爆音のもとで暮らす──沖縄・普天間における「選択」と「責任」

2-3. 地域社会の複雑さ

 

──まわりの人もみんな我慢してるんですか?

 

そうなんです。あのね、ご近所さんと音の話は、最初気軽にしてたんだけど、どんどんできなくなってきてるんだけど。

 

いちばん仲良しの隣の方は、軍で働いているんだよね。そう。で、だから、子どもたちととっても仲良しなんだけど、下の子は、うるさいねって言ったら「超うるさい!」って言うわけ、ふつうに。でも上のにいちゃんは、お父さんのことよくわかってるからと思うんだけど、ちっともうるさくないよって言うんだよね(笑)。

 

 

──へええええええ

 

そう。だからね、なんか、話しちゃいけないのかあって思って。だからね、下の子とは、やだね、とかって言ってるんだけど。

 

 

──そのひとは仕事があるから基地の近くに住んでるんですよね。まわりのひとはどういう経緯で

 

あ、隣の方は移住者で。内地の、うん、移住された方で。だから、やっぱり普天間がこうなってるのはわかんなかったって言ってた。あっちも、蛍すごいよねっていう話して(笑)。こんなとこあるんだってわかって。そうそううちもそう思ったみたいな、(この土地の良い点の)話(だけを)してるんだけど。

 

ななめ向かいの方は、おばあちゃんなんだけど、嘉手納から、ほんとに、(嘉手納基地の騒音がひどくて)どこでもいいから嘉手納から出たいって言って、ここの中古が出てたから、ここなら移れるっていって移ったら……「うるさいよねえ…」って。ほんとになんか、嘉手納でやられて、いまでもオスプレイ飛んだときとかはもうほんとに、「はあ……」って言いながら。

 

もういっこ、あのね、地域のひととどんどん話せなくなった理由なんだけど。知事選のあたりすごいポスターが貼られてたわけ。知事選の前か。まだ残ってるんだけど。どこの主催ともなんとも書いてなくって、宜野湾市民会館に何月何日あつまろう、参加は良いことですって、書かれてて、それがバーって近所に貼られて、で、それでね、さっき話した、お花をたまに盗みに来るけどいい話をするおばあちゃんがいるじゃない。そのおばあちゃんの隣のおうちは、すごい畑の作業を一生懸命するおばあちゃんがいて、私はそのおばあちゃんが大好きなんだけど、そのひとはね、なんかね、普天間から基地は出ていけっていうのぼりを、大量に立てたわけ自分の畑の前に。で、辺野古推進って揚げたの。その、働き者のおばあちゃんは。

 

 

──辺野古推進??

 

そうそう。辺野古の基地を推進するって、言葉ちょっと忘れたんだけど。

 

 

──じゃあ、普天間から出て行って、辺野古に行けっていう意味で。

 

そうそうそう。のぼりは、知事選前に掲げて、て、(当時の知事の)仲井真さんが(選挙に)おちた翌朝、すべて撤去されてました。

 

その、お花を盗むおばあちゃんと、働き者の(のぼりを立てた)おばあちゃん、おうちも隣なわけ(笑)。なんかほんとに、ほんっとになんかね、辛かった。なんかもう、毎日毎日ね、朝それ見て。近所の子もそういうふうにして、言えないのを見て。どんどん話せなくなるなあって思いながら。なんか今ね、すごくなんか辛い感じがある。

 

 

2-4. これから

 

──大変ですねえ……。慣れると思いますか? これから

 

うーん。難しいよね。生活だから慣れるとも思うし。だいたい、飛びどころとか、空をみて天気をみて風向きみたいなのを感じて、今日は飛ぶ日だなとかって、どっかでちゃんと覚悟して、1日をはじめたりするんだけど。

 

だけど、そういうふうにして最初の1年はすごいこう、腹づもりを作らないと、なんていうのかな。身がもたないっていう感じがあったんだけど、いまそこまで腹づもりみたいなものをしないでも、生きてられるんだよね。生活はできてしまうので。

