2014.05.06

「自然環境」のみが環境ではない――いまなぜ「都市の環境倫理」を問うのか

吉永明弘 環境倫理学

社会 #都市の環境倫理#環境倫理#synodos#シノドス#環境倫理学

2014年1月に『都市の環境倫理――持続可能性、都市における自然、アメニティ』(勁草書房)を上梓した。「環境倫理」とは、環境や環境問題に関する人間社会の行動規範といった意味で、1970年代からアメリカで用いられるようになった言葉である。

環境倫理を探求する学問分野が「環境倫理学」で、当初は「自然を守る理由は何か、自然にはいかなる価値があるのか」とか「自然物にも権利があるのではないか、人間は自然物の権利を尊重すべきではないか」といった議論がさかんになされた。つまり、そこでの環境はもっぱら「自然環境」を指していた。それに対して、この本では「都市」という環境を問題にしたところに特色がある。

「都市の環境倫理」がテーマ化されたのは、アメリカでも2000年代に入ってからである。日本では、今道友信『エコエティカ』(講談社学術文庫)と御子柴善之「都市生活者の環境倫理」を除いては、現在でも都市環境は議論の射程に入っていない。それはひとえに「環境」が一方では「自然環境」(原生自然であれ里山であれ)として、他方では「人間の資源環境」(石油、金属、食料など)としてテーマ化されてきたからである。

逆に言えば、従来の環境倫理学者からは、なぜ、あえて都市の環境倫理を問うのか、という疑問がわくだろう。また、一般的に環境問題といった場合に、都市の問題はあまりイメージされないようにも思われる。

復興支援は環境倫理のテーマである

例えば、私は大学の「環境と倫理」の授業で3.11以降の被災地の「復興支援」のあり方について議論している。それを公開授業として行うことになったとき、広報の方から「環境倫理」と「復興支援」とのつながりが分からないから説明してほしいと言われた。一般的に「環境」の分野は、公害問題や地球温暖化問題、あるいはリサイクルなどの「エコ」な活動、それからいわゆる自然保護運動などを扱っていると見られている節があるので、そのような「環境」に関する倫理と「復興支援」とがストレートに結びつかなかったのだと思う。

しかし、そもそも環境とは、主体(=人間。人間以外も主体になるが、私たちは人間なので「人間」を主体とする)をめぐり囲むものすべてを表す言葉であり、そこには自然環境も文化的環境も含まれる。そこから環境倫理とは、そのような「環境」に関する人間社会の活動がどうあるべきかを問うものである。したがって、人間の環境としての被災地の復興支援はどうあるべきかについても、環境倫理のテーマとなるはずである。

また被災地支援だけでなく、普段の「まちづくり」や「都市計画」のあり方も当然、環境倫理のなかで扱われるテーマである。「都市の環境倫理」がこれまでほとんどテーマ化されてこなかったのは、環境倫理学者の「環境」概念に偏りがあったことを示すものといえる。

これまでの環境倫理学と都市研究をふまえながら、都市の持続可能性、都市における自然、都市の快適な居住環境(アメニティ)の維持という三つのテーマを軸に規範的な論点をわかりやすく提示
これまでの環境倫理学と都市研究をふまえながら、都市の持続可能性、都市における自然、都市の快適な居住環境(アメニティ)の維持という三つのテーマを軸に規範的な論点をわかりやすく提示

都市環境が圧倒的に優れているという主張ではない

環境倫理学が対象とすべき環境の範囲には、奥山、里山だけでなく、都市も含まれなければならない、というのが私のおもな主張である。なかでも特に、都市に注目すべき理由は、(1)環境倫理を自分のものとして具体的に考えるためには、身近な環境についての議論を始めようということ、(2)現代では多くの人にとって身近な環境は都市であること、(3)それにもかかわらず、これまで都市という環境が環境倫理学であまりにも見過ごされてきたこと、これらによる。

したがって、「都市が圧倒的に優れた環境で、田舎や里山は価値が低い」と言うつもりは全くない。例えば私は都市地域を拡張することを求めてはいない。『都市の環境倫理』では、都市の拡張(スプロール化)は有害であることを指摘し、むしろコンパクトな都市に密集しつつそこで快適に暮らすことを提案している。このことを前提として、都市に焦点を当てることに対して投げかけられるであろう疑問の声に答えてみたい。

都市は地球に優しくないのか?

