえば、やはり地球温暖化でしょうか。その対処は人類の直面する重大な課題となっています。すでによくご存じのとおり、異常気象・災害の頻発をひきおこし、生活・生命にも関わる事案も少なくありません。

危機感も高まっていまして、脱炭素(カーボン・ニュートラル)も大々的にとりあげられ、ビジネス・経済にも一定の影響を及ぼしています。目前はその一方で、2022年2月から始まったロシアのウクライナ侵攻で、エネルギー危機・価格高騰の情勢にもなっているので、日本はいっそう難しい局面が続きます。もちろん日本だけではなく、とにかく気候変動とその影響は、もはや誰も無縁ではいられなくなりました。

しかしいまはあたりまえでも、筆者が幼少だったころは、決してそうではなかったように記憶しています。これほど暑くもなかったし、「温暖化」ということばもありませんでした。おそらくそれ以降、まさしく温暖化していったのです。 

それなら、もっと以前・過去はどうだったのでしょう。まさか現代のように、温暖化・気候変動ということばや課題が、これほど身近にあったとは思えません。それでも変動の実体がなかったはずはないでしょう。あったとすれば、われわれの経てきた歴史に、どんな影響を及ぼしていたのでしょうか。

近年はいわゆるグローバル・ヒストリーの観点から、環境や気候が歴史学の研究対象となり、関心も集まってきています。それでもまだ検討は緒に就いたばかり、世界全体で体系的な史実の理解・叙述には至っていません。

歴史と気象変動 

そんな観点からふりかえってみますと、われわれ自身の来し方・日本史上どうだったのかも、実はあまりよくわかっていないように思えます。そもそも史実に影響を及ぼす地球の気候変動は、日本の歴史、事件・事実が展開したプロセスだけをみていましても、わかりづらいように感じます。 

日本列島の気候は温暖湿潤で、すぐれて農耕に適した生態環境です。もちろん南北に長い列島内ですから、地理気候は各地まちまちだともいえます。それでもほぼ全域がモンスーン気候で、人の住地でおおむね農耕の生業ができることにまちがいはありません。そうした点、気候も植生も生業も多様な大陸とはまったく異なるところで、その点で日本列島は一様・一元的といってよいでしょう。 

そうした一元的な環境条件では、たとえいわゆる気象変動が発生していたとしても、社会経済的な史実では、おおむね作柄の豊凶や饑饉の有無に還元、包摂されてしまいます。歴史の叙述でも実際、そのように書かれてきたはずです。政治の動きもそれにともなって、単調にならざるをえません。かくて日本列島では、ヒトの歴史と気候変動の相関がよくみえなくなっているのです。

それでも日本史は、大きな時代の展開と画期をたびたび迎えました。7世紀から8世紀の律令国家の形成、12世紀からの武家政権の勃興、16世紀以降の天下統一の達成など、やはりダイナミックな歴史です。

そんな歴史と気象の変動は、はたして関係していなかったのでしょうか。そのあたりを考えてみるなら、よすがの一つになるのは、東洋史・中国史とあわせてみることではないでしょうか。

日本は島国ですから、外界との連絡・交渉に乏しい初期条件があります。勢い海外との関わりにあまり立ち入らずに歴史を見がちですし、またそれでも十分に内容のある歴史が書けてしまいます。

ですが、それだけでは見えないことも、またたくさんあります。おそらく気候変動との関連などは、その最たるものでしょう。

そこでたとえば日本列島の史実経過を、近接する大陸の中国史・東洋史の動向と照らし合わせて考えてみる。すると、見えなかったものが視界に入り、新たな視野も開けてくるかもしれません。ざっと一瞥してみましょう。

古代史 

まず古代史からはじめます。日本の古代といえば律令国家です。その律令とは中国由来の法制ですから、中国・東アジアと字面からして、つながりがあります。それならその中国・唐は全体として、実際にはどんな国家だったのでしょうか。そこがわからなければ、律令制の何たるか、ひいては日本の古代もよくわかりません。

しかし唐ということばはよく知っていても、実在の唐をよく知らないのが大多数の日本人です。あるいは大帝国というイメージはもっていても、漢詩でなじみがあると思い込んでいても、それは律令や唐の国制を知ったことにはなりません。 

唐は中国の永い南北分立時代をへて、ようやくできた統一政権です。それまでの分立は、主として黄河流域に遊牧民が南下移住して、既存の体制を崩潰させたことで起こったものでした。

