2013.04.05

『いいモノ』食ってりゃ幸せか? われわれはみな〈社会的〉に食べている

遠藤哲夫×五十嵐泰正

社会 #放射能#ホットスポット#食品汚染#地産地消#安全・安心の柏産柏消円卓会議#食育#有機野菜

震災以後ホットスポットとなった千葉県柏市。「地産地消」の美味しい野菜を食べることができる柏の魅力を取り戻そうと、立ちあがった住民たちがいた。住民、生産者、流通業者、飲食店の四者が話合うことで、自ら安心の規準を決める「『安全・安心の柏産柏消』円卓会議」。話し合いの末、彼らは20ベクレルという「安心の規準」を導き出すことになる。『みんなで決めた「安心」のかたち』の筆者である社会学者の五十嵐氏と、大衆食ライターである遠藤氏が、地域とはなにか? 食育とはなにか? 安全とはなにか? について語りつくす。(構成/山本菜々子)

「お客さまは神さまだ」

五十嵐 遠藤さんは「大衆食堂の詩人」なんて言われていますが、食周りでいろいろなお仕事をしてらっしゃる方です。一見雑多なように見えるお仕事で一貫しているのは、「食べることは、本当はもっと社会的なことだよね。」という主張です。

つくる人がいて流通する人がいて、料理する人がいて、食べる人がいて……、この連鎖の中で食べているよね、でもみんな、気がついていないよね、ということを正面から批判するというより、だいたい茶化すような仕事をなさっていますよね(笑)。

まずこの話題から始めましょうか。「お客さまは神さま」という言葉をよく聞きます。だけど、それだけで良いのかと感じてしまうんです。流通や飲食のような食をめぐる業界って、ブラック企業的なところが多いんですよね。過剰なまでにへりくだって、売り手に「選んでいただく」みたいな姿勢を感じてしまいますがなんか変ですよね。

遠藤 それが自己実現になっていると思い込まれている側面もあるんでしょうね。

五十嵐 経営者も少なからぬ従業員も、「お客さまのために」と、多分真剣におもっているんですよ。たとえば、チェーンの居酒屋なんて、顕著ですよね。社員やバイトの子たちも徹底して教育しています。

そして、メディアでもてはやされる経営者にありがちなのが、「グローバル競争の時代だから、ハングリーな中国人に負けないようにがんばれ」と過剰な労働をさせるパターン。でも、それって、嘘ですよね。たとえば、居酒屋の場合、ライバルは中国じゃなく同じ街で値下げ競争している居酒屋であるはずです。「最近あの居酒屋高いから、上海まで飲みにいく」とか言う人はいないですよ、どう考えても(笑)。

でも、そこを煽って、人員を削り、でもサービス水準はもっともっとやんなきゃとなって、過労死が起こったりしている。その背後にやはり、「お客さま=神さまを喜ばせたい」という発想からの自発性があるから、よけい話が厄介なんだとおもうんですね。

農家さんも流通飲食も、勤め人も誰でも、労働者であり生産者であり、かつ消費者であるはずなのに、こうした発想がある日本では、消費社会化した成熟社会の中でも特段に、消費者としての立場が突出しちゃっているように感じます。この消費者としての立場の突出は、今回放射能問題に取り組んできて、すごく突き当たることの多かったポイントなんです。

遠藤 とくに都会の人たちは消費者として過ごすようになって長いから、値段や品質の比較だけで、生産者のことはわからない、理解できないということはあるよね。もしかすると、関心すらなかったり。それと、「人間は社会的に食っている」ということが、あまり意識されてないのかなっておもっちゃう。

「食べる」というのは非常に個人的なことではあるけれど、食料を共に生産したり共に食事をする文化や、「これ美味いね」って話し合う文化って人間にしかないですよね。

大衆食堂というのはプライベートな空間がほとんどないんですよ。せまい空間、ときには、4人掛けのテーブルで知らない人同士が、ぎしぎしつまったところで一緒に食事をする。おれは大衆食堂でめし食ってるたびに、「にんげんだなぁ。」っておもうの。一人で食っているんじゃなくて、食料を生産してくれた誰かがいて、調理をしてくれた誰かがいて、同じ空間で食べる誰かがいる。みんな繋がって食ってるって。

