2017.06.09

未完のマックス・ウェーバーを引き受ける人生――レジェンド・インタビュー01

折原浩氏インタビュー(聞き手/橋本努)

社会 #シノドス国際社会動向研究所#レジェンド・インタビュー

いまや伝説的ともいえる著名な知識人たちから、わたしたちは何を学び、何を継承していくことができるだろうか。シノドス国際社会動向研究所がお届けするシリーズ「レジェンド・インタビュー」では、知の分野でさまざまな貢献をなしてきた方々に、インタビューをつうじて人生を振り返っていただく。第1回目は社会学者の折原浩氏に話を伺った。

折原浩 1935年、東京生まれ。1958年、東京大学文学部社会学科卒業、同大学院社会学研究科に学ぶ。1964年、助手。翌年より教養学部専任講師。1966年、教養学部助教授となるが、1968年から69年の東大紛争において、当局と教授会・教員の姿勢を問い、とりわけ文学部学生の処分問題を事件の発端に遡って究明し、事実誤認を突き止めた。

1969年1月18-19日の機動隊再導入に反対して、授業再開を拒否し、「造反教官」と呼ばれた。学生の主張する「大学解体」を「大学解放」と読み替え、「解放連続シンポジウム 『闘争と学問』」、「公開自主講座『人間-社会論』」を、主宰者のひとりとして担い、逮捕された学生・院生の裁判には「特別弁護人」として加わった。

マックス・ヴェーバーの業績を批判的に検証し、現代に生かすことを研究テーマとし、特に1970年代中頃よりヴェーバーの主著でありながら編集の不完全な「経済と社会」の再構成問題に一貫して取り組んでいる。

001

天職にいたるまで

橋本 折原先生はこれまで、マックス・ヴェーバー研究の第一人者として、とりわけウェーバーのテキストを再構成するという「テキスト・クリティーク」において、世界的にすぐれた成果をあげてきました。

例えば、『ヴェーバー『経済と社会』の再構成:トルソの頭』東京大学出版会(1996)、『マックス・ウェーバー基礎研究序説』未來社(1988)、『『経済と社会』再構成論の新展開:ヴェーバー研究の非神話化と『全集』版のゆくえ』ヴォルフガング・シュルフターとの共著(鈴木宗徳/山口宏訳)未來社(2000)、『日独ヴェーバー論争:『経済と社会』(旧稿)全篇の読解による比較歴史社会学の再構築に向けて』未來社(2013)、などの著作がそれです。

ウェーバーの主著の一つである『経済と社会』は、草稿として残されたものであり、それをウェーバーの死後に妻のマリアンネ・ウェーバーが出版したわけですが、その際にテキストが正しい順番通りに並んでいるのか、ということが問題になりました。テキストが順番通りに並んでいないと、テキストに記された前後参照指示の意味が不明となり、理解を妨げます。またこの著作におけるウェーバーの全体構想も見えてきません。折原先生はこの編纂の問題に取り組み、既存の編集方針を覆す新しい説(再構成の仕方)を提示されてきました。

まずお伺いしたいのは、こうした一連のウェーバー研究を人生のいわば「天職」とされたことのきっかけについてです。おそらく1965年に刊行された、大塚久雄編『マックス・ヴェーバー研究:生誕百年記念シンポジウム』(東京大学出版会)と、その元になったシンポジウムが一つのきっかけになっていると思われますが、他にもさまざまな要因があったのではないかと察します。これまでの研究活動を振り返ったときに、研究の初発の段階を、どのように回顧されるでしょうか。

また合わせてお伺いしたいのは、このテキスト・クリティークという研究が、なぜ生涯をささげるに値するお仕事になったのか、その持続的情熱(エートス)は、なにに支えられているのか、ということです。

折原 1.「どういうふうに、なぜ、ヴェーバー研究に取り組んだのか」と、2.「そうするうちに、どんな機縁で、『経済と社会』(旧稿)のテキスト・クリティークに携わることになったのか」とに分け、「1935年生まれ世代」の戦後生活史・思想形成史のコンテクストから、お答えしていきます。

