未完のマックス・ウェーバーを引き受ける人生――レジェンド・インタビュー01

いまや伝説的ともいえる著名な知識人たちから、わたしたちは何を学び、何を継承していくことができるだろうか。シノドス国際社会動向研究所がお届けするシリーズ「レジェンド・インタビュー」では、知の分野でさまざまな貢献をなしてきた方々に、インタビューをつうじて人生を振り返っていただく。第1回目は社会学者の折原浩氏に話を伺った。

 

 

折原浩 1935年、東京生まれ。1958年、東京大学文学部社会学科卒業、同大学院社会学研究科に学ぶ。1964年、助手。翌年より教養学部専任講師。1966年、教養学部助教授となるが、1968年から69年の東大紛争において、当局と教授会・教員の姿勢を問い、とりわけ文学部学生の処分問題を事件の発端に遡って究明し、事実誤認を突き止めた。

 

1969年1月18-19日の機動隊再導入に反対して、授業再開を拒否し、「造反教官」と呼ばれた。学生の主張する「大学解体」を「大学解放」と読み替え、「解放連続シンポジウム 『闘争と学問』」、「公開自主講座『人間-社会論』」を、主宰者のひとりとして担い、逮捕された学生・院生の裁判には「特別弁護人」として加わった。

 

マックス・ヴェーバーの業績を批判的に検証し、現代に生かすことを研究テーマとし、特に1970年代中頃よりヴェーバーの主著でありながら編集の不完全な「経済と社会」の再構成問題に一貫して取り組んでいる。

 

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天職にいたるまで

 

橋本 折原先生はこれまで、マックス・ヴェーバー研究の第一人者として、とりわけウェーバーのテキストを再構成するという「テキスト・クリティーク」において、世界的にすぐれた成果をあげてきました。

 

例えば、『ヴェーバー『経済と社会』の再構成:トルソの頭』東京大学出版会(1996)、『マックス・ウェーバー基礎研究序説』未來社(1988)、『『経済と社会』再構成論の新展開:ヴェーバー研究の非神話化と『全集』版のゆくえ』ヴォルフガング・シュルフターとの共著(鈴木宗徳/山口宏訳)未來社(2000)、『日独ヴェーバー論争:『経済と社会』(旧稿)全篇の読解による比較歴史社会学の再構築に向けて』未來社(2013)、などの著作がそれです。

 

ウェーバーの主著の一つである『経済と社会』は、草稿として残されたものであり、それをウェーバーの死後に妻のマリアンネ・ウェーバーが出版したわけですが、その際にテキストが正しい順番通りに並んでいるのか、ということが問題になりました。テキストが順番通りに並んでいないと、テキストに記された前後参照指示の意味が不明となり、理解を妨げます。またこの著作におけるウェーバーの全体構想も見えてきません。折原先生はこの編纂の問題に取り組み、既存の編集方針を覆す新しい説(再構成の仕方)を提示されてきました。

 

まずお伺いしたいのは、こうした一連のウェーバー研究を人生のいわば「天職」とされたことのきっかけについてです。おそらく1965年に刊行された、大塚久雄編『マックス・ヴェーバー研究:生誕百年記念シンポジウム』(東京大学出版会)と、その元になったシンポジウムが一つのきっかけになっていると思われますが、他にもさまざまな要因があったのではないかと察します。これまでの研究活動を振り返ったときに、研究の初発の段階を、どのように回顧されるでしょうか。

 

また合わせてお伺いしたいのは、このテキスト・クリティークという研究が、なぜ生涯をささげるに値するお仕事になったのか、その持続的情熱(エートス)は、なにに支えられているのか、ということです。

 

折原 1.「どういうふうに、なぜ、ヴェーバー研究に取り組んだのか」と、2.「そうするうちに、どんな機縁で、『経済と社会』(旧稿)のテキスト・クリティークに携わることになったのか」とに分け、「1935年生まれ世代」の戦後生活史・思想形成史のコンテクストから、お答えしていきます。

 

 

1. ヴェーバーとの取り組み

 

このご質問にお答えするには、第二次世界大戦における日本の敗戦と、一少年の戦後生活史に触れないわけにはいきません。

 

 

・軍国少年

 

小生は、1935年、東京市に生まれ、10歳(小四)のとき、「疎開」先の千葉市で、敗戦を迎えました。「軍国少年」でした。1945年に入って、米軍による「本土空襲」「焼夷弾の絨毯爆撃」が激しくなると、「警戒-、空襲警報」が発令されるつど、近辺の「防空-消火本部」に詰め、「B-29 〇〇機、房総半島上空を北上中」というような「東部軍管区情報」をラジオで聴き、メガフォンで復唱して、丘の上の「監視所」に伝える役目を担っていました。当時は、ラジオをもたない地域住民もいて、「どうなっているのか、状況が分かって助かる」と感謝されるのがうれしく、張り切って任務を果たしました。

 

 

・戦争体験の諸類型

 