でも、80年代ぐらいから、都会では生産者の姿が見えにくくなっちゃった。人間は社会的に食っているって辺が、不透明になってきている。本当はみんな社会的に食っているはずなのに、「お客さまは神さまです」って変な言葉だよね。生産者や流通業者は神さまじゃないのかって言いたくなる。誰が言ったかはわからないけど。

五十嵐 初めにこの言葉を言ったのは、三波春夫さんということになっています。気になって調べたことがあるんです。じつは、三波春夫事務所は「そういう意味で言ったのではありません」とコメントしています。ステージに立って歌うということは、神前で祈るように、邪念を払ってまっさらで歌わなければいけないんだという意味で、この言葉がサービスする側を見下す客やクレーマーの格好の言い分になってしまうのは違う、と。

遠藤 食べ物の問題は、えらいところに来ちゃったなとおもうんです。おれは71年から食関係のマーケティングに関わってきて、直接的には、食品メーカーや流通業や飲食業と関わってきました。食の大事なところを流通業の方が担っていますが、スーパーの仕入れの方なんかは、苦労が多い。農家の方に鬼のようにおもわれていたり。それは、たしかに激しい値切り方をするからということもあるからだけど。

極端な話、商売の話では席につくけど、あとは顔も合わせたくないという生産関係の方もいた。スーパーの仕入れの方は大変です。生産者と消費者の板ばさみ。でもこの方たちがいなかったら、生産地からは遠い都会の人は、食料を入手できない。

飲食業はもともとひどい労働条件ですよね。最近は外国人の労働者が多いです。労働力が安いからと言われていますが、日本人と同じ条件で募集をしても、日本人にはなり手がいなくて外国人になることも多いんです。選別しているわけではないようです。

飲食サービスの分野では、過剰な「お客さまは神さま」思想が広まっている感じですね。従業員がひざまずいて注文を取ったり、そんなことをお客がアタリマエとおもっている。それで幸せか?とおもうね。

五十嵐 ぼくも遠藤さんも、鶯谷にいきつけの大衆食堂があります。そこの従業員の多くは中国人の方たちです。震災後なにが困ったかというと、彼らがみんな中国に帰ってしまった。24時間営業だった店が日本人だけで回すと、8時間しか営業できなくなった。こんな構図に支えられていたことに気がついたんです。

でも、あそこはちょっと特殊な店で、悲壮感はないですよね。すごく楽しい、中国人の方にも自由度があって、勝手にメニューをつくっちゃったり(笑)。いつのまにかメニューが増えてて、しかも中国語で書かれていて。「これうまいよー」とか、片言の日本語で客に言うみたいなコミュニケーションが生きてますね

もっと一般的なチェーン居酒屋では、タッチパネル注文の導入が進んでます。それ、外国の方がフロアもやるようになったことと関係があるようです。日本語のコミュニケーションなしで注文を取ることが可能になったわけです。今まではフロアは日本人、外国人のバイトはバックヤードというのが多かったんですが、長時間働いてくれる日本人のバイトがなかなかいないので、今はタッチパネルが注文を聞いている。ぼくらの安いコンパは、そういう労働環境に支えられてるわけですよ。

大衆食堂的なコミュニケーションって、座っていると勝手に話しかけられるし、普段なれているチェーン店やファミレスの消費者と飲食店の関係ではないんですね。大衆食堂的な場所は、売る人が過剰にへりくだって「お客さまは神さまです」というふうにならない、すごくいいモデルです。金銭のみを媒介に「お金を払う人」「お金をもらう人」という固定化された関係性以上のものに開かれた場所では、こういう関係が育まれるんですね。

遠藤さんはそういう関係を、「客育て」と言っていますよね。いろんな店で流儀があって、新参者は新参者として扱われて、だんだん店に馴染んでいくと、そこが楽しくなって、居場所になっていく。むしろ、そのくらいのハードルがないと、居場所感は生まれないんですよね。

でもそれは、逆に言えば消費者としたらそういうところばっかりだとウザいという話でもあるわけです。たとえば大衆食堂では、モバイル持ち込んで仕事はできない(笑)。そんな場所は、どんどん少なくなっているから大事にしないといけないという一方で、そこだけでもしんどい。消費者の側からすれば、コミュニケーションに満ちた「あたたかい」場所と、機能的で一人になれる場所と、両方使い分けられるのが理想ではあります。

