2014.07.19

演劇から、「時代の裂け目」が見えてくる

演出家・蜷川幸雄氏インタビュー

社会 #SYNODOS演劇事始#蜷川幸雄#シェイクスピア劇#演出家

主張するということ、何かをつくるということは、時代や社会と斬り結ぶことでもある。表現と権力は常に複雑に絡み合う。60年に届こうかという演劇のキャリアを持ちながら、古川日出男、前川知大らの戯曲や、カズオ・イシグロの舞台化、ライフワークとも言えるシェイクスピア劇の上演など、挑戦の姿勢を崩さない演出家・蜷川幸雄氏に、「演劇と力」をめぐって話を聞いた。(聞き手・構成/島﨑今日子)

演劇は衝動をそのまま表せるメディア

―― 蜷川さんのお育ちになった環境には、ずっと芝居があります。子どもの頃から歌舞伎や文楽をご覧になっていて、高校では新劇。なのにまっすぐ演劇に進まれたわけではなくて、まずは絵をやろうと東京藝術大学を受験されて。

落ちました。

―― 絵は、一浪してでも二浪してでも進みたい道ではなかったのでしょうか。

なかったですね。開成高校の時代から、友人たちと一緒に新劇はよく見てたんですね。演劇がおもしろくって。藝大を受けたのは、高校一年で、学校や受験に反発して学校をさぼりがちになって落第してるから、他にやることもなくて、とりあえず一番身近にあるクリエイティブな仕事って絵を描くことだなあと思ったから。ですから、美術大学を受験するための予備校にも、塾みたいなところにも行ってない。本当に画家になりたいかと言ったら、そうでもなくって。

絵を描いていると、はがゆい思いをしてくるんですね。

―― そのはがゆさっていうのは、何なんでしょう。

高校時代って、生理的にも荒れ狂っているんだと思うんですけども、絵は身体のうずきを解決してくれない。たとえば、どんなに内面的な嵐があっても、激しいタッチで絵を描けばそういうものが反映されるかといったら、そうじゃない。絵は、細かい手作業の積み重ねで成立していくことが多いので、身体とズレるんですよね。体の中の衝動的なものと、メディアとしての絵の手法がズレる。

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そんなときに、三越劇場にぶどうの会[*1]の『蛙昇天』という芝居を見に行ったんですよ。山本安英さんが、「戦争は嫌です!」みたいな生々しい台詞を言いながら客席を走り回っているのを見て、これはおもしろいなあと思った。おもしろいっていうか、演劇って、衝動的なものをそのまま表せるメディアなんだなと思った。じゃあ、俳優になろうかなと思ったんです。ものすごい決意があったわけじゃなくってね。

[*1] ぶどうの会は1947年、山本安英、劇作家木下順二らによって結成。リアリズム演劇を追究した。64年解散。『蛙昇天』は、当時社会を揺るがせた「徳田要請問題(シベリア抑留引き揚げ者の一部が、当時の共産党書記長徳田球一が引き揚げを妨害したと主張し訴えた事件。通訳を務めた哲学者の菅季治が自殺した)」を題材にした木下順二の戯曲。

―― 当時は、サラリーマンや公務員という安定した職業に就きたいというのが一般的でしたよね。あるいは、ご実家のテーラーを継ぐという選択はなかったんでしょうか。

一浪してるし、そもそもそういう発想は全然なかった。親もそういうものは望んでいませんでした。「俳優の研究生みたいなのをやってみようかな」って言ったら、母親は「ああ、いいよ」と言ったんですね。きょうだいが多かったし、末っ子だったから、「別にあなたに過大な期待をしているわけじゃないから、自由にやれば」って。で、劇団青俳[*2]を受けたら、受かった。

[*2] 1952年、岡田英次、木村功、織本順吉、金子信雄らによって青年俳優クラブとして結成。54年、劇団青俳に。79年解散。

―― 青俳の試験では、演技力よりも発想がよくて、そこを買われて受かったという話ですけれど。

そうそうそう。つるべで水を汲むというのと、浅い川を渡るという、エチュードの出題があったんですよ。そう言われたから、ズボンをめくったり、「つるべの水だから、こうかな」とか考えてやったりしたんですけど、上手いはずがないんですよ。なんの訓練も受けていないし、エチュードなんて知らないから。

エチュードのほかに、言葉の連想ゲームみたいな試験があった。「ライオン」と聞かれて、「割れたスイカ」と答えたんですね。スイカが割れれば真っ赤で、ライオンの開いた口にそっくりだから。受かってから、劇団員の人に「おまえの発想は、カラフルだ。色彩が多い。それがおもしろかった」と言われたので、それで入ったのかなと自分では思ってるんです。

自分がのちに演出家になっても思うんですが、俳優を選ぶときって、まあ、そんなに決まった基準があるわけじゃない。演技力で言えば、演劇経験がある人がある程度上手くできるわけですね。だから研究生を選んだ青俳の劇団員たちは、自由だったんだろうと思う。

―― 当時は文学座[*3]、俳優座[*4]、民藝[*5]が新劇の三大劇団と言われていました。他にもたくさんある劇団の中から青俳を選んだ理由は、その自由さゆえということになるのでしょうか。

青俳には映画に出ていた俳優さんが多くいて、その映画も独立プロの映画ですから、その当時で言えば、ある程度進歩的な人たちの集団に思えたわけですね。木村功[*6]さんや岡田英次[*7]さんら、錚々たる人たちがいる。まだ無名だった西村晃さんもいた。みんな、ぼくより12歳ぐらい上なんだけど、あとから考えると、当時20代、30代で、若いんですね。いわゆるベテランは加藤嘉さんぐらいしかいなかったんです。そもそも、元の集団は「青年俳優クラブ」という名前ですから。劇団青俳は「青年俳優」からきてるんですね。そういうところだったんで、普通の劇団とちょっと違っていた。もちろん左翼的な進歩性はあるし、芝居のレパートリーも、安部公房[*8]の『制服』をやったりしている。そこを選んだ。

[*3] 文学座は1937年、岸田國士、久保田万太郎、岩田豊雄の発起によって結成。

[*4] 劇団俳優座は1944年、青山杉作、千田是也、東野英治郎らによって結成。

[*5] 劇団民藝は、民衆芸術劇場(1947年結成)を前身とし、50年、滝沢修、宇野重吉、北林谷栄らによって結成。

[*6] 木村功 1923〜81年。46年、俳優座入団。49年、『野良犬』(黒澤明監督)出演。『七人の侍』では最年少の浪人、岡本勝四郎を演じた。映画、テレビドラマで活躍。

[*7] 岡田英次 1920〜95年。46年、新協劇団入団。映画『また逢う日まで』(50年、今井正監督)、『二十四時間の情事』(59年仏、アラン・レネ監督)、『砂の女』(64年、勅使河原宏監督)など、テレビドラマ『白い巨塔』(76年、フジテレビ)など。

[*8] 安部公房 1924〜93年。小説家、劇作家、演出家。『制服』(54年発表)は初の戯曲。

―― 位置的に言えばアバンギャルドで、思想的にも左という感じですか。

そうですね。

―― 文学座とか俳優座、民藝は、もはや古典のような位置づけだった?

