「富山は日本のスウェーデン」なのか――井手=小熊論争を読み解く

「社会資本」へのまなざし

 

もっとも、以上の議論はじつは政治学ではすでに馴染みのある議論であり、類似の問題設定も存在している。言い換えれば「井手=小熊」論争は、それだけ普遍的な内容を含んでいるものである。

 

政治学では「社会資本(ないし社会関係資本、ソーシャル・キャピタル)」という言葉が90年代以降、定着するようになった。この概念はアメリカの政治学者ロバート・パットナムの著作(『哲学する民主主義』1993年、『孤独なボーリング』2000年〔タイトルは邦題、出版年は原著〕)で有名になったが、それ以前からフランスの社会学者ブルデューや、アメリカの社会学者コールマンなどによっても定義されていた(類似の指摘は古くはトクヴィルやデュルケームの著作にもみられる)。

 

パットナムは社会資本を、共同体の構成員が共通の目標をより簡単に達成することのできるネットワーク、規範、信頼といった社会的生活の特徴と定義している。コールマンの例をとれば、ニューヨークのダイヤモンドの商人が何の保証もなしに、高価な原石の鑑定を専門家に委ねるのは、密なネットワークからなるコミュニティで規範が共有され、信頼が成り立っているためだ。

 

社会資本についての詳しい学説史はここでは馴染まないが、この概念が注目されたのにはいくつかの理由がある。それは、社会は強制や法律、市場価格などによって秩序立てられているが、社会の構成員によって目に見えない資本がシェアされていれば、取引・監視コストを少なくし、政策の実効性やコミュニティ内の満足度を高める作用を持つことになるからだ。フランシス・フクヤマが著作『信なくば立たず』(1996年)で、日本やドイツなどの産業競争力の源泉にアクター間の信頼を見出したのも、同じ理由からだ。

 

『富山は日本のスウェーデン』が実際に明らかにしているのは、この社会資本が富山ではきわめて充実しているということだった。井手は「生活空間のつながり」(69頁)と表現しているが、同地での相互扶助の手厚さや教育水準の高さは、社会資本が存在し、機能していることの証左だろう。

 

 

どのような「社会資本」なのか?

 

社会資本の概念は世界銀行やOECDなどの国際機関でも注目されるようになったこともあり、社会実験を含め、研究が飛躍的に発展した。間口が広いこともあって、日本でも社会資本についての研究は社会科学分野での蓄積が進んでいる。本稿に関連する範囲で言えば、こうした研究がその後に明らかにしたことは二点ある。

 

ひとつは、社会資本にはレベルが存在しているということだ。社会資本と呼べるものは、国家レベル・国家間レベル(愛国主義、人権規範など)、メゾ(中間)レベル(コミュニティの習慣、社会階層間の連帯など)、個人レベル(家庭、ケアなど)に分類できる。

 

科学はいつも分類から始まり、比較可能なものを比較しなければならない。少なくとも、スウェーデン社民主義と富山を比較するとき、国家レベルで理念とされていることと、地域レベルで実践されていることは腑分けして議論する必要があるだろう。もちろん、社会資本の上下のレベルは実際には連関している。しかし、そのことと、これらのレベルを一緒にして議論することは自ずと異なった意味を持つことになる。そうでなければ、週刊金曜日の鼎談で示されたように、足元の実態(富山県)と国家的な制度的規範(スウェーデン)との間で読者は混乱するしかない。

 

もうひとつは、社会資本の有する機能にも種類があるということだ。パットナムは「社会資本のダークサイド」と呼んでいるが、実際には社会資本はきわめて個人の自由や行動に対して制約的に働くことがある。彼は、民族自助集団、教会の女性組織、カントリークラブなどを例にあげて、こうした内的志向的で、集団間のアイデンティティを強化する社会資本も世の中に存在していることを指摘し、これを「ボンディング(拘束)型社会資本」と命名している。

 

もともと社会資本の厚かったイタリア北部でファシスト勢力や近年のポピュリズム政党が強く、さらにこの種の社会資本が優位とされる日本の町内会をベースに、戦前の日本ナショナリズムが支えられたことを想起してもよいだろう。別の論者であるスコッチポルも、アメリカの在郷軍人会などが強い社会資本を有していることを証明している(『失われた民主主義』2003年)。

 

これに対置されるのは市民運動や若者支援団体といった「ブリッジ(架橋)型社会資本」であり、これは弱い紐帯からなり、既存の社会集団間をつなぐことのできるような社会資本である。これは、「同質」な人間や組織しか信頼しない「拘束型」に対して、「異質」な人間や組織をも信頼できるような資本と言い換えることができる。ちなみにパットナムの実証によれば、拘束型と架橋型は相矛盾するものではなく、互いに相関関係にあるともされる。

 

その上で、例えば、この「拘束」と「架橋」を掛け合わせて4象限をつくるならば、「架橋高/拘束低」は個人をアノミーへと誘い、「架橋低/拘束低」は個人を孤立させ、「拘束高/架橋低」は個人の共同体への埋没へ、「拘束高/架橋高」は自律的な個人を生み出すことになる。

 

以上のような社会資本の質的差異に基づいた図式でいえば、富山は「拘束高/架橋低」、対するスウェーデンは「拘束高/架橋高」に分類することができる。実際にどうであるかは、客観的指標を用いての両者の比較が必要になるが、少なくとも鼎談の参加者の感想や井手の観察からは、富山は自由度の高い地域、つまり「弱い紐帯」の地域であるとは少なくとも言えそうにはない。

 

このように社会資本の種類に注意を払うならば、富山とスウェーデンを比較して、何が違っていて、何が同じなのかをより精緻なかたちで比較することもできるだろう。もしリベラルが「上滑り」のように聞こえるのであれば、理念先行で、それに先立つ分析や説明が不足しているからである。これに対して明晰な分析は、説得力を有するだけでなく、何が活用可能で、何がそうでないかという具体的な構想につながる。

 

冒頭で述べたように「井手=小熊論争」は、具体的な事象を対象に、きわめて理念的な、かつ学術的な価値を有する論争である。また、困難をますます抱えている地域社会や個人がどのような関係性を構築していくべきなのか、そこでの協働の在り方はどのようにあるべきなのかについて、各国で模索されている政策課題と通じ合うポテンシャルを有している。

 

「架橋型」か「拘束型」かという、社会資本についての基礎的な議論も、「個人」を優先する「リベラル」、「共同体」を優先する「保守」という、それ自体として両立不可能であるゆえに不毛な基礎的認識を、井手が示した以外の方法で克服する可能性を持っている。

 

本稿は、井手=小熊論争が有した射程の広さを指摘するとともに、政治学がどのようにその課題設定を引き取り、分析できるかということについての応用を示したに過ぎない。価値ある論争は、限られたコミュニティ内ではなく、多くの社会科学者によって正負を含めて分析、そして議論されなければならないことはたしかである。論争を展開する2人の研究者を尊敬する者としては、この論考がその手始めになればと願っている。

 

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シノドス国際社会動向研究所

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