1. ヴェーバーとの取り組み

このご質問にお答えするには、第二次世界大戦における日本の敗戦と、一少年の戦後生活史に触れないわけにはいきません。

・軍国少年

小生は、1935年、東京市に生まれ、10歳(小四)のとき、「疎開」先の千葉市で、敗戦を迎えました。「軍国少年」でした。1945年に入って、米軍による「本土空襲」「焼夷弾の絨毯爆撃」が激しくなると、「警戒-、空襲警報」が発令されるつど、近辺の「防空-消火本部」に詰め、「B-29 〇〇機、房総半島上空を北上中」というような「東部軍管区情報」をラジオで聴き、メガフォンで復唱して、丘の上の「監視所」に伝える役目を担っていました。当時は、ラジオをもたない地域住民もいて、「どうなっているのか、状況が分かって助かる」と感謝されるのがうれしく、張り切って任務を果たしました。

・戦争体験の諸類型

戦争の影響は、「銃後」の国民一般には、(1)焼夷弾投下や機銃掃射による死傷、(2)同じく肉親や親友の死傷、(3)((2)のような「特別の他者」ではなく)「戦争犠牲者」一般の死傷、(4)住居の焼失、(5)戦後の生活難、(6)生活難を遠-、近因とする、肉親(とくに「家計支持者」としての父親)の病死、というふうに、一様ではなく、スペクトル状の深刻さをなして波及しました。小生は、そのうちの(1)(2)(4)は免れましたが、(3)(5)(6)を被りました。

また、大都市育ちにかぎられますが、(7)(戦時特有の「水平的社会移動」としての)「疎開」、それも (学級ごとの)「集団疎開」ではなく (家族別の)「縁故疎開」の影響が大きかったと思います。郷里の近隣・遊び友達・学級仲間からは切り離され、疎開先の異質な生活環境で、「外部生」「余所者」として遇され、少年ながら多少とも「故郷喪失」に陥りました(注1)。この点にかぎると、小生はその後も、高校入学と同時に東京に戻り、そこでこんどは「田舎帰り」の「外部生」「余所者」と目され、「故郷喪失」が長引きました(注2)。

(注1)1960年代には、「集団就職」という「水平的社会移動」にともなう「故郷喪失」感が社会現象ともなりました。

(注2)こうした「故郷喪失」は、縁故疎開だけに起因したわけではなく、戦後「引揚者」にははるかに激烈に、他方、緩やかにではあれ「転勤族」の子弟には常時、起きていたはずです。

・「理科少年」「野球少年」に育つ

さて、小生は、(6)父が敗戦の一年後に病死したため(注3)、もっぱら母の教育方針にしたがって「理科少年」「野球少年」に育てられました。検事の妻で堅気な母は、「この子が、放っておいて、文科に進もうものなら、『萩ちゃん』(注4)と同じように『左傾』しかねない」と危惧したようです。小生は、母の方針に忠実に、『文学少年』にも『哲学少年』にもならず、戦争と戦争責任について考えることもせず、能天気に育ちました。

(注3)「超自我」が不在ないし微弱ということでもあります。

(注4)母のすぐ下の妹。日本女子大卒。築地小劇場に入る。1945年8月6日、丸山定夫ら慰問団櫻隊が広島で被爆。原爆症第一号患者・仲みどりの傷病記録『櫻隊全滅-ある劇団の原爆殉難記』(1980、未來社) の他、『メザマシ隊の青春-築地小劇場とともに』(1983、未來社)を刊行。夫・若山一夫は映画『第五福竜丸』の製作者の一人。

ただ、「自分は『戦争の悲惨』を (2)や(4)の犠牲者ほどに体験してはいないので、『戦争』一般についても語れない」という「気後れ」があり、(3)戦争犠牲者一般からは、「生き延びて、どう生きるのか」とたえず問われているように感じていました。そういう一種の「負い目」から、「現在の生活を心置きなく享受することは許されない」という「禁欲的」な生き方に導かれたのかもしれません。しかし、その問いが、戦争と戦争責任の問い返しへと向けられることはありませんでした。

むしろ「軍国少年」の延長線上で、「日本が戦争に負けたのは、科学技術で米英に劣っていたからにちがいない、自分は将来、科学者になって戦後復興を担おう」と志しました。この動機から、『子供の科学』(誠文堂新光社)を定期購読し、「実験好き」になりました。化学反応の結果が色の変化ではっきり確認できることや、ラジオを配線図どおりに組み立てるとちゃんと音が出てくるのに、驚き、喜びを感じました。