ではなぜ、かれらが移住してきたかといえば、地球の寒冷化によります。北方の草原地帯で暮らしてきた遊牧民は、寒冷化で草原の植生が激減、生業の牧畜ができなくなり、生存のため移住せざるをえませんでした。移民と既存の住民のあいだでは、しばしば摩擦が生じます。未曾有の事態だったため、治安を維持しうる秩序は、なかなか構築できません。

そうした秩序の回復がひとまず実現をみたのが、唐の統一でした。つまり唐の律令体制とは、従前の南北分立時代の試行錯誤、ひいては気象変動の歴史が刻印されていたものなのです。

かたや日本列島はようやく国家形成の黎明期でした。建国にあたってモデルとできるのは、すでに数百年以上先んじている大陸の体制しかありません。そこで律令をコピーして、国家体制をアップデートしたわけです。

ただ日唐の国情・経歴には、あまりにも隔たりがあります。寒冷化・移民による動乱、政権の分立や統合といったことは列島は未経験ですから、オリジナルな律令そのままのコピーは困難でした。よく知られたところですが、かなりの改編を経ても、なお日本の事情に合わないところが少なくありません。

そこをもっとつきつめて考えてやれば、気象変動に大きく影響をうけてきた大陸の履歴と、さほど問題にならなかった日本の歴史過程のちがいがいっそうはっきりするでしょうし、ひいては古代史の位置づけをとらえなおすこともできるかもしれません。

中世史 

ついで中世史になります。律令体制からの逸脱、それにともなう幕府政治の形成が、古代から中世への日本の歩みでした。これは誰しも知っている史実でしょう。

同じ時期、北半球の気象は温暖化に向かっていました。そこで大陸では、律令制で寒冷化に適応した唐の崩潰過程でもあります。土地に農民を縛りつけ、法制で画一的に行動を拘束するというコンセプトは、もはや現実に適応できなくなってきました。

というのも、寒冷が緩んで移動交通が活性化し、各地の生産も回復、それに応じて在地勢力が伸張する。こうした現象がおそらくユーラシアの世界的な潮流でした。

列島内部の動きもおそらく同じ現象の一環のように思われます。そしてコピー法制の律令ではいよいよ対応しきれなくなって、政治も文化も土俗化していったのです。日本の古代から中世、つまり武家政治への移行は、そうした動きと並行していました。12世紀末期から13世紀初の鎌倉時代の到来は、そのピークをなすものでしょう。

これと同じ時期、海の向こうでも新たな展開が進んでいました。ユーラシア大陸は13世紀にモンゴル帝国の建設をへて、大統合に向かいました。

そこで日本に対しても、直接の圧力がきます。いわゆる「蒙古襲来」ですが、それも含めたこの時期のモンゴルの動きこそ、それまでの地球温暖化の総決算ともいえるものでしょう。

といいますのも、9世紀ごろから本格化した温暖化で、草原の植生が回復して、遊牧民の活潑な活動をうながし、遊牧国家の強大化をもたらしました。東アジアではウイグル・契丹(キタイ)・女真(ジュルチン)をへて、13世紀以降のモンゴル時代にいきつく動きです。

また農耕世界の中国では、唐宋変革という技術革新・経済成長・文藝復興がおこりました。エネルギーの活用が増すとともに、金属器の需給が飛躍的に伸び、人口も増加しました。各地のそうした政治軍事・経済文化の飛躍的な伸張が結集したのが、モンゴル帝国のユーラシア大統合だったわけです。

ユーラシアの東西で交流がさかんになり、活気づきました。一大経済圏ができあがり、日本もモノの取引やヒトの往来で、そこと無関係ではありません。

それでも日本人は政治的には、「蒙古襲来」を撃退して、その大統合に加わりませんでした。このあたりも日本と大陸の隔たりをあらわしています。同時代に温暖化という気候変動を共有し、類似の社会経済現象を経験しながら、しかも大陸とは異なる道をたどったところに、日本史の特性をみることができます。

世界史全体からみましても、このモンゴル帝国は、あるいは日本史でいう「蒙古襲来」は、一つの分水嶺をなしています。といいますのも、それからまもない14世紀に、気候が寒冷化に転じたからです。

疫病と不況で世界史全体が暗転しました。ヨーロッパのペスト蔓延に典型的な情況がみてとることができます。「14世紀の危機」と呼びならわれてきました。以後の世界史はそこから脱却すべく、新たな営為をはじめなくてはなりませんでした。

新しい時代 

同じく寒冷化に見舞われた列島は、従来の鎌倉幕府という枠組みでは統治が難しくなり、にもかかわらず、新たな秩序体系の固まらないまま、社会変動が激化し、体制再編を模索する時代に入りました。南北朝の動乱から戦国乱世です。それもやはり大陸の動向と無関係ではありません。