戦争の影響は、「銃後」の国民一般には、(1)焼夷弾投下や機銃掃射による死傷、(2)同じく肉親や親友の死傷、(3)((2)のような「特別の他者」ではなく)「戦争犠牲者」一般の死傷、(4)住居の焼失、(5)戦後の生活難、(6)生活難を遠-、近因とする、肉親(とくに「家計支持者」としての父親)の病死、というふうに、一様ではなく、スペクトル状の深刻さをなして波及しました。小生は、そのうちの(1)(2)(4)は免れましたが、(3)(5)(6)を被りました。

 

また、大都市育ちにかぎられますが、(7)(戦時特有の「水平的社会移動」としての)「疎開」、それも (学級ごとの)「集団疎開」ではなく (家族別の)「縁故疎開」の影響が大きかったと思います。郷里の近隣・遊び友達・学級仲間からは切り離され、疎開先の異質な生活環境で、「外部生」「余所者」として遇され、少年ながら多少とも「故郷喪失」に陥りました(注1)。この点にかぎると、小生はその後も、高校入学と同時に東京に戻り、そこでこんどは「田舎帰り」の「外部生」「余所者」と目され、「故郷喪失」が長引きました(注2)。

 

(注1)1960年代には、「集団就職」という「水平的社会移動」にともなう「故郷喪失」感が社会現象ともなりました。

(注2)こうした「故郷喪失」は、縁故疎開だけに起因したわけではなく、戦後「引揚者」にははるかに激烈に、他方、緩やかにではあれ「転勤族」の子弟には常時、起きていたはずです。

 

 

・「理科少年」「野球少年」に育つ

 

さて、小生は、(6)父が敗戦の一年後に病死したため(注3)、もっぱら母の教育方針にしたがって「理科少年」「野球少年」に育てられました。検事の妻で堅気な母は、「この子が、放っておいて、文科に進もうものなら、『萩ちゃん』(注4)と同じように『左傾』しかねない」と危惧したようです。小生は、母の方針に忠実に、『文学少年』にも『哲学少年』にもならず、戦争と戦争責任について考えることもせず、能天気に育ちました。

 

(注3)「超自我」が不在ないし微弱ということでもあります。

(注4)母のすぐ下の妹。日本女子大卒。築地小劇場に入る。1945年8月6日、丸山定夫ら慰問団櫻隊が広島で被爆。原爆症第一号患者・仲みどりの傷病記録『櫻隊全滅-ある劇団の原爆殉難記』(1980、未來社) の他、『メザマシ隊の青春-築地小劇場とともに』(1983、未來社)を刊行。夫・若山一夫は映画『第五福竜丸』の製作者の一人。

 

ただ、「自分は『戦争の悲惨』を (2)や(4)の犠牲者ほどに体験してはいないので、『戦争』一般についても語れない」という「気後れ」があり、(3)戦争犠牲者一般からは、「生き延びて、どう生きるのか」とたえず問われているように感じていました。そういう一種の「負い目」から、「現在の生活を心置きなく享受することは許されない」という「禁欲的」な生き方に導かれたのかもしれません。しかし、その問いが、戦争と戦争責任の問い返しへと向けられることはありませんでした。

 

むしろ「軍国少年」の延長線上で、「日本が戦争に負けたのは、科学技術で米英に劣っていたからにちがいない、自分は将来、科学者になって戦後復興を担おう」と志しました。この動機から、『子供の科学』(誠文堂新光社)を定期購読し、「実験好き」になりました。化学反応の結果が色の変化ではっきり確認できることや、ラジオを配線図どおりに組み立てるとちゃんと音が出てくるのに、驚き、喜びを感じました。

 

また、当時の野育ちの少年一般(注5)と同じく、草野球から三角ベースを経て、中・高では「部活」に没頭しました。高三の夏には、甲子園を目指して、東京都(注6)の予選を、準々決勝戦まで、(最終戦は)神宮球場で闘いました。小生の通う「進学校」が、スポーツでそこまで進出できたのも、多分、戦時の「密教」的措置(注7)の「後遺症」だったでしょう。

 

(注5)「優等生」は「いじめられっ子」で、「勉強」に活路を求めている、とみなされがちでした。

(注6)当時はまだ東西に分かれず、126校によって争われる日本一の激戦区でした。

(注7)「エリート養成校」にかぎり、「表向き」に反して「敵国のスポーツ」も温存していました。

 

戦後復活第一回大会では、東京代表の座が、なんと府立一中(後の日比谷高校)と東京高師(注8)付属中との間で争われたのです。それはともかく、「激動期」「混乱期」とはいえ、あるいはまさにそれゆえ、「文武両道」も可能な、牧歌的な時代でした。その後、大学という場に身を置いて、「自分はスポーツをやっていてよかった」と感ずることが、しばしばありました。

 

(注8)東京高等師範学校。敗戦後、東京文理科大学と合体して東京教育大学となる。

 

 

・受験対策で、思いがけず清水『社会的人間論』に出会う

 