まず、「都市は人口が多く、大量の資源・エネルギーを消費する、地球に優しくない地域ではないか?」という反論が聞こえてきそうである。しかし、コンパクトな都市に密集して住むことは、地球環境の持続可能性に貢献することにもなる。具体的には、公共交通と中密度の集合住宅の整備、エネルギーシステムの改善などによって、郊外のクルマ中心の一戸建ての生活よりも、効率的で、地球に優しくなる可能性がある。

私たちは日常的に地球環境に負荷をかけているが、なかでもマイカーとエアコンの利用による負荷が大きいとされている。したがって、マイカーでの移動を減らすことで、地球環境への影響を軽減することができる。また、エアコンを使わずに生活をすることも地球環境への貢献となる。

しかし、郊外の戸建て住宅でマイカーとエアコンを使わずに生活するのは困難である。それに対して、徒歩と公共交通で用事が済む都市であれば、マイカーは不要である。また効率的な熱利用や通風などを工夫した集合住宅に住むことで、エアコンの使用を極力控え目にすることができる。現在の都市が地球に優しくないとしたら、それは都市自体にではなく、都市の社会基盤の未整備、あるいは誤った整備のためだといえる。

都市に自然はないのか?

また、このように都市をクローズアップすると、従来の自然保護運動家や自然愛好家からは「都市に自然はあるのか?」という疑問が出されるかもしれない。実際のところ、都市を、「自然がない地域」として、コンクリートやアスファルトに、ビルやマンションに囲まれた人工的な地域として、思い描く人も少なくないだろう。

しかし、都市に自然がないわけではない。都市には緑地や公園、川原がたくさんあるし、動物も住んでいる。もし、都市を自然がない地域として表象してしまうと、都市における自然が注目されなくなる。そうなると、身近な自然がなくなっても気づかれない、あるいは関心を持たれない、ということになる。「都市に自然はない」という規定は、都市に今ある自然を破壊する方向にしか作用しない。

これに関連して、「都市に住んでいる子どもは自然にふれていない」という言説について考えてみたい。都市の子どもは自然体験が不足しているとして、田舎に連れて行って自然体験をさせることを推奨する動きがある。しかし都市の子どもは本当に自然体験が不足しているのだろうか。

私は大学の授業の中で、子どもの頃の秘密基地体験についてのレポートを課している。今の若い学生でも「秘密基地」と言うとすぐに通じるし、多くの人が子どものころを思い出して楽しんで書いてくれる。そして秘密基地には何らかの形で自然が絡んでいる。神社の茂み、林の中、川の中州、公園の隅などが秘密基地の場所となる。草でアーチ屋根を作ったり、土を掘ったりもする。石ころやどんぐりをそこに隠したりもする。

こうした体験は「自然体験」なのではないか。それがなくなったり壊されたりしたときの悲しさも含めて、秘密基地づくりは都市において子どもに自然と自然破壊を体験させている。この体験を見ずに、プログラムされた田舎への旅行を「自然体験」として推奨するのはどうなのか。

都市で快適に暮らそう

それから、特に大都市に関して、「こんなところは本来、人の住む場所ではない」という不満の声を聞くことがある。社会学者ジンメルは、論文「大都市と精神生活」のなかで、都市生活は人間の神経を昂進させると書いている。大都市はゴミゴミしていて、人間にとってストレスの多い場所ではないのか。先の話でいうと、地球環境のために、人間はそのような都市に我慢して暮らすべきなのだろうか。

このような問いに対しては、全ての都市がストレスフルなわけではないし、ストレスをためるのはその人の生活の仕方、働き方、人間関係によるところが大きいだろうと答えたい。都市はストレスフルだから田舎で暮らそう、というのではなく、都市を快適にすることを考えたほうがよいのではないか。快適な都市生活を満喫できれば、田舎に逃避しなくても済むだろう。都市が快適になれば、その副産物として、観光地となった世界自然遺産に人々が殺到し、現地の自然を破壊したりゴミを散らかしたりする「オーバーユース問題」が、多少は緩和されるかもしれない。

人間と文明を否定しない

都市環境について考えることは、人間の営みや文明を肯定することにつながる。これは、環境問題を論じたり、教えたり、学んだりするときには非常に重要なことである。

自分は環境問題を勉強したことで絶望に陥った、という話を何人かから聞いた。彼らがどのようにして絶望から立ち直ったのかは分からないが、確かに環境問題を熱心に調べれば調べるほど、もうどうにもならないのではないか、という気持ちになるというのはよく分かる。私もビル・マッキベン『自然の終焉』(河出書房新社)を読んだ時には暗澹たる気分になった。

