未完のマックス・ウェーバーを引き受ける人生――レジェンド・インタビュー01

1968年の学園紛争をめぐって

 

橋本 いまから約50年前になりますが、1968年をピークとして、日本ではさまざま大学において学園紛争があり、講義が成り立たないなどの非常事態が続きました。当時は日本社会が全体として、転換期を迎えていたように思います。

 

折原先生は、実際に当事者の一人として東大紛争に深く関わり、問題の根源を明らかにすると同時に、この紛争から派生する諸問題についても積極的に発言されてきました。『大学の頽廃の淵にて:東大闘争における一教師の歩み』筑摩書房(1969)、『人間の復権を求めて』中央公論社(1971)、『東京大学:近代知性の病像』三一書房(1973)、『大学-学問-教育論集』三一書房(1977)、『学園闘争以後十余年:一現場からの大学-知識人論』三一書房 (1981)、などの著作がその成果です。私はこれらの著作から大きな影響を受けてきました。

 

すでに折原先生は、人生のさまざまな時期に、この紛争が提起した問題が何であり、先生ご自身がこの問題をどのように背負ってきたのかについて、総括されています。その内容について、ここで簡単にまとめていただくことはスペースの関係で難しいと思いますが、いま振り返ったときに、この問題は、戦後史のなかでどのような位置を占めるものなのでしょうか。また端的に言って、東京大学は当時、何をすべきであったのでしょうか。折原先生の見解をお聞かせください。

 

折原 ご質問にもあるとおり、1968-69年「東大紛争」は、戦後史のなかで、1960年「安保闘争」、1962-63年「大管法(大学管理法)闘争」、(1964年「ヴェーバー生誕百年シンポ」を挟んで)1967年「10・8羽田闘争」という1960年代の「疾風怒濤」を経て、そうした激動のさなかに提起・展開・継受されてきた問題群のいわば凝集点という位置を占めています。この関連については、ご指摘のとおり、いろいろなところで論じていますので、ここでは要点だけ、抜き書きしましょう。

 

 

1960年「安保闘争」

 

小生は、1954年に教養学部入学、56年に文学部社会学科進学、58年に卒業して大学院に入りましたので、1960年は、(「学者経歴」の一階梯としては)「修士論文」を執筆する年に当たっていました。ところが小生、5~6月には、頻繁に国会デモに出掛ける一方、(法政大学1953年館の北川隆吉研究室に設置された)「民学研(民主主義を守る学者・研究者の会)」の事務局を手伝い、情報収集や市民団体間の連絡に携わり、修論執筆には手が着かず、一年繰り延べました(注29)。

 

(注29)ある先輩から、「そういうことをすると『経歴に傷がつく』から止めておきたまえ」と好意的に勧告されたのを思い出します。

 

 

・政治-社会運動に、学者・研究者としていかにかかわるか、の問題提起

 

そういう「立ち位置」で、小生の関心は、「日米安保条約反対」「議会制民主主義を守れ」というふたつの(相互間に「緊張」はあるにせよ、「最大公約数」的な)スローガンに唱和する共通面に加えて、つぎのような一連の問いに収斂しました。

 

すなわち、「市民運動がここまで盛り上がった動因は何か」、「それが、『悲惨な戦争体験』に根ざす『平和と民主主義への希求』にあるとしても、あるいはそうであればこそ、そういう感性とスローガンとの「境界」域で、思想的な形象化を企てる必要がありはしないか」、「この運動が、こうした非日常的盛り上がりのまま、その活性を維持して日常化・永続化することは不可能で、今後『頂点を過ぎて』『潮が引いていく』のは不可避とすれば、その局面で小生自身は、学究志望の一院生として、何をすればよいか」、(一般的に言って)「市民運動への関与と学問研究とを、どう関連づけて生きていくべきか」といった一連の問いです。

 

そしてそこに、敗戦後の政治-社会運動とくに学生運動が、従来とかく、(「党中央」に振り回されて)非日常的な街頭闘争に動員される「政治の季節」と、「元の木阿弥」に戻って(「トイレット・ペーパーをそなえよ」といった)日常的改良要求の域を出ない「学問の季節」との「単純な循環」を繰り返してきた、という負の印象が重なり、ヴェーバーやG・ジンメルの所見を媒介ともして、つぎのような発想が孕まれました。

 

すなわち、運動の昂揚をとおして従来の「殻Gehäuse」を割って出ようとする「生Leben」と「情念Pathos」を、運動の渦中で受け止め、「理念Idee」に結実・結晶させ、これをつぎの「学問の季節」に送り込んで、「生と形式」の「弁証法的螺旋関係」を創り出していくことはできないか、それこそ思想-学問の課題ではないか、という発想です。1962-63年「大管法闘争」も1968-69年「東大闘争」も、まさにそうした企図と抱負が具体的に試される正念場でした。

 

 

1962-63年「大管法闘争」

 

この闘争では、大学のあり方そのものが、直接、争点とされました。それだけに、小生にとっては1960年「安保闘争」以上に大きな意味を持ち、後から振り返ると、さながら1968-69年「東大闘争」の「前哨戦」――「東大闘争」では実存的投企に踏み切る課題群が出揃って、半ば自覚されてきた「前段階」――ともいえます。

 

 

・池田内閣による「大管法」制定企図の明示と社会学院生の対応

 

1960年「安保闘争」によって岸内閣が退陣した後に出てきた自民党の池田勇人氏は、「所得倍増計画」を掲げて、(街頭闘争には決起した)市民大衆を慰撫し、見事「高度経済成長」に絡め捕る立役者となった人として有名です。ところがかれは、国会で「貧乏人は麦を食え」と放言して物議をかもすなど、「率直な物言い」でも知られ、首相に就任早々、「大学が、学生デモ隊の『出撃基地』として利用され、『革命戦士』の養成所になっている、『大学の管理』をなんとかせねばならん」(趣旨)と正直にぶち上げたのです。

 

わたしたち社会学の院生は、「すわ」と受け止め、早速、「この機会を、『身に降りかかった火の粉を払いのける』だけの政治的防御には止めず、むしろ『大学のあり方』を考え、自分たちの『大学論・学問論』も構想し、将来の職業的実践に活かせる理念や指針を打ち出す『絶好の機会』として『逆手』にとろうよ」と申し合わせました。

 

そして、それまでにも文部省などが「アドバルーン」として打ち上げていた「大学管理」関連の諸案を収集して、比較分析し、討論資料を作成して、学内外に議論を呼びかけると同時に、『大学論』『学問論』関係の文献も広く集め(注 30)、院生室の一角に「ライブラリー」を設けて、互いに読み合い、議論しました。

 

(注30)政治運動に臨んで好んで読まれたマルクス主義や左翼の文献ばかりでなく、ドイツ観念論からヴェーバーをへてヤスパース、はては高坂正顕にいたる学問論・大学論関係の諸文献、オルテガ・イ・ガセの技術論と「大衆人」論、カール・マンハイムの「イデオロギー論」(「知識社会学」)、ロバート・E・パークらの「境界人」論など。このうち、「専門科学者」を (社会学的範疇としてではなく、「人間学的」範疇として)「知識人」ではなく「大衆人」と断じ、「学問という轆轤に繋がれた駄馬」と罵倒するオルテガ説は、1968-69年「東大闘争」における「専門バカ」論の先駆でした。小生自身は、「語の一人歩き」をおそれ、「専門バカ」という呼称は避けました。