さて、「理科少年」「野球少年」が社会学に関心を惹かれる機縁は、「部活」を終えて受験勉強に切り換える時期に、思いがけない形でやってきました。当初は志望どおり理科Ⅰ類(理学部・工学部進学予定)を受験するつもりで、不得意科目で「命取り」になりかねない「現代文」をなんとかしようと、「哲学者や社会科学者の硬い論文を読むとよい」という受験雑誌の助言にしたがい、何冊か繙いたのです。

 

そのなかにたまたま、清水幾太郎著『社会的人間論』(創元文庫) がありました。そこには、一個人の成長を「家族から近隣・同輩・同級生をへて職場へ」という「集団遍歴」の過程として追う視点が示されており、自分が「疎開」体験から抱え込んでいた問題が何であったか、とくに集団の境目を横切るごとの「危機」とその意義(注9)について教えられ、目の覚める思いでした。

 

(注9)以前の集団で身につけた習慣が破綻し、新しい集団に適応する過程で、思考が目覚める。

 

こうして突如、「人間と社会」に目を開かれ、清水著を皮切りに、社会学関係の本を読み漁りました。そのうえ、感興の赴くままに、「付属の生活について」と題する(小生にとって初めての)「論文」をしたため、校友会雑誌『桐蔭』に投稿したのです。「付属」とは、小生が高一から編入されて「外部生」となった、旧東京高師・当時東京教育大・現筑波大付属高(大塚)のことです。幼稚園から小-中-高と「ところてん式」に上がってくる「内部生」(「山の手」一帯の「良家の坊ちゃん・嬢ちゃん」)には、「集団遍歴」にともなう「危機」がないから、「批判」が芽生えず、自己革新の可能性に乏しい、と「外部生」の視点から「一矢むくいた」わけです。

 

 

・教養課程で、ヴェーバー「倫理論文」を読み、「戦争責任」を問う

 

そのように、高三末期に急転直下、志望を理Ⅰから文Ⅱ(現在の文Ⅲで、文学部・教育学部進学予定)に変えたのですが、その無謀がかえって幸いし、理数科目で得点を稼いだのか、ストレートに入学できました。ただ、「これから、自分の好きな勉強ができる」と喜んだのも束の間、文Ⅱのクラスで出会った新入生には、なにか「大人っぽい」「哲学青年」「文学青年」が大勢いて、生粋の「理科少年」は、「これは大変なところにきた」「遅れまい」と、濫読と思索に没頭することになります(注10)。

 

(注10)とはいえ、教養課程の二年間 (1954-56年) には、多方面に視野を開かれ、多彩な経験も積み、じつに多くの貴重なことを学びました。いま、教養学部・教養部が解体され、大学・教養課程の「空洞化」が進んだ状況で、当時を振り返って、その意義を再考したい衝動に駆られます。しかし、そうしますと、さなきだに冗長なこの応答が、さらに止めどなく膨れ上がり、際限がなくなりそうなので、ここは禁欲して、別稿を期します。

 

そんななかで、関心が徐々に、社会学のなかでもヴェーバーに収斂し、敗戦後の生活史からの問題提起とも結びついてきます。小生はとくに『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下「倫理論文」)を、「社会学という一専門学科にとって必読の一先行文献」としてではなく、むしろ「人生の書」として耽読しました。そこには、欧米近代の「合理的禁欲」という「生き方」の淵源(注11)と現状(注12)が、鮮やかに浮き彫りにされています。

 

(注11)カルヴィニズム、メソディスト派、敬虔派、(再)洗礼派系ゼクテ(信徒団)などの「禁欲的プロテスタンティズム」。

(注12)「精神なき専門人」「心情(心意)なき享楽人」の跋扈。

 

小生は、この本の衝撃を機に、「日本が戦争に負けたのは、科学技術に劣っていたからではなく、むしろ精神構造に問題があったのではないか」と思い始めました。「『無謀な戦争をすれば負ける』と分かってはいても、『反対』と言い出せず、『議論』を避け、『時流に流される』一般大衆の『集団同調性』と、やはり『時流に追随して』『拒否』を貫けない知識人の弱腰こそ、問題ではなかったか」と考えました。そうすると、「戦後復興」の中心課題も、「科学技術の振興」ではなく、「『時流に抗して』生きられる『自律的個人』の形成」に求められます(注13)。

 

(注13)この問題設定は、後になってからですが、やはりウェーバーの比較歴史社会学のパースペクティヴと重ねて、「『近代的な自律的個人』の熟成を『二重に』妨げる『伝統』の残滓と、時期尚早の『官僚制化』――『前近代』と『超近代』の癒着――」というふうに、「欧米近代の侵略を受けた非欧米『境域群marginal areas』に共通の問題」として、再構成されます。

 

ところが、そうすると、「では、日本の都市という都市に焼夷弾を雨霰と降らせ、広島・長崎には原爆を投下し、非戦闘員市民も(たんに『巻き添えにする』のでなく)殲滅を意図して、科学技術の粋を凝らした米英人の精神構造は、どうだったのか」と反問せざるをえません。

 