また、環境問題は「人間嫌い」「文明嫌い」を引き起こすようなところもある。人間は地球や自然にとって害悪をもたらすだけの存在で(岩明均『寄生獣』(講談社)の市長もそんな感じだ)、文明の歴史は自然破壊の歴史であったとさえ解釈できる(ポンティング『緑の世界史』(朝日選書)などの環境史はそういうふうに歴史を描く)。

しかし人間が自然を豊かにしてきた面もあるし、自然の循環の一部を担ってきたのも確かである。問題は、産業革命以降、人間活動が地球の気候に不可逆的な変化を起こしていることや、人間活動が猛烈なスピードで種の絶滅を引き起こしたこと、それから自然の循環に収まらない人工物(廃棄物)をつくったことなどにあるが、逆に言えば気候変動を緩和し、種の絶滅スピードを遅らせ、人工物(廃棄物)を適切に処理できるのも人間だけなのである(できない廃棄物もあり、それが最も深刻な問題だ)。

時々聞くことがある「人間は絶滅したほうが地球にとってよいのではないか」という発言は、端的に無責任な発言だと思う。

従来の議論を否定しない

都市環境を射程に入れることによって、人間の営みや文明を肯定した上で、環境問題について前向きに取り組むための道が拓かれると思う。ただし、このことは、従来の環境問題研究や環境倫理学を否定するものではない。またそれらをシニカルに捉えているわけでもない。従来の環境問題研究や環境倫理学をふまえつつ、都市問題を射程に入れるべきという主張を端的に示すものとして、イーフー・トゥアンの本の一節を紹介したい。

「環境保護運動の盛り上がりは、われわれが、自分自身の愚かさや貪欲に対して完全に盲目というわけではないということを示している。われわれは、時には、賢明に行動する意志を示してきたのだ。しかしその運動に見られる正義の憤りには、盲点がある。もっとも顕著な盲点は、高度に人の手の加わった世界にも、独自の生態学的な豊かさと美しさがありうるということを認めたがらないという点である」

「私が悲しいのは、自然を保護しようとする情熱をもつと、われわれはどうも厭世的になりがちだからでもある。そして科学技術の進歩や、大規模な創造物、とりわけ都市を、ゆがんだまなざしで見るようになるからなのだ」(イーフー・トゥアン『トポフィリア』(ちくま学芸文庫)日本語版序文より)。

環境倫理のすそ野を広げる

「環境倫理」はまだまだ馴染みのない言葉である。また言葉は知っていても、その射程や目的が十分に理解されているとは限らない。自分には関係がないものとして、あるいは「環境倫理」を自然愛好家やアウトドア派によるお説教のようなものとして受け止めている人もいるかもしれない。しかし、環境および環境問題に関する人間社会の行動規範」である環境倫理は、自然愛好家やアウトドア派だけのものではなく、地球に暮らすもの全員に関わりのあるものである。

とりわけ現代は、地球の人口の半分以上が都市に住む時代である。多くの人にとって身近な環境は都市環境である。したがって、「都市に住んでいるから環境問題は縁遠い」と感じている人がいたら、その人は環境問題を狭く捉えているといえる。都市問題は環境問題である。都市に住んでいる人には、都市の環境に関心を持ち、都市環境の改善に尽力してもらいたい。それが他の地域の環境にとってプラスに作用することも多いのである。

「都市の環境倫理」をテーマ化したのは、環境倫理は人々の身近な環境から構築されるべきであると考えるからである。都市を舞台にすることによって、個々人の身近な環境とのかかわりを見つめ直すなかで、環境に対する規範を、自分に関わりのあるものとして、具体的かつ実現可能な形で議論することができるのではないか。

プロフィール

吉永明弘環境倫理学

1976年生まれ。2006年千葉大学大学院社会文化科学研究科修了。現在、法政大学人間環境学部教授。専門は、環境倫理学、公共哲学。著書『都市の環境倫理――持続可能性、都市における自然、アメニティ』(勁草書房、2014年)、『ブックガイド 環境倫理――基本書から専門書まで』(勁草書房、2017年)、編著に『未来の環境倫理学』(勁草書房、2018年)。

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