遠藤 そうね、人は一人になりたい時があって、都会だとそういう場所が特に必要なんですよね。田舎だったら、一人で野原や山や海に出ればいいだけなんだけど。東京あたりに住んでいたらそうはいかない。

案外認識がアイマイだなとおもうのは、「人間は多様だ」っていうことなんだよね。「一人ひとり違う」という話はするくせに、一方ですごくパターン化された話が出て。本当に多様だということが、わかっていないことがあるのね。

でも、せまい地域や空間になると、多様だということがハッキリするんですよ。大衆食堂でめし食っても、それがよくわかって、同じような食い方している人っていないんだよね。だから、せまい場所へいけばいくほど、多様性がよく見えてくる。一対一、一対複数の関係でどう振る舞えばいいのかが、見えてくるんですよ。大衆食堂の場合、店の主がその場をしきったりして、交流が生まれていく。結局「食べる」という行為は、自分をつくって、場もつくるんだとおもうんです。

遠藤哲夫氏
遠藤哲夫氏

「好きでもないヤツと暮らす場所」

五十嵐 遠藤さんの書いたブログの中で、すごく腑に落ちた言葉があって、「地域は好きでもないヤツと暮らす場所」というものなんです。

今、facebookやTwitterで、趣味の繋がりから、空間を超えて付き合ったりすることが簡単にできる時代になりました。そうすると、コミュニティーはつくりやすいんですけれど、自分と似ていない人には、逆に会う機会が少なくなる社会でもあるんですよね。一方、地域というのは、単純に隣通しで暮らしているという共通項しかない場合が多いです。

これが格差の拡大が深刻になってくると、アメリカなんかのように、年収とかで地域が輪切りに形成される社会になる可能性があります。一部でそういう動きもありますが、現在の日本は幸いそこまでの区分けはなくて、戸建ての住宅地も団地も工場も農地も混在するという環境が、まだまだ残っています。地域にはいろんな職業のいろんな人がいる。ネットで知り合った人よりも、せまい地域の方が、多様性が高かったりするんですよ。その中で、なにかやるとなると、難しさと面白さが両方ありますね。

遠藤 たとえば企業の世界だったら、正社員と非正規が口を聞かなくても、業務のシステムや市場さえうまく保っていれば、生きていけるという錯覚に陥ることができる。Facebookなどがあって、友たちという錯覚も味わうことができる。

でも、同じ地域で暮らしていると、そうはいかない。たとえば、ウチの地域の場合、顔を合わせれば挨拶や、公園の清掃や防犯パトロールなどもそれなりに付き合ったりするわけで。地域というのはもともと、そうやってできているわけです。

五十嵐 地域には多様な人がいることが、3.11以降の経験であらためて実感した気がします。

遠藤 匿名性が普通のように言われる都会の生活では、普段は、はっきり一人ひとりが見えているわけじゃないからね。

五十嵐 同時に今は、「好きでもないやつ」との間をどうやって越えていくか考える必要があります。ぼくは、誰しもが毎日経験する「食べる」という行為は、ひとつのきっかけにできるようにおもいます。「美味しいは正義」じゃないですけど、美味しいもの食べると笑顔になるといった側面がたしかにあって。それを軸にいろんな価値観の溝を原初的に超えることができる。

円卓会議も「農家を助ける」というだけの運動だったら絶対に続かなかった。これは自信があります。消費者自身が、「新鮮で美味しものを食べ続けたい」という風に価値転換できてこそ、長続きするんですよ。

柏の野菜はすごく美味しいんです。でもそれって、柏で食べるからなんですよね。いわきで食べたらいわきで食べたものの方が美味しいし。食品のかなりの部分って鮮度と旬で決まってしまうんです。多くの野菜の場合は、基本的には、採れたその場で食べるというのが最高です。その上で、土の相性や技術で、「この野菜はこの農家さんが最高」というのが出てくる。

