2017.06.22
グローバル資本主義の中の「非営利」――「バーチャル政府」の意外な可能性
グローバル化とナショナリズムの狭間で
世界中がグローバル化とナショナリズムで大揺れである。英国がEUを離脱し、米国もトランプ大統領となって自国第一主義へ大きく舵を切った。フランスではテロが頻発するたびに極右政党がその存在感を強めている。いたるところでグローバル化と反グローバル化とナショナリズムが三つどもえとなって衝突している。
世界も迷っているのだ。どこへ向かうべきか道は見えない。世界的なナショナリズムの高揚は、国家(Nation State)という、世界を成りたたせている基本の枠組みが、グローバル資本主義に翻弄されて、かつてないほど弱い立場に立っていることの裏返しではないか。様々な問題が噴出しているが、それを市場も国家も解決できなくなっている。これから先は、グローバリズムだけでは足りない、ナショナリズムでも解決できない。何かが必要だ。それは何か。
この問題を考える上で、ひとつの補助線を引いてみたい。それが「非営利」である。「非営利」は、後に論じるように、営利でも反営利でもない不思議なあり方だ。慈善活動やボランティアを含むが、それに尽きるものでもない。どうやらグローバリズムや資本主義とも共存しているようだ。資本主義に対する真っ向からの反対ではなく、批判も含んだ共存や共生のあり方ではないか。しかしそのためにはいくつかの「条件」が必要だ。
本稿は、1990年代に米国の非営利セクター論を展開したレスターM.サラモンらの理論を批判的に再検討しながら、「非営利」概念がもっと拡大可能であり、それが意外な可能性を引き出すのではないか、ということを論じる。
冷戦後の世界で
1990年代初頭、東西冷戦が終結した後に残された大きな問題は、崩壊した巨大な社会主義国家の担っていた役割のうち、資本主義化できない部分を、どこがどう担うか、ということだった。国家は国家を直接支援することはできない(内政干渉になる)。そこで米国の民間財団等は非営利セクター研究者レスターM.サラモンらの主導により、民間の非営利セクターの育成とそれによる社会運営という手法によって旧共産圏諸国の支援に乗り出した。非営利セクターの育成は、旧社会主義国が資本主義と共存する方法として考えられた米国流のソリューションだったのだ。
この見方は9.11以後、楽観的すぎると批判されるようになった。しかし、世界的な格差社会の拡大や「福祉国家」の危機など、様々な社会問題の噴出にたいして他に有力な方法は見つかっていない。サラモンによれば、近年では、IT産業やグローバル資本主義の中で成功を収めた富豪たちが、この「非営利」という補助線をたどって「社会的インパクト投資」という手法を応用しはじめているという。それが米国流の「フィランソロピー」や「ソーシャルビジネス」であり、「米国流の福祉国家」なのだという。さらに米国では、「政府」と「非営利」が「バーチャル政府」を形成して問題の解決にあたる、そういう方法が動いているという。そこでは「政府」も「非営利」も、従来のような実体的な存在ではなく「バーチャル」なかたちで機能を果たす方向へと変化しているのだ。
もちろん「非営利」が根本的な解決策だとは思われないし、楽観的になりすぎるのも考えものだ。しかし、この補助線を引いてみると、今まで欠けていた何かが見えてくるのではないか。
グローバル化と格差社会への処方箋─ピケティとサラモン
貧困や格差など、様々な福祉課題は、かつてなら「福祉国家」という枠組みの中で解決がはかられたはずだ。ところがグローバル化によって国境や国民という概念が溶解しはじめるとこの枠組みが機能しなくなる。こうした世界的な格差問題への解決策として、近年、もっとも注目されたのは、フランスの経済学者トマ・ピケティの『21世紀の資本』(原著2013)である。この中で、ピケティは世界的な経済格差拡大の原因を、所得よりも資産の格差に求めている。所得以上に資産の生み出す富が大きくなっているからだ。そして、この問題への究極的な解決策として「世界規模での資産課税」を提案している。
