2012.01.20

制度改正論議にみる介護保険制度の欠陥

本間清文

福祉 #介護保険#ヘルパー#ケアワーカー

バッシングされる「生活援助」

介護保険制度の訪問介護サービスに「生活援助」といわれるメニューがあります。一人暮らしの老人や、同居家族がいても障害、病気などの理由により家事などができない場合に受けられる援助です。

この「生活援助」、数年毎に国の社会保障審議会で行われる介護保険制度の改正論議の度にバッシングされます。やれ「給付の効果がなく、かえって老人の自立を阻害している」とか、「重度者や医療ニーズの高い高齢者にサービス(給付)を重点化すべきであって、生活援助は介護保険制度のサービス内容から外すべきではないか」などの意見があがります。

それに対し、実際の現場の必要性はどうなのか? 当のユーザー当事者は80~90代の老人が大半ですから、なかなか社会に対して自らの声を上げることはできません。そもそもその年頃になると、もう大体はみなさん、どこかしら耄碌(もうろく)されていたり、認知症があったりされます。新聞やメルマガへの投稿などはとてもできない方々です。ですから、そういった在宅での老人の困り事などは表面化しにくい。

一方で、平成24年4月から改正される介護保険に向けて、ここしばらくの間、審議会などでトータルな議論が重ねられてきました。そして、やはりここでも、生活援助が給付削減のターゲットにされ議論されました。医療費(とくに長期入院、社会的入院)などを削減するために、もっと安く済む「介護保険制度上の医療系サービス」にソフトランディングできるような制度をつくりたい。そのためには、福祉的かつ生活面での(医療に関係のない)サービスは介護保険から外したい。そんな思惑がありありと浮かんで来ています。

そのような論調を後押しするために、今回、国がだしてきた調査資料に、生活援助の分析資料がありました。

その資料には「生活援助の報酬区分・行為ごとの平均サービス提供時間」として、「掃除27分」「ベッドメイク7.9分」などと、個々のサービス行為に対する平均所用時間が書かれています。そして、それら集計データを総合的に判断した結果、「現行の生活援助の時間を更に短縮(=介護保険費の削減)するのが適当ではないか」という結論を導きだしたのです。

これに関し、わたしは訪問介護のサービス(またはケアそのもの)を「オムツ交換」や「掃除」「洗濯」などと行為別に区分し、その行為別の所用時間を計測し、分析していくという手法に非常に違和感を覚えました。「行為」という言葉には介護者やヘルパー、つまり「援助者側の概念」としてしか介護をとらえていないことが読み取れますし、ヘルパーの行う生活援助とは決して行為ごとに細分化されるような一面的なサービスではないからです。

ヘルパーの行う「生活援助」の専門性とは

ヘルパーの場合、一口に掃除といっても、たとえばキッチンの残菜からは本人がどんなモノを食べたのか、食べなかったのかを観察します。在宅老人は食事をまともに摂らず低栄養状態の方が非常に多いのが実情です。また、いくらの食品を買ったのかという経済状態も分かります。賞味期限の管理ができているか、腐らせていないかなど管理能力なども見えてきます。嗅覚が弱り、食品を腐らせる人も非常に多い。加えて、吐物を発見することもあり体調面での観察も行います。

そして、どのようなものを食べ、どのような生活(活動や服薬)をしているかが「排泄」につながってゆきます。なぜなら運動量が少なかったり、野菜が取れていない老人はどうしても便秘がちになりますし、その便秘を解決しようと多くの老人が下剤を処方されている。その結果、下痢便で便器を汚すことが多い。便秘に薬が関係していることもあり、トイレの掃除も本人の体調を把握する観察材料になってきます。

さらに、その排泄物で衣類が汚れます。老人は下痢でなくても日常的に尿や便を少し漏らすことが多く、その観察が体調把握につながっていく。洗濯物の量からは本人の着替えの頻度や衛生保持の管理能力が分かりますし、入浴頻度も見えてきます。居間の掃除からは、本人と信頼関係にある友人などからの手紙を通して人間関係のアセスメントができますし、一般のゴミ、前回訪問時に比べ移動したモノ、その他の私物から本人の「人生」がそのものが見えてきます。