大陸では寒冷化と不況の影響から、農業を重視し商業を忌避し、流通・交通を制限統制する明朝の体制が発足しています。すでに10世紀・中世から盛んになっていた日中の民間貿易も、これで大きな制限を受けまして「勘合貿易」となります。

しかし日本は明朝の思い描く体制・秩序に収まることは、ついにありませんでした。むしろ当時の大陸、さらに世界の情勢と呼応して、それを破壊する方向へ動くのです。

15世紀から16世紀にかけ、中国大陸で起こったのは、落ち込んでいた経済の復興、そして顕著な発展でした。産業構造も変わっています。

有数の米産地で穀倉地帯だった長江デルタ地域で、手工業の発達が顕著でした。新たに渡来した綿花の作付が定着して木綿の生産がはじまり、また養蚕・生糸生産も盛んになります。いずれも世界有数の特産品で、日本はじめ外国人の作れないものでしたから、内外の需要が高まりました。それは中国内の商品作物生産をうながして、遠隔地間の流通も活潑になり、やがて海外ともその交易が盛大におもむきました。

ところが当時の中国には、通貨がありません。農業重視で商業に統制的だった明朝は、原則として物々交換で財政経済を回そうとしていたためです。しかし民間主導で商業流通が活潑になると、たいへん不便です。

そこで金銀のような貴金属を用いました。中国内にある分だけではとても足りないので、海外から持ってこなくてはならず、ますます貿易が欠かせません。

主な金銀獲得先は、まだ開発のすすんでいない新興地域です。ちょうどヨーロッパは大航海時代、「発見」されたばかりのアメリカ大陸があり、近くには日本列島がありました。海外貿易を禁じて物々交換を定めた明朝政権の統制を、こうして民間のパワーが覆していき、中国沿海の貿易は活況を呈します。

日本列島が中国大陸に金銀を輸出するようになると、見返りに大陸から種々の商品・技術が入ってきます。それに刺戟されて列島各地の開発がすすみ、農業生産の増加と商業流通の発達をうながしました。

日本人も次第に奢侈に目覚め、いよいよ貿易を欲してきます。もはや「勘合貿易」だけでは賄い切れません。そこで明朝が認めていないはずの、民間による密貿易が横行します。

むしろ黙認放置しがちだった明朝政府は、16世紀半ばに突如として、密貿易に対する制限・弾圧に乗り出しました。東南沿海の密貿易に従事していた貿易業者、つまり「倭寇」が槍玉にあがって、大きな騒擾をひきおこします。中国の内外を問わず、貿易の関係者は政府の弾圧にこぞって反抗しました。

沿海には貿易基地のような拠点が各所に生まれました。現存の都市でいえば、もともと「勘合貿易」の港・浙江省の寧波にくわえ、香港に近いマカオや、台湾の対岸の厦門などをあげることができます。国内と海外の業者がより多く集まり、かえって恒常的・積極的に取引が行われるようになって、ヨーロッパ人もそこに参入してきます。ポルトガル・スペインのいわゆる「南蛮」渡来で、のちに「紅毛」、イギリス・オランダも加わります。

こうしたありさまを現代の研究では、「倭寇的状況」と表現しています。「倭寇」とは一過的な事件でなく「状況」という常態だったとの意味です。

日本の変貌

16世紀ごろの日本は、このような「倭寇的状況」から多大な影響を受けました。すでに以前から地方が経済的に自立し、それぞれ力を持ち始めていましたが、その動きは海外の経済成長や社会変動によって、著しく加速したのです。

当時の社会の変化は、二つに大別できます。一つは、庶民が軒並み豊かになったこと。生産の増大はもとより、商業の発達にくわえ、海外からもたらされた技術や文化がそれを可能にしました。もう一つは、山間から低地へ人々が移ったこと。河口附近の沖積平野に治水を施して、低湿地を干拓して耕地に変え、稲作を拡大してより多くの人を養うことができるようになりました。

新田開発や住居建設のような土木工事をすすめるには、新しい技術はもとより、多くの人手とともに多くの資材や道具が必要になります。そうした動員・調達や加工のために商人や職人・人夫も集まってくると、衣食住をはじめとする生活インフラの整備も欠かせません。かくて沖積平野に都市ができ、やがて大坂や江戸のような大都市に発展していくわけです。

同じ時期、支配体制の再編成が始まるのも、おそらく根柢ではつながっていた出来事でしょう。それが応仁の乱に続く戦国時代の下剋上です。

応仁の乱自体は、単なるお家騒動です。乱そのものの経緯をいくら掘り下げても、あまり歴史の大局に意味があるとは思えません。ですがその前後において、列島に暮らす人々はライフスタイル自体が一変するプロセスを経験しました。