 

そのようにして、「60年安保闘争」時にはなお「抽象的」発想と抱負の域を出なかった課題――「運動のなかで従来の『殻』を割って出ようとする『情念』を、渦中で汲み取って『理念』に結晶させ、つぎの『学問の季節』に送り込んで、螺旋状の発展を期す」という目標――が、一歩、具体化されたのです。

 

 

・「大管法」案の狙いと「法制化見合せ」

 

まず、「大管法」諸案を分析すると、(文部省-大学関係については)(1)学長を初めとする学内人事にたいする文相拒否権の実質化、(大学内については)(2)学長の権限強化による評議会の諮問機関化、(3)教授会構成の限定的再編(若い助教授や講師の、意思決定過程からの排除)、(対学生関係については)(4)学生の(学外も含む)「秩序違反」にたいする処分の厳正・強化、(5)学内への機動隊導入にたいする「忌避感(アレルギー)」の払拭、(6)(一朝有事のさいには教員が学生を統制できるように、常時そなえておく)両者間の日常的コミュニケーションの円滑化・緊密化、などを謳って、上からの統制強化、とりわけ、大学の管理体制を中央集権化し、国家権力機構の出先・末端に編入して、(「学生処分」と「機動隊導入」とを二本柱に)学生運動の押さえ込みを狙う、という意図と構図が、はっきり読み取れました。

 

そこで、わたしたちは、たんに「大管法」の「法制化」を阻止するだけではなく、さらに、その意図を暴露して挫くだけでもなく、それらと現場で闘い、それらにとって代わる「現場からの主体-、自発的結社形成」も射程に入れて、広く「大管法」反対運動を呼びかけ、学内外の「討論集会」にも、資料を携えて参加していったのです。

 

さて、紆余曲折はありましたが、「大管法」案そのものは、(幸か不幸か)廃案になりました。それというのも、池田首相と「個人的persönlich(即人的)」に親しい「学界三長老」(中山伊知郎・東畑誠一・有沢広巳)が、「『上からの法制化』のような、そういう強権的なやり方では、『一般教員』の反撥を招いて逆効果になる、むしろ大学が『自主的に』取り組むように仕向けるから、ここはひとつ、わたしたちにまかせてほしい」(趣旨)と「とりなし」に入り、政府も「振り上げた拳は引っ込め」、「法制化」をひとまず断念したのです。

 

「大管法反対」には唱和して気勢を上げた全国の大学教員も、この「法制化阻止」を「闘争勝利」と総括し、安堵して「オールを休めて」しまいました。そして、「高度経済成長」「東京オリンピック」「国際万博」とつづく「飽満した気分の昂揚」に浸り、またぞろ「大学の季節」に単純回帰し、「大管法」の(じつは後刻、「国大協・自主規制路線」に姿を変えて現れる)狙いも、推認されず、いつしか忘却されたのです。

 

 

・東大内における「講座」家族主義の露呈

 

それでは、東大学内の小状況は、どうだったでしょうか。なるほど多くの東大教員は、「大管法」に反対は反対でした。しかし、その論拠となると、たとえば当時の東大法学部長が、「(大学内の基礎単位をなす)『講座』は、家族のようなもので、家風に合わない余所者が強引に押し込まれたのでは、やっていけない」(趣旨)と語り出すのが実情でした。当人はおそらく「こういえば通りがよい」と思い、ごく自然に講座を家族にたとえたのでしょうが、それだけに、法学部にかぎらず、大学内のいたるところに澱む「家父長制」的権威主義と「家族主義」的融和精神の残滓が「問わず語りに語り出された」ともいえましょう。

 

同じ東大法学部に在籍する『日本社会の家族的構成』や『現代政治の思想と行動』の著者は、この発言に「口を噤み」ました。わたしたち院生には、むしろこちらのほうが深刻な問題で、大学内の「風通しの悪さ」と「物言えば唇寒し」の伝統的精神風土に根ざす「学知と実践との乖離」したがって「(学知の)灯台下暗し」を、こよなく象徴する事態と受け止められました。

 

こういうことでは、「対外排斥と対内緊密の同時性」法則(注31)がはたらき、「このさい (『敵前』では)『臭いものには蓋』をし、『内部矛盾』には目をつぶって、事態を乗り切ろう」という雰囲気が醸成され、「大管法反対運動」が、克服されるべき残滓をかえって補強する「逆機能」を果たしかねない、と危惧されました。

 

(注31)これは、周知のとおり、「ユダヤ系マージナル・マン」のジンメルが鋭く見抜いて定式化した「一般経験則」「社会学的法則」です。

 

 

・「学問の自由」「大学の自治」への問い返しとその契機

 

学外・学内における教員層のこうした実情に直面して、わたしたちには翻って、「大管法」反対のスローガンを、従来どおり「『学問の自由』『大学の自治』を守れ」のままにしておいてよいものかどうか、という疑念が生まれました。大学における「学問」研究のあり方や「自治」慣行の実態は問わず、そこにはすでに「自由」や「自治」が「申し分なくある」という前提を置いて、そういう「名分」から出発し、現実は素通りして「名分」の補強に終わるような運動のままでよいのか、という疑問です。

 

わたしたちは、「大管法」をめぐる大状況を分析して、広く全国の大学教員層に反対を呼びかけ、政府・文部省の企図を押し止める運動を展望し、組織化していこうとしたのですが、それと同時に、自分たちの属する大学の小状況についても、学内各層の対応を分析して、運動を広めようとした結果、このとき初めて、「学知と実践との乖離」という深刻な問題に直面したのです。しかも、それはなにも「偉い先生方」(「戦後近代主義」の名だたるリーダー)にかぎられることではなく、まず誰よりもわたしたち自身の問題でした。とういのは、こうです。

 

わたしたち院生は、「大管法」にかんする資料を提供して議論を呼びかけたうえで、自分たちの属する文学部社会学研究室を皮切りに、各研究室単位で院生と教職員の議論を詰め、連署の「大管法」反対声明を、(できれば陸続と発表して)大状況に押し上げていこうと企てました。当時はなお、「学外権力の介入から『学問の自由』『大学の自由』を守れ」というスローガンが効力を保っていたので、署名は「院生-助手-講師-助教授-教授」へと順調に進みました(注32)。ところが、頂点に立つ主任教授のところで、暗礁に乗り上げました。

 

(注32)既成のスローガンと講座制の「縦の位階秩序」に乗ったままの、こうした運動の進め方自体、じつは問題だったのですが、当時、それが頓挫するまでは、気がつきませんでした。

 

「60年安保」時には、東大文学部の教員有志も、「樺美智子さん、虐殺抗議」の横断幕をかかげて(当局にたいしては、学生の「付き添い監視役」という名目を立てたようですが)本郷キャンパスの正門から国会の南門までデモ行進しました。わが社会学科の主任教授も、このときには一行に加わっていて、小生も「よくぞ」と感激したものです。

