高額医療問題についての議論に必要なものとは何か――オプジーボを利用する肺がん患者の声から

急激な少子高齢化の影響が危惧される日本社会において、増え続ける国民医療費への対応は喫緊の課題と認識されている。国は制度を変更し、国民の負担増などによりそれを抑制しようとしているが、日常の具体的な医療実践に変更を迫る方策が議論されることは多くない。だが昨年、そうした状況に変化が見られた。とあるがんの治療薬をめぐり、その保険適用の拡大が国の存亡にかかわるとの主張に注目が集まったからである。

 

そのがん治療薬とは、新たな作用機序によりその効果に大きな期待が持たれるニボルマブ(商品名:オプジーボ)である。患者ひとりにつき年間3,500万円かかるがん治療薬として知られるようになり、その保険適用の拡大とそれによる国の医療費負担増をめぐり、議論が噴出した。

 

本稿ではまず、ニボルマブの保険適用拡大とそれにまつわる高額医療問題についての議論の広まりの一端を、整理して示す。また、そうした議論のなかに、ニボルマブの利用者たるがん患者たちの主張が含まれていなかったことを指摘する。くわえて、患者たちの声に耳を傾けることが、今後の国民医療費についての議論にどのように資するかにも言及する。

 

 

高額な肺がん治療薬で国民皆保険は破綻?

 

ニボルマブとは、免疫チェックポイント阻害剤の一種である。これまでがんの標準治療に用いられてきた薬剤には、がん細胞の死滅を目指す抗がん剤や、がん細胞の働きを分子レベルで阻害する分子標的治療薬があり、そのいずれもががん細胞そのものに働きかける。

 

一方、免疫チェックポイント阻害剤は、患者自身の免疫システムを制御することでがん細胞の増殖を抑える薬である。専門家によれば、標準治療では効果が出にくくなった進行がんにも一定割合で強力な治療効果が認められ、従来用いられてきた抗がん剤に較べて副作用の頻度が低く、効果がある場合はがんの縮小や延命効果が長期に持続する(松島 2017)。よって、標準治療においては選択肢が限られる病状のがん患者のなかには、その利用に一縷の望みをつないでいる者が多い。

 

2014年7月、ニボルマブは希少がんの一種である悪性黒色腫の治療薬として保険適用された。翌年2月、ニボルマブは肺がんの一種である非小細胞肺がんへの保険適用も認められる。肺がん治療に対するこの適用拡大が、今回高額ながん治療薬の保険適用が問題視されるようになった発端である。

 

日本で悪性黒色腫に罹患する人は年数千人で、ニボルマブの保険適用が承認された段階では、年間の利用者はピーク時で470人と見積もられていた。1年で3,500万円という薬価は、利用者数がこれほどの規模であるとの予測から算出されたものである。

 

一方、ニボルマブ投与の対象となる非小細胞肺がん患者数を5万人程度と推定すると、その費用は1年で1兆7,500億円にのぼる。現状、年間約40兆円の国民医療費にとって、それは多大な負担となる(川口 2016, 國頭 2016a)。

 

こうした事態を国民皆保険制度に結びつけて、たとえば東京大学医科学研究所特任教授(当時)の上昌広氏は以下のように述べている。

 

 

昨年、免役チェックポイント阻害剤である「オプジーボ」が承認され、肺がんなど固形癌への応用が進んでいます。これまでの抗がん剤と異なり、この薬剤は高い効果が見込めます。ただ、薬剤費は年間三千万円以上と高額です。全てを保険償還すれば、早晩、国民皆保険は破綻するでしょう。(上 2016)

 

 

その後、2016年8月には腎細胞がんで、12月には血液がんの一種であるホジキンリンパ腫で、ニボルマブの使用が認められた。現在、頭頸部がんや胃がんでの使用も承認申請が出されている(『朝日新聞』2017.2.1 朝刊)。臨床研究段階にあるものも含めれば、ニボルマブの適応可能性があるがん種はこれらにとどまらない。

 

そうした状況に先立ち、希少がんであった悪性黒色腫の罹患者数をもとに算出された薬価がそのまま適応され、その罹患者の多さからニボルマブの保険適用拡大が問題化したのが、肺がん適用の承認時だったのである。

 

 

広まる「オプジーボ亡国論」

 

本稿では、ニボルマブの保険適用拡大の問題化をきっかけに広まった、がん患者による高額薬剤の利用を日本の国民皆保険制度や国の存亡にかかわるものと捉える言説を「オプジーボ亡国論」と呼ぼうと思う。そうした主張をより詳しく訴え、具体的な対策の必要性を強調したのが、日本赤十字社医療センター化学療法科部長の國頭英夫氏である。氏はたとえば、以下のように述べている。