 

すごい最初はね、喧嘩とかして、へんてこダンスみたいなものを踊らないと(笑)、なんか楽しく、楽しくっていうか、なんかちょっと、笑えなかったのに、いまは、(それまでは)他のことができなくなるくらい(軍用機が)飛ぶっていうこともあるんだけど、(いまでは)それをやらないでも暮らせるから。それを慣れというなら慣れなんだけど。

 

でも、怒ってはいる。怒ってる。普通に暮らしたいだけなのになんで?って。うん。

 

 

──自己責任で片付けるひとおるでしょ。あれどう思いますか?

 

うーん……。そうだよね…。なんかね、うーん。まあ、最初は悲しくなってたって感じかな。

 

選択の可能性はもちろんあるわけだから、そういった意味では、なんでそこを選んだのかっていうことは、言えてしまうとは思うんだけど…。いろいろな条件のなかで、私たちだったらひとり暮らしの母もいて、介護も間近になりそうだとかっていう状況があって、仕事も続けていかないといけなくて、そしたら、高速エリアっていうのはやっぱり最重要ポイントだったんですね。

 

だからそういうこととか、猫のこととかを考えたら、みたいな感じの、そういう選択のしかたのなかで選んだんだけど。そういうことで住みたい場所、住みたいと思って(ここに住んだのに)、生活がほんとに辛いというか、理不尽だなあと思いながら生きるのは……。なんていうのかな、お空の管理まで私はしようがなかった、っていう感じかな。

 

 

──そんなにそこまで考えずに、普通は家を買いますからね。

 

ていうかもっとさ、地続きのことで考えるじゃない、土地のことって。なんか、地べたのことで考えるというか。だから、歩いていて気持ちがいいかとかさ、高速までどれくらいとかさ、お店行きたいと思ったときにどれくらいかみたいな、そういうことで考えていて、上空をみたらものすごい飛んでるっていうのが。そして(オスプレイが新たに配備されて、さらに)どんどん飛ぶようになってしまうっていうのがあって。

 

で、それは暮らしてみるまではちょっとわからない。沖縄ってね、どこでもほんとに飛行機(軍用機)は飛んでるから、暮らしてみるまではわからないぐらいのものがあって。それは、自己責任だと言われると……やっぱりそれは私たちの責任かなあ、って思ってるんです。

 

 

──あの、ある作家が、金目当てだって言ったでしょ。あれどう思った?

 

苦笑、爆笑(笑)。なんでしょうね、何でも言うなあ、って思った。なんかあの、暮らさないとわからないことだとか、生活しているひとたちにとっての生活のリズムとか、そういう論理でしか生活は成り立ってないじゃない? だけど、沖縄のこととか普天間のこととかそういう論理で見ないひとたちって、大量にいるじゃない。

 

で、そういうひとたちにとってみれば、ここはあれだよね、生活者がいる場所じゃないよね。だから、そういうときに、なんか何でも言えて、言葉だけで暮らしのことを言ってしまえるみたいな感じ。また、これに飛びつくひとが大量に(出てきた)っていうのが、うーん。どうしたらいいのかなあっていう。

 

 

──これからどうしますか。まだ考えてない?

 

うん、暮らし続けるつもり。意地もあるのかな。ちゃんとずっと怒ってようとは思ってる。生活するために買った土地で、生活するために建てたお家だから。生活にとってはすごくメリットがあると思って、なけなしのお金をはたいて作った場所だから、移動がそもそもできないよね。だからここで住み続ける。

 

 

3. 結論──爆音のもとでの選択と責任

 

以上、Wさんの生活史を、おもに普天間へ移り住んだ経緯や、そこでの暮らしを中心に語ってもらった。Wさんの生活史を考えるまえに、普天間をかかえる宜野湾がどのような街なのか、簡単にまとめよう。

 

普天間基地が存在する沖縄県宜野湾市は、人口が密集する沖縄本島中南部の、ちょうど真ん中にある。

 

