2012.02.27

民主主義は問題解決にならないか

吉田徹 ヨーロッパ比較政治

政治 #ポピュリズム#民主主義

「民主主義はもはや問題解決のためのシステムではない気分が蔓延している」―― これは、各国要人やデシジョン・メイカーが出席する「ミュンヘン安全保障会議(MSC)」での、イタリア首相マリオ・モンティの言葉だ。いうまでもなく、昨今の欧州経済金融危機についての発言だが、この「気分」は欧州だけでなく、日本を含む他の先進国をも覆っているようにみえる。

モンティの問題意識は簡単だ。すでに市場から否認された各国政府の中で、危機を収拾できない国では、イタリアを含め「専門家内閣」が要請され、ギリシャでは箸の上げ下げまでIMF、ECB、欧州委員会の「専門家」によるチェックを受けるようになっている。いわば、それまでの「民主主義」による統治が失敗した証拠だというわけである。同様の認識は、ギリシャ救済に対するドイツ国民の消極的態度を指して、たとえば真鍋昭夫氏が示している(「今の民主主義では経済危機を止められない?ユーロ不安は金融市場によるポピュリズムへの警鐘か」ダイヤモンド・オンライン)。

反対に、たとえば中国やロシア、観方によってはブラジルといった権威主義的な政治体制は、「新興国」として順調な経済を経験している。つまり、民主主義は経済危機を招き寄せ、経済危機は民主主義の信頼性を失わせているのではないか、という疑念が高まっているといっても過言ではないだろう。日本の今の政治が、民意の複数かつ場当たり的な表出(小泉改革への支持、新自由主義への嫌悪、政権交代への期待と衆参のねじれ)によって袋小路に追い込まれ、有意な政策を打てなくなっているという認識とも近いものがある。それゆえ、民主主義を保証する統治機構・制度の改革が支持されていると解することができる。

こうした「問題としての民主主義」論が拠って立つ根拠は、民主主義が各ステークホルダー間の合意と説得を前提とするから、ルーティンを外れる何らかの危機に際して、時間と実効性の面において民主主義的な決定は劣っているという点にある。さらに、少なくともマジョリティーが好ましいと考える最適解は、政策上の最適解とイコールではない、という前提が置かれている。次元は異なれども、これに対してシュミットのいうような「例外状況」における「委任独裁」の方が、効率的で実効性のある政策を採用することができるのではないか、という推論が出て来るのも当然である。

これまで民主主義的な決定プロセスが持つ様々な問題については、多くの議論が交わされてきた。アローの不可能性定理やコンドルセのパラドクス、A.センのリベラル・パラドクスなどはその代表的なものだ。しかし、これらは、民主主義的な意思決定のプロセスが、結果として全員の厚生を満たすことができないということを主に指摘するもので、民主主義的な意思決定プロセスそのものを疑問に付すものではなかった(だからパラドクス=逆説と呼称される)。現在の民主主義的意思決定プロセスへの疑問が問うているのはプロセスそのものに対してだから、事は深刻なのである。

いうまでもなく、民主主義(デモクラシー)といった場合、そこには「統治制度」のニュアンス(意思決定のシステムと言い換えてもよい)と「理念」のニュアンス(討議/熟議の重視と言い換えてもよい)の2つが込められている。冷戦時代を含めて「理念」としての民主主義を批判する潮流は絶えなかったが、少なくとも先進国では「理念」としての民主主義は支持される傾向にある(世界価値観調査[World Values Survey]による)。その反対に「統治制度」としての民主主義については不信感が増加する傾向にある。そのギャップにこそ、現代の民主政治の課題がある(Colin Hay, Why We Hate Politics, Polity, 2008)。民主主義についての政治理論は数多存在するが、ここでは主に民主主義が持つ機能的な特性に注目して、そのバランスシートを作成してみよう。

「民主主義の失敗」に対する三つの処方箋

さて、「市場の失敗」ならぬ「民主主義の失敗」があるとして、これを是正するには三つの処方箋が考えられる。

ひとつは、「専門家」による決定権を確立することである。民主主義的な意思決定プロセスが時間も手間もかかるのであれば、政策的な中立性(ここでの中立性は、政策の出力効果を最重要視して逆算して導き出された意味での中立性である)を前提として、つまり党派性を棄却することで民主的プロセスを無視することの正当性を担保することで、「スピード感」と「価値中立的な」意思決定を下していこうとする考えだ。