ぼくには古くさく思えた。感覚的にですけどね。そういう、すでにできあがっているような、旧左翼みたいなのは嫌で、もうちょっとやわで、新鮮に見える集団を選んだんです。今思えば、きっとね。

―― それは蜷川さんのセンスですよね。

誰に教わったわけでもないですから。自分で見ていた演劇の中から、青俳を選んだ。支えている俳優が、平たく言えば、かっこいい人たちだったから青俳へ入った。

緊張しすぎて初舞台で大失敗

―― 蜷川さんが青俳にお入りになったころの演劇の状況はどうだったんでしょう。やっぱり演劇はインテリのものだったんですか。

そうですね。ヨーロッパの文化に対する憧れと 演劇としての具体的な成果みたいなものが新劇団にはあった。ことに三大劇団と言われる民藝、俳優座、文学座には、そういうものはきちっとありました。それは十分わかった上で、ただ、そこをぼくは選んではいない。

―― 俳優という仕事はおもしろかったです?

おもしろかったけど、緊張するわけですね。ぼくはあがり症なんですよ。人の目が気になったり、他人の目に対する恐怖心があるから緊張するんだというのは、すぐわかったんですが。

レッスンでも、舞台袖で洋服を着たり脱いだりしていると、ズボンを脱いだのかはいたのか、途中でわけがわからなくなっちゃう。

―― はははは。

緊張してるから。それに対して、演出家の倉橋健[*9]さんたちは「ああ、いいんだよ、緊張したっていいから。終わりまでやったのはよかったね」とか言ってくれて、やさしいんです。

[*9] 倉橋健 1919〜2000年。英文学者。70〜89年、早稲田大学演劇博物館館長。

―― やさしいですね。

下手な俳優を育てるという環境がありました。ぼくの俳優としての初舞台は、安部公房さんの『快速船』という芝居だったんだけど、スクリーンに新聞記事が映してあって、それを指さして帰ってくるだけなのに、(舞台に)出ていったら、スクリーンにぶつかって、揺らして、めちゃくちゃになってしまった。終演後に、倉橋さんに「すみませんでした」って謝りにいったら、「まあ、一生懸命やってできないものはしょうがないよ」って。

―― 懐が深い。

代役なんかやらされたりするわけです。それは一生懸命やるわけですが、うまくいかない。すると、「朝、稽古が始まる1時間前にこいよ、俺が教えてやるから」と言って、木村功さんが教えてくれたこともあった。

木村さんは、ぼくが緊張してうずくまってると、「おまえね、緊張してうずくまってたって上手くなんないんだから、キャッチボールしよう」って、道路でキャッチボールに誘ってくれたり。「緊張をほぐせよ」なんて言って、心やさしい。

―― それって、今も演劇でよく行われているワークショップの役割になるんですね。

そうですね。全員に対してやさしかったかどうかはわからないんですけども。ぼくがキリキリしてたんでしょうね。のめり込み型なんですね。そういう意味で、生意気なんだけど、かわいがられた。

―― 緊張というのはつまり、自意識が肥大しているわけですが、じゃあ、藝大を落ちたのも、緊張のせいかもしれません。

いや、それはない。落ちたのは、明らかに勉強不足ですね。受験の前の年の夏に、藝大の彫刻科にあった石膏室で夏期講習があって、全国から受験生が集まってくるわけ。休憩時間に周囲を見渡してみると、みんな圧倒的に上手いんですよ。ああ、俺なんて井の中の蛙だなっていうか、すごい連中はすごいなっていうのはもう十分わかっていた。自分がどれだけ勉強していないか、上手いと思っているのがうぬぼれにすぎないかというのは、よくわかっていたんですね。

―― 絵に比べると、役者としての能力は、そこまで他の人との落差を感じることはなかったんですか。

いや、ありましたよ。あるけど、肉体を動かすことはおもしろいから。感情的なものが発露できるわけね。どんな端役でも、そういう実演の生々しい魅力っていうのはあったかな。だから、うまくいかないなあと思うことはあったけど、それは耐えられた。というか、嫌じゃなかった。

―― 当時は、演劇はきわめて政治的な色合いが強かった。発言をしていくため、アジテートの一つとして演劇がありましたよね。政治的であることが、インテリの存在証明でもあったわけですし。

それはそうですね。ただ、ぼくらがいたような当時の進学校って優秀で、『資本論』とか『共産党宣言』なんて、高校時代に読んでしまっているんですよ。みんな、競うように読んでるから。落第しようが何しようが、優秀な連中は優秀で、夏休みになると、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んだり、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を読んだり、長編を読む。そういう意味では、世界文学と世界の政治的潮流の基礎になるものは、高校時代に読んじゃってるんだよね。

―― そういうインテリ層って、青年たちの何パーセントぐらいいたんでしょうか。

今とまったく状況は違うと思いますね。ことにぼくは、知らないことは恥ずかしいことだという意識が強くあったから。青俳に入ってからもそうでしたけど、研究生仲間には、俳優座の養成所や早稲田の演劇科を出てきたような連中がいっぱいいるわけですよ。その人たちの会話の中にわからない固有名詞が出てくると、すぐに本を買ったり、映画を観たりしていた。そうやって、ちゃんと共通会話ができるように、自分でどんどん勉強したんです。

―― それは、教養ですよね。劇団内のごくベーシックな会話の基礎に教養があったということですね。

そうですね。その中にいる人間も、ある種の人たちには、知らないことを恥ずかしいと思う、そういう感覚があった。それは大きかったと思いますね。ですから、青俳に入っても、ぼくは研究生でありながら、ものは読んでる、理論は知ってる、技法も読んでる。ただ、やると下手なんだ。