つまりそれは、野菜のうまさが、究極的にはお金じゃ買えないってこと、一番美味しいものを食べたいなら、その場にいることだけが大事って、じつは結構平等なビジョンですよね。美味しい野菜を食べるために、そのモノが採れる地域や畑にどれだけ足を運べるか、どれだけ時間を使ってコミットできるのか、ってところがある。そして、その場にいる人が美味しいもの食べて、繋がることができるっていうのは、能天気なことを言うようですが、なんか可能性があるようにおもうんですよね。

遠藤 美味しいまずいは、人間関係が大いに関係しているからね。まぁ、でも、地域の話は難しいよね。これだけ社会が複雑になると。シンプルに考えて、「一緒に飯を食えばなんとかなるよ」という感じでやった方がいいのかもしれないね。

人間が最初に料理を作りはじめてから長い間は、共食が普通だったわけで。それが、社会の原型だとおもうの。一緒の社会で共に食料を確保して食べて。そこには「神さま」までいる。動物的に腹を満たすだけなら、奪い合いになって早いもの勝ちになってしまうんだよね。でも、料理をつくって、器に盛り分けて食べる。それが繰り返されているのが食事だろうとおもうんです。

でも、システムが複雑になることによって、実態の関係がはなれちゃったというか。繋がっている幻想に支配される。もっとどんどん一緒に食事をするといいんじゃないかな。

おれは、ゲストハウスの経営に絡んでいて、そこでは、毎週火曜日に宿泊している外国人はもちろん、500円と飲み物を持って誰でも参加できるワンコインディナーパーティってのがあるんです。おれは英語を喋れないんだけど、「この料理はこうだ」と、美味しい料理を挟んで、「うまい、うまい」と話しているうちに、なんとなく通じるものが生まれるんだよね。食によって超えられることってあるのかもしれないね。

「安全」なんて誰も言えない

遠藤 今回の放射能問題ですごく感じたのは、食の安心と安全に対する騒ぎ方ってヒステリックで異常だなと。よくたしかめないで騒ぐ。これまでも農薬などが問題になって、農薬の場合は、ちゃんと洗えばかなり大丈夫なことでも、なかなかわかろうとしない消費者もたくさんいて、頭ごなしにダメってことで、騒ぎが大きくなったりするんだよね。

味に関して言えば、畑の近くに住んで採れたてを食べれば、農薬使った野菜だって美味いんですよ。新鮮なものが一番いいとわかっている。だけど今の大方の流通経路でいくと、消費者に届くのは速くて二日目くらいだから、ホウレンソウなんて一番うまいところを通り越して届くから、残念ですよね。

でも、農薬の問題だって、放射能の問題だって、科学的にたしかに証明されたというわけではないでしょ。

今までだって、絶対安全なんてなくて、社会的な関係の中で、安全だったり安心だったりしたシステムで動いていただけ。「おれは安全だとおもってる」、「おれも安心だとおもってる」というのが混ざり合って、ひとつの流れになってきただけなんですよ。

だから、「安全」というのは、科学的に成り立っているという部分よりも、多くは文化や社会で支えられているというのが実態だとおもいます。

五十嵐 たしかに、「どの農薬をどの時期にどれくらいしか使ってないから安全」って、確実に言える人って多いわけではないですよね。放射能問題になったとたん、それがいきなり、放射能だけがゼロベクレルに近い数字出してればそれでOKって、むしろ変な話なのかもしれません。

 

遠藤 確実に絶対に安全とは言えないってことは、ずっと前から同じなのにね。現在の流通って、消費者からは生産者の顔が見えないですよね。でも、どうして今まで成り立ってきたのかといえば、結局、流通業者に対する信頼があったからです。でも、震災以後は、その信頼が壊れてしまった。生産者でもなく、「産地」だけが問題にされた。

五十嵐 消費者の前で、放射能の安全性について説明する機会があるんです。その時、「検出下限値○○ベクレルで不検出です」といってもうまく伝わらないんです。ある意味、良くわかんない方が自然なんですよね。結局、買ってくださる人はなにに頷いて納得してくださるのかというと、「柏の農家さんはものすごく放射能のこと勉強している」という姿勢です。そのほうがはるかに食いつくんですよ。「それなら柏の野菜は安心ね」と感じてもらえる。ぼくらが個別の農家の勉強する姿勢とか誠実な人柄とかを伝えることで、地域の農家全体、ひいては地域の農産物への一般的な信頼へと繋がっていく。人間ってそんなもんですよね。良い、悪いではなく、それでいいんだとおもいます。