 

ところがこんどは、「そういうふうに『下から』署名を集めてきて、わたしひとりが加わらないとなると、世間に、『あ、本郷の社会学科、割れてるな』と思われる。逆に、わたしが最初に署名すると、他の先生方も同じことを考えて、署名せざるをえなくなる、いずれにせよ『内面的な拘束力』がはたらくから、そういう連署の声明はよくない」といって断られ、押し切られました。

 

小生は、「問題は『世間がどう見るか』ではなく、『先生ご自身が個人としてどうお考えになるか』です」と、喉元まで出かかったのですが、「内面的な拘束力」という言葉に捕らわれ、一瞬たじろぎました。このときは結局、主任教授抜きの共同声明は、「状況論的にかえって不利を招く」という議論が大勢を占め、見送られました。大学院の最上級生で、企画や交渉にあたった小生の責任は大きかったのですが、あまり追及はされず、それだけにかえって心に懸かり、反省を迫られました。

 

この一件は、まず、大学の講座が、いまなお「家父長制」的権威主義と「家族主義」的融和精神との残滓に支配され、「世間体を気にかけていうべきこともいえず」「ものいえば唇寒し」の空気が澱んでいる実態を、鮮明に露呈したといえましょう。加えては、そういう残滓が、「官僚制」の(指揮命令系統・昇進順位・ときとして抑圧移譲の体系をなす)「位階秩序」にともなう「職歴-、立身出世主義careerism」の大勢とも癒着し、自由な発言を内面から抑止し、闊達な議論と合意形成を妨げている実態を表出した、とも考えられましょう。

 

さらに、この実態を「比較文明論」的(「比較歴史社会学」的)に捉えるとすれば、「欧米近代」の侵略と脅威に曝された非欧米文化諸「境域marginal areas」(インド・ロシア・中国・日本など)では、「近代」の自生的熟成を待たず、いち早く「超近代」(「官僚制」)が持ち込まれ、あるいは取り込まれて、「前近代」と癒着するため、「近代的個我」の形成は、二重に阻害されて、個人の自律が伸び悩んでいる事態、というふうにも位置づけられましょう。

 

ところが、問題はじつは、そのように「理屈」をつけ、「客観的に位置づけて」済む「他人ごと」ではありませんでした。そういう弊害をよく心得て、言葉のうえではいつも反対を唱え、思弁も逞しくしていながら、いざ、自分の現場の問題となって、卑近な上司の意向に逆らう選択と態度決定を迫られるや、躊躇して拒否も反論も鈍る、自分個人の脆弱さを、いやおうなく思い知らされたのです。「実存主義」も形無しでした。

 

小生の脳裏には、カール・レーヴィットの箴言が、去来しました。一時期、東北大学に在籍して日本人学者の生態と意識に通じていたかれは、「日本人学者は二階家に住み、二階では好んで欧米近代の思想や学問を喋々するが、一階では伝統にどっぷり漬かって暮らしている」(趣旨)と、辛辣に語っていました。小生は、何気なく読み流していたこの箴言を、このとき初めて「図星」と受け止め、「それなら、一階でも、二階の原理原則を貫いてみせよう」と気負いました。しかし同時に、今後、同じような状況に直面したら、ひるまずに初志を貫徹しよう、と思いなおしもしました。

 

 

・「学問の自由」「大学の自治」の意味転換と、ヴェーバー社会学の思考方法

 

そういう経緯もあって、わたしたち院生の議論は、勢い、「学問の自由」と「大学の自治」とは、「すでに大学内に確立している」と仮定される「自由」と「自治」を、実態は不問に付したまま、「外部権力(政府・文部省)」の干渉や介入から「守る」というのではなく(少なくともそれだけではなく)、大学内の制度(「講座制」)と人間関係において不断に培われる「精神」を、現場で問題とし、したがって(「戦後近代主義社会学」が唯一問い残してきた「聖域」ともいえる)大学を、こんどこそ研究対象に据え、具体的問題を具体的に切開しながら自己変革を遂げていくことこそ、肝要ではないか、という方向に導かれました。

 

当事者としてのそういう現場批判・自己批判のなかから、理性的な議論を重ねて、「合意を形成」し、「自発的結社を創設」し、あるいは、既存の制度に編入されている(学科などの)単位諸集団も、そのような結社に「再編成」して「賦活」していくことが、「現場からの根底的民主化」の第一歩と考えられました。そして、「大管法闘争」の争点ともなっている大学現場で、そういう「自由」と「自治」を達成し、そこから大状況に向けても、「漸進的な拡充」を企て、「全社会的な官僚制化」に抗して、「近代的自我」形成を貫徹し、「個人の自律」を達成していくことが、当面の意識的目標とされたのでした。

 

(注33)この「近代主義」にたいしては、当時すでに、「西洋化至上主義」「欧米主義」という非難ないし批判が寄せられていました。しかし小生は、「近代的自我」の形成=「個人の自律」の達成を優先目標とし、そのうえに、「日本的伝統」のなかから選択的に活かせる要素を探り出し、「現在的文化総合」(E・トレルチ)を達成して、「雑種というひとつの新しい個性」(加藤周一)を創り出すこと、あるいはむしろ、「近代的自我」形成という意識的目標追求が、「思いがけない随伴結果」として、そういう「個性」を実らせること、に期待をかけました。

 

 さて、運動目標とスローガンのこうした意味転換は、当時は自覚していたわけではありませんが、じつは、ヴェーバーの思考方法とも呼応する性格をそなえていました。ヴェーバーは生涯、「学問と政治(という「異なる神々」)間の緊張」を一身に体して生き、大状況の政治にたいする現在進行形の論評と批判を怠りませんでしたが、後に上山安敏氏や野崎敏郎氏の研究によって明らかにされたところでは、若いころの就職事情の軋轢を「トラウマ」として抱え、その切開から始めて、卑近な大学問題への発言と行動も欠かさなかったようです。

 

たとえば、「ベルンハルト事件」(注 34)についても、問題を、「プロイセン文部省 (学術局) 対ベルリン大学哲学部国家学科」という「社会形象」間の対立に集約 (解消) はせず、ベルンハルト個人が、やがて同僚となるべき人々(「国家学科」の教員たち)の学問上の信頼を勝ち得る努力は怠ったまま、「領邦」政府・行政当局の意向に唯々諾々したがって赴任した「個人責任」を問いました。

 

(注 34) 1908年、当時のプロイセン文部大臣が、キール大学国民経済学教授ルートヴィヒ・ベルンハルトを、学部に照会することなく、ベルリン大学哲学部国家学科の正教授に任命したことに端を発する「ベルリン大学紛争」。

 

これは、「社会形象」を「集合的主体」として「実体化」はせず、それぞれを構成している諸個人の「行為」に遡って、微視的にも分析し、そのうえで「社会形象」を「秩序づけられた協働行為連関」として捉え返し、そのようにして「原子論」と「全体論」とを総合していくヴェーバーの社会学が、期せずして(この場合には)卑近な小状況に適用され、活かされた一例ともいえましょう。