 

 

ニボルマブを1年間使用すると約3500万円という額に達します。(中略)では、そのお金はどこから出ることになるのか。国民皆保険制度に加え、高額療養費制度がある日本では、医療費の自己負担額は最高でも年間200万円程度です。だからニボルマブを使うと、実際に患者が負担するのは総額の5%以下で、残りは全て公的負担です。したがって、ほとんどを国全体で賄うことになるわけです。今後続くであろう同種薬剤も同程度に値付けされると思うと、これらによって国の財政は逼迫すると容易に想像がつきます。(國頭 2016a)

 

 

國頭氏は、2016年4月に開催された財務省の財政制度等審議会でヒアリングを受けた。そこでも同様の発言をくり広げたと報告されている(財政制度等審議会 2016)。この審議会での議論が報道され、國頭氏は「1剤が国を亡ぼす」「75歳以上の高額医療に制限をかけてはどうか」との主張を、複数の機会を捉えて表明した(『産経新聞』2016.05.03, 國頭 2016b, 2016c, 2016d)。

 

こうして「オプジーボ亡国論」は広まり、多くの人の知るところとなった。それにより、具体的な医療実践が国民医療費の増大に結びつき、その影響は国の財政に及ぶ可能性があるという認識が広まった。

 

 

患者の声に耳を傾ける

 

この「オプジーボ亡国論」に対し、2016年8月、公に意見を表明する患者が出た。日本肺がん患者連絡会代表の長谷川一男氏である。

 

長谷川氏はステージ4の肺がん罹患者で、2010年に診断が下って以来8種類の薬剤を使い、複数の先進医療を経て、右肺全摘手術も受けた。もはや現状で利用可能な治療は、ニボルマブが残されるのみかという重篤な病状と向き合う。

 

一方で、2016年にNPO法人肺がん患者の会ワンステップを設立。現在では、日本各地で肺がん患者を対象として活動している6つの患者会を束ね、その連合組織である日本肺がん患者連絡会の代表を務めている。(注)

 

(注)長谷川氏は元テレビディレクターで、自らの罹患経験を積極的に発信し、他のがん患者の支援に努めている。また、がん医療関連の学会などとも協働し、がん患者アドボケートとして活動している。詳しくはワンステップのサイトを参照のこと。

 

その長谷川氏が國頭氏の主張に対して、患者として率直な意見を述べたのが以下である。

 

 

ステージ4の肺がん患者さんだと(残された)いのちが限られる――そう宣告されているので、新薬に対しての期待は強い。その患者から(新薬を)とり上げるというのは、ちょっと短絡的で、納得がいかないと思っています。(長谷川 2016)

 

 

2014年の人口動態統計によれば、日本におけるがんの死亡数は年間約37万人だが、肺がんによるものが第1位で約7万3,000人である。他のがんに比べて予後も厳しく、2016年に国立がん研究センターが発表したがん種別10年生存率では、全がん種平均の58.2%に対し、肺がんは33.2%だった。

 

それらの数値の背景には、進行が早い、脳や骨などへの遠隔転移が起こりやすい、再発率が高いなどの肺がんの特徴がある。だが、そうした肺がんの診断法、治療法にも、近年は進展が見られる。新たな薬剤が利用できるようになり、原因となる遺伝子異常を特定したうえで適した治療法が選択可能にもなっている。

 

しかし、個々の患者の経験においては、当初は奏功した治療法も、一定の期間を過ぎれば効果が薄れていく場合がある。薬剤を変え、先進医療や手術も試みたところで、治療法の選択肢は徐々に減っていく。そうした療養の日々、患者はまさに迫り来る死と向き合うことになる。そこに登場した、新たな作用機序により大きな効果が期待できるニボルマブ。だが、その利用は国の存亡にかかわるため、たとえ自らのいのちを救う唯一の薬剤であっても諦めねばならないのか。

 

「オプジーボ亡国論」が広まる一方、肺がん患者たちはこうした逡巡のなかで療養を続けてきた。そうした事態に対し、長谷川氏は「納得がいかない」と声を上げた。2015年末にニボルマブが肺がん治療に保険適用拡大されて以来、その影響は日本の国民皆保険制度や国の存亡と結びつけて語られてきた。「患者ひとりに年間3,500万円」「5万人」「1兆7,500億円」などの数字が、衝撃をもって伝えられた。

 

だがそうした「オプジーボ亡国論」のうちに、ニボルマブの主たる利用者と名指されてきた肺がん患者の発言は含まれていなかった。高額医療問題にまつわる議論に必要なのは、こうした痛切な患者の声に耳を傾ける姿勢ではなかったか。【次ページにつづく】 

 

 

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