遠藤 そうですよね。この前、盛岡の『てくり』という町雑誌の最新号「パンとごはん」の特集をみたら、ある流通業者の方が「本当なら、皆、家族で飯を食っていける分の食材を自給自足すればいいんだけど。それができないなら、信頼のおける農家とつながるしかない。『安全』はモノに対しての判断だけど、『安心』は人と人の関係じゃないですか」と言っているわけ。おれはその通りだとおもいました。顔が見える部分があれば、信頼関係を築くことができるんだよね。

五十嵐泰正氏
五十嵐泰正氏

ストーリーをつくろう

五十嵐 ぼくたちは、「安全・安心」を取り戻すために、円卓会議をやってきました。でも、食べることって、味や、安全性だけに左右されているわけではなくて、いろんなことの価値の束で決まっていくじゃないですか。だから、「安心・安全」はアピールできたけれど、これからはそれだけでは、やっていけないとおもっています。

今の時代は、競争が激しいですよね。安売りやどこか無理することで競争しています。そんな消耗戦には乗ってけないんだとしたら、あとは「ストーリー」をつくっていくしかないということが、近年よく言われています。単に「美味しい安全な」トマトと宣伝するのではなく、これがどんな風に、どんなおもいを込めてつくられたのかを消費者に伝えて、付加価値をつける。昔はとにかく欲求を満たす時代でしたが、今は、ストーリー込みで購買していく時代だと。

でも、じつはぼく、数年前までこんな「ストーリー」にあんまりいい印象を持ってなかったのね。これこそ消費社会的な虚業のようにかんじちゃって。

遠藤 インチキくさいからね(笑)。

五十嵐 でもやっぱり、ストーリーっていいんじゃないかと、柏の農家さんに深く関わるようになったここ2、3年は感じるようになってきました。

人口が減少している中、食料品の国内需要がこれから増えていくことって考えにくいですよね。その中で、産業としての農業を考えた時に、「安全・安心」と「美味しい」以上の、さらなる価値を提示していくということをしないと駄目だとおもうんです。

このストーリーを付け加えるっていうのは、なにも生産者の側の「売ろうかな」のためだけではない。ストーリーがあった方が消費者にとっても楽しいんですよね。どういうおもいや歴史的背景でこの野菜はつくられて、「旬はいつで、こんな食べ方がいいよ」とガイドされると、味が2倍3倍になるんです。

たとえば、有名な関サバ関アジの話でいくと、佐賀関で取れたら一万円で、隣の漁港だったら2000円ってなんだよとおもいますよね、普通。でも、実際に、佐賀関にいって食べたら、サバもアジもムカつくほどうまいんです(笑)。佐賀関では完璧に品質管理されたサバが出てくるっていうのも大きいですけど、なんかおいしく感じてしまうストーリーと演出が徹底されてることも重要なわけです。

それは、そもそもそこまでみんな、正確に味を把握している訳ではないということなのかもしれません。まあでも、それはそれで仕方ないっていうか、飽食の先進国の人間は舌と胃袋だけで食べるわけじゃない以上、頭や気持ちで食べて幸せになれればそれでいいんじゃないですか。ある程度高いお金を出して、ストーリー込みでぼくらは消費して、満足して、生産者にもお金が流れて、流通にも流れて。すごく健全ですよね。成熟社会ではGDPってそうやって増やすもんなんじゃないかなって最近おもっています(笑)。

遠藤 今の話はブランディングに絡む話だよね。たしかに、「ストーリー」って非常に胡散臭い部分がある。それは企業サイドや販売サイドからの押し付けの感じがあるからかも。

人って本来は自分のストーリーで食事をしているはずだよね。たとえば、今日の夕ご飯になにを食べようか考えている時に、自分の生き方とか、自分なりの食べるストーリーがキチッとあればいいわけで。

たとえば、料理があまり美味くないと言われるアメリカでも、「食って生きる」ということになると、やけにしつこくストーリーを考える話しがあるわけ。ある種の生活哲学と言うか。買った牛乳ひとつにしても、飲み方とか。フランス人になると、癪に障る程うるさいわけで(笑)。文化として、食べるストーリーを大事にしている。

