事故や災害の「負の遺産」をどのように保存すべきなのか――JR福知山線事故から10年

私にとっての事故現場

 

この事故現場をどのように整備していくのかということを決めていくプロセスにおいて、ひとつの特徴的な取り組みが「事故現場に関する(少人数の)語らいの場」である。

 

イメージ図の提案(2013年11月)に先駆けて、2013年9月に初めてその試みが実施された。その後、2014年2月、2014年9月にわたっても繰り返し開催されており、筆者はその語らいの場(負傷者の分のみ)において、進行役を務めている。

 

JR福知山線事故の場合、その事故現場と言われた時に、多くの人が象徴的に思い浮かべるのは、マンションであり、また脱線衝突の痕跡が残るピットや柱などであろう。私自身も、語らいの場に参加するまでは、そう考えていた。

 

しかしある負傷者が語らいの場で告げた「マンションの保存部分を、横に伸ばすということは考えられないでしょうか」という言葉に、はっとさせられた。

 

この当時のJR西日本の案では、マンションは特に被害の痕跡が残る部分[※3]を限定的に保存することになっていた。彼女はそれに対して、一階部分だけは全て保存することができないのか、と問うたのである。

 

[※3]縦方向は、マンション2階部分まで。横方向は、屋外ピット周辺とそこに接するほぼ1部屋分のみが保存される案であった。

 

彼女は、事故の教訓を伝えるためにマンションをできる限り大きく残したいと願ったわけではない。「自分自身が、救急車を待つ間に寝かされていた場所は、マンションのエントランスであったと聞いている。自分にとっての事故現場はマンションのエントランス(列車が衝突した箇所とは180度反対の方向)だ」と彼女は言った。

 

当日同席していた2人の負傷者も同じような想いを語った。これらの発言がのちにJR西日本が原案を大きく変更する契機のひとつとなったと見られ、最終案ではマンションの1階部分(横52メートル)は、すべて保存されることとなった。

 

事故や災害の現場ということが語られる時、その象徴となる建物や施設(福知山線事故の場合には現場のマンション)に注目が集まる場合が少なくない。

 

あの事故、あの災害と言われれば、多くの人がもっとも凄惨な被害の写真(多くの場合は俯瞰的に撮影した写真)を思い浮かべることからしても、風化防止のためには、象徴的な建物をどのように保存するのか(しないのか)は重要な論点である。

 

しかし、ここで示したエピソードからもわかるように、事故による被害は象徴的な建物だけで示すことはできない。別の場面である被害者が「自分にとっての事故現場は、たくさんの方が寝かされていた線路の上であり、もし残すことができるなら、線路こそあの日のままに保存して欲しい」と語ったように、誰かが息を引き取った場所や、亡くなる人を看取った場所、自らが搬送されるまでの時間を過ごした場所など、被害者それぞれに「私にとっての事故現場」がある。

 

むしろ個別に話を伺えばその分だけ、象徴的な建物を残すのみで、あの日起こったことの凄惨さを共有し、そして伝え続けることは難しいと感じる。その意味で、建物をどう保存するか(しないのか)という結論以上に、何を事実として伝えていくのか、何を教訓として伝えていくのかを考えるプロセスが重要なのだ。

 

 

被害者と加害者が語り合うとういうこと

 

この少人数の語らいの場は、「書面によるアンケートと大勢が集まる説明会の2つの方法だけで、十分に被害者の声を聴けているのか」「説明会の場では声を上げづらい人もいるのではないか。」「そもそも、説明会で被害者と向き合うのは役員であり、事故現場をどうするかを考え、実際にイメージ図を描き、本当にこれで良いのかと自問自答する担当者が、被害者の方々の意見や質問に直接応えられる場がない。本当にこのまま整備案をとりまとめていって良いのか。」このような現場担当者の逡巡からうまれたと聞く。

 

「多様な立場の意見を、丁寧に聴き取って欲しい」と言い続けた被害者達の声も、このような動きを後押ししたのだろう。

 

語らいの場では、事故現場の保存のあり方以前に、JR西日本の被害者に対する姿勢や、安全対策のあり方について、率直な厳しい意見も出た。

 

事故からの時間が経過するにつれ、事故の「後」について率直に語る機会がなくなることへの淋しさやもどかしさ。事故から時間が過ぎたからこそ自分の心の中に生まれた葛藤や、言葉にできるようになった痛みについて語る被害者もいた。

 

事故現場をどうしたいのかを語る前に、その日に至るまでの長い物語を語らずにはいられないということなのだろう。事故や災害は、どのような場合でも発生した直後に一番の注目が集まる。そして月日がたち、社会の関心が薄れるようになってから、事故を示す象徴的な話題として「マンションを保存するのか否か」という課題に注目が集まるようになった。

 

しかし当然のことながら、遺族や負傷者、その家族は、社会から注目されているか否かにかかわらず、事故とともにその後の時間を生きている。事故の後の時間も含めて、事故が引き起こした衝撃であり痛みなのである。

 

そして、「事故現場をどうするのか」という難問をきっかけとして、事故は終わったことではなく、いまだに続いているのだということが改めて露わになった。そしてこれをJR西日本の担当者が直接聴くこと、聴き続けることに、この語らいの場のもうひとつの意義がある。

 

事故の記憶を風化させないために、現場をできる限り当時のままに残すことは有効な方法のひとつだろう。建物は解体されれば、その後、二度と同じ形でそれを保存することはできない。その意味で、象徴となるマンションをどのように取り扱うかについては、慎重になりすぎても過剰とは言えない。

 

しかし、それ以上に重要なことは、事故の教訓を決して忘れてはならないJR西日本の社員が、未だ続く事故として被害者の声を聴き続け、それをもとに事故現場のあり方のみならず、それを社内で語り継ぐ方法、安全教育や制度に反映させる方法を考え続けることではないだろうか。そしてそれこそが、事故を風化させない、本当に事故の教訓を活かすということにつながっていくのだと筆者は考える。

 

すでにJR西日本の職員もその1/3が事故後に入社した社員である。さらに10年が過ぎる頃には、社員のほとんどが事故後の入社ということになるのだろう。加害企業の中で事故の記憶を「風化させない」ということは、現場や事故の記録を保存し、学ぶことに加えて、事故の後を生き続ける被害者とともに安全とは何かについて悩み続ける、そういう取り組みなのだろうと思う。

 

 

おわりにかえて

 

JR福知山線事故の場合には、事故現場のマンションの残し方に一定の方針が示されるまでに10年の月日が必要であった。その月日を振り返り、ある被害者は「最終案は自分の意見とは全く違う形であるが、自分自身はその結論に納得している」と語った。そしてその理由を彼は「長い時間をかけて、いろんな立場の人の声を丁寧に聴いた上で、時間をかけて検討し、それを形にしようと努力した痕跡が見受けられるから」と話してくれた。

 

事故や災害の現場をどう残すのか、という問いに対して、被害者と呼ばれる人々(遺族や負傷者、その家族等)の全てが納得する解を見いだすことは極めて困難だ。だからこそ、本稿で繰り返し述べたように、さまざまな意見を丁寧に共有するプロセスを大切することが重要なのだと思う。

 

 

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