戦時中の「鬼畜米英」というスローガンは明らかに誤りだったとしても、一転して「英米流の民主主義」を「ピューリタニズムに淵源する近代精神の精華」に見立て、「規範に仰ぐ」というのでは、「裏返された時流迎合」にすぎないではないか、その論法では、わたしたち日本人が、こんどは「強靱な個人」となり、「冷徹な議論」の末、戦勝を「合理的に予測」し、開戦に「慎重に踏み切って」「勝利すれば」、「それでよい」ということになるではないか、……こうした疑問が、つぎつぎに浮かんできました。

 

そうすると、「戦後近代主義」の(大塚久雄・川島武宜・丸山眞男に代表される)オピニオン・リーダーたちは、「日本人の精神的脆弱さ」を批判的に克服しようとする方向性では、共鳴でき、学ぶところが多いとしても、他面、この「欧米近代の問い返し」という難題は、やはり避けて通っているのではないか、と思われました。

 

ところが、この難問についても、ヴェーバー本人は、じつは「ピューリタニズムと欧米近代の合理的禁欲」を「規範化」「理想化」はせず、むしろその「両義性」(長短・利害得失)を「世界史の地平で」問い返していました。かれは、「倫理論文」を出発点として、「世界史(普遍史)的」視野をそなえた「比較宗教社会学」を構想し、そのパースペクティヴのなかで「欧米近代」を相対化していたのです。

 

小生は、そういう展開方向と潜勢を感知して、「倫理論文」から(「比較宗教社会学」を一部門として含む)「比較歴史社会学」にいたる「後期」ヴェーバー思想の発展総体(注14)を、自分の研究主題に据えました。そういうわけで、小生にはヴェーバーとの取り組みが、「学知かぎりの問題」ではなく、「戦争-戦後体験」としての生活史に根ざし、「戦後日本の再建」と連動する、いうなれば「実存」的模索と並行する探究の課題だったのです。

 

(注14)標語風にいえば、『経済と社会』を「法則科学」的分肢とし、「世界宗教の経済倫理」シリーズにおける「個別文化圏」群の研究を「現実-、歴史科学」的分肢とする「理解科学」的「総合」への歩み。

 

ちなみに、小生は、ヴェーバーへの傾倒が深まるにつれて、清水社会学からは離れました。清水氏には、ヴェーバーを故意に「常識的」ときめつけて見下そうとするスタンスが窺え、そこからは逆に、清水氏が学問に取り組む動機とスタンスの問題性(注15)と学問内容上の不備(注16)が、透けて見えました。

 

(注15)「没落士族」のルサンチマンと、これに連動している権勢欲。

(注16)たとえば、主著『社会学講義』における「集団」の定義の誤り。出版社との約束を優先させて『社会学の根本概念』邦訳に「屋上屋を架し」、かえって誤訳を増やす杜撰、など。

 

「疎開世代」の生活史から生まれた「集団遍歴」という問題設定も、やがて清水社会学からは離れて、「境界人」論、とくに「境界人」の積極的意義を示唆する諸理論へと引き継がれ、ヴェーバー自身にも適用され、展開されます(注17)。この「境界人」論も、小生にとってはやはり、「学知」の枠内には収まらず、一方では「東大紛争」における教員と学生との「狭間」「境界」のような卑近な微視的状況に、他方では、対外進出した欧米近代文化と、進出を被った非欧米伝統文化との諸「境域marginal areas」(インド・ロシア・中国・日本など)の巨視的問題領域群にも、半ば実践的・半ば理論的に適用され、活かされていくことになります。

 

(注17)そのための思想素材を集めたのが、『危機における人間と学問』の前半です。

 

 

・「マルクス主義か実存主義か」の二律背反をヴェーバーで架橋

 

さて、小生が大学の教養課程以降、ヴェーバーに取り組む、いまひとつの(上記の生活史問題と密接に関連してはいますが、いちおう区別できる)契機に、「マルクス主義か実存主義か」という戦後思想史の中心問題がありました。

 

敗戦後には、(4)住居の焼失、(5)生活難、(6)家計の支柱の病死などから、圧倒的多数の日本人(少なくとも、「焼け出された」都市住民の大半)が、経済的困窮に陥り、「貧困からの脱出」を最優先課題としました。小生自身は、(5)一般と(6)の影響を受け、「欠食児童」ではありましたが、家に少々の資産があったため、「(小出しにものを売って生き延びる)筍生活」とはいえ、母がなんとか遣り繰りして、甚だしい窮乏には陥らずにすみました。

 

ですから、どちらかといえば、貧困と不平等格差よりも、「縁故疎開」による「故郷喪失」と父親不在のほうが深刻で、「戦後体験」として立ち勝っていました。そこで、貧困を克服し、平等を実現する方向で、経済体制の変革・社会主義化を唱え、最重要視するマルクス主義よりも、「孤独な単独者」の「実存」に意義を認め、力点を置く実存主義のほうに、共鳴したのだと思います。

 