この解決策の評価は、分かれている。所得ですら正確には補足困難なのに、資産を世界規模でとらえて課税できるものだろうか。そのためのグローバル課税には現在の国家以上の「世界国家」がなければ不可能ではないかという批判である。だが現実には困難でも、理論的には正しいところを突いていたのではないか。
サラモンの「非営利セクター論」や近年の『フィランソロピーのニューフロンティア─社会的インパクト投資の新たな手法と課題』(原著2014)に注目したい。これは一見、ピケティの議論と無関係に見えながら、じつは同じ問題関心を、米国流に反転させたものと考えられる。しかしサラモンの議論は、ピケティとは異なる米国流の価値観を前提にしている。まず、巨大で強大な国家は認めない(社会主義や共産主義、ましてや世界政府などもってのほかである)。ついで、政府ではなく、民間の自由な活動による社会問題の解決こそが望ましい。自由な資本主義のもとで自由に経済活動を行い、その結果、資産を増やしたら、その富を社会を改良するために有効に使いたい、というのが米国流のグローバル資本主義が選好する社会問題の解決方法なのだ。
この「米国流」の「自由」の条件を満たしながら、世界の社会問題を解決していく道を考えると、「社会起業」や「ソーシャルビジネス」、その発展型としての「社会問題解決型の社会的インパクト投資」などがあげられるだろう。国家による問題解決は、米国の価値観に合わない。ということは、グローバル化する資本主義にも合わないだろう。つまりピケティ方式でない方法が必要なのだ。
非営利はどこから来たのか、どこへ行くのか?
そもそも「非営利」とは何なのか。考えると謎だらけだ。営利の否定なのか、市場と経済の否定なのか、社会主義に回帰しようという試みなのか、つまるところ資本主義の否定なのか。
そうでないことは明らかだ。非営利セクターは、資本主義の中心となる国々でこそ大きいからである。ちなみに資本主義の中心であるニューヨークは、巨大な非営利団体の本部が集結する中心地でもある。米国だけでなく現代の先進資本主義国では、どこもボランタリーセクターや非営利セクターが大きくなっている。アフリカや中東、アフガンなど貧困と紛争の頻発する地域などで活動する多くの団体がNGOなどの「非政府」組織としてその活動が注目されている一方で、資本主義の中心には「非営利」が大きく存在するのだ。
では「非営利(Non Profit)」というシステムは、いったい、どこで生まれたのだろうか。それは間違いなく資本主義の中心地米国からである。非営利セクターの歴史を研究するハーバード大学のピーター・ドブキン・ホールによれば、「非営利」という考え方は、米国東海岸のマサチューセッツ、なかでもボストンや、同じく東海岸のフィラデルフィア周辺から歴史的に展開してきたという。これは米国における資本主義の発祥地と同じだ。これまで「非営利」は、近代資本主義の矛盾に反対し、対抗するために生まれてきたと考えられていた。しかしホールは、歴史的にみると米国の資本主義でもっとも成功した人たちの中から「非営利セクター」が生まれてきたことを論証している。
だとすれば、奇妙なことではないだろうか。営利を合理的に追求する資本主義の、その中心から「非営利」が生まれてきたことになるからだ。米国では資本主義と非営利という一見したところ正反対のものが生まれ、ともに発展してきた。しかも敵対するのでなく相互に結びついている。
こうして見ると、米国由来の「非営利」は、どうやら反・資本主義でも、反・経済でもなく、むしろ資本主義の発展とともに展開してきたようだ。そして今、グローバル資本主義の発展とも、うまく共存している。
「非営利」の不思議──なぜ必要とされるのか。
では米国における「非営利」とは、いったいどのような活動なのか。米国における非営利組織とは定義上「合衆国税法のもとで、免税資格ないし非営利としての地位を獲得している諸団体の広範な種類」のことだ。商工会議所から葬儀費保険組合、相互保険会社さらにはコミュニティ開発団体にまでおよぶ20種類以上の様々な免税団体が定められている。「非営利」を定義しようとすると、とてもしつくせないので、税を免除される団体として、このように消極的に定義されるのだ。