豪華講師陣から演劇理論を学ぶ

―― そこで、当然のごとくスタニスラフスキー[*10]のメソッドも学ばれた。

青俳では、芸術研究会という名前の、研究生と劇団員とが一緒に勉強する会があったんです。そこに参加できるのは劇団員と、内部試験を受けて合格した研究生だけなんですが、ぼくはその試験に通って選ばれてるわけ。知識はほら、あるから。

[*10] コンスタンチン・スタニスラフスキー 1863〜1938年。ロシア、ソ連の俳優、演出家。『俳優修業』は、新訳されて『俳優の仕事』(全三部、未來社)として刊行されている。

―― そうか、インテリだから。

ぼくは、演技は下手なのにそういうところに入って、一緒に教育を受けているんですね。ですから、スタニスラフスキーなんていうのは、倉橋さんが原文から訳したテキストで教えられているんです。倉橋さんは英語とロシア語ができるんですよ。当時日本で出版されていたスタニスラフスキーは、いったん英文に翻訳されたものから日本語に訳したテキストが多かったんですが、『俳優修業』でも、翻訳が正しくないと言って、ロシア語の原典を頭から細かく全部、自分が読み直したものを書き出して、全部教えてくれる。

―― すごい贅沢な授業ですね。

その対極のような、安部公房さんの授業もあるし。のちになると井上光晴[*11]さんの授業もあった。青俳で教えられたものは、すごくレベルの高いものだったんですね。

[*11] 井上光晴 1926〜92年。小説家。

―― そのときに、すでに演出家としての教養は叩き込まれた。

そうですね。スタニスラフスキーの演技理論が感情を移入しながらものを作っていくということにあるとすると、安部さんは、「人間は悲しい出来事があるから泣くわけじゃなくて、涙が出るから悲しいんだ」と言うんですよ。「笑いなんていうのは筋肉の痙攣にすぎない」とか。安部さんはブレヒト[*12]の演劇論を紹介するわけですが、たしかに、そういう側面もあるわけです。まあ、そこの教訓は「心情ばかりを追うな」ってことだと思うんですね。身体というものを明晰に自覚しながらものごとを捉えていくと、スタニスラフスキーとはまったく違う、ある批判精神というか、身体を操れる俳優が育っていく、というふうな教え方だったわけです。

[*12] ベルトルト・ブレヒト 1898〜1956年。ドイツの劇作家。代表作に『三文オペラ』など。

その二つの理論をあわせ持っているから、強いといえば強いわけですよ。その時代の世界の演劇の……

―― 最先端。

そう、二つをね。しかも安部公房なんてすごい人に直接教わってるわけですから。すごい授業だったんです。

―― どんな授業だったんでしょうね。そうして最強の勉強をしながら、テレビに出演なさったり、舞台に立ったりもしていかれるわけですよね。その時点ではまだ俳優なんですね。

そうです。研究生は裏方につかなきゃいけないんだけど、ぼくは「俳優だから裏方はやりません」と言って、つかなかった。

―― はははは。

テレビでも、劇団員の新人を端役に使おうとするんだけど、ぼくは「やらなくていいです」って出なかった。初期のテレビって、劇団の制作のものをテレビ局で丸ごと買ったりするんですね。スターがいるから。研究生も、改札口で切符を切る駅員の役とか、おまわりさんの役とかで出るんですが、ぼくは制服を着るのが恥ずかしくって。そういうときは、「ぼくは制服を着るのは嫌ですから、出ない」って言って、出なかったの。ほとんどね。

―― それが許された立ち位置というか、ポジションだったということですね。

生意気だったんだけど、その生意気さに実力がともなわないから、おもしろがられた。

―― 大人たちには、かわいかったんですね。

きっとね。ですから、木村功さんとか岡田英次さんにはよく遊びに連れてってもらいました。その当時、あの人たちは銀座のバーへ行くんですよ。デートの現場にも、「一緒に行こう」なんて言って、連れていかれたりしてた。

―― そういう時間を過ごしながら、でも、そのときはまだ食べてはいけませんよね?

母親に、「大学を出る年まではおこづかいをあげるから、何もしなくていい」って言われたんですよ。だからぼくはアルバイトをしたことがない。

―― それは特権ですよね。ある種の。

そうですね。経済的なことで、屈折する思いをしたことはないんだよね。

―― だから、卑屈になる必要もなかった。

よく劇団員たちや演出部の人間が麻雀をやっていたんですね。稽古場の前に麻雀屋があって、稽古が終わったら、みんなでそこに行くんです。ぼくはやらないけれど、ついていくと、俳優たちが「演出部は嫌なんだよな。負けると払わないで、勝ったときはとるんだから」と怒っていた。

そういう光景を見ているから、そういうところがきれいじゃないと仲間はついてこないということも、演出家には理想的な人格が求められているということも、わかっていた。そのころは演出家になろうとは全然思ってないですけど、演出家はそうだよな、というふうには思っていましたね。

日常生活の変革から、演出は始まる

―― 演出家は何を求められるかということを、もう肌で感じておられたということですね。そうした中で、劇作家の清水邦夫さんと出会い、演出に走っていかれる。

ずっとやっているうちに、倉橋健さんが青俳とうまくいかなくなったんです。俳優が自分の言うことを聞かない、と大批判をやって、辞めたんですよ。

「クバンの林檎」という芝居だったんですが、集めた劇団員たちの前で、スタニスラフスキーのように頭から全部、細かく心理分析をして、「だから私はこういうダメ出しをしました。あなたがたは聞かなかった」とやって。

―― それは蜷川さんがお聞きになって、すばらしい分析だったんですか。

圧倒的にすばらしい分析でした。ぼくは倉橋さんに、「おまえ、ちょっと聞いていろ」と、始まる前に呼ばれていたんで、聞いていたんですよ。

それで、倉橋さんが辞めたので、演出家がいなくなっちゃったわけですね。外からいろんな人がきて演出し始めることになるんですけども、そうすると、たとえば文学座なら文学座に籍がある演出家がきても、仕事として一本の戯曲を演出しただけで、終わって帰るわけですね。日常生活の変革もしてくれなきゃ、関わり方も職業的。それじゃあ俳優は育たないよな、とぼくは俳優の立場で長い間、思ってたわけ。