デイサービスなどでは身奇麗にして他所行きの顔をしている老人も、一歩、家のなかへ入ればまったく別の(多くが、貧粗な)生活をされている現状があからさま。医師が人の皮膚の色や心音、血流音など様々なものを観察し人体のアセスメントをしていくのと同様に、ヘルパーの掃除は私物を通して本人の生活そのものをアセスメントすることと同義ともいえるのです。

もちろん、「観察」するだけで終わるわけではありません。そこから老人とヘルパーとの駆け引きが始まります。単純に「食べ物が腐っていたけど、どうしました?」と聞く場合もあるでしょう。あえて、別の話題を投げかけ本人の様子を見る場合もあるでしょう。目の前の老人と対峙しながら、老人が「いまの状況をどうとらえ、どうしようと考えているのか。どういう働き掛けをすれば老人の生活が改善されるのか」。そんな本人の意向を探り、どうすれば事態がよい方向へ向かうのかを、(自然な会話のなかで)模索し、支援を進めていく。

家のなかを観察したり、本人の自立支援にアプローチするのは何もヘルパーだけの特権ではありません。ケアマネジャーとて家庭を訪問しますからある程度のことはできます。しかし、その奥深さが違う。なぜなら、ケアマネジャーには、そこまで私物に密接にアプローチしていくだけの時間的余裕もない。また、私物を用もなくジロジロ他人に見られたりいじられるのは不快感を伴うものですから、普段から身近に接しているヘルパーが掃除の際にさりげなく行う生活場面でのアプローチがもっとも適しているといえます。

つまり「掃除」という一見、単純に「モノ」へアプローチしているだけのようなケアも、すべてが本人の生活を軸にしてつながっており、本人らしい自立支援を行うには生活を総合的に見ていかなければならないということなのです。「掃除」「洗濯」などと分断された行為は決して生活援助ではない。「私物」という観念もなく機械的に行われる掃除は、ある日、突然、ホテルや旅館の掃除婦さんが私宅にやってきて、猛烈な勢いでシーツを引き剥がしたり、自分のことを何も知らない人たちが代わる代わるやってきては、私物を整理整頓する(といいつつ置き場所を勝手に変えたりする)ようなルームメードサービスと同じ(大学研究者なら、「私物」を研究室の資料や書籍と読み替えてください)。それでは、老人の自立を支援するどころか、尊厳を踏みにじり、自立心を低下させかねません。ひいては、生活援助の援助機能を低下させ、ケアワーカーからは仕事のやりがいを取り上げ、さらに離職率を高めることにしかなりません。

ケアする者とケアされる者との相互行為

ではなぜ、制度改正論議の度に、現場の感覚とはかけ離れた的はずれな議論が再燃するのでしょうか。

介護の現場に携わってきたものの実感として、厚生労働省や介護保険制度、そして制度構築に関わる学識者、有識者たちの「介護観、ケア観」そのものに誤りがあることが原因なのではないか、とわたしは考えています。いえ、確信といってもよいかもしれません。ひとつ例をあげて説明しましょう。

わたしが特養ホームでケアワーカーをしていたときのことでした。ホーム内には認知症の方がとても多くいらっしゃいました。認知症の方は非常に不安感を抱かれることが多く、そこから興奮状態に陥ったり、思考の混乱に陥る方がいます。そのようなとき、ケアワーカーがケアとして老人の話を傾聴したり、スキンシップを取ったり、その人にあった方法で本人の混乱を鎮めることはあるのですが、それと同等に頻回にケアワーカーが行うことがありました。それは他の相性のいい老人に来てもらって、不安そうな老人の話し相手をしてもらうということでした。