しかしやはり、「上野の浮浪児」を「卑近な類例」として育った世代のひとりとして、マルクス主義の問題提起と主張内容を、無下に斥けるわけにはいきませんでした。そのうえ、戦時中「戦争反対」を貫いた唯一の思想党派という「権威」主張が、「唯我独尊」の陰影を帯び(注18)ながらも、拒みがたい威力を揮っていました。

 

(注18)「正」が「負」に反転する「弁証法」の一例といえましょう。

 

ただ、現実の日本共産党、とくにその学生組織の「民青」には、「民主集中制」という建前のもとに、「国際共産主義運動」の指導部や「党中央」の指令にしたがって、個人としての意見や主張は一変させ、これを無理にも「正当化」する「官僚的」心性が、顕著に認められました。「これでは『前近代』と『超近代』との癒着を強めこそすれ、脱却はできまい」と思われました。

 

そこで、この点からも、各人の現場における「近代的個我の確立」と「闊達な議論にもとづく自発的結社形成」を起点に据え、その成果を「大状況に押し上げていく」方向と段取りを優先させて、まずはこの「近代主義」を、現存の「マルクス主義的集団主義、-社会主義」に対置したわけです。ただ、そうするからには、当の「近代主義」が、実践上も、マルクス主義に劣らず「急進化が可能radikalisierbar」という実を示して、対抗しなければならず、そうでなければフェアでない、と思いました。

 

他方、当時の状況では、「現場における諸個人の主体-、自発的結社形成」とともに、現場の労働者と科学-技術者との連帯・「階級」形成が進めば(そういう形で「中間層」問題が解決されれば)、やがてはその延長線上に「社会主義化」も展望できようと(楽観的に)感得されていました(注19)。ただ、社会-経済体制の「社会主義化」が首尾よく達成されても、そのもとで「官僚主義」を克服し、個々人が自律的主体性を獲得していく課題は、あくまでも残る、と予期されてはいました。

 

(注19)ですから、「社会主義」と「近代主義」とが、相互に緊張を孕みながらも、ともに「プラス価値」として信奉されていたわけです。

 

むしろ、かりに「現場からの根底的近代化・民主化」という前提条件の熟成を待たず、また、独自の課題として顧みもせずに、権力奪取による旧秩序の解体と再編を急ぐならば、フランス革命がナポレオンⅠ世を、ロシア革命がスターリンを呼び出したように、「官僚独裁」に道を開き、「『解放』と『抑圧』の悪循環」(注20)を招くほかはない、と考えられました。

 

(注20)この論点については、「フランス大革命(第一革命)」後における「叛乱と圧政(革命と反革命)の悪循環」にかんする「保守主義者」デュルケームの考察から、多くを学びました。

 

とはいえ、マルクス主義、というよりもマルクスの思想(注21)は、そういう数々の問題点を抱えながらも、「敗戦後日本の、哲学的基礎づけもそなえ、真面目な人々を捕らえて離さない現役の思想」でした。そうであれば、実存主義との「二律背反」関係に追いやって全面的に拒否するのではなく、むしろ「対抗的相互補完」関係のもとに置いて、双方を「架橋」する手立てはないか、と考えました。そして、その媒体を「マルクス後の (post-Marxian) 思想家」ヴェーバーに求めたのです。

 

(注21)1956年の「ハンガリー動乱」以降、「共産圏」の実情が明らかとなるにつれて、「スターリニズム」あるいは「ロシア・マルクス主義」一般への懐疑がつのり、初期マルクス (マルクスの初心)に帰ろうとする思想潮流が勢いをえて、『経済学・哲学草稿』がこぞって読まれました。初期マルクスとヴェーバー研究との関連については、「戦後精神史の一水脈(改訂稿)――北川隆吉先生追悼」(折原浩のHP、2014年欄、後に、「『現場からの民主化』と『社会学すること』」と改題し、補遺を加え、庄司興吉編著『歴史認識と民主主義深化の社会学』2016、東信堂、324-49頁に再録)に詳述しましたので、よろしかったらご参照ください。

 

とくに、日本の敗戦後「実存主義」には、「現実存在が本質に先行する」という形式的規定から、なにもかも(「京都学派」の「戦死の『哲学』的意味づけ」という戦争協力も、敗戦直後の「我利我利亡者」の「闇商売」も)「実存的決断」として「正当化」しかねない問題傾向が窺えました。

 

そこで筆者は、一方では実存主義に学んで、集団の圧力に抗する「単独者の決断」を、(「みんながそうしているから」といって「正当化」はできない)各個人の責任課題として重視するとともに、他方では、決断の内容と、これを規制する規範的要素、ならびに当事者としての意味づけも、同等に重視していきたい、と考えました。そうすると、この点からも、「利害関心Interesse」とともに「理念Idee」の意義を強調するマックス・ヴェーバーが注目されます。こうした動機と視角からも、ヴェーバー著作の内在的読解に沈潜し、自分なりに評価する難行を、みずから選択し、決断した次第です。

 

 

2.『経済と社会』編纂問題でテキスト・クリティークに取り組む機縁

 