―― 日常的な生活の変革? 具体的に何を指すのでしょう。

ぼくなんかは、今だって、俳優に「そういう生活スタイルじゃダメだ」とか言いますよ。藤原(竜也)くんがテレビでインタビューを受けているのを見て、「あの受け答えはなんだ」と言ったり。小栗(旬)に対してでも、そうですよ。「あんな仏頂面して出るんだったらテレビに出るな。なんでわれわれ視聴者が、小栗が不愉快な顔をしてインタビューに臨むのを見せられなきゃいけないんだ」と。だったら出なきゃいい。出るからには最低線の愛想のよさを持て。つまり、「社交」をやれということです。稽古場に入ってくるときも、「笑って『おはようございます!』と言って入ってこいよ」と。小栗は最初恥ずかしいと言ったけど、「そういうことを言ってられない、集団でやってるんだから、笑って入ってこい」と言いました。

……そういうような、人が生きていく上でのこと。

―― たたずまいですよね。ちゃんとしたたたずまいを身につけなさいと。

そうですね。それから、内面の問題の抱え方とか、勉強の仕方とか。日常生活のたくさんのことが舞台に表れてくるわけだから、それをちゃんとやれ。というような指導を演出家がやってくれない限り、俳優は育たないと思っているわけです。

―― なるほど。倉橋さんはそれをなさっていたんですね。

倉橋さんはそうですよ。倉橋さんのご自宅へ遊びに行きますね。そうすると、「今、なに読んでる?」って聞かれるから、「チェーホフの『三人姉妹』です」なんて答えると、「じゃあその中の一節で、好きなものをやってごらん」って、応接間でやらされるんです。

―― おもしろい!

本を読んだ感想を聞いて、演技を見て、いいとか悪いとかって批評してくれる。倉橋さんの演劇を全部いいとは思わないけれども、演出家のあり方というものについては習いました。

―― ところが、倉橋さんがお辞めになることで、青俳から、俳優を全人格的に抱えてくれるような演出家がいなくなってしまった。

だから、作品のレパートリーがくだらない作品ばっかりになったんだよね。それで、「じゃあ自分でやろう」と思って、稽古場で、自分で構成した作品を研究生とやったら、劇団から「電気代払え」と言われて。

―― ははははは。

そういうバカなことを言うんで、「これはダメだな、辞めよう」と思って、辞めたわけです。

―― その電気代事件のときの、蜷川さんの役割は演出家だったんですね。

そう。その1本、ボルヒェルト[*13]の戯曲や詩の断片を組み合わせたコラージュ作品だったんですが、それを稽古場でやったときに、清水(邦夫)[*14]だけが外から見にきてて、「おもしろかったよ。今度、おまえのためになんか書くよ」と言ってくれたわけです。

「行列の中で狂っていく男女の話を書こうかな」と言うから、「ああ、書いて」って。それで、一晩ででき上がったのが『真情あふるる軽薄さ』。演出家になるって宣言したわけでもなんでもないんだけど、戯曲ができたんですよ。

[*13] ヴォルフガング・ボルヒェルト 1920〜47年。ドイツの詩人、作家。数十の掌編を残したが病気で夭逝した。

[*14] 清水邦夫 1936年〜。早稲田大学在学中の58年に初戯曲『署名人』発表。『真情あふるる軽薄さ』は69年、アートシアター新宿文化で上演された。

劇団へその戯曲を提出したんだけども、もちろんぼくにはやらしてくれない。有名でもなく名優でもない俳優が演出しても、俳優がついていかないという理由でね。ぼくはまだ若かったから、上にいっぱいいるわけです。

だいたいからして、劇団員は清水の作品をやるのに反対だったんです。その前から青俳内では、清水が書いた作品を一読しても、みんな理解できなかった。清水は早稲田の演劇科なんだけども、ぼくが清水と友だちになったのも、清水があんまり無口で、年上の人が行ってもしゃべらないから、「同世代のおまえが清水さんの担当者になれ」って言われたから。それで清水と知り合って、しょっちゅう二人で会って、いろんな話をして、親しくなっていくんですね。

「教養主義」は撃った。だが「教養」は必要だ

―― ボルヒェルトを演出なさったとき、演出方法は手探りだったんですか。それとも、頭の中には、今みたいにわーっと、イメージがおありになったんですか。

ある程度、頭の中にありましたね。情景や音については自分でよく考えているから。道具はなしで、置いてあるのは劇団員が座る客席代わりのパイプ椅子だけ、というふうにしてた。照明も、手作りの笠を電球につけるだけで、手動でガシャガシャと点いたり消えたりさせるとか、スライダック(変圧器)で明暗がつくようにしたりとか。出演者は蟹江(敬三)や石橋蓮司や、10代20代の研究生。それでやった芝居だった。イメージははじめからすっきりとあったから、お金がないなりに躊躇はあまりなくやれた。ぼくは、今でもそんなには迷わないから。できないことはやめちゃう。今(『太陽2068』の稽古中)も、「(予算に限りがあるから)ネオンを使うのはやめよう」と言ってきたばっかりなんですけど。

―― 著書に、演出家に転向した後は独学で必死にいろんなものを観て勉強した、と書いてらっしゃいます。ただ、蜷川さんはすでにスタニスラフスキーもブレヒトも自分のものにしていたわけで、演出のなんたるものかはすでに身についていたという言い方もできますよね。

それは、そうですね。

―― 武器を最初から2本も持ってらっしゃるようなもので、(青俳を)お辞めになったときも、蟹江さんや石橋蓮司さんたちがついてきた。岡田英次さんも一緒でしたよね。言ってはなんですが、普通、無名の若い演出家に、30人もついて行きませんよね?