この場合、誰に来てもらってもいいかというと決してそうではありません。たとえばトメさんいうおばあさんがいたとしたら、トメさんと相性のいいおばあさんが必ずいます。仮にスミさんという方にしましょうか。ケアワーカーはトメさんと相性のいいスミさんに声かけして、トメさんの話相手になってもらうのです。すると、なんだか二人はとても落ち着いて時間を過ごせるようになります。当然、二人とも認知症が進んでいて会話は成立していません。でも、スミさんも一生懸命、トメさんの話に耳を傾けます。トメさんも何だか分らない自分の不安をスミさんに受け止めてもらっていることを感じているようです。

ケアワーカーがそのような場面でトメさんの不安の訴えを聞いたとしても、どこかで「他の業務」や「時間的余裕のなさ」などが邪魔をして、真剣に耳を傾けることができなかったりしますが、認知症の老人同士で相性がいいときには、ケアワーカー以上に老人は能力を出せる場面があるのです。

このような場面はデイサービスなどでも頻繁に見られます。デイサービスでは、さらに関係性が高度で複雑になることが多く、だらしない格好をした方が背筋をシャンと伸ばしていたり、普段はやらない体操などを周囲につられて行ったりしています。専門的には、これらはグループダイナミズムなどと言われたりもしますが、それほど難しく考える必要はないでしょう。それは、わたしたちも普通にしていることだからです。たとえば、四六時中、誰とも口を効かずいると、なんだか他人と話すのがおっくうになったり、魅力的な人の傍にいるとこちらまで気分が浮き浮きしてきたりします。それは、人が社会的な関係のなかに生きている存在だから、人との関係性に影響されるのです。

認知症老人も忘れっぽいこと以外は普通の人間と同じですから、社会性にはとても影響されます。また、自身も他人に影響を与える存在になりえます。つまり、認知症老人にもケアする能力はあるし、他人に対して社会的な存在足りえるのです。

病棟内の病室にいる患者は世間から隔離され、社会性を剥ぎ取られた、医療を一方的に受ける立場としてしか存在しませんが、ケアは決して一方的に「行為」を受けるものではない。いえ、むしろ、主体性を失いかけた老人に主体性を取り戻してもらえるような声かけや働き掛けを行うことこそが、ケアの特徴でもあるのです。

ケアの持つこのような双方向性について、上野千鶴子氏は『ケアの社会学』(太田出版)前半の「ケアの定義」において触れ、「メアリー・デイリーが編集したILO刊行の“Care Work”[Daly2001]の執筆者達が用いている「ケア」の定義を採用する」とした上で次の定義を採用しています。

「依存的な存在である成人または子どもの身体的かつ情緒的な要求を、それが担われ、遂行される規範的・経済的・社会的枠組のもとにおいて、満たすことに関わる行為と関係。(p39)」

他の研究者たちがケアの定義を「一方的」なものであるとしたのに対し、上野氏は「行為と関係」として、双方向性を持つことを述べました。つまり、ケアは一方的に提供されるものではなく、「ケアする者とケアされる者との相互行為」だとみなしています。これが現場の実践にもとづく実際の介護により近いものです。ケアを一方的に提供する行為と一義的にみなすことは、かえってケアを表面的なものとし、質の低下につながっていくものとわたしは考えます。

誰のための介護保険制度なのか?

ケアを一方的に行われる「行為」とみなし、それに掛かる時間を導きだすという分析手法はいまに始まったことではありません。それはさかのぼれば介護保険制度の入り口部分である、要介護の認定システムから採用されています。

ここで要介護認定システムについて少し説明しますと、それは老人が介護保険の給付を受ける際に、聞き取りやコンピューターなどを使って老人を7段階に選別し、その段階ごとに保険の給付上限を設定するというシステムです。その段階を決定する際に、一人の老人の生活にどれくらいのケアの時間が必要とされるかを、「介護の手間」という時間数を割り出すことで決定していきます。その時間数を割り出す手法として、先のケア行為を細分化し時間を計測していく手法が取られました。以下が、その分析手法の原型がかたちづくられた経緯の概要です。