 

かれは、自然科学系諸学部を起点とする大学全般の「官僚制化」(物的研究手段の研究者からの分離・「疎外」) が、「領邦」 権力の介入とも、学部教授会の「家父長制」的「権威主義」の慣行とも癒着して、教員個々人を「体制(大勢)順応型」の「ビジネス・マン」(「学問の神」とは異なる「産業経営の神」や、場合によっては「政治権力の神」に仕えるacademic careerists) に馴致し、成型する、現に圧倒的な傾向と風潮に「いかに抗するか」と問題を立て、小状況の学内問題についても、そのつど「現場で社会学すること」(注35)を実践しました。そのうえで、そういう個々人どうしが、それぞれの経験と意見を持ち寄り、汎「領邦」的また全国的な規模でも「大学教員会議」を結成し、連帯して闘っていくことを、重要な課題と心得ていたのでした。

 

(注35)「自分の実存とは無縁に、『社会理論』を構成し、人々に『見世物』を展示するのでは虚しい」という感性から、ヤスパースの「哲学」と「哲学することPhilosophieren」との区別を「社会学」にも援用して、「社会学することSoziologieren」ないし「社会学的アンガージュマン」(サルトル) という範疇を立てました。

 

 

・将来の教育実践を、責任課題として捉える

 

他方、「小状況の現場から出発して、『自由』と『自治』を大状況にも押し上げていく」方向と段取りについて、わたしたち院生の間には、つぎのような発想が生まれました。

 

すなわち、院生はおおかた、近い将来、大学教員になる予定を「自明のこと」としていたのですが、そのさい、研究者としての「将来のポスト」には思いを馳せても、「どういう大学教員になって、どういう質の教育を担っていくべきか」とは、ほとんど考えず、少なくとも主題化して論じ合うことはなかったのです。「小・中・高の公教育の民主化」について持論を唱え、ジャーナリズムに出て論陣を張る「日教組講師団」のひとりが、大学における自分の講義には熱意を示さず、もっとも休講率が高い、という現実を、誰も問題とは感じていませんでした。

 

それにたいして、わたしたちは、「大管法闘争」を闘って初めて、将来の「教育実践」をとおして「日本社会の近代化・民主化」に寄与していくことはできないか、できるとすればいかに、というふうに問題を立てました。大状況の政治課題を達成しようとする非日常的街頭行動やジャーナリズム発言と、小状況の日常的研究-教育活動との間を、無媒介に行き来して「単純な循環」を繰り返すのではなく、双方を「弁証法的螺旋関係」に「転轍」していく小状況の出発点として、「大学における教育実践」を位置づけ、大状況への「波及効果」も射程に入れて、研究ともども全力を傾けて取り組もう、と思いいたったのです。

 

 

・「教養教育」理念としての「社会学すること」

 

小生の場合、この発想が、1964年「ヴェーバー生誕百年シンポ」を経由し、(1965年に赴任した)教養学部における教育理念と教材編成に、実を結びました。すなわち、大状況の政治課題や自分の生活史から乖離して専門的「学知」に閉じ籠もってはならず、むしろ、同時代の大状況を展望しながら自分の現場で「社会学すること」を、「教養」の核心に見立て、その方向で学生ひとりひとりの「自己形成」を介助することが「教養教育」の課題であると考え、この理念に即応する教材編成を、一歩一歩、具体化していこうとしたのです。

 

「軍国少年」だった筆者が、「現場からの近代化・民主化」を志すようになった経緯を振り返っても、(結果に追われて前提を問ういとまのない生き方を強いる)受験勉強から解放され、自分自身を顧みる余裕(モラトリアム)を取得し、社会にも目を開かれ、読書と思索に耽り、習作の論文も綴って『同人誌』や『クラス雑誌』に発表し、夜を徹して議論することもできた、大学教養課程の自由な二年間が、じつに大きな、かけがえのない意味をもっていました。

 

そこで、教養課程の現役の学生諸君が、同じように「自由な二年間」をすごし、授業からも、(マルクス、デュルケーム、ヴェーバーといった社会科学の古典を教材として)「現在進行形で『社会学する』こと」ないし「現場問題への社会学的アンガージュマン」のスタンスを会得してくれれば、どんな専門課程に進学し、卒業後いかなる社会領域に乗り出していくとしても、そのスタンスを堅持して各々の現場の問題と取り組み、「日本社会の根底からの民主化」に寄与し、民主主義の裾野をそれだけ広げていってくれるだろう、と期待し、そういう教育実践に全力を傾注していこうと決意しました。  

 

 

・「ヴェーバー生誕百年シンポ」には「身の丈にあった実践」の回避が露呈

 

つぎに、1964年の「ヴェーバー生誕百年シンポ」ですが、これについては、前問(1)で、ヴェーバー研究の展開の一契機として取り上げられたので、当時の「マルクスとヴェーバー」論の問題点と「旧稿」テキスト・クリティークとの関連について、「学知」の平面にかぎってはお答えしました。

 

ここでは、このシンポを、別の視角から、1968-69年「東大闘争」に連なる「学知と実践との緊張」の一齣として、採り上げる必要がありましょう。しかし、この点については、中野敏男他編『マックス・ヴェーバー研究の現在』(2016、創文社)、第三部第一証言「歴史社会学と責任倫理――生誕100年記念シンポジウムの一総括」、第七~十三節(296-308頁)で、立ち入って論じていますので、主としてはそちらを参照していただければ幸いです。

 

小生は、「裏方」の実務と、「Rationalisierung [合理化] とIntellektuslismus [主知主義]」と題する(意図して文献的検証に徹した)第二日第二報告とを、なんとか無事終えて安堵すると同時に、登壇したり、討論で発言したりするヴェーバー研究者・関係者がいずれも、「学知」の限界を堅く守り、それを越える問題を突き付けられると、「知の巨人ヴェーバー」か「もっと身近な偶像」を引き合いに出し、「隠れ蓑」にして、各人の「身の丈にあった実践」は回避しているのではないか、という印象を受け、これを通弊と感じて、考え込みました。

 

なるほど、討論では、(1)丸山眞男氏が(大塚報告に反対して)、「素朴実証主義」と「発展段階論」という対極的二形態をとる「対象への凭れ掛かり」を、「アニミズムに連なる」「呪術的思考」として批判し、なおヴェーバーから「脱呪術化 Entzauberung」を学ぶことができるし、学ぶべきである、と唱えました(この発言が、このシンポの「ハイライト」であったことは確かでしょう)。

 

しかし、氏の力説する「脱呪術化」は、学者個人の思考方法にかぎられ、現場の「(いわば呪術的)無風状態」(たとえば東大法学部の「家父長制」的権威主義と「家族主義」的融和精神の残滓に由来する「無討論状態」)を内部から「突破」し、一般市民の実践的営為へと架橋-拡張していくべき課題とは、自覚されていなかったようです。

 