当時の条件では武士も農民も商人も、職能・身分の違いはさほどありません。まして中国との貿易によって庶民全般が豊かになり、経済的な格差も縮小していました。

下剋上の戦国をしめくくるのは、いうまでもなく天下を統一した織田信長・豊臣秀吉、ともに下剋上の最たる存在です。かれらは兵農分離を実施し、職業による身分の差別化・明確化を図ります。渾然一体となってしまった社会を分業化・序列化し、秩序を生み出すねらいでした。

さらに江戸時代になると、幕府は有名な「士農工商」という身分制度を設けました。戦国までのように身分がフラットな社会では、豊臣秀吉のように天下をめざす人物が多数出てきてしまう。それでは治安が保たれず、政治が安定しないからです。

また下剋上がたやすく起こる社会だったからこそ、領国経営・地方政治は安定したともいえます。戦国時代には、出自のよくわからない領主が少なくありません。つまり地元で頭角を現したボトムアップ型のリーダーであって、そういう人々だからこそ、地元住民に密着した政治が可能となりました。

もちろん身分は厳然として存在します。しかし世界史的な視野・基準で見ると、その格差はごく小さいものにすぎません。

こうしてみると日本の変貌とその特徴が、よくわかります。やはりそれをもたらした中国史・世界史的な「状況」との関連で考えるべきことなのです。しかもこの時期におこった社会構造の変化は、近代・現代にもつながるものでした。それなら、いよいよ現今と同じくグローバルな規模で考えなくてはなりません。

おわりに――東洋史学の復権を

気候変動と関連させ、東アジアとつなげてみた以上のような日本史の説明はほんの一例ですが、これだけでも温暖化・グローバル化の昨今、中国・東アジア・東洋史の視点から日本史と世界史をとらえなおす意義がわかるのではないでしょうか。つくづく日本史を日本だけの自国史ととらえてはならないと感じます。

西洋の各国史はもちろん、日本史と同じ自国史です。ですが英・仏・独いずれも隣り合い、しかも各国は列強として世界を制覇した経験もありますので、各国史は同時に西洋史でもあり、また世界史にもなりうるのです。

ところが隔絶した島国だった日本の場合、そうはいきません。いくら日本史を掘り下げても、全体的な世界史は出てきません。折に触れて外国が登場はしても、あくまで日本からする意味づけにすぎず、客観的俯瞰的な文脈はほとんど重視されません。

そこで文明開化の明治日本がつくったのが、東洋史学という学問でした。江戸時代からすでに漢学で中国の史書・史実には親しんでいましたので、西洋史とは別に東洋の「ワールド・ヒストリー」を作って、あらためて日本自身をみつめなおし、東西あわせた世界全体の世界史を構築しようと考えたのです。

とりわけ東アジアで圧倒的な存在の中国の歴史を抜きにして、日本の履歴を理解することはできません。日中両国は日本海をはさんで、疎遠ながらも不断に影響を及ぼしあってきました。東洋史学によって中国や東アジアを説明できれば、その関係から日本自身も、またひいては、世界全体における日本の位置づけもみえてくるでしょう。上はささやかながら、そんな試みでもありました。

にもかかわらず、現在その東洋史学は、解体寸前の絶滅危惧種です。大学にある東洋史・中国史の講座・授業には誰も寄りつきませんし、いまや真っ先に消えてゆく運命にあります。つまり日本人は、先人が築いたはずの東アジアからの目線と日本を世界全体に接続する有力なよすがを失いつつあるのです。

あらためて日本人がつくった東洋史学を日本人自身が学びなおす意味を考えていきたいと思います。

プロフィール

岡本隆司東洋史、近代アジア史

1965年京都市生まれ。早稲田大学教育・総合科学学術院教授・京都府立大学名誉教授。専門は東洋史、近代アジア史。主な著書に、『近代中国と海関』(名古屋大学出版会、2000年大平正芳記念賞)『属国と自主のあいだ』(名古屋大学出版会、2005年サントリー学芸賞)、『李鴻章』(岩波新書)、『近代中国史』(ちくま新書)、『中国の論理』(中公新書)、『中国の誕生』(名古屋大学出版会、2017年アジア・太平洋特別賞・樫山純三賞受賞)、『世界史序説』(ちくま新書)、『君主号の世界史』(新潮新書)、『「中国」の形成』(岩波新書)、『明代とは何か』(名古屋大学出版会)、『曾国藩』(岩波新書)、『悪党たちの中華帝国』(新潮選書)、『物語 江南の歴史』(中公新書)など多数。

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