サラモンは、この非営利組織の特徴を次の5つにまとめた。第一に正式の組織であること、第二に非政府であること、第三に利益を配分しないこと、第四に自己統治していること、第五に自発的であること。さらに国際比較のために、非宗教組織であること、非政党団体であることが加えられることもある。
ではなぜ「非営利」が必要とされるのか。サラモンらの説明によれば、非営利セクターが必要になる理由は主に3つある。第一は「政府の失敗」、第二は「市場の失敗」、第三が「ボランティアの失敗」だ。
「政府の失敗」は次のように説明される。税で運営される政府は、公平・公正・平等の原則のため、平均的で最小限のサービスしか提供できず、現代社会の多様化するニーズに対応できない。そこを埋めていくのが非営利だという考え方だ。「市場の失敗」では、保健・医療・福祉・文化・教育などの領域でサービス提供者と消費者との間で「情報の非対称性」が生じる。つまり情報の真偽や価格の妥当性が、正しく評価されにくく、供給側の論理で市場メカニズムが動いてしまう。それは社会的弱者や情報弱者にとっては致命的なことだ。ゆえに価格や市場メカニズムに左右されにくい非営利が必要となる、ということだ。「ボランティアの失敗」も重要な考察である。ボランティアは、個人の価値観や自発的な意志で行動するため、社会サービスの提供主体としては不安定だし、大きく抜け落ちてしまう領域も生まれてしまう。そこでボランティア以上の組織性や継続性、客観性をもった非営利組織が必要になるという。
そして非営利セクターが果たす社会的な役割や機能は次の4つだという。(1)公共サービスの提供 (2) 価値の擁護(Value Guardian) (3) アドボカシー(Advocacy/Problem Identification) (4)ソーシャルキャピタル・コミュニティ形成機能(Community-building / Social Capital)である。
このように、サラモンは「非営利」の存在理由を、目的からではなく機能として説明している。「政府にできないこと」「市場にできないこと」そして「ボランティアだけではできないこと」を行うためだというのだ。このように、公益とも公共とも違う、もうすこし曖昧で、もうすこし広い概念。それが「非営利」なのだ。
それは「営利」を諸手を挙げて「肯定」しているわけではないが、必ずしも「全否定」するものではない。いわば批判しながらも、二重否定のようなかたちで肯定しているのだとも言える。それは資本主義と共存するために細心の注意を払った関わり方なのだろう。
「非営利」の存在条件──「第三者による政府」あるいは「バーチャル政府」
米国におけるこのような「非営利」の展開は、なぜ可能になったのか。重要なポイントとなるのが「政府」のあり方だろう。サラモンによれば、米国の非営利セクターは、一般に考えられているのとは違って、民間の寄附によって中心的に支えられているわけではない。意外なことに「政府」との協働により成りたっている部分が大きいのだという。「行政府とNPOとの協働」? それならば、日本がやっていることと同じではないかと思う方もいるかもしれない。ところが違うのだ。次にそれを説明しよう。
サラモンは、政府と非営利組織とが協働して社会サービスを提供する米国流のシステムを「第三者による政府」(Third Party Government)と名付けている。この場合の「政府」の役割は、直接サービスを提供することではなく、法や制度によって定められた社会的な資源を、サービス提供者に提供することだ。「政府」が「事業者」としてのNPOを使うのではない。ともに協働して「第三者による政府」つまり「サード・パーティとして政府」を形成することなのだという。そこには経済的な資源だけでなく、非営利組織への様々な制度的な支援なども含んでいる。一見したところ「福祉国家」ではないように見えながら、それこそ「米国流の福祉国家」なのだという。