劇団の中に、「蜷川セクト」って言われるくらいの仲間がいたんですよ。作品の選定のときから、この作品は賛成しようとか、この作品は反対しようとか、なんとなくぼくたちは集まって会議してから、総会に出るわけです。でも全体の中でいうと負けるわけです。岡田さん以外は蜷川の世代以下だから、数では負けちゃうんだけど、でも、そういう、なんて言うんですか……

―― 求心力は最初からお持ちだった。

そうですね、きっとね。

―― 当然、その求心力は演出力に繋がった。

高校時代から教養的な基礎知識はあるから、普通の俳優よりはものをよく知ってるし、読んでるわけですね。それで、人に負けたくなくてより勉強してるから、だいたいのことについては対応できる。劇団員と戦うのだって、論戦だったら、まあ、互角に行けるわけですよ。

―― やっぱり、基礎教養をバックボーンに持っていると強い。教養、大事ですねえ。

ぼくはそう思うんですね。ある種の教養ね。

アンダーグラウンドをやることによって、ありきたりの既成の教養主義を、演劇の中から撃ったという気はするんです。でも、撃ったはいいけれども、壊れちゃったら、基礎教養を共有するものがなくなっちゃったって感じがした。「新劇は弱いよ、もっと強力に自分たちの自己主張をしろよ、論理的に」と、ぼくは思ってましたから。教養がないとダメだよ。

―― 1968年に青俳をお辞めになって、「現代人劇場」[*15]を結成。蜷川さんが33歳のときです。

現代人劇場をみんなで作ったときから、人のやってないことをやりたかったんですね。アートシアター新宿文化[*16]で演出家になったわけですけども、あそこは狭い劇場だから、他の劇団が演劇をやるときはみんな、人数が少ない芝居をやるんですよ。ぼくは、じゃあ逆に、大勢出る芝居をやろう、狭いからこそ大勢出る芝居を作ろうと考えた。

[*15] 現代人劇場は1968年、蜷川、蟹江敬三、石橋蓮司、真山知子らによって結成。

[*16] ATG(日本アート・シアター・ギルド)のメイン上映館。62年設立、支配人は映画、演劇のプロデューサーでもある葛井欣士郎(1925-2014)。67年から地下に小劇場を併設した。

―― 「逆転の発想」というと陳腐ですが。

人と違うことをやることで、なんとか自分の存在証明をしたかったんでしょうね。人と違う、すごいものを作りたいっていう思いだけはありました。

―― 60年代は、「アンチ新劇」を標榜するアングラ演劇が台頭してきた時代ですが、現代人劇場もその一つでした。

状況と直結しているような内容を、ある種の過激なひた走り方でやっていく集団でした。ですから、同時代の若い人たちにはものすごく受けたと思うんですよ。

しかし、世界状況の中で、世界中の青年たちの、ある種のラディカルな行動というものが衰退していくと、演劇もやせ細っていくんですね。それで、もうダメだなあと思って、新宿(で芝居すること)をやめた。そのときに、東宝から声がかかって、商業演劇でやり始めるんです。

―― ベトナム戦争反対を契機に、世界的にスチューデントパワーが燃え上がり、日本でも68年から全共闘運動[*17]が全国に広がって、武闘闘争に走る人たちも出てきました。でも、72年の連合赤軍事件[*18]が起こって、運動は一気に衰退していきます。蜷川さんは、それを「敗北」と呼んでおられますが、あの時代は、社会状況と演劇が斬り結んでいました。そういうものっていうのは、今は……

ないよね。かつては、劇場へくるということ自体がある種の政治的な選択で、熱い思いが劇場じゅう充満しているわけですから。始まる前からわいわいがやがや、何か起きないかなと思って待っているわけです。今じゃそういうことはないですよね。

[*17] 全共闘(全学共闘会議)は、1968〜69年の大学闘争で党派によらずに組織された学生による連合体。日大全共闘、東大全共闘が有名。

[*18] 連合赤軍は1971〜72年に活動した新左翼団体の一つ。あさま山荘事件や、その後発覚する山岳ベース事件(仲間12人をリンチにより殺害)を引き起こした。

―― それは、何の力の衰退だと思われますか。それとも衰退ではない?

やっぱりね、次の思想を発見できなかったんですね。次につなぐべき変革の思想を作れなかったということだと思うんですよ。壊したことは壊したけども、作れなかった。それは世界中そうです。やがて社会主義国家の崩壊というものがバタバタと始まっていくわけです。

ロンドンにいたとき、ベルリン・ドイツ・オペラでオペラの演出を頼まれて、一日だけベルリンへ行ったことがありました。打ち合わせをして、ベルリンの壁を見て、帰ってきた一月後ぐらいにベルリンの壁が崩壊するんですよ。世界というものはものすごい勢いで崩壊していくわけですが、ぼくは一月前に現場にいながら、それは全然見えなかった。

―― 予兆さえ感じられなかった?

自分の責任でもなんでもないんだけど、そういうことをぼくは、恥ずかしいって気がするわけ。一日しかいないベルリンでそういう予兆を感じられなかった自分に対して、ちょっとなあ、鈍ってるのかなあ、という思いはあった。

資本主義ベタ勝ちみたいになっていって、次の変革の思想を明確に作れないうちに、社会主義国家はどんどん崩壊していく。それまで、社会主義に対するそこはかとない希望というものは、実質以上に世界中に蔓延していたわけですから、そういうものが壊れてくると、何もなくなっていくわけですよね。振り返ってみれば、その予兆みたいなものは、73年74年の日本の文化にもあったんだと思うんですね。

劇団解散後の、深い絶望感と孤立感

―― その始まりが連赤ですが。現代人劇場が3年で解散したあと、72年に結成された「櫻社」[*19]で上演された作品には、その予兆がくっきり刻まれていましたよね。

そうですね。自分たちが直接やったわけではないけども、やはりシンパシーを持って時代と共に走ったことについての心情的な責任をとらなきゃいけないなっていうことがあるんです。

今、上演中の『海辺のカフカ』[*20]でも、「それは想像力の問題なんだ。夢で荷担した人は、その夢に責任をとらなきゃいけない」という台詞があるんですけど、まさしくそういうことを、自分たちの集団でやりたかった。

[*19] 櫻社は1972年結成、『ぼくらが非情の大河をくだる時』(清水邦夫作)で旗揚げ公演。翌年、『泣かないのか?泣かないのか1973年のために?』(同)の楽日にアートシアター新宿文化の舞台に立ち、新宿撤退宣言。74年、解散。

 [*20] 『海辺のカフカ』(原作:村上春樹、脚本:フランク・ギャラティ)は2012年初演。14年再演(公演終了)。

―― でも、時代を総括しようとしたその劇団も、状況と同じように崩れていく。74年、蜷川さんが商業演劇の演出をすることになって、櫻社は解散になります。

そうですね。

―― 商業演劇に行かれたときに、批判の嵐で、蜷川さんはたった一人になった。集団を作って時代を生きてこられた世代だし、それが正しいありかただと思っていらっしゃったと思うんですけど、その一緒に走ってきた仲間に背を向けられたときの、絶望感は。