その関連で、1964年の「マックス・ヴェーバー生誕百年記念シンポジウム」が、確かにひとつの契機とはなりました。それというのも、このシンポジウムに「裏方」の一人として参加した小生は、大塚・川島・丸山といった「戦後近代主義」のオピニオン・リーダーと、じかに接し、かれらの抱えている問題をつぶさに観察する機会をえたからです。

 

まず、(a)かれらが一様に「強度の学知家」(「知の巨人」)で、まさにそれゆえ、相互間では、立場の相違が「前提的諒解事項」と化し、正面きっては議論されない、という実情、他方、(b)かれらにおいてさえ、ことヴェーバー著作の内在的読解にかけては、不備・不足が窺われ、少なくとも問題があること、などを、身近に、直感的・経験的にも確認できました。このうちの(a)については、別の箇所(注22)で一端に触れましたので、ここではむしろ、(b)をとりあげてみます。

 

(注22)「川島武宜-丸山眞男間に、法学部内で学問論争はあったか――高橋裕論文「川島武宜の戦後――1945~50年」(和田仁孝他編『法の観察――法と社会の批判的再構築に向けて』所収)に寄せて」(折原浩のHP、2014年欄)。

 

 

・「マルクスとヴェーバー」論のヴェーバー読解への疑問

 

三人のうち、この「百年シンポ」の主宰者で、ヴェーバー読解にかけては「第一人者」と目されていた大塚久雄氏を採り上げても、「マルクスとヴェーバー」という「旗印」にもかかわらず、あるいはむしろまさにそれゆえ、一方の「ヴェーバー」への内在の度合いには、やはり不備・不足が窺えました。

 

それというのも、予めマルクス理論の枠組みを前提としてしまって、ヴェーバー著作はむしろ「便利な『草刈り場』『石切り場』として利用」し、それ自体の内在的-体系的読解には踏み込まず、任意の論点や概念だけを、マルクスとの「一致」ないし「類似」を理由に、いきなり抜き出してきて無造作に取り込む「悪しき折衷主義」を免れていない、と見受けられたのです。

 

それもこれも、当時の「マルクス主義」的「権威主義・唯我独尊」という「時代風潮(注23)に棹さし」、「所詮は『草刈り場』『石切り場』にすぎないヴェーバーについては、学問的文献実証は怠っても許される」という「油断と甘え」が、どこかにあるからではないか、これでは「マルクス後の思想家」ヴェーバーによる「マルクス止揚」の側面(注24)には視界がおよぶまい、と思われました。

 

(注23)この風潮は、「ヴェーバー・シンポジウム」であるにもかかわらず、いきなりマルクス『資本論』の術語を持ち出し、「周知の前提」として語り出す、という流儀にも、露呈されていました。

(注24)たとえば、(1)比較的よく知られていた論点としては、「資本の集積-集中=労働者の生産手段からの疎外」というマルクスの観点を、「物的戦争経営手段からの兵卒の疎外」・「物的行政手段からの官吏の疎外」「物的研究手段からの研究者の疎外」「物的医療手段からの医師の疎外」といった「並行現象」に適用して、「官僚制化=官僚の『歯車』(伝導装置)化」という包括的カテゴリーを構成するとか、(2)それほどには知られていない論点としては、「アジア諸社会の不変性」の鍵を、もっぱら「自足的な[村落]共同体」=「無連絡な小生産有機体」の併存・再生産に求めるマルクス説の難点を、「村落」のみでなく全社会的な「客人-遍歴手工業」の普及と「種族-カースト間分業」の形成(「西洋的な市場-都市発展」との分岐)によって歴史的に説明し、乗り越えている「ヒンドゥー教と仏教」の叙述(小路田泰直編著『比較歴史社会学へのいざない』(2009、勁草書房、pp.58-95、参照)を挙げることができましょう。そういう「止揚面」が見えないのは「見ようとしない」からだったのでしょう。

 

 

・否定的批判から積極的再構成へ

 

とはいえ、「後から接近する世代」の否定的直感にもとづく、そういう批判は、じつはいたって安易で、それではいざ自分が、ヴェーバー著作の内在的-体系的読解に取り組むとなると、これは「大問題」「大仕事」です。

 

たとえば、大塚氏が、マルクスの「資本制生産に先行する諸形態」の発展段階論的解釈を基本的枠組みとして、「共同体」の「アジア的-古典古代的-ゲルマン的形態」を論じた名著『共同体の基礎理論』(1955、岩波書店)を採ってみても、なるほどヴェーバーの「ゲマインデ (Gemeinde)」が、文献詮索と典拠挙示を経た定義と概念規定は抜きに、マルクスによる再生産機構としてのゲマインデと、いとも簡単に同一視されています(注25)。

 

(注25)これと等価の問題性が、「アジア的形態」を論ずるさい、「種族」という語を、無概念でいきなり持ち出していること、「生産力発展が、分業の展開として『現われる』」というような「流出論」的思考表記が頻出していること、などに窺われます。後者には、じつは「1964年シンポ」でも、丸山眞男氏が、抽象的ながら「アニミズム的思考」の一種に見立てて「脱呪術化」の必要を説いていました。