「介護施設の「職員の仕事を記録し、その必要性を教えてもらい、さらに、1つ1つの介護にかかった時間を記録しました。1分間スタディという手法です。

たとえば、排泄介助を、45「トイレ(ポータブルトイレ含む)までの移動」46「車椅子から便器、便座への移動介助」47「便器・便座から、車椅子への移乗介助」48「排尿動作誘導」49「排尿時の見守り」50「排尿後の後始末」というように分解して、ケアの組み合わせを考えていきます、いちいち文章を書くのは大変なので、介助行為1つ1つにコード番号をつけてゆきました。これが、要介護認定の基礎固めとなったケアコードにつながりました。

このシステムがどのように作られたのかといいますと、一定期間、調査員が施設のケアワーカーに四六時中、密着しすべての行動をタイムカウントしていきます。そして、施設で行われているケアのすべてを323のコードに分類」し、最終的に7~80項目の調査項目が形成されたのです。」(*1)

(*1)「物語・介護保険」大熊由紀子著:web上では、コード番号の分類が画像で貼り付けてあるだけで見づらいため、その画像上の文字をテキストに筆者が変換しております。http://www.yuki-enishi.com/kaiho/kaiho-30.html

上記からは介護保険制度がその設計段階から、「ケア」を介護者が要介護者に対して一方的に提供する行為の集積だとみなす思想が読み取れます。

むろん、この方法論でうまく認定されれば問題はありません。しかし、このシステム、認知症の方などの判定時にうまく判定されないという声が少なからず出ています。最近では2009年に「認定結果にばらつきがある」という理由でシステムに修正が加わられました。しかし、現場との乖離がますます大きくなり、2010年には「認知症の人と家族の会」が要介護認定のシステムを廃止するべきだ、という提言をだすまでに至ってしまったのです。

要介護老人の大半を占める認知症老人と、老人を在宅で介護している家族会から「ノー」をつきつけられた認定システム。これでは、誰のための介護保険制度なのかと疑問を持たれても仕方がないのではないでしょうか。

とくに、介護の負担感や介護に要する手間の振幅が、いわゆる「元気痴呆」とかつていわれたような認知症の方には大きく働きます。彼らは「どんなケア(行為)を受けたか」よりも、「誰と一緒に過ごしたか」「誰からケアを受けたか」というような人間関係の方が介護の内容を左右することが多々ある。ゆえに、認知症ケアでは家族がやるよりも他人が介入する方がうまく行くことが度々あったり、その逆の場合もあります。認知症者を介護する家族にとっては、ひときわ介護保険制度の制度設計がそぐわない面が出てくるのだろうと考えます。

以上、介護保険制度をめぐる多くの問題の本質は、制度が「介護とは何か」「ケアとは何か」という根本理解の次元で間違いを犯していることにあると考えます。要介護認定システムや生活援助を議論する際に資料提供されたケアコードや細分化された援助行為という発想が、介護を「単純作業の集積化したもの」のように捉え、実際の介護とかけ離れてものにしてしまっていると思うのです。しかし、介護・ケアは提供者から一方的に提供される行為でもなければ、「行為別」に時間やお金に置換できるものではない。その認識から再構築しなければ、いつまでも制度と現場の乖離やこじれはつづいていくものと考えます。

*本文中では「介護」と「ケア」は同義として使用しています。

プロフィール

本間清文

介護福祉士。ケアマネジャー。広島大学総合科学部卒業。新聞社から福祉業界へ転身。特別養護老人ホーム、デイサービス、在宅介護支援センター、社会福祉協議会等を経て単独型の居宅介護支援事業所開設。現場実践を赤裸々に綴っていたブログなどが関係者の目に止まり、以後、業界メディア、一般紙、書籍などへの執筆や研修依頼が増加。地域ケアマネ部会副会長などを経て、ケアに関する総合研究所「ソーシャルケア研究所」を開設。現在に至る。著書に「介護の現場がこじれる理由」「教科書が教えてくれないケアマネ業務」(雲母書房)など。

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