宜野湾市(Googleマップ)https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C%E5%AE%9C%E9%87%8E%E6%B9%BE%E5%B8%82/

 

 

宜野湾市の南には県庁所在地である那覇市、北には第2の都市である沖縄市がある。この二つの都市に挟まれ、沖縄本島の「背骨」である国道58号線を抱える宜野湾市は、その交通の便利さから、戦後に人口を激増させている。

 

戦前は、沖縄県がおよそ60万人弱、那覇市が10万人、宜野湾市は1万3000人程度で安定して推移していたのが、戦後になって急に人口が増加した。那覇市は1950年から60年までのわずか10年で、人口が2倍になっている。復帰前後から那覇の人口は30万で安定したが、かわってその頃からスプロール化がはじまり、浦添市、宜野湾市、沖縄市で人口が激増している。この4都市の人口を合計すると、沖縄県全体の半数を占めている。

 

 

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沖縄県と那覇市・浦添市・宜野湾市・沖縄市の人口動態(沖縄県のウェブサイトより)

 

 

下の写真は、東の海上から宜野湾市を撮影したものである。

 

 

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東の海上から見た宜野湾市。中央の滑走路が普天間基地。撮影は岸政彦による

 

 

この写真からもすぐにわかるように、沖縄本島のちょうどくびれのところに位置する宜野湾は、そのど真ん中を占める普天間基地を取り囲むように住宅が密集している。那覇と沖縄市に挟まれた宜野湾は、本島でももっとも交通の便のよい場所なのだが、そのかわり、どこに住んでも必ずそこは普天間基地の爆音が聞こえる場所なのである。

 

まずここでは、宜野湾市の位置と交通によって、戦後に人口が激増した、ということを押さえておこう。戦後、沖縄県内で起きただ規模な経済成長と人口増加、そして都市化と人口移動により、普天間の周辺にたくさんの人びとが暮らす街が形成されたのである。なお、戦後の沖縄の経済成長と人口動態については、拙著『同化と他者化──戦後沖縄の本土就職者たち』(ナカニシヤ出版、2013)を参照していただきたい。

 

4年半ほどまえにこの街に引っ越してきたWさんは、基地の街であるコザ(沖縄市)で生まれ育った。コザは嘉手納基地に近く、戦闘機の爆音をそうとう聞かされて暮らしていた。内地の大学院で学んだあと、沖縄県に帰り、本島中部で教員をしている。同じ教員の夫は那覇市の首里の出身で、結婚してからしばらくは、高台にある閑静な住宅地である首里に住んでいた。

 

しばらく首里で暮らしたあと、コザで一人暮らしをする母親のためにも、コザと那覇の中間の、浦添や宜野湾で家を探した。普天間基地の真横にあるいまの土地を選んだ理由としてあげられているのが、交通の便である。当地はコザと那覇のちょうど中間にあり、また高速の出入り口もほど近く、車で暮らすにはとても住みやすいところなのだ。

 

そのほかにも、湧き水や蛍、あるいは猫のための道路条件など、私たち本土の人間が家を選ぶのとまったく変わらない理由で現在の土地が選ばれている。

 

普天間の爆音がどういうものであるかを知ったのは、家を建てている最中だった。コザでの爆音には慣れていて、普天間の爆音のことももちろんわかっていて、覚悟はしていたのだが、それは事前に思っていたのとはまったく異なるレベルの音と振動だった。

 

飼い猫が体調不良になり、また小さな子どもがオスプレイに怯えている様子が語られている。あまりのストレスに夫婦仲も悪くなりかけたのだが、それをさまざまな工夫で切り抜けている。

 

例えば、語りのなかでは「オスプレイが飛来して爆音が鳴っている間、『変てこダンス』を踊る」という、ユーモラスな物語も語られたが、そのストレスが相当なものであることを想像させる。もちろんそれでなんとかなるレベルの爆音ではないが、「それぐらいしないとやってられない」のである。

 