また、「求道者」にたいする丸山氏の(いかにも氏らしい)一面的非難も、ヤスパースをもっぱら「精神病理学者」「自然科学者」として引き合いに出し、「『実存-理性』に依拠して『ザッハリヒカイト(具体的客観性)』も求めて止まない求道者」、つまり(精神医学者-心理学者-哲学者ヤスパースが、ヴェーバーを念頭に置いて彫琢した、勝義の)「みずから哲学する人der philosophierende Philosoph」という範疇には想到していなかった、と解されましょう。

 

いまひとつ、(2)内田義彦氏の「報告補遺」は、戦前・戦中・戦後の日本で、学者が「純粋力作型」たらんと、もっぱら学問的要請にしたがい、農民・労働者・学生との連携を求めると、力量を発揮できる場から「弾き出される」ほかはなく、「パリア(コネ)力作型」のみ「主流に乗って」「活躍できる」という通弊を、久保栄の『火山灰地』(という文学)を素材として指摘しました。しかし、この問題にたいする氏自身のコメントは、「『パリア力作型』など好む者はいない。しかし、どうもがいてもそうなる。おそろしいことです」という感懐の吐露に終わっています。

 

 

・10・8闘争における山﨑博昭君の虐殺と、死因をめぐる虚偽報道問題

 

さて、翌1965年には、ベトナム戦争が激化し、2月には、米軍が「北爆」を開始しました。しかし小生は、同じ2月に教養学部に専任講師として赴任し、4月から教養課程の「社会学」講義を始めなければならないとあって、教材編成に大童でした。それから三年間は、講義と演習の準備に追われ、やはり「学問の季節」に戻ってしまっていたことになります。

 

ところが、1967年 10月8日、佐藤栄作首相の南ベトナム訪問に抗議し、羽田空港に向かってデモをしていた京大生の山﨑博昭君が、弁天橋付近で、機動隊の乱打による頭蓋骨陥没で死亡しました。報道によると、同君は、カント、ヘーゲル、マルクスなど、当時の学生が挙って読んだ古典類をぎっしりリュックに詰めてデモに参加していたとのことでした。そのなかの一冊にキルケゴールの『誘惑者の日記』があったと聞き、実存主義にも関心を寄せていた様子が窺えて、小生は、特別の親しみを感ずると同時に、時ならぬ早世を痛惜したのでした。

 

しかも、この件につき、警察は「学生仲間の運転する車が、誤って同君を轢いた」と発表し、翌日の各紙は、この警察発表を鵜呑みにして報道しました。ところが、遺族、弁護士、鈴木道彦・竹内芳郎・海老坂武氏らサルトリアン大学教員が、山﨑君の運び込まれた病院の医師の証言と記録、また監察医務院の「死体検案書」も調べ、礫傷がないことと頭蓋骨陥没を確認し、警察の「事実」捏造を克明に立証して、マス・コミの報道姿勢を厳しく糾弾したのです。

 

このスタンスに、小生は、感銘を受けました。闘争のさなかでも、あるいはまさに闘争のただなかでこそ、しばしば相対的には些事として軽んじられ、忘れられがちな細かい事実も、さればこそしっかりと確認し、記録し、継承することが大切で、それこそ知識人の責任である、と銘記しました。

 

やがて、1968年6月の駒場キャンパスでは、学生たちが、激化するベトナム戦争を止めることも、日本政府の荷担を抑えることもできず、日々「勉強」に明け暮れている自分自身の「加害者性」に苛立ちを感じ、いつになく激しく教員を追及してきました。小生には、そういう「実存主義社会派」の感性をそなえた学生たちに、ときとして山﨑博昭君の姿が重なりました。

 

 

1968-69年「東大闘争」

 

この闘争の事実経過については、一教員当事者としての現場経験を、(東京地裁の「東大闘争裁判」(注36)に証人として喚問され、出廷した、大河内一男前総長や加藤一郎総長代行ら)当局側責任者への尋問をとおして、検証し、その最終弁論を『東京大学――近代知性の病像』(1973、三一書房)と題して公表して以来、いくたびか語ってきました。

 

(注36)1969年1月18-19日に東大安田講堂に立て籠もって逮捕され、起訴された学生と院生の裁判」(1969-73年)。

 

最近も、東大医学部のデータ改竄疑惑につき、総長に公開質問状を発した岡崎幸治君らの問題提起に答えて、「1960年代精神史とプロフェッショナリズム――岡崎幸治『東大不正疑惑 「患者第一」の精神今こそ』(2014年11月8日付け『朝日新聞』朝刊『私の視点』)に寄せて」を、HP 2015年欄に掲載しました。ご参照願えれば幸いです。

 

今年から二年後の「安田講堂50年」(2019年1月18-19日)にかけては、東大当局が再導入した約8,500人の警察機動隊に、学生・院生が火炎瓶を投じて果敢に抵抗する姿が、たびたびテレビに映し出されることと予想されます。その光景を、「マス・コミの風物詩」として受け流すのではなく、「なぜ、かれらがあそこまで?」と問い返す機会として、活かしていただければと思います。

 

 

・ベトナム戦争の激化と荷担構造の可視化

 

さて、敗戦後日本の学生運動は、日本共産党その他、政治党派の指導のもとに、「政治の季節」と「学問の季節」との「単純な循環」を繰り返してきました。ときに激しい「街頭行動」や「(反基地)現地闘争」によって、世人の耳目を聳動し、マス・コミの注目を浴びる「政治の季節」と、「授業料値上げ反対」から「トイレット・ペーパーをそなえよ」にいたる日常的改良要求を「勝ち取って」、党員や下部組織員を増やし、勢力を拡張-温存して、つぎの「街頭行動」にそなえる「学問の季節」との反復でした。

 

ところが、1960年代後半には、ベトナム戦争の激化にともない、自民党政権や財界の戦争荷担の構造が、見紛いようもなく可視化されてきました。沖縄の基地を飛び立つB-52は、ベトナムで絨毯爆撃を繰り返し、佐世保には原子力空母エンタープライズが入港し、東京の王子には(戦死者に化粧を施して本国に送り返す機能も併せ持つ)「野戦病院」が開設されました。

 

こうした動きにたいして、学生・院生・若手教員の一部には、「何もしないで『研究』や『勉強』に閉じ籠もっていていいのか」「『拱手傍観している自分』は、『第三者』に止まらず、『無関心』ないし『黙認』によって、当の構造を支えている『加害者』ではないのか」という疑念が目覚めました。

 

そして、こうした感性的素地のうえに、医療制度の改変(「インターン制」から「登録医制」への再編成)や、(そうした問題を採り上げて制度改悪に反対する学生・研修生の運動にたいする)「処分」といった、大学現場の小状況で起きる問題も、大状況の「戦争加担構造」とけっして無縁ではなく、その「合理化」「再編」の一環・一分肢ではないのかと、互いに関連づけて捉え返されるようになりました。

 

「医療(医学部、病院)の『帝国主義』的再編」や「教育(大学とくに理工系)の『帝国主義』的再編」が問われる一方、1962-63年の「大管法」以降、その再編目標を達成するため、大学への権力統制を強化し、大学内にも触手を延ばす「国大協・自主規制路線」が、(「大管法」の法制化見合せと引き換えに)発進-整備され、学生処分と機動隊導入との二本柱の形をとって発現してきている、という認識も生まれました。