「政治」そのものを縮小することで、公正な統治を行っていこうとする考えは、古くから存在する。プラトンの「哲人政治」はいうまでもなくこうした思考の系譜に属するし、異なる文脈ではあるがアメリカ建国の父たちも過度の党派性を警戒して統治に関わる恣意性を排除しようとした(「良い統治とは少ない統治のことである」とはジェファーソンの言葉である)。冒頭で引用したモンティ伊首相は、右派支持層に対しては増税、左派支持層に対しては労働市場の柔軟化を進め、双方の既得権益に切り込むことで、有権者からの信頼を勝ち得ることに成功している。ちなみに専門家自身が中立性を欠いていたり、能力に劣っているという可能性が排除できないことは、原子力事故の事例やその他をみても明らかだ。しかしそれは専門家自体の資質を問うことにはなっても、処方箋そのものの弱点ではない。

この方途に欠点があるとすれば、その存在理由は政策的効果を保証することにあるから、ひとたび共同体の構成員の厚生が損なわれることになれば、きわめて脆弱な立場に追いやられてしまうという点にある。政策形成のプロセスそのものではなく、結果に正当性を依存しているので、これは当然のことだ。さらに、意思決定者の選出プロセスも必ずしも確立されていないのだとすれば、仮にパフォーマンスが悪化しても、その責任を問うて、意思決定権を剥奪することも難しくなるかもしれない。

次は、政治によって市場そのものをオーヴァーライドすることだ。昨今の民主主義に対する疑念は、直接的には経済市場から国民国家単位の経済運営が否認されつつあることに由来している。経済成長が頭打ちになり、パイの再配分の公平感が失われてしまっているのであれば、共同体の構成員の厚生を維持・拡大できない民主制が支持を失うのは当然のことだ。人々は自分のために生きているのであって、民主主義のために生きているわけではないからだ。そうであれば、市場そのものを政治的権力によって囲い込み、民主政治と摩擦を起こさないようにしてしまえばよい。具体的には、国民国家経済の単位を強化し、貨幣を共同体の中だけで循環させることができれば、少なくとも経済運営そのものが外部から否認されることはない。この場合、グローバルな金融市場を規制するといった「政策論議」は直接には関係してこない。それは統治制度としての民主主義とは直接に関係しない話からである。

もちろん、この処方箋も危険に満ちたものだ。市場を人為的に管理しつつ経済成長を実現することの難しさは、社会主義経済がすでに示した通りであるし、その理論的説明もオーストリア学派によってすでに手がけられた。市場が政策の方向性を全面的に左右するのはたしかに危険でも、民主主義が抱える問題を解決するために市場そのものを排除してしまうのは、本末転倒といってもよい。

じつはこの2つの選択肢は、すでに日本でも部分的にトライされている。

最初の「専門家支配」の原型は、小泉政権時代の「経済財政諮問会議」だ。首相が議長を務め、内閣官房長官、経済閣僚、日銀総裁に加えて、財界と経済学者それぞれ2名を迎えたこの会議は、総体的に案件に精通している少数のサークルの決定をトップダウンで実行していくことを可能にした。野田政権が行財政改革に関する臨調設置を目指しているのも、党内・議会での党派性と熟議過程(すなわち民主主義的常態)で生じている袋小路を打破したいとの思いからだろう。

二番目の市場のオーヴァーライドは、混合経済という形で55年体制下で実践されてきた。単純な比較はできないが、90年代半ばから日本経済に占める公的部門のウェイトは対GDP比率の約4割に達している(ちなみに先進国のなかで高いシェアであるわけではない)。つまり、日本市場は、是非はともかく、政府部門の支出がなくしては機能しないというのが現実であり、国レベルであれ、自治体レベルであれ、このことは世界経済・金融市場からの余波を吸収するのに役立っているのはたしかなのである。TPPに対する忌避感はこのことを本能的に感じるところから来ているのかもしれない。

「タブー」はあるか

論理的には、このほかにも色々な手段が考えられる。しかし、民主主義の機能不全という点に関してもっとも強力な処方箋のひとつとして、政治的参加の経路と動機を断ち切る、というものが残されている。つまり、民主主義がひとつの決定を下すに際して障害となるのは、共同体の構成員の1人1人が何らかの利害を有しているからである。現状維持から脱して、物事を決定する場合、多かれ少なかれ既存の利害関係を組み直すことが必要とされるから、当然その決定に抵抗し、異議申し立てを行う動機が生まれる。歴史的にみた場合、フランコ体制下のスペインや東南アジアの「開発独裁」といった、いわゆる「権威主義体制」と呼ばれた政体は、これに近い。