また、当時の野育ちの少年一般(注5)と同じく、草野球から三角ベースを経て、中・高では「部活」に没頭しました。高三の夏には、甲子園を目指して、東京都(注6)の予選を、準々決勝戦まで、(最終戦は)神宮球場で闘いました。小生の通う「進学校」が、スポーツでそこまで進出できたのも、多分、戦時の「密教」的措置(注7)の「後遺症」だったでしょう。

 

(注5)「優等生」は「いじめられっ子」で、「勉強」に活路を求めている、とみなされがちでした。

(注6)当時はまだ東西に分かれず、126校によって争われる日本一の激戦区でした。

(注7)「エリート養成校」にかぎり、「表向き」に反して「敵国のスポーツ」も温存していました。

戦後復活第一回大会では、東京代表の座が、なんと府立一中(後の日比谷高校)と東京高師(注8)付属中との間で争われたのです。それはともかく、「激動期」「混乱期」とはいえ、あるいはまさにそれゆえ、「文武両道」も可能な、牧歌的な時代でした。その後、大学という場に身を置いて、「自分はスポーツをやっていてよかった」と感ずることが、しばしばありました。

(注8)東京高等師範学校。敗戦後、東京文理科大学と合体して東京教育大学となる。

・受験対策で、思いがけず清水『社会的人間論』に出会う

さて、「理科少年」「野球少年」が社会学に関心を惹かれる機縁は、「部活」を終えて受験勉強に切り換える時期に、思いがけない形でやってきました。当初は志望どおり理科Ⅰ類(理学部・工学部進学予定)を受験するつもりで、不得意科目で「命取り」になりかねない「現代文」をなんとかしようと、「哲学者や社会科学者の硬い論文を読むとよい」という受験雑誌の助言にしたがい、何冊か繙いたのです。

そのなかにたまたま、清水幾太郎著『社会的人間論』(創元文庫) がありました。そこには、一個人の成長を「家族から近隣・同輩・同級生をへて職場へ」という「集団遍歴」の過程として追う視点が示されており、自分が「疎開」体験から抱え込んでいた問題が何であったか、とくに集団の境目を横切るごとの「危機」とその意義(注9)について教えられ、目の覚める思いでした。

(注9)以前の集団で身につけた習慣が破綻し、新しい集団に適応する過程で、思考が目覚める。

こうして突如、「人間と社会」に目を開かれ、清水著を皮切りに、社会学関係の本を読み漁りました。そのうえ、感興の赴くままに、「付属の生活について」と題する(小生にとって初めての)「論文」をしたため、校友会雑誌『桐蔭』に投稿したのです。「付属」とは、小生が高一から編入されて「外部生」となった、旧東京高師・当時東京教育大・現筑波大付属高(大塚)のことです。幼稚園から小-中-高と「ところてん式」に上がってくる「内部生」(「山の手」一帯の「良家の坊ちゃん・嬢ちゃん」)には、「集団遍歴」にともなう「危機」がないから、「批判」が芽生えず、自己革新の可能性に乏しい、と「外部生」の視点から「一矢むくいた」わけです。

・教養課程で、ヴェーバー「倫理論文」を読み、「戦争責任」を問う

そのように、高三末期に急転直下、志望を理Ⅰから文Ⅱ(現在の文Ⅲで、文学部・教育学部進学予定)に変えたのですが、その無謀がかえって幸いし、理数科目で得点を稼いだのか、ストレートに入学できました。ただ、「これから、自分の好きな勉強ができる」と喜んだのも束の間、文Ⅱのクラスで出会った新入生には、なにか「大人っぽい」「哲学青年」「文学青年」が大勢いて、生粋の「理科少年」は、「これは大変なところにきた」「遅れまい」と、濫読と思索に没頭することになります(注10)。

(注10)とはいえ、教養課程の二年間 (1954-56年) には、多方面に視野を開かれ、多彩な経験も積み、じつに多くの貴重なことを学びました。いま、教養学部・教養部が解体され、大学・教養課程の「空洞化」が進んだ状況で、当時を振り返って、その意義を再考したい衝動に駆られます。しかし、そうしますと、さなきだに冗長なこの応答が、さらに止めどなく膨れ上がり、際限がなくなりそうなので、ここは禁欲して、別稿を期します。