 

 

・大学運動史上画期的な、院生・助手の大規模参加

 

ところで、1960年代までの学生運動には、その担い手がまさに学生「である」という制約がありました。つまり、各人の人生行路の一時期だけ、一過的に運動に熱中しても、学部卒業・就職後には、異なる組織の職場に移り、学生時代のことはおおかた忘れて、別のことを始める、という前提条件と、これにともなう制約です。たとえば、学生時代にはアジテーションに巧みで華々しく活躍した「活動家」が、卒業後の職場では、そうはできず、場合によっては (持ち前の「権勢欲」をみたすために) むしろ「既存の権力」にすり寄り、「権力主義者」に転身して生き延びる、という現象も目立っていました。

 

ところが、「1968-69年学園闘争」では、大学院生や助手が、初めて、それまでにない規模で、運動に加わり、自由闊達に発言し、議論し始めました。かれらは、学部卒業後、長期の見通しのもとに、学問研究を自分の「使命 (ないし職業)」と心得、学問的思考の訓練もそれだけ長く積んでいました。そういう院生や助手の大量参加は、敗戦後の社会運動史、とくに大学運動史上、画期的なことだったでしょう。

 

こうした与件変更から、「1968~69年学園闘争」では、「『学問の自由』と『大学の自治』を『守れ』」という図式が、大衆的にも疑われ、崩れ始めました。全共闘系の学生-院生は、(1)1962-63年「大管法」闘争のさい、東大構内の銀杏並木で集会を開いたとの事由による学生処分、(2)「1967年『登録医制』(『インターン制』再編)」問題にかかわる(第一次、第二次)ストライキにたいする学生処分、(3)これに反対する「第一次時計台占拠」にたいする、大河内一男東大総長による第一次機動隊導入、とつづく経過から、1968年の夏には、「大学」をもはや単一の「社会形象」とは見ず、「当局・教授会」対「学生総体」、後者をさらに「秩序派学生」対「闘う学生」の対抗的力関係として捉え始めました。

 

「当局・教授会」は、「国大協・自主規制路線」の大学内「橋頭堡」にすぎず、(学生処分と機動隊導入を梃子に、学生運動の弾圧と封じ込めを狙う)体制の一環に編入されてしまっている、また、教員はといえば、個人として良心的に振る舞おうとしても、教授会メンバーとしては「国大協・自主規制路線」を末端で担う「権力の手先」として機能するほかはなく、そういう「立ち位置」の教員が呼びかける「話し合い」や「コミュニケーション」は、(「大管法」諸案が明示ないし示唆していたとおり)学生一般を学内秩序に「からめ捕り」「統合」する「策動」以外のなにものでもないから、「断固排徐する」か、あるいは「さほど敵対しないまでも、幻想を抱いてはならない」というわけです。

 

 

・なお残る「社会形象」の実体化と「流出論」的思考法

 

この主張はなるほど、1960年代に現実に起きた(学生処分や機動隊導入といった)諸事件を、従来の「『学問の自由』『大学の自治』を守れ」図式よりも的確に捉え、すっきりと説明していました。ただし、思考方法としては、相変わらず (1)「社会形象」を「実体化」する捉え方のまま、「対立」の軸を学内にずらしただけで、(2)「社会形象」を「諸個人の有意味行為」にいったん還元し、それぞれの「動機」を問うたうえで、「多種多様に秩序づけられた協働行為連関」として捉え返し、(3)(体制「矛盾」が発現してくるという)「流出論」を、いったんは仮説とみなし、学内外における「諸個人の行為連関」の次元で、なるべく具体的に検証し、説得的に論証しようとするスタンスは、なおけっして十分とはいえませんでした。

 

したがって、他方では逆に、(4)小状況の諸個人の行為から出発して、どう「自発的結社」を創り、どう大状況の変革に繋げていくのか、その構想と戦略を練り、当面の闘争(とくに「大学闘争」というひとつの部分闘争)を、そうした展望のもとに相対化して、過大な抱負と「終末論的幻想」は自己抑制し、闘争を (当面の要求項目の実現を確認したうえでは)いったんみずから収束し、「学問の季節」に繋げ、つぎの「政治の季節」にそなえて、実力を蓄える、というような、柔軟で慎重なスタンスには、やはり乏しく、「若者特有の抽象的で生硬な議論」の域を出ない嫌いがあった、といわざるをえません。

 

しかし、教員、とくに社会科学のプロフェッショナルとしては、若者たちがいつになく真摯に問いかけてきているのですから、「その問やよし!」と正面から受けて立ち、もとより問題点も指摘し、議論の端緒を見つけて、対抗的にも相互補完関係・連帯関係を創り出していくべきだったでしょう。そこを、「権力の手先」と決めつけられ、建物や研究室を封鎖され、「平和な城内を荒らされた」と憤激するばかりで、学生・院生が問いかけた内容には(その時点でも事後にも)まったく応答せず、相手の欠点や(後に派生した)逸脱行動ばかりを論って「自己正当化」に躍起となるようでは、研究者兼教員、とくに後者として、大人気なく、なさけない、というほかはありません。

 

それはともかく、「東大紛争」が全学化する1968年6月の局面に戻ると、もしかりに全共闘系の学生・院生が、従来どおり一本調子に「医療と教育の帝国主義的再編粉砕」「国大協・自主規制路線粉砕」といった政治スローガンを翳すだけだったとしたら、たとえ医学部全学闘が、時計台本部の占拠-封鎖という冒険戦術に出た(1968年6月15日)としても、大河内一男総長の第一次機動隊導入 (6月17日) 以後、日共・民青系の宣伝(「時計台占拠こそ、機動隊導入を招いた暴挙で、『大学自治』の敵」)のほうが効を奏し、これを契機に闘争がかえって全学化する前代未聞の「逆説」的事態は、とうてい起きなかったにちがいありません。ところが、じっさいには、学生世論が、なんと占拠支持に傾き、全学ストライキ体制に収斂したのです。これはいったい、なぜだったのでしょうか。

 

 

・非日常的処分のみか、日常的学問経営も問う契機――医学部「T君処分問題」をめぐる高橋・原田報告書の意義

 

その間、学内の関心を集めた焦点のひとつに、「T君処分問題」がありました。医学部で処分を受けた17名の学生・研修生のうち、T君は、処分理由とされた「春見事件」当日、久留米に出掛けていて事件の現場には居合わせなかった、と主張していました。そして、この件については、医学部専任講師の高橋晄正・原田憲一両氏が、学会の帰途、久留米に足を運んで、T君の足跡を調査し、その報告書を公表して、冤罪の疑いが濃厚になってきたのです。

 