特に、そのことで夫婦仲が悪くなりかけた、という事実は、とても切ない。爆音は、まさに個人の生活のなかにまで入り込んでくるのである。

 

また、爆音と振動が、地域社会に亀裂をもたらしていることも語られた。近所に暮らす人びとのうち、ひとつの家族は父親が基地労働をしていて、そのせいか、子どもがオスプレイの騒音について話さなくなっている。

 

もうひとりのおばあさんは、畑に「普天間基地反対」というのぼりと同時に、「基地を辺野古に移せ」というのぼりも掲げていた。このようにして、基地の存在が、沖縄の人びとを分裂させ、対話を難しくしているのである。

 

もちろん、ひとりの生活史から宜野湾市の人びと全体を語ることは難しい。しかし、Wさんが住むことになった経緯と、そしてここで経験したことは、沖縄のひとつの現実そのものであるといえる。

 

すでにみたように、戦後になって、つまり普天間基地が「できてから」膨大な数の人びとが、宜野湾市に移り住んでいる。その最大の理由は、その地理的条件にある。コザと那覇に挟まれたこの地域は、経済的に困難な状況にあるコザや、すでに人口が飽和状態の那覇に比べ、住むことが容易なのである。

 

実際に浦添と宜野湾は、那覇の人口が30万人という上限に達してから、急速にその人口を増加させた。この膨大な人びとは、それぞれ一人ひとりが、自らの生活のなかで、さまざまな条件を考慮したうえで、自らの意思でここに住んでいる。

 

ここで暮らしている10万人の人びとは、それぞれがみな、いろいろな条件と制約のもとで自分自身の生活を抱える、「普通の人びと」である。そうした人びとが、さまざまな経緯で、ここにやってきて住んでいる。

 

それぞれの選択は、たしかにそれぞれの意思によってなされているのだが、たとえばWさんの語りを聞くとき、その選択は、複雑で多様な条件と制約のもとでなされることがわかる。つまり、普天間基地の隣に住んでいるのは、私たちとまったく同じように毎日の暮らしを送る「普通の人びと」なのである。

 

コザで爆音に慣れていたWさんでさえ予想もしなかったような普天間の爆音だが、一方で、寝室の窓を二重にしたり、「へんてこダンス」のような儀式を発明することで、なんとか折り合いをつけようという努力がなされる。

 

そして実際に、それは確かに、全財産を捨てて今すぐ逃げ出させるほどのものではないのかもしれない。夏には蛍が飛び、休日は静かに過ごせるのだ。交通の便もよく、住んでいて楽しいことも多いにちがいない。

 

しかしだからといって、オスプレイが飛来するたびに「吐きそうになる」気持ちがそれでなくなるわけでもない。私たちには、100%の生活はない。爆音を含むあらゆるものと折り合いをつけ、それでも生きていくのが、私たちの生活だ。こうした個人の生活が、基地被害の責任まで負わされるとすれば、私たちはもうどこでも生きていくことができない。

 

私たちの生活は、完全な自由と完全な強制の間にある。その複雑さや微妙さは、威勢のよいキャッチフレーズや、大所高所からの「地政学」的なまなざしからは、理解することができないだろう。

 

「嫌なら出ていけばいい」という言葉が排除するのは、Wさんの生活史の語りのような、ほんとうにそこで生きている個人の日々の暮らしである。たしかに宜野湾に住む人びとは、自らの自由な意図でそうしている。しかし、その行為は、さまざまな制約や条件や人間関係のなかで折り合いがつけられ、妥協されて選ばれたものである。

 

個人が自分の生存の条件のもとで、少しでも良きものにしようと精一杯選んだ人生に、私たちは果たして、あの巨大な普天間基地の「責任」を負わせることができるだろうか。

 

私たちは、個人の実際の生活史から考えることで、行為、意図、選択、責任などの概念について考え直すことをせまられる。たとえ自分の意思で普天間に住んだとしても、私たちは耐え難い騒音被害に対して異議申し立てをすることができる。まして、その責任を当事者個人に負わせることはできないのである。

 

 

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