絶望感と孤立感というものが、こんなにすごいものかと思いました。

批判されるとは思ってもみないから、最初の商業演劇の仕事のとき、スタッフに、劇団の仲間の連中を選んでるんだよね。だけど、電話をすると、みんなに、「仕事が忙しいから」と断られる。それを横で聞いていた女房に、「あんたと仕事したくないのよ、みんなは」と言われて、はっと気づくわけです。アングラを捨てて商業主義に身を投じるのかと非難されているということに。でも、自分では正しいと思ってるから。商業演劇とアンダーグラウンドを往復することは、自分たちが表現者として豊かになることだって。表通りと裏通りのような感じでね、両方を往復しないと世界は手に入らないという思いがあるわけです。

―― つまり、もっと広げていきたいということですよね。

それをやらない限り、自分たちの創造性というものが袋小路へ入って、先へ行けないだろうと思ったんですね。それなのに、みんなは「違う」「嫌だ」と言った。気づいたら一人だったんです。その孤立感たるや、すごいものですよ。

―― そこでよく、商業演劇のほうでまた戦おうという気になれたと思います。

商業演劇へ行ったら、あまりのひどさに驚いたんです。脇役の俳優たちの横暴さ、自覚のなさに。なんだ、演劇全体が腐ってる、と思いましたね。

―― 腐ってるからこんなところにいるのは嫌だ、とは思わなかった?

戦おうと思った。戻るところないんだもん。

―― やっぱり、蜷川さんは闘争本能で動く人なんですね。

最初に商業演劇で演出したのは、松本幸四郎さん、当時は市川染五郎さん主演の『ロミオとジュリエット』だったんですが、脇の役者が、台詞は覚えてこない、動きはめちゃくちゃ。スリッパをはいていて、ろくに身支度もしていない。剣の代わりにほうきを持って殺陣の練習をしているわけ。そういう状態の商業演劇で戦うには、「台詞覚えてこい!」「ちゃんと動け!」「サングラスはずせ!」って怒る、そこから始まっているわけです。

―― それまでの新劇やアングラの世界と商業演劇の差は、大きかったんですか。

現実的には大きかったんですね。ぼくは商業演劇に行ってはじめて、演出家に椅子が用意されていて、コーヒーが出てくることに感動する。「コーヒーが出るんだ!」って。

―― それまではどうなさってたんですか?

劇団ではお茶も飲んでない。水道の水を自分でくんで飲んで、稽古していたのに、商業演劇に行ったら、菊田一夫[*21]さんが座った椅子とか、そういうのがあるわけですね。もちろん机もあるし、黙っていてもコーヒーが出てきたり、お茶が出てきたりするわけです。もうそれは、夢みたい。

[*21] 菊田一夫 1908〜73年。浅草で喜劇作家としてスタート。ラジオドラマ『君の名は』(52年)、『放浪記』(61年初演)など多数。東宝の重役としてブロードウェイ・ミュージカルの移入、上演にも力を尽くした。

―― ははは。そういう扱いに心地よさはありましたか。

はじめから、机もどかしたし、椅子にも座らず、床に座って演出してた。

―― 既成の価値観の中でやるつもりはなかった?

ステイタスを表すものを、自分で身につけないようにしてた。その位置にいかないということについては十分に自覚的だったから、床に座ってた。

―― なるほど。商業演劇を演出する楽しみはありましたか。

戻るところがないから、もう俺には商業演劇しかないという思いでやりましたよ。それに、幸四郎さんがすばらしかった。商業演劇のすごい人はすごいんだと感心しました。声は凜々としてるし、よく勉強するし。そのあと3本ぐらい幸四郎さんと一緒に仕事をしているんですけども、稽古に入る前に、一日予習するんだよ。ぼくが幸四郎さんのところに行って、漢字の読みを「これは間違いないですか」ってチェックしたり、どういうふうにやるかってことを話し合ったりして、帰ってくるんです。絶対に人前で背は向けないというか、恥はかかないということが倫理的に確立されてるから、かっこよかったですよ。それもおもしろかったんです。

ヨーロッパ進出で突きつけられたアイデンティティー

―― 商業演劇の中でやっていこうとお決めになりながら、役者業もまだ続けておられた。太地喜和子[*22]さんに「私がお金あげるから、下手な芝居しないで」と言われて辞めるまで。

アングラ出身の演出家がやれるのは年に1本か2本ですから。昔だったらニッパチですよね、2月と8月。

[*22] 太地喜和子 1943〜92年。俳優座養成所を経て62年、文学座入団。蜷川が演出し、平幹二朗とのコンビで上演された『近松心中物語』(秋元松代作、79年初演)は大ヒットした。

―― 動員が悪い月ですね。

そう。どうでもいいときに実験的なことをやらせる。ただしね、その当時の東宝の重役たちっていうのは、東大出とかさ、優秀な人が多くてインテリなんだよ。文学的な基礎教養は、当然、熟知してる。『オイディプス王』をやると言えば、「ソフォクレスの原作より、ホフマンスタールの台本のほうがいいんだよ」と言われたりとか。それでホフマンスタールを探して読んだ。ぼくらも教わるわけですね。

たまに打ち合わせで東宝に行くと、重役が出てきて、「蜷川くん、上半期の成績いいから、どこか外国へ行きたかったら、行っといで」とか言ってくれるわけですよ。外国へは行かなかったですけど、相撲の枡席のチケットあるから行こうって誘われて、一緒に国技館に行って枡席で見たり。人を育てるというか、上の知識人たちが次の世代にちゃんとバトンタッチする。教えてくれたんだよね。新劇の貧しい制作者よりは、はるかにインテリが多かったのよ。

―― 新劇で教えられたものがあるように、商業演劇から受け取られたものもとても大きかった。

そうです。商業演劇のスタッフってこんなに優秀なんだ、と思うわけですね。長く一緒にやった東宝のプロデューサーは、パリのオペラ座に何年間か留学した経験があるから、ヨーロッパ演劇をたくさん見ているわけです。「俺の芝居は受けないんだよな」とぼくが言ったら、「蜷川さん、外国行こう。絶対受けますよ」と言って、彼が外国へ売り込んでくれたんですよ。