この調査報告書は、大状況の政治イデオロギー問題はいったん棚上げして、小状況の現場における東大当局の「誤り」(あるいは少なくとも「杜撰」) を綿密に立証し、図らずも学生・院生の「抽象的で生硬な議論」を補完する形になっていました(注37)。ところが、医学部教授会は、この高橋・原田報告に取り合おうとせず、また、(処分という不利益処遇の「規範的・法的妥当性」に専門的関心を向けてしかるべき専門部局の)法学部教員も、高橋・原田報告の追検証にも、その内容にたいするなんらかの応答にも、乗り出そうとはせず、「口を噤んで」いました。他学部の教員も、学生から「T君処分をどう思うか」という質問を受けると、言を左右にして、のらりくらりと逃げる始末でした。

 

(注37)そのうえ、これまた図らずも、学内各層の議論を、下記のとおり、大状況から小状況へと「水路づける」役割を果たしました。

 

こうした実態が、つぎつぎに明るみに出てきて、「一般学生」も、「これは黙過できない」と感じ始めました。さらにそこから、「こんなことが罷り通る大学は、学生処分という例外的・非日常的な事件にかぎらず、日常的な経営、したがって研究と教育の質においても、問題ではないか、東大教員の学問は、何のためにあるのか、法学部教員にかぎらず、社会科学の専門家は、いったい何のために『研究』しているのか」という疑問が、拒みようもなく芽生え、尖鋭化されました。

 

この問いは、当時の状況では、「ベトナム戦争における米軍の暴虐を報道では知りながら、手を拱いて『勉強』や『研究』に明け暮れている自分たちの『日常』とは何か」という問いとなって「わが身に跳ね返り」ました。

 

さらに、「医学部学生・研修生の闘いを『対岸の火災』のように傍観していた自分たちの『日常』こそ、かれらを(かれらにとっては「起死回生」の)時計台占拠に追い詰めた元凶ではなったか」、「なるほど、建物占拠それ自体は、(前後のコンテクストから切り離して見れば)『暴挙』にはちがいないが、では他に、どういう選択肢が現実にありえたのか、かれらに『泣き寝入りしろ』とでもいうのか、それよりもなによりも、この自分は、どうすればよかったのか」というふうに、当事者の立場に身を置いて問題を「わがこと」として捉え返す課題を、ひとりひとりに突き付けたのでした。

 

1962-63年「大管法闘争」のさなかには、ごく少数の院生に孕まれた「実存主義社会派」の感性と発想が、このときには「一般学生」「一般院生」の間にも広まったのです。「『大学自治』の名分に囚われず、実態を見つめよう。同時に、自分はこの間、何をしていたか、何をすればよかったのか、考えよう。1968年1月29日の「春見事件」発生から、当事者からの「事情聴取」も経ずに、数週で決められ、20日後には発令された、17名の大量処分を、『何もしないでいた自分』は、事実上追認して、支えていたのではないか。自分たちのこの無関心と黙認が、時計台占拠と機動隊導入を『まさに招いた』のではなかったか。そうした既成事実に責任を執らず、いままた傍観者になりすまし、被処分者に『泣き寝入り』を迫っていいのか」と。

 

「翻って、こうした学内問題は、『米軍によるベトナム人虐殺』と『何もしないでいる自分』との『共扼-共犯』関係と、はたして無縁であろうか。機動隊導入の現実は、学内における(「国大協・自主規制路線」の発動であるかどうかはひとまずおくとしても、『学部自治』という名の『特別権力関係』による『人権侵害』の疑いが濃厚な)拙速で杜撰な大量処分につづく、当局による不当な権力行使の第二弾ではないのか。自分はこうした目の前の現実を、いままた拱手傍観して、やり過ごしてよいか。むしろいまこそ、そうした『傍観者性』、『加害者性』をみずから拒否し、(やがてかれらの口にのぼる言葉を使えば)『自己否定』して、医学部全学闘と連帯し、共に闘うべきではないか。この闘いを起点に据えて、『ベトナム戦争反対運動』にかかわっていくべきではないか」と。

 

こうした受け止め方がこれほどの大衆的規模におよんだのは、敗戦後の学生運動においておそらくは初めてのことだったでしょう。東大教員が「知識人」であれば、こうした昂揚を、従来の「殻」を割って出る「生」と「情念」の息吹として、とりわけ敗戦後の実存主義が社会運動にも着地して芽を吹く画期的兆候として、渦中で注目し、「理念」に結晶させ、精練して、つぎの「学問の季節」に送り込むべきだったでしょう。ところが、東大教員は、この芽生えに正面から向き合おうとせず、結局は1969年1月18-19日の機動隊再導入により、政治的・強圧的に潰してしまったのです。

 

 

・「七項目要求」中、学内最大の争点となった「文学部処分」問題をめぐる攻防

 

1968年夏の「全学スト体制」以来、1969年1月18-19日の機動隊再導入にいたる経過については、他所で詳細に述べていますので、ここでは繰り返しません。ただ、「それでは、具体的に、どうすればよかったのか」という貴兄のご質問には、つぎのとおりお答えしましょう。

 

大河内執行部が、医学部処分と第一次機動隊導入の責任をとる形で退陣した後、11月には、加藤一郎総長代行(法学部教授)が登場しました。この新執行部と全共闘との最大の争点は、双方も衆目も一致して認めていたとおり、一貫して「文学部処分」問題でした。

 

そこで、この処分の発端となった「1967年10月4日の文学部協議会 (文協)」に遡ってみますと、現場の行為連関はこうでした。すなわち、真っ先に文協の会場から出た教授会委員の助教授Tが、後からつづいてくる同僚委員(三名)の退出を助けようと、囲みの一番外側にいたオブザーバー学生Nの左袖を抑えたところ、Nが振り向きざまTに詰め寄って「ネクタイを掴んだ」というのです。文学部教授会は、この「後手抗議」を、文協会場からの「退席阻止」と称し、「教官にたいする非礼」(後に「暴力行為」)と認定して、無期停学処分に付しました。

 

「先手」は問わず、「後手」だけを取り上げて処分したのですから、明白な「身分差別」ですが、それはともかく、「後手抗議」を「先手の」「退席阻止」と取り違えていたことは確かで、これまた(医学部の「T君処分」と同様)事実誤認にもとづく冤罪処分でした。ところが、加藤一郎氏は、いかにも規範・概念法学者らしく、「退席阻止」という事実誤認を引用・明記していながら、「この処分は、当時の手続きに照らして正当になされたから、再検討はできない(処分制度を改めるさいの参考にはする)」と主張して譲らなかったのです。

 

ところで、加藤氏は、総長代行に就任するさい、条件として「危機独裁」「委任独裁」の権限を取り付けていました。したがって、かれが、文処分の事実経過を検討し、事実誤認の冤罪処分と分かれば、学部長会議・評議会・各学部教授会などの了承を経る必要はなく、即刻、白紙撤回を決めて、文教授会の責任者に責任を取らせることができるはずでした。そこで、文処分の事実経過を検討して問題ありと考えていた教養学部の西村秀夫氏は、「平時であれば望ましいやり方ではない」と思いながらも、このさいは加藤氏に直接会って、問題点を伝え、議論しようとしました。ところが、「特別補佐」や秘書の壁が立ちはだかり、「面会の時間がとれない」という理由で、断られ通しでした。