そんななかで、関心が徐々に、社会学のなかでもヴェーバーに収斂し、敗戦後の生活史からの問題提起とも結びついてきます。小生はとくに『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下「倫理論文」)を、「社会学という一専門学科にとって必読の一先行文献」としてではなく、むしろ「人生の書」として耽読しました。そこには、欧米近代の「合理的禁欲」という「生き方」の淵源(注11)と現状(注12)が、鮮やかに浮き彫りにされています。

(注11)カルヴィニズム、メソディスト派、敬虔派、(再)洗礼派系ゼクテ(信徒団)などの「禁欲的プロテスタンティズム」。

(注12)「精神なき専門人」「心情(心意)なき享楽人」の跋扈。

小生は、この本の衝撃を機に、「日本が戦争に負けたのは、科学技術に劣っていたからではなく、むしろ精神構造に問題があったのではないか」と思い始めました。「『無謀な戦争をすれば負ける』と分かってはいても、『反対』と言い出せず、『議論』を避け、『時流に流される』一般大衆の『集団同調性』と、やはり『時流に追随して』『拒否』を貫けない知識人の弱腰こそ、問題ではなかったか」と考えました。そうすると、「戦後復興」の中心課題も、「科学技術の振興」ではなく、「『時流に抗して』生きられる『自律的個人』の形成」に求められます(注13)。

(注13)この問題設定は、後になってからですが、やはりウェーバーの比較歴史社会学のパースペクティヴと重ねて、「『近代的な自律的個人』の熟成を『二重に』妨げる『伝統』の残滓と、時期尚早の『官僚制化』――『前近代』と『超近代』の癒着――」というふうに、「欧米近代の侵略を受けた非欧米『境域群marginal areas』に共通の問題」として、再構成されます。

ところが、そうすると、「では、日本の都市という都市に焼夷弾を雨霰と降らせ、広島・長崎には原爆を投下し、非戦闘員市民も(たんに『巻き添えにする』のでなく)殲滅を意図して、科学技術の粋を凝らした米英人の精神構造は、どうだったのか」と反問せざるをえません。

戦時中の「鬼畜米英」というスローガンは明らかに誤りだったとしても、一転して「英米流の民主主義」を「ピューリタニズムに淵源する近代精神の精華」に見立て、「規範に仰ぐ」というのでは、「裏返された時流迎合」にすぎないではないか、その論法では、わたしたち日本人が、こんどは「強靱な個人」となり、「冷徹な議論」の末、戦勝を「合理的に予測」し、開戦に「慎重に踏み切って」「勝利すれば」、「それでよい」ということになるではないか、……こうした疑問が、つぎつぎに浮かんできました。

そうすると、「戦後近代主義」の(大塚久雄・川島武宜・丸山眞男に代表される)オピニオン・リーダーたちは、「日本人の精神的脆弱さ」を批判的に克服しようとする方向性では、共鳴でき、学ぶところが多いとしても、他面、この「欧米近代の問い返し」という難題は、やはり避けて通っているのではないか、と思われました。

ところが、この難問についても、ヴェーバー本人は、じつは「ピューリタニズムと欧米近代の合理的禁欲」を「規範化」「理想化」はせず、むしろその「両義性」(長短・利害得失)を「世界史の地平で」問い返していました。かれは、「倫理論文」を出発点として、「世界史(普遍史)的」視野をそなえた「比較宗教社会学」を構想し、そのパースペクティヴのなかで「欧米近代」を相対化していたのです。

小生は、そういう展開方向と潜勢を感知して、「倫理論文」から(「比較宗教社会学」を一部門として含む)「比較歴史社会学」にいたる「後期」ヴェーバー思想の発展総体(注14)を、自分の研究主題に据えました。そういうわけで、小生にはヴェーバーとの取り組みが、「学知かぎりの問題」ではなく、「戦争-戦後体験」としての生活史に根ざし、「戦後日本の再建」と連動する、いうなれば「実存」的模索と並行する探究の課題だったのです。

(注14)標語風にいえば、『経済と社会』を「法則科学」的分肢とし、「世界宗教の経済倫理」シリーズにおける「個別文化圏」群の研究を「現実-、歴史科学」的分肢とする「理解科学」的「総合」への歩み。