―― 蜷川さんの演劇は、ヨーロッパでの評価が逆輸入されたところがありました。

ありますよね。はっきり言ってそうですね。

―― 私たちの目から見ると、蜷川さんはアングラと商業演劇を結んで、もう一つ違うものを見せてくれた演出家です。学生時代から培った教養も、新劇的な手法も、ご自分がやりたかったアングラ的な手法も、それからずっと小さいときからご覧になった大衆演劇も、そのへんを全部、ご自身の演出でお使いになったところはありますよね。

日本でもそうだけど、ヨーロッパで仕事をしたりすると、なんで日本人がシェイクスピアをやらなきゃいけないんだとか、そういうことは考えざるを得なかったわけですね。自分自身のアイデンティティーをきちんと確立させるためには、技術的にもビジュアル的にもちゃんと裏付けをしなきゃ、自分の立ち位置がないと思った。だから、シェイクスピアも、それまでのものと違うものを作ったんです。

外国からきたものならなんでも「いい、いい」とみんな褒めるけれども、実際に自分で、ギリシャのカンパニーのギリシャ悲劇が国立劇場にきたのを見ても、ちっともおもしろくないわけ。イギリスからシェイクスピアがきても全然おもしろくないわけです。ほんとはこんなはずはないんだよ、こんなものであるはずがない、原作のほうがすばらしいはずだ。そういう読み方をしようと思って、自分の舞台を作っていきました。

でも、日本で上演すると、外国からくるものと違うから、「よくない」と言われる。ところが、外国へ持っていくと、「我々と違う発想で作っていて、すばらしい」という評価になる。

―― 表現って、オリジナリティーにこそ敬意を払われるべきだと思うんですが、蜷川さんも、そこを強く求めてこられた。

それはそうですよ。ぼくは、写真集も画集も、演劇の記録の写真も見ますけど、はっきり言って、真似したと思われたくないからチェックしてるだけで、それをコピーすることはないですね。自分が将来やりそうな作品は外国へ行っても見てないし。シェイクスピアもギリシャ悲劇も、ほとんど見てないんですよね。ミュージカルは見ますけどね。自分がやらないから。

―― 自己模倣に陥りたくないということも、ずっとおっしゃっています。正直なところ、演劇だけではなくあらゆる表現で、自己模倣にならずに続けていくのは至難の業という気がします。スタイルは持っても、自己模倣にならないために、蜷川さんが自分に課しておられることってありますか。

なんだろうな……。一つは意地っていうか。はは。人間の行動なんて、常に論理的であるばかりじゃなくて、意地とか、真似したと思われたら恥ずかしいとか、そういうのが、ぼくの場合は原動力になっています。コピーしたと思われたくない。

―― 演出家になられたときも、意地が大きかった。

全部そうです。祝福されて演出家になったわけじゃない。「どうぞ演出家になってください」なんて言われてない。無理やり、自分で「演出家だ! 演出家だ!」って言ってなっていった。ATGだって、自分でドアをたたいて、支配人の葛井欣士郎さんに会った。ほとんど自前で、なりふり構わず動いてきたわけです。だけどなんとなく、支持してくれる人はできていった。青俳のときの木村功さんたちの世代じゃないですけども、なんとなく許されていくというのはあった。

―― 演出家になって、俳優のときのようなどうしようもない羞恥心みたいものは、なかったんですか。蜷川さんの生理にハマったのでしょうか。だから続けることができた?

そういうのは、だから……意地だなあ。年に1本か2本しか仕事がないから、1年のうちの10カ月ぐらいはヒマなわけです。女房が働いて稼いで、ぼくが家政婦やったりしながら……

―― (長女の)実花さんを、ご自分で育てられたり。

そういうことをやったりしながら、やりたくない仕事はやらない、ということは貫き通した。もう行くところがないということと……やっぱり意地だなぁ。

―― 戦っていく相手、対抗勢力みたいなものを常にお持ちになっている感じもするんですけれど。

自分で偉そうなことを言うからには、オリジナルであるということや、常に新しくなきゃダメだということについては、十分気をつけていたかな。

―― しかし、蜷川さんが「世界のニナガワ」になったときから、一つの権威というか、それこそステイタスになっていきますよね。周囲が勝手に崇めるのだとしても、ご自身のそうありたい立ち位置とはズレていきます。このバランスをとるのが、とても難しかったと思います。

そうですよね。ただ、ぼくは自分の置かれた状況をあまり快適に守ろうとしない。(シアターコクーンの)ぼくの楽屋はそこの廊下ですからね。

―― そうなんですか。

そうなの。そこの廊下に椅子が2個、置いてありますけど。そういうところにいるんで、はじめてきた人は、「ええ!? 蜷川さん、こんな廊下にいるんですか」って言うわけ。廊下が楽屋ですか?って。こういうのがあるような(楽屋の鏡に触れる)、ちゃんとした部屋はないわけ。

―― じゃあ、菊田一夫のディレクターチェアみたいなのとか、ないんですか。

ねえよ(笑)。

つまりそうやって、ささいなことだけど、そういうことから、いい気になることを防いでいくっていうことは、あるかもなあ。

集団を率いるには常に謙虚で新鮮でいないと

―― 大きな野心もなく足を踏み入れた演劇の世界で、60年間続けてこられた。しかも、彩の国さいたま芸術劇場を拠点に、年輩者たちの「さいたまゴールド・シアター」とか、若手を集めた「さいたまネクスト・シアター」という劇団をお作りになって、驚くほどの数の作品を演出されています。それだけ蜷川さんを駆り立てていく演劇って、なんですか。

演劇って、もう一つの人生を生きているようなものなんですね。

現実の人生は一つしか生きられないけど、演劇というのは、夢みたいなものだから、いろんな人生を生きるわけです。これは俳優にはあんまり言いたくないんだけど、そこでは、羞恥心や自我というものは抑えられて、ミニチュアの世界をもう一個抱えていて、それを作っているようなものなんですね。そこで、自分の自意識も溶ける。

ぼくの場合は俳優をやめちゃったから、演劇をやっているということは、もう一つの人生を密やかに、ミニチュアみたいに作って、そこを生きているというようなことなんじゃないかと思う。

―― そのおもしろさはありますよね。

ありますよ。

―― 『太陽2068』ではイキウメの前川知大[*23]さんの作品を演出したり、そのほかにもいろんなかたちで新しい才能とコラボレーションされています。かつて、蜷川さんが乗り越えるバネにした存在があったように、今は蜷川さんが否定される立場。でも、「乗り越えるぞーっ」という人が出てきませんね。