 

また、助手共闘のなかにも、学生・院生が年を越して延々と闘争をつづけるのは無理と察し、大衆的支持をえている「七項目要求」を貫徹したところで、ひとまず「矛を収め」、勢力を温存して再起を企てたほうがよいと考え、執行部との間を「取り持とう」と非公式に接触を保っていた「大人」がいました。しかし、加藤執行部が、「七項目要求」中、最重要な争点の文学部処分問題で、事実誤認と冤罪に拘り、白紙撤回を認めないようでは、とうてい全共闘側の妥協を取り付けることはできない、と断念するほかはなかったのです。

 

 

・文処分における「TN行為連関」の「理解社会学」的再構成

 

それでは、小生自身は何をしていたか、と問われましょう。

 

小生も、文処分には疑問を感じて、全共闘側の白紙撤回要求と教授会側の釈明文書とを比較-照合し、真相を究明しました。そのさい、なにか意識的にヴェーバーの思考方法を適用したのではありませんが、そこはやはり、普段から馴染んでいる「理解社会学」を「10月4日事件」の現場に適用して「T⇌N行為連関」を再構成することになりました。

 

教授会文書が提供している「史実的知識」によると、「文協」会場から退席しようとした四人の教官委員のうち、真っ先に学生の囲みを解いて扉外に出たTに、学生Nが「並外れて激しい行為に出て、ネクタイを掴んだ」というのですが、そこに、ヴェーバーの「因果帰属」の論理にしたがい、「人間は通例、(ある類型的状況に)どう反応するか」にかかわる「法則的知識」をリンクしてみますと、こうした状況で、通例ならまだ扉内にいる委員長に詰め寄り、文協の継続とつぎの日取りの確約を取り付けようとする学生Nが、なぜ、よりによって、唯一の助教授で平委員のTに、「並外れて激しい行為」におよんだのか、その「動機」が分かりません。

 

この教授会文書は、Nの行為の「並外れて激しい」したがって「処分に値する」特性を「説明」していないのです。他方、(教授会文書は一貫して不問に付している)Tについて、同様に「動機」を問うと、扉内にとり残されている同僚を気遣い、「振り返って見た」というのが「自然」で、教官一般の「恒常的習癖」にも適いましょう。そして、こういう「摩擦」状況では、Tが咄嗟に、学生の囲みを振り解こうとして、最後列にいた学生の腕ないし袖に、先に手を掛け、これに(背後から押さえられて、それだけ大きい手応えを感じた)Nが、振り向きざま「激しく抗議」したとしても、不思議ではありません。

 

このように、教授会見解を甲説、学生側所見を乙説として、双方を公平に比較-対照してみれば、「T⇌N行為連関」を「T先手⇌N後手抗議」と捉えたほうが、「(動機理解の)明証性」も「(行為経過としての)経験的妥当性」もともに高い「説明」がえられます。

 

しかし、「すべては疑いうる」「もっともラディカルな懐疑が認識の父である」という学問の規範的要請に照らすと、思考によって再構成されたこの「T先手⇌N後手抗議」が「現実にもそのとおりに起きた」と即断はできず、なお疑いを差し挟む余地は残されています。とりわけ、T本人の証言による裏付けが必要でした。ところが、当人および文学部教授会のガードが堅くて、実現しませんでした。

 

かりにNが、身分保全の訴訟を起こしていたとしたら、裁判所は、Tを証人として喚問し、法廷で尋問-反対尋問-再主尋問に曝したでしょう。ここでもTが、「大学自治」という「特別権力関係」に守られてしまいました。ただ、そういう懐疑が、学者としては大切でも、あの状況で、「T先手⇌N後手抗議」説を、あくまで仮説として状況に投企し、マス・コミにも発表して、議論を喚起し、そのなかでT証言も引き出し、N処分を「事実誤認にもとづく冤罪」として「白紙撤回」に導き、そうした「勝利」の確認を前提に、「闘争の一時収束」への「とりなし」を実らせることができなかったか、と問うことはできましょう。

 

 

・「沈む泥船のファッシズム」

 

しかし、東大教員の精神状況は険悪でした。圧倒的多数は、問題を「医学部で『負け』、また文学部でも『負ける』のか」と、政治のカテゴリーで捉え、「いきり立つ」寸前でした。この「鬱憤」に火をつけたのが、1968年11月4-11日の「文学部八日間団交」にたいする本郷の教員有志の声明でした。

 

早くから発言を期待されながら、学内の争点については口を閉ざしてきた丸山眞男氏が、氏の研究室からすぐ近くにある「団交」会場に足を運んで、議論されている内容や、文学部教員は出入りが自由といった事実をみずから確かめることもなく、このとき初めて「口を開き」、「林文学部長の不当監禁」「人権侵害」「大学を無法地帯とする暴挙」と決めつけ、マス・コミ向けとしか思えない大仰な「声明」を発して、学内気流の反転・反動の「油に火をつけ」ました。

 

西村氏や小生が、教養学部の教授会や教官懇談会で、「全共闘が加藤執行部との話し合いにいまのところ応じないのは、(この点にかぎっては双方が一致して認めているとおり)『七項目要求』中の文処分問題がネックになっているからで、ついてはその発端となった『10月4日事件』の事実経過に遡って再検討しようではないか」と提唱しますと「なに?『文処分』?なんでいま『そんなこと』を、教養学部で議論しなければならないのか?」という感情的反撥が勝って、とても議論にはなりませんでした。「そんなことをすれば、林文学部長の『頑張り』や丸山教授らの折角の発言を『無にしてしまう』ではないか」と口に出す人もいました。「あァ、これはもう、沈む泥船のファッシズムだ」という絶望が、一瞬、胸をよぎりました。

 

加藤執行部からは、小生にも、「新たに発足させる『大学改革準備会』の正式のメンバーになってほしい」という要請が(工学部の鈴木成文氏を通して)伝えられましたが、小生は、「争点の文処分問題について納得のいく解決を見ないうちに、一足飛びに『改革』に取り組むわけにはいかない」といって、はっきり断りました。

 

そういうわけで、小生は「東大紛争」の全期間中、同僚の教員になにか(たとえばヴェーバーの「責任倫理性」のような)高度の要求をつきつけたのではありません。科学者ならば、相対立する主張に直面しても、双方を甲説と乙説として比較-対照し、どちらに「理」があるか、根拠を挙げて判定し、各人のそうした所見を持ち寄って、議論することはできるはずで、それこそ「教授会自治」の第一歩ではないのか、そういう「ごくあたりまえの」規準に、みずからしたがい、同僚にもしたがうように求めたにすぎません。ただ一点、ヴェーバー社会学が、当時思っていた以上に、状況内の定位と投企に、よく活かされてはいたようです。【次ページにつづく】

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.254 公共性と社会

1.長谷川陽子「知の巨人たち――ハンナ・アーレント」
2.岸本聡子「公共サービスを取り戻す」
3.斉藤賢爾「ブロックチェーンってなあに?」
4.山岸倫子「貪欲なまでに豊かさを追いかける」