要点を理解するため理論モデルで考えよう。日本流だと、民間非営利組織は政府や行政の「アウトソーシング」先、つまり「業務委託先」のように位置づけられる。したがって行政府にコントロールされ、行政府の下位に位置づけられる。米国流では、政府と非営利組織が協働して「第三者」になって「政府」を代替しながら社会サービスの提供を行う。それは行政府や民間というそれぞれの立場よりも一段階上の次元(「第三者」の次元)に上向することだ。日本でも米国でも、サービス提供が行われている場面だけ見ると、そこに違いはないように見える。しかし、その「協働」が、行政府に従属した「下位」を生み出すか、上向した「第三者」を生み出すかに、大きな違いがある。
なぜこのような違いが生まれるのか。歴史的な理由もある。米国では、行政府こそ民から「業務委託」される存在である。行政府も民間非営利組織も、理論的には、住民から付託された業務を共同で果たしていることになる。もちろん実際には、日本と同様、行政による法令監査や上から目線での命令が行われること等も多々あるだろう。しかし、このような本質的な理論がバックボーンとして存在するのが米国の非営利セクターの強みなのである。
この理論を、サラモンは、近著では「バーチャル政府」とも呼んでいる。この用語法のほうが、さらに現代的に理解しやすいのではないか。「バーチャル」とは「組織の実態は別々でも、仮想的に統合された機能を果たす」ということだ。行政府もNPOも、組織としての実体は別ものだが、社会福祉サービス提供の場面では、バーチャルに協働して機能を果たしている。いわば「仮想的」に統合されている。これは、日本の行政府とNPOの関係と、どう違うだろう。たとえば「社会福祉法人への委託」や「指定管理者制度」とは似ているようで似ていない。なぜなら、日本の場合には、仮想どころではなく、リアルなまでに組織の壁は厚く、協働とは名ばかりの上下関係(発注者と事業者の関係)となってしまうことがほとんどだからだ。そうなると行政府ともNPOとも違う第三の次元の創造的な活動が生まれる可能性は蒸発してしまうのではないか。
かつて日本でも組織間の「ネットワーキング」が流行語のように言われた時期があった。しかし現実の組織の縦割りや上下関係の厚い壁の中で、多くの場合にはお題目で終わってしまったのではないか。その意味で、日本における「第三者による政府」や「バーチャル政府」という概念には「失敗」の既視感がある。しかしそれだけに、様々な可能性を考えさせるのだ。
「バーチャル化」───平凡な発想の中の意外な可能性
最後に、日本への示唆について考えておこう。
第一に、このままグローバル化が進めば、「政府」の役割は福祉に限らず社会全域にわたってその必要性を増すにも関わらず、現実には小さくなっていくだろう。税率をあげると資本や企業は海外に流出する。ナショナリズムが世界各国で高揚しているが、それとはうらはらに世界は「小さな政府」へ向かっているのだ。それにくわえて少子化や高齢化も進んでいく。そうなると自国民と自国内に限定した「福祉国家」政策を今まで通り維持することは困難になるのではないか。どうすれば良いか、世界中が頭を悩ませている。
本稿では、ピケティの世界規模での資産課税のような政府機能の拡大や強力化の提案にたいして、サラモンの民間非営利セクターとの協働による「バーチャル政府」という提案を対置してみた。日本は、そのどちらでもない。グローバリズムの流れに乗りながら、社会保障の水準を切り下げていこうとしているが、非営利セクターを拡充・拡大しようとはしていない。公益法人や非営利法人への「政府」による管理や監督をより強力にして合理化や法令遵守をはかろうとしているが、これでは非営利セクターは萎縮して縮小するばかりだろう。米国の「バーチャル政府」化とは真逆の行き方だ。このままでは手詰まりになるのではないか。
第二に、サラモンの注目する社会起業家や「フィランソロピー」への期待にも問題があろう。日本ではまだ大きくは目立たないが、世界を見渡すと、政府でも市場でもない方法で、社会問題を解決しようとする方法への期待は大きくなっている。「政府」にたよらずビジネス手法で社会問題を解決しようという、その受け皿が米国では「フィランソロピー」や「ソーシャルビジネス」なのだ。しかしこの方法には問題がある。ボランティアと経済投資とは、行為者や投資者の主観的な意志に左右されるという点で、じつは根本的に似ているからだ。サラモンの言う「ボランティアの失敗」はそのまま「フィランソロピーの失敗」や「ソーシャルビジネスの失敗」にも通じるだろう。この問題をどう解いていくか。サラモンは社会的投資仲介機関やフィランソロピーへのアドバイザー機能などに期待を寄せているが、まだ十分な答えではない。