ぼくのまわりにいるスタッフが若いから、若い人とぼくを組ませて、格闘させようとするんですね。その結果、ぼくに対する批判的な脚本であったり、「これは演出できるのか、蜷川!?」というような戯曲が生まれてくるわけですけど、それに勝とうと思って必死にやるから、いい気でいられるヒマがない。みんなが「蜷川さん、どう解くのかなあ」というふうに、おもしろがるんですね。

[*23] 前川知大 1974年〜。劇作家、演出家。2003年、イキウメ結成。『太陽』は2011年初演。

『太陽2068』もそうした企画ですけど、そういうものをぼくにやらせようとする。それはおもしろいから、ぼくも意地を張ってやっていく。若い人には負けたくない。

ぼくがエスタブリッシュメントとして否定の対象になっているのは当然だと思うんですね。自分の若いころのことを考えても。だから、じゃあおまえら、否定するけど、俺は負けねえぞと、互角の相撲をとってるつもりなんだ。

―― だけど、蜷川幸雄を超えるという人がなかなか出てこない。

いやいや、そんなことなくて、やっぱり若い人の舞台を見ると、ああ、俺には作れないなあと思います。たとえば、マームとジプシーの藤田(貴大)[*24]くんの作品なんか見ると、これは俺には作れないなあって。全然俺の感性と違う……というか、似たところもあるんだけど、方法の持ち方が違うんだよなあ。

というふうに思うと、興味があるんだよね。それで藤田くんとしゃべったりして、一緒に仕事しようって誘ったりしてるわけ。

[*24] 藤田貴大 1985年〜。劇作家、演出家。2007年、マームとジプシーを旗揚げ。

―― 観客の立場からすれば、超えるか超えないかはどうでもいいんですけれどね。いろんな演劇が存在して、自由に選べる状況であることが一番望ましいです。そういう意味で、蜷川さんは日本の演劇状況をどういうふうにご覧になりますか。

若い人たちは、すぐ集団を作ったり、あるいは仲間内で創作をしていきます。だけど、優秀な連中はそれだけじゃなくて、あえて枠を壊してみたり、また新しい枠を作ったりしながら、いろんなコラボレーションをやっている。それはそれでおもしろいんじゃないかと思うんだよね。ぼくの生きた時代みたいな、集団ありきのやり方をやっていかない良さはあって、それはそれで、新鮮な風景を見るような気分でいますけどね。

―― さきほど、自分たちが新劇を壊しすぎたと、それの弊害がちょっと出ているという話がありましたが、それはお感じになるんですね。

ああ。自分のところのネクスト(・シアター)の俳優でも、ものを知らなさすぎる。全然基礎教養がないから。ぼくらの時代だと、チェーホフや、ギリシャ悲劇や、シェイクスピアの有名な作品をある程度読んでるってことは、自明のことなんだけども、今は「読め」って言わない限り読まない。

ただ、いくら教養がないよなあと思っても、こちらから強いて読ませると、昔の世代と同じことになるしなあ、という危惧もある。だから、なるべく、自分たちで気づくような方法がないかなと思いながら、アジテーションしている。というぐらいですかねえ。

―― 蜷川さんは、青俳に入られたときから、今までずっと、アジテーションなさっています。アジテーションの人。

そうですね。アジテーションするためには、常に新鮮で謙虚でいないと、できないから。つまり、ぼくが見てきた古い世代みたいになりたくないわけ。だから、「若い世代に何か言いたいことありますか」って聞かれたら、「ありません」って答えてる。

―― それは、シャイだからもあるのでは。

まあ、まあね。

野田(秀樹)に、「野田と俺は同世代だからな」って言ったら、「違うよ、蜷川さん、上だよ」って言われたことがある。「俺のほうが若いんだよ」って。

―― ははははは。それはそうですよ。二世代違います。

だけど自分じゃ、野田の作品をやるときなんか、同世代で戦ってるつもりだから。野田の脚本で、『パンドラの鐘』[*25]を競作したでしょ。それは、人は野田のほうがいいと言うに決まってるんだよ。でも、作者だからいいとは、実際には限らないわけ。俺のほうがいいとは思っていませんよ。でも、それをぼくはやってみせる、という。

[*25] 『パンドラの鐘』は野田秀樹の戯曲。1999年、野田演出によるバージョン(世田谷パブリックシアター)と、蜷川演出によるバージョン(シアターコクーン)が、違うキャストでほぼ同時期に上演された。

―― 気構えですよね。今の若い世代が、蜷川さんの年になるまで、同じようにアジテーションを掲げながら走れるのでしょうか。演劇はアジテーションではなくなってるし。

それはね、余計なメッセージはたぶん、いらないから。

―― ということなんですね。じゃあ、演劇に「カタルシス」は必要ないんでしょうか。

いや、必要かもしれないけど、カタルシスを語るための共通の土壌がもう、失せちゃってるから。今の若い世代は大変ですよね。

ネクストでぼくの芝居の主役をやってる男の子なんて、ごはんは食べない、寝ない、ぼーっとしてる。だけど、やらせるとすばらしくて、俺たちには考えつかないことをやったりするんですよ。そのことに対しては、謙虚に見つめられる老人でいたいと思うわけね。

だから、時代はやっぱり違うかたちで動いてて、裂け目ができてて、そこからちゃんと新しい芽が出てくるみたい、よ。

■公演情報

Bunkamura25周年記念『太陽2068』(2014年7月10日〜8月3日)

会場:Bunkamuraシアターコクーン

作:前川知大 演出:蜷川幸雄

出演:綾野剛、成宮寛貴、前田敦子、中嶋朋子、大石継太、横田栄司、内田健司、山崎一、六平直政、伊藤蘭 ほか

http://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/14_taiyo/index.html

その後も、『ロミオとジュリエット』(8月、彩の国さいたま芸術劇場)、シス・カンパニー公演『火のように、さみしい姉がいて』(作:清水邦夫、9〜10月、東京・大阪で公演)、彩の国シェイクスピア・シリーズ第29弾『ジュリアス・シーザー』(10〜11月、さいたま芸術劇場のあと、北九州、上田、大阪公演)と続く。

プロフィール

島﨑今日子ノンフィクションライター

ノンフィクションライター。京都府出身。新聞・雑誌等に数多く執筆。著書に『安井かずみがいた時代』(2013年、集英社)など。

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