「大正デモクラシー」はどうして戦争を止められなかったのか

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普通選挙をめざせ

 

―― では、「大正デモクラシー」後半はどのようなものだったのですか。

 

近年では「大正デモクラシー」後半期は、「改造の時代」と呼ぶようになってきていますが、社会運動が活発になります。後半は、運動の組織化と普通選挙を目指す運動が活発になったことが特徴です。

 

まずは、組織化についてですが、米騒動以降、暴動型の社会運動が無くなっていきました。暴動は、瞬間には社会的に訴えることができ、参加者は日ごろの憤懣をはらすことができるのですが、さしたる成果を獲得できないことに気付きはじめたといえましょう。成果の獲得を目指し、社会運動の担い手たちは組織や団体をつくります。農民たちは農民組合をつくり、労働者は労働組合を、被差別部落は水平社を組織し、学生も「新人会」のような学生団体を結成しました。同時に、女性団体ができ、借家人組合や消費組合も結成されるように、運動自体も多様化していきましたが、大きな動きをみせた社会運動のひとつが普選運動です。選挙によって自分達の意見を反映させたいという思いから、普通選挙を政府に求めました。直接国税15円という規約を外し、財産による制限をなくすことを目標にしていました。政党と社会運動を媒介するとともに、前半と後半をつなぐ運動でもありました。

 

同時に、政府の側もいつまでも制限することは不可能だと感じていましたので、直接国税15円から10円、3円と減額する措置をとっていきます。しかし、財産による選挙権の制限自体の撤廃を求め、普選運動は盛り上がっていきました。

 

その結果、1925年に普通選挙法が成立します。衆議院議員選挙法を改正するという形で、すべての成人男子(25歳以上)に選挙権を与えるものになりました。ここで言ってみれば「国民」が成立し、日本の国民国家としての制度的な基盤―基礎が成立しました。近代国家として「国民」を制度的に誕生させたのですね。

 

しかし、女性は選挙権の対象外になりました。「普通」から外されてしまったわけです。女性の選挙権獲得には、敗戦まで時間がかかりました。このときまで、女性は正式な「国民」として認知されていないことになります。準「国民」とみなされ、そのように扱われていました。

 

同時に、憲法が適応されていなかった当時の植民地でも、選挙権は与えられていませんでした。植民地には大日本帝国憲法が適用されず、植民地の人びとも「普通」からは外されていたのです。したがって、選挙権があたえられないという点では、植民地にいる「日本人」に対しても同じ扱いでした。

 

他方で日本本土にいる植民地の人びとには、普選によって選挙権が与えられました。その結果、朝鮮人の代議士も誕生しました。ただし、普選は一定の居住地を有している人にしか適用されなかったので、植民地の人びとで、その条件を満たす人は少なかったのですが。

 

 

―― 普通選挙といえども、「普通」に全員が入れるわけでは無かったのですね。

 

そうですね。「国民」として権利が与えられるのですが、成年男子、それも「本国」の人間に限られました。そして、非常に大事な点ですが、普通選挙法の成立が、治安維持法とセットになっています。

 

繰り返し述べているように、普通選挙は「国民」を制度的につくりだしました。しかし、反面からいえば、このことは同時に、普選の枠のなかに人びとを囲い込んだと言えます。すなわち、その一方で、「普通」から外れた、あるいは外れようとする人たちを治安維持法で取り締まることにしたのです。言ってみれば、普通選挙により人びとを囲い込み、それに肯んじない人びとを治安維持法で排除するという体制を作り上げたのです。

 

当時の労働運動の活動家や社会主義者たちは、選挙にたいした期待を持っていませんでした。むしろ、選挙によって「国民」として捕えられてしまうことに反発していました。「大正デモクラシー」後半期には、そこまで認識が進んでいたのですね。ですので、普通選挙法が成立してからも、社会運動を活発に行っていました。社会主義がそのときの運動のひとつの指針となっていました。そのため、政府はその動きを治安維持法で抑えようとしたのです。善き「国民」は普選を与えるから選挙権を行使し、運動はするなというわけです。おりからロシア革命後のソ連とのあいだに国交を結ぶことになり、政府は共産主義に強い警戒心をもっていました。

 

普通選挙は、「大正デモクラシー」の一つのゴールでした。同時に、「国民」としての囲い込みと排除の体制が出来上がったわけです。「国民」としての囲いの中だけで行動することになってしまいました。権利が付与されたということとともに、そこからはみ出たばあいには排除されるという限界が提示されました。両義的ですね。

 

同じ問題が、政党政治に対しても言えます。1918年7月にはじまった米騒動に影響を受け、同年9月に原敬内閣が発足しました。従来までの藩閥政治に比べ、政党政治は人びとの意見をくみ取ることができるようになりました。しかし、その「意見」は、あくまで政党にパイプがある「中間層」―「旦那衆」のものでした。とくに政友会は、地域の名望家たちの利益誘導に熱心でした。これに対し、「都市雑業層」には政党に繋がる手段がなかったのです。

 

普選によって「国民」ができた一方で、それ以外を排除してしまうことになりましたし、政党政治によって社会運動を行っていた「都市雑業層」と「旦那衆」が分断されることになってしまいました。正確に言いなおせば、「旦那衆」は運動をする必然性がなくなりました。とはいえ普通選挙も実現し、人びとの運動によって内閣も倒れています。社会が変わっていったことは確かです。このあたりが「大正デモクラシー」の評価が分かれる点ですね。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.264 

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