 

ところが、それでは、ヴェーバーのゲマインデを、かれ自身の理論展開に即して的確に捉えようとすると、まずは『経済と社会』(旧稿)中の用語法を網羅的に検索して、たとえば、(1)ペルシャ帝国の「大衆馴致政策」により、ネヘミアの監督下、祭司長エズラに率いられて「バビロン捕囚」からエルサレムに帰還したユダヤ教「教団」、(2)「家産制」的支配者が「区画して『ライトゥルギー(賦役-貢納義務)』を課しoktroyieren」、「連帯責任」を負わせた農村の「近隣団体」、(3)政治的「自首・自律」(注26)を達成した「地域団体」としての「西洋都市」など、各所に分散して出てくる適用例を拾い集めて、比較照合し、それらに共通の「ゲゼルシャフト結成に媒介された近隣ゲマインシャフト(群)」という一般的規定を突き止めなければなりません。

 

(注26)団体の「首長Herr」を、外部から指定されるのではなく、内部から選出するのが「自首Auto-kephalie」。団体の「秩序Ordnung」を、内部で制定するのが「自律Auto-nomie」。

 

ところが、そうするとこんどは、「ゲゼルシャフト結成に媒介されたゲマインシャフト」とは、一体全体どういうことか――「ゲゼルシャフト」と「ゲマインシャフト」というふたつの基礎範疇が、(どうやら、「利益社会」と「共同社会」と機械的に訳出される学界通念とは異なり、「対概念」ではなさそうなのだけれども、では厳密には)どう概念規定され、どういう関係に置かれているのか――と問わざるをえません。

 

 

・『経済と社会』(旧稿)における基礎範疇の概念構成と戦略

 

ではここで、ヴェーバーによる概念構成の骨格を取り出してみましょう。

 

かれは、(1) 互いに「意味上のsinnhaft」関係にはない複数個人の集合・「集群Gruppe」(たとえば、突然の驟雨という自然現象に反応して、一斉に雨傘を拡げる通行人群) から、(2)「意味上の」関係にはあるが「無秩序」・「無定型」の「(たんなる)ゲマインシャフト関係」、(3)「非制定秩序」(たとえば「慣習律」) に準拠している「諒解 (的ゲマインシャフト) 関係」をへて、(4) 「制定秩序」(たとえば「法律」) に準拠している「ゲゼルシャフト (的ゲマインシャフト) 関係」というふうに、複数個人間の関係が、関与者個人の抱いている主観的「意味」によって、どのように、またどの程度、律せられ、その結果、そうした行為関係が、どの程度、再現・予測可能になるか、そうした(社会関係一般の)「合理化」にかんする一尺度を設定します。

 

そうしておいて、個々の問題事例を、この尺度上に位置づけるとともに、たとえばある「ゲゼルシャフト (関係の) 結成」から、どういう「諒解関係」(「コネクション」) が「派生」するか、「合理化」尺度上の「流動的な相互移行関係」を動態的に探り出そうとします。ですから、この概念戦略を把握しさえすれば、一方では「ゲマインシャフト」を「有意味行為-関係態」、他方では「ゲゼルシャフト行為-関係」を、(そうした「ゲマインシャフト行為-関係」のうちの)「制定秩序準拠行為-関係」と訳出して差し支えありません。ところが、いきなりそう定義したり、あるいは、「ゲゼルシャフト」に学界通念を押しかぶせて「利益社会」と訳出したりするのでは、いったいなんのことか、さっぱり分かりません。そのうえ、社会関係を「流動的な相互移行関係」において動態的に捉え返そうとするウェーバーの概念戦略を、的確に把握して、応用に活かすことも、とうてい不可能でしょう。

 

 

ところが、そうした概念規定の詮索に踏み込むと、さらに、『経済と社会』の「旧稿」(当時の第五版で「第二部」) と「改訂稿」(同「第一部」) とでは、原著者マックス・ヴェーバー自身は明記して概念規定を変更しているのに、マリアンネ・ヴェーバーからヨハンネス・ヴィンケルマンをへて『全集』版にいたる既存の全テキストは、原著者自身の変更を無視する誤編纂に陥っており、これにもとづく概念上の混乱が、日本ばかりでなく、ヴェーバーの祖国ドイツにも、広く流布していて、概念戦略の把握どころではない、という実情に、いやおうなく直面します。そこで、そうした混乱を解消し、原著者の概念戦略を救い出し、「社会学上の主著」とされる『経済と社会』の整合的解釈に到達するには、テキストそのものの誤編纂を是正して再出発しなければならず、それにはどうしても「テキスト・クリティーク」に立ち入るよりほかはなかったのです。

 