今の日本では情報に受身の消費者が多いというか。情報誌やインターネットで身の回りに情報があふれているけど、ただ今的な新しいことを追いかけたり、そもそも自分自身が食に対してどういうストーリーを持っているのかを、考える機会が少ないのかもしれないね。

だからポジティブに考えれば、インチキ臭いブランディングも、それぞれが食べるストーリーを考えるチャンスになる提案だったらすごくいいんだよね。でも、現時点では、与えられたストーリーに、乗るか乗らないかという話になっている。それは胡散臭い話しですよね。

五十嵐 今回の柏の事例でも、逆境の中やっていくこと自体を、ストーリーにしていけるんじゃないかって意識していました。

しかし、ストーリーの発信が農家さんの仕事になってしまう流れに、円卓会議が加担してしまったことには、少し申し訳なくもおもっています。この流れはこれからの農業には有望なやり方だとはいえ、みんながみんな、同じようなクオリティーで発信できるかといったら、難しいところがありますから。

農家さんの仕事ってとても多いんです。栽培や販売、営業、経営管理、土木作業もする。その上で、本当に寝る間を惜しんで、facebookでストーリーを発信するみたいなことになってしまっている。

消費者からみれば、そういうのが得意な農家さんから、直接食品を買うのはたしかに楽しいことです。でも、それって、付加価値の高い農産物を売ることができるようになるとはいえ、農家さんのハードルをすごく上げてしまっていることも忘れちゃいけない。普通の職業と比べると、農家ってただでさえありえないくらいのジェネラリストなところに加えて、それでは労働時間もすごく長くなってしまいます。その部分を行政やNPOなどでフォローすることも大事ですが、やはり農家ごとに差が出てしまいますよね。

遠藤 たしかに差が生まれてしまうよね。

素晴らしいストーリーで、いい野菜を提供してもらうことはありがたいんだけど、実際にそのような野菜が今の食卓の全部を満たすことは無理なことだよね。今のおれたちの食べている野菜の大部分が、農薬を使って栽培され、スーパーに並べられている。

逆に言うと、大部分がそうだから、有機農業が成り立っているという構造もあるわけです。「地産地消」の話が出た時に、いつも考えるのは、地域だけで賄うのは不可能だということ。まず、「農薬を使った他地域からの作物」という大きな流れを認めながら、地域循環の有機農業も育っていくというバランスを考えるべきだよね。

料理だって、食材が美味しいから美味しくなる部分もあるし、調理法が優れているから、美味しくなる場合もある。安い居酒屋でそれなりに美味しく食べられるのは、それなりの料理技術のお陰です。すべて地産地消で、無農薬にこだわるのではなくて、農薬を使った野菜でも美味しく食べられるということも認めていく。そうしないと、お互いが成り立たなくなるとおもうんだよね。

五十嵐 それはおっしゃる通りです。時間も収入も限りがある中で、外食やコンビニ弁当を利用せずに、スーパーで大量の安いお肉や野菜を買うこととも無縁で生きている人なんていなくて。

じつはぼく、この本でうさんくさーい試算をしたんです(笑)。柏が全国的な市場に大量に提供しているカブ・ネギ・ホウレンソウの三つは例外として、それ以外のものを地域の人がどれだけ買えば、柏の野菜を買い支えられるかという試算。その結果、柏市民が生鮮野菜を買う時に、3割くらい柏の野菜を購入すれば、買い支えられちゃうんです。加工品や中食、外食を買うのは今まで通りの便利なライフスタイルを送ってもなお、です。まぁ、そんなもんかという感じなんですよね。

遠藤 みんながみんな、有機野菜で全部の食事を賄う必要はないってことだよね。少しでも多く地元の美味しい野菜を食べましょうということでも、ずいぶん違ってくる。

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「食育」って誰のもの?