第三に、それでもグローバル化の中で増大する問題や課題に対処していくには何が必要だろうか。
サラモンの言う「バーチャル政府」の方向性は、一見平凡なものだが、じつは考えさせる示唆に富んでいる。発想そのものは、斬新でも新鮮でもない。ネットワーキングや協働(パートナーシップ)など昔から言われてきたことに類似している。でもその実現は難しかった。なぜか。もうひとつ、決定的な何かが、足りなかったのだ。
これまでの「ネットワーキング」概念のように組織間関係の組み替えによる仮想的な連携や協働では、仮想化は、あくまでも仮想化のレベルにとどまる。このままでは、かつてたどった道と同じことになろう。「政府」がバーチャル化するだけでは十分ではない。ボランティアやNPO、社会福祉法人や様々な民間非営利セクターもまた、バーチャルなレベルで活動できるようになることが必要だろう。仮想化は相互に仮想化することが前提だからだ。
そして、さらにその先がある。それは、協働して目指すその先の目標が必要だということだ。目標の先の目標、つまり米国流の「第三者による政府」という概念に含まれているような、より次元の高い目標が必要なのだ。二次元平面上でのネットワーキングやバーチャル化だけでは、結果も二次元平面にとどまってしまう。それでは縦割りや上下関係の壁は越えられない。さらに上へ突きぬけ、第三次元をともにめざそうとする協働の意志のようなものが必要になる。それはいかにして可能か。それこそ「バーチャル政府」というシステムを実質的に動かすための基礎条件になるのではないか。
グローバル化によって現状の「福祉国家」が追いつめられ、小さくなり、行方が見えなくなっている現在こそ、当面の目標の「その先」の目標が必要になってくる。「バーチャル政府」や「バーチャル非営利」という、ある意味では平凡な発想のその先に、意外な可能性が秘められているのではないか。
参照文献
レスターM.サラモン『米国の「非営利セクター」入門』 (入山映訳、ダイヤモンド社、1994年)
────『NPO最前線 – 岐路に立つアメリカ市民社会』(山内直人訳、岩波書店、1999年)
────『NPOと公共サービス─政府と民間のパートナーシップ』(江上他訳、ミネルヴァ書房、2007年)
────『フィランソロピーのニューフロンティア─社会的インパクト投資の新たな手法と課題』(小林立明訳、ミネルヴァ書房、2016年)
Hall, P, D, 2006, “A Historical Overview of Philanthropy, Voluntary Associations, and Nonprofit Organizations in the United States,1600-2000”, Powell, Walter, W, & Steinberg, Richard, 2006, The Nonprofit Sector: A Research Handbook, New Haven and London; Yale University Press,pp.32-65.
プロフィール
安立清史
九州大学大学院人間環境学研究院・教授(共生社会学講座)。1957年、群馬県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。日本社会事業大学助教授、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)客員研究員を経て、1996年から九州大学文学部助教授、2010年から現職。その間、2000年、ジョンズ・ホプキンス大学にてNPOを研究。2005年、ボストン・カレッジ客員教授。2016年、ハワイ大学社会学部訪問研究者として米国のボランティアとNPOなどを研究。著書に『福祉NPOの社会学』(東京大学出版会)、『介護系NPOの最前線』(共著・ミネルヴァ書房)、『高齢者NPOが社会を変える』(共著・岩波ブックレット)など。