小生は、ヴェーバー研究一般のそうした基礎条件を整えるため、編纂問題を提起し、論争に持ち込もうとしました。しかし、おおかたの研究者は、自分が現に底本として使っているテキストの誤編纂を指摘されても、「非を非と認めて」改めようとはしません。むしろ、「まあ、いろいろある『テキスト解釈』のうち、そういう『変なの』が、ひとつくらいあってもいいやね」と「鷹揚に構え」、「『ほとぼり』が醒める」のを待ちます。現に、『経済と社会』(旧稿)の第三次編纂にあたる『全集』版(MWG, Ⅱ/21)も、第一次マリアンネ・ヴェーバー編と第二次ヨハンネス・ヴィンケルマン編の「合わない頭をつけたトルソ」とは異なるにせよ、誤編纂にはちがいない「頭のない五死屍片」のまま、モール・ジーベック社から堂々と刊行されつづけています。「テキスト・クリティーク」も、そういう「相対化-黙殺」策による「既成誤謬の支配」という現状にたいして、「テキスト上の決定的証拠」をつきつけて「改訂」を迫る、ひっきょうは論証手段にすぎず、なにかそれ自体が「究極の研究課題」というようなものではありません。

 

しかも、そのようにして概念規定にかんする詮索に踏み込むと、『経済と社会』の「旧稿」(1910-14年執筆、第五版で「第二部」)と「改訂稿」(1920年執筆、「第一部」)とで、原著者自身は明記して概念規定を変更しているのに、マリアンネ・ヴェーバーからヨハンネス・ヴィンケルマンをへて『全集』版にいたる既存の全テキストは、当の変更を無視する誤編纂 (「旧稿」と「改訂稿」との逆転配置か、「五死屍片」への解体) に陥っており、この誤導による概念上の混乱が、日本ばかりでなく、ヴェーバーの祖国ドイツにも、広く流布している、という実情に直面します。

 

そうした混乱を克服し、ヴェーバー研究を堅実な文献上の基礎に載せ、「社会学上の主著」とされる『経済と社会』の整合的解釈に到達するには、テキストそのものの誤編纂を是正して再出発するほかはないのです。

 

小生は、ヴェーバー研究般のそうした基礎条件を整えるため、編纂問題を提起し、論争に持ち込もうとました。しかし、おおかたの研究者は、自分が現に底本として使っているテキストの誤編纂を指摘されても、「非を非と認めて」改めようとはしません。そういう「知的誠実性」を欠落させたまま、「まあ、いろいろある『テキスト解釈』のうち、そういう『変なの』がひとつくらいあってもいいやね」と「鷹揚に構え」、「『ほとぼり』が醒める」のを待ちます。

 

現に、『経済と社会』(旧稿)の 第次編纂にあたる『全集』版(MWG, /21)さえ、第一次マリアンネ・ヴェーバー編と第二次ヨハンネス・ヴィンケルマン編の「合わない頭をつけたトルソ」(初版~第五版)とは異なるにせよ、誤編纂にはちがいない「頭のない五死屍片」のまま、モール・ジーベック社から刊行されつづけています。「テキスト・クリティーク」も、そういう「相対化-黙殺」策による「既成誤謬」の支配にたいして、「テキスト上の決定的証拠」を突き付けて「改訂」を迫る、ひっきょうは論証手段にすぎず、なにかそれ自体が「究極の研究主題」ではありません。

 

 

・敗戦後日本の「学界-ジャーナリズム複合態」にたいする批判の動機

 

とはいえ、そうした課題に真っ正直に没頭し、途方もない手間隙(注27)をかけるにつけては、「ヴェーバー研究」という「学知」の平面にかぎっても、「戦後近代主義社会科学の欠落」を補填して再出発し、ドイツ学界との関係についても、このさい「本店-出店意識」(日高六郎)を払拭し、「閉鎖的なくせに海外の最新流行には弱い学界 [とジャーナリズム] の体質」(内田義彦)から脱却して、世界のヴェーバー研究を堅実な基礎のうえに載せたい、という使命感が、ひとつの動機として(注28)はたらいたことは否めません。こういう基礎的欠落は、なにも大塚氏かぎりのことではなく、むしろ「大塚氏においてさえ『然り』とすれば、ましてや、その他大勢の (日独の) ヴェーバー研究者・論者において『をや』!」といえる問題だったのです。【次ページにつづく】

 

(注27)当時はまだ、コンピューターによる検索は普及せず、カードに書き写して照合する職人仕事でした。

(注28)これと同一の意味づけ・動機形成の事情としては、1964年「ヴェーバー生誕百年シンポ」にも露呈された「戦後社会学」(少なくとも「ヴェーバー研究」)の「凋落」(たとえば、その後1970年代に続々刊行された創文社版『経済と社会』の全訳計画においても、この「社会学上の主著」の邦訳に、社会学者がひとりも登用されていない事実)、他面、「社会学者の不在」ゆえに全邦訳に持ち越された、底本の誤編纂の看過、したがって「社会学上の主著における社会学の不在」という (社会学者の) 責任問題に、やはり一社会学者として、一ヴェーバー研究者として、対応しなければならない、という問題がありました。これについては、HP 2016年欄「記録と随想4: 創文社刊・ヴェーバー『経済と社会』邦訳をめぐる半世紀――創文社の事業終結に思う」に詳述していますので、よろしかったらご参照ください。

 

 

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