五十嵐 有機野菜とか地産地消って、「食育」ってすごくセットで扱われやすいんですが、遠藤さんは、「食育」をすごく茶化されていますよね。

遠藤 そうだね(笑)。あれも、うさん臭いんだよね。

五十嵐 よく言われる「食育」って、一言で言えばハイスペック過ぎるように感じます。地元の美味しい野菜を使って、すごい手のかかった料理をつくって、そうじゃないと「食育」と言えないような。でも、それって本当に、一般家庭に届いているのかとなると、違うのかなとおもっています。

たとえば、深夜にスーパーにいくと、若いお母さんが5歳くらいの子どもを連れて、清涼飲料水とパンとカップラーメンだけを買って帰っていくような光景ってよくみるとおもうんです。

その働いてるお母さんにとっては、本当に時間もないし、ぎりぎりでやっているので、仕方ないんですよね。真の意味で「食育」が必要なのは、そんな子どもたちであるはずなのに……。実際は、今の「食育」の動きって、「正しい食」を目指し過ぎるものになっています。そのことで、ハイスペックな食が規範化され、本当に食育が必要とされている人たちが置いてきぼりにされてしまう危険性があるんじゃないでしょうか。

遠藤 そうねぇ。結局、食育基本法で、理想の食事を提示したとしても、一番困るのは今のお母さんみたいな方ですよね。ウチのかみさんも会社員なんですが、帰ってきて来て食事できるのが23時くらいなんて珍しくないんです。もともと、そういう労働条件や環境の問題があるはずなのに、そちらを片付けないで、「食育」だけを強調したって、できっこないですよ。

コンビニ弁当を否定したところで、結局夜遅く働く人が困ってしまうだけなんだよね。それで本当に「食育」って言えるのかなと、おれはずっと疑問に感じています。

五十嵐 イギリスの新聞で面白いとおもった記事がありました、イギリスって昔から階級社会ですけど、ロンドンの貧困マップって19世紀も今も地域があまり変わっていないようです。

19世紀に飢餓で苦しんでいた貧困地帯が、現在はなんのマップと重ねられるかと言うと、ジャンクフード由来の糖尿病の発症率なんです。低所得の方はフィッシュ&チップスと、ハンバーガーとコーラばかりの生活になってしまうからなんですね。日本もこれから格差が広がると、似たような事態が起こってしまう可能性があります。でも、そこで「食育」って、ファストフード自体を悪として切り捨てる方向になりがちで、それではあまりに現実から乖離してないかと。

遠藤 そうそう。先進国で食事のモデルをつくる時、「標準的家庭」というのを想定して政策を決めるわけです。でも、決めた瞬間、それ以外は切り捨てられるんですよね。

そういうなかでは、一人ひとりがどっかで、こういう食生活がしたいというストーリーを自分で考えて、そこに有機野菜などを位置付けていかないといけないのかもしれませんね。

五十嵐 ぼくたちがやっている「安全で美味しい食」を提供する取り組みはすごく大事なことだとおもっています。でも、これからは、ファストフードとしての地産地消もそろそろ考えてもいいかなとおもったんですよ。

遠藤 ああ、なるほど。面白いね。

五十嵐 さっきいった、スーパーのお母さんみたいな方に、どうハードルを低くして、地域の野菜を手に取ってもらえるのかを考えなければとおもうようになってきたんです。たとえば、コンビニの弁当って揶揄されがちですが、柏の野菜を柏のコンビニ弁当の漬物に使ってもらえるようになると、一気に手に取るハードルが下がりますよね。また、直売所から出される廃棄野菜を惣菜にして、すごく手に取りやすい値段と、流通方法で提供していくなんてことも検討する価値があります。

ストーリーをつくってブランディング、高い値段で楽しく消費していこうという方向とは逆に、コンビニのように手に取り易い場所で誰しもが手に取れるようにする。ロハス業界から叩かれそうな気もしますが(笑)。でも、もっとハードルを下げていかないと、本当の「食育」ってできない気がするんですよ。実際そのニーズがあるからこそ、生鮮食品をおくコンビニはどんどん増えてきているわけで、その流通を地域内の循環としてやっていくことを、ぜひ考えていきたいです。

遠藤 面白いね。今まで、有機野菜を買う人って、農薬を使った野菜とか、コンビニ弁当とかは許さない、妥協しないわけですよ。「敵」みたいなもんだしね。でも、コンビニで販売されて、気軽に手に取れて、口にする機会があったら、だんだん有機野菜を買う人も広がっていくとおもうんだよね。食は習慣だから。