すなわち、政治的な異議申し立ては徹底的に(場合によっては暴力的手段によって)排除されるから、人々は公的権威によって保証されている基本的生存権・社会権を超えて、政治参加を行おうとはしないのである。少なくとも、民主的意思決定が下されるプロセスにおける「ノイズ」も「抵抗勢力」も排除されるから、瞬時性と効率性という意味では、民主主義(ここでいう民主主義とは、包摂と抵抗の契機双方を持ち合わせる「ポリアーキー」ということになる)よりも勝っているかもしれないのである。

実際、昨今喧伝されるように、少なくとも公的な政治参加に関心を持たない有権者は、若年層を含めて増えつつある。この傾向が続けば、政治参加の回路そのものが空洞化する可能性もあるかもしれない。

ちなみに、民主制度から一旦権威主義体制へと移行した場合、外部からの影響なしにふたたび民主制を回復した事例は、歴史的にみてフランスの第五共和制(ドゴール大統領)しかなかったというのが、多くの専門家の診断である。つまり、いったん権威主義体制を採用した場合、民主化を行うのはきわめて困難であるというのが少なくとも経験則である。

以上のように考えると、今の状況下で、なぜ改めて「民主主義」かということを突き詰めて考える必要が出て来るように思える。

敢えて「民主主義」の3つの理由

その答えも、差し当たって三つある。

ひとつは、民主主義は原則的に持続可能な政治体制であるという点にある。民主主義は自由主義の伝統と組み合わさったことによって少数派の権利の擁護という特質を持つ。少数派の権利が擁護されなければならないのは、規範的な意味もあるが、他方で現在の多数派が誤った判断を下して共同体の厚生が損なわれてしまった場合、その有力なオルターナティブを提供するという、機能的特性を持っているからである。次元は異なるが、英国政治において「野党(オポジション)」が公式的な地位を与えられているのは、一定の振幅に収まる政権交代によって異なる政策体系を打ち出すことの重要性が理解されているためだ。

もうひとつは、立場の互換性を前提とした平等の論理を内包しているからである。主権者の立場は、フィクショナルにではあるが、民主制においては互いに平等であることを原則としている。それが民主制を民主制たらしめている品質保証のようなものなのだ。そうすると、共同体に何らかの深刻な危機が発生した場合、そのダメージは主権者によって平等に分かち合わなければならないという原則が機能することになる。なぜなら、立場や権利が平等であることを保証するためには権利とともに負担においても平等でなければならないという、トートロジーを民主主義は持っているからだ。この原則は、民主主義を改変するのではなく、むしろその特性を徹底させることが自分にとっての負担を緩和するというロジックにつながることになるのである(今さらだが、だから赤木智弘の「若者を見殺しにする国」でのテーゼは、戦争による死という究極の「平等的な状態」を仮想する民主主義擁護論なのである)。

最後に、現代の流動的かつ自己言及的な「第二の近代」において、民主主義はもっとも適合的な政治の形式と論じることも可能である(宇野重規・田村哲樹・山口望『デモクラシーの擁護 ―再帰化する現代社会で―』ナカニシヤ出版)。個人の行動選択に際しての「意味供給源」が枯渇し、公的領域の衰退による問題が山積し、多様な価値観の間での衝突が現代社会の特徴であるならば、解答のない世界において解答を暫定的に協働して作り出していくのが民主主義の持つポテンシャルなのである。第一の点とも関わるが、不確実性が増大する近代であるからこそ、民主主義が内在させている多様性がフィットするのである。

不十分ながらも、民主主義という政治システムについての貸借対照表をつくってみた。その限りでいえるのは、民主主義は欠点と同じ程度に長所も持っているということである。そして、欠点を克服する以上に、政体が持つ長所の潜在性を発掘していくことも、「民主主義という問題」を解くのに必要であり、何よりもそれを可能にするのが民主主義なのでもある。今、必要なのは、民主主義をひとつの「問題」ではなく「解答」へと持っていく意思である。

プロフィール

吉田徹ヨーロッパ比較政治

東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学博士課程修了、博士(学術)。現在、同志社大学政策学部教授。主著として、『居場所なき革命』(みすず書房・2022年)、『くじ引き民主主義』(光文社新書・2021年)、『アフター・リベラル』(講談社現代新書・2020)など。

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