一般の消費者からみても、有機野菜って、値段が高めですよね。そんな野菜を毎日食べる必要はないの。一週間に一度食べるだけでもいいし。実際、有機野菜のキュウリより、農薬を使った味の薄いキュウリの方が好きだという人もいるから、有機野菜を押しつける必要はないとおもいます。

一週間に一回、ご馳走気分で食べてみる。コンビニで手に取ってみる。そんなところからはじまるものもあるだろうね。

五十嵐 その辺の発想を柔軟にすることって大事ですよね。今は、ストーリーづけることはされているけど、ライフスタイルやシチュエーションを提案することまで踏み込んでみるのも面白いとおもっています。

さっきも言ったように、地域の農業を地域だけで支えるって無茶な想定をしてなお、柏のようなところではすべての食事を地元の野菜にする必要なんてないんです。コンビニ弁当も、外食もいつも通りして、でも、日曜日だけは、柏の野菜料理を楽しんでみる。そういうライフスタイルの提案ってすごく現実的ですよね。それくらいでいいという軽さがあっても良いんじゃないかなって。

それには、品目で分ける必要があるともおもっています。柏で言えば、全国に安定供給できる規模がある三大作物のカブ・ネギ・ホウレンソウは、地域限定のプレミアをつけるブランディングをしていきながら、地域の生産者の側が交渉力を持つかたちでコンビニなどに入れてもらう。有機農家の方がされているような、少量多品種の珍しい野菜などは、日曜日にみんなで楽しみながら食べてみようと提案する。柔軟に地域特性や品目を考えながらやっていくと、実現できる可能性はあるとおもいます。

遠藤 生活って惰性に陥りやすいものだから、消費者に「一週間に一回くらいは、柏の美味い野菜を食べてみたい」というのをどこで感じてもらえるかって重要だよね。従来のロハス的な傾向の雑誌には、ストイックなことが書いてあるんですけど、この人たちは毎日これ食っているのかなって(笑)。実際に、食っていたらそれは素晴らしいことなんだけど。その人たちだけがそれを食っていたところで、しょうがないよね。

メディアは、それぞれターゲットとする層にアタックしていくから、すごく良いもの食っている層と、コンビニ弁当ばかり食べている層と、提供される情報も違っていて、混ざらないんだよね。

もうちょっと、時間もカネもあまり余裕のない人たちが簡単に手に取れるような雑誌で、「一週間に一回、有機栽培の野菜を食べようよ!」みたいなことになれば、すごく楽しくなるだろうね。

五十嵐 そこへいくと、地域というのは本来好きでもないヤツと暮らしている場所ですからね。地域という多様性のある場をベースに考えるからこそ、いろんな人が、層を越えて食を楽しんでいくあり方を考えなきゃいけない。それを繋げるために、地域だからこそできる可能性ってあるんじゃないかなと、最近考えはじめているところです。

(2013年2月3日 『みんなで決めた「安心」のかたち――ポスト3.11の「地産地消」をさがした柏の一年』刊行記念イベント「どうすれば『みんなで決める』ことができるのか?」「『いいモノ』食ってりゃ幸せか? 我々はみな<社会的>に食べている」より)

プロフィール

五十嵐泰正都市社会学 / 地域社会学

筑波大学大学院人文社会科学研究科准教授。都市社会学/地域社会学。地元の柏や、学生時代からフィールドワークを進めてきた上野で、まちづくりに実践的に取り組むほか、原発事故後の福島県の農水産業をめぐるコミュニケーションにも関わる。他の編著に、『常磐線中心主義』(共編著、河出書房新社、2015)、『みんなで決めた「安心」のかたち―ポスト3.11の「地産地消」をさがした柏の一年』(共著、亜紀書房、2012)ほか、近刊に『上野新論』(せりか書房)。

この執筆者の記事

遠藤哲夫フリーライター

1943年、新潟県生まれ。フリーライター。「気取るな、力強くめしを食え!」「ありふれたものを美味しく!」を掲げ、庶民の快食を追求、「ザ大衆食」のサイトを主宰。近著『大衆食堂パラダイス!』(ちくま文庫)。東京新聞で毎月第3金曜日に「大衆食堂ランチ」連載中。

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