ちなみに、小生は、ヴェーバーへの傾倒が深まるにつれて、清水社会学からは離れました。清水氏には、ヴェーバーを故意に「常識的」ときめつけて見下そうとするスタンスが窺え、そこからは逆に、清水氏が学問に取り組む動機とスタンスの問題性(注15)と学問内容上の不備(注16)が、透けて見えました。

(注15)「没落士族」のルサンチマンと、これに連動している権勢欲。

(注16)たとえば、主著『社会学講義』における「集団」の定義の誤り。出版社との約束を優先させて『社会学の根本概念』邦訳に「屋上屋を架し」、かえって誤訳を増やす杜撰、など。

「疎開世代」の生活史から生まれた「集団遍歴」という問題設定も、やがて清水社会学からは離れて、「境界人」論、とくに「境界人」の積極的意義を示唆する諸理論へと引き継がれ、ヴェーバー自身にも適用され、展開されます(注17)。この「境界人」論も、小生にとってはやはり、「学知」の枠内には収まらず、一方では「東大紛争」における教員と学生との「狭間」「境界」のような卑近な微視的状況に、他方では、対外進出した欧米近代文化と、進出を被った非欧米伝統文化との諸「境域marginal areas」(インド・ロシア・中国・日本など)の巨視的問題領域群にも、半ば実践的・半ば理論的に適用され、活かされていくことになります。

(注17)そのための思想素材を集めたのが、『危機における人間と学問』の前半です。

・「マルクス主義か実存主義か」の二律背反をヴェーバーで架橋

さて、小生が大学の教養課程以降、ヴェーバーに取り組む、いまひとつの(上記の生活史問題と密接に関連してはいますが、いちおう区別できる)契機に、「マルクス主義か実存主義か」という戦後思想史の中心問題がありました。

敗戦後には、(4)住居の焼失、(5)生活難、(6)家計の支柱の病死などから、圧倒的多数の日本人(少なくとも、「焼け出された」都市住民の大半)が、経済的困窮に陥り、「貧困からの脱出」を最優先課題としました。小生自身は、(5)一般と(6)の影響を受け、「欠食児童」ではありましたが、家に少々の資産があったため、「(小出しにものを売って生き延びる)筍生活」とはいえ、母がなんとか遣り繰りして、甚だしい窮乏には陥らずにすみました。

ですから、どちらかといえば、貧困と不平等格差よりも、「縁故疎開」による「故郷喪失」と父親不在のほうが深刻で、「戦後体験」として立ち勝っていました。そこで、貧困を克服し、平等を実現する方向で、経済体制の変革・社会主義化を唱え、最重要視するマルクス主義よりも、「孤独な単独者」の「実存」に意義を認め、力点を置く実存主義のほうに、共鳴したのだと思います。

しかしやはり、「上野の浮浪児」を「卑近な類例」として育った世代のひとりとして、マルクス主義の問題提起と主張内容を、無下に斥けるわけにはいきませんでした。そのうえ、戦時中「戦争反対」を貫いた唯一の思想党派という「権威」主張が、「唯我独尊」の陰影を帯び(注18)ながらも、拒みがたい威力を揮っていました。

(注18)「正」が「負」に反転する「弁証法」の一例といえましょう。

ただ、現実の日本共産党、とくにその学生組織の「民青」には、「民主集中制」という建前のもとに、「国際共産主義運動」の指導部や「党中央」の指令にしたがって、個人としての意見や主張は一変させ、これを無理にも「正当化」する「官僚的」心性が、顕著に認められました。「これでは『前近代』と『超近代』との癒着を強めこそすれ、脱却はできまい」と思われました。

そこで、この点からも、各人の現場における「近代的個我の確立」と「闊達な議論にもとづく自発的結社形成」を起点に据え、その成果を「大状況に押し上げていく」方向と段取りを優先させて、まずはこの「近代主義」を、現存の「マルクス主義的集団主義、-社会主義」に対置したわけです。ただ、そうするからには、当の「近代主義」が、実践上も、マルクス主義に劣らず「急進化が可能radikalisierbar」という実を示して、対抗しなければならず、そうでなければフェアでない、と思いました。

他方、当時の状況では、「現場における諸個人の主体-、自発的結社形成」とともに、現場の労働者と科学-技術者との連帯・「階級」形成が進めば(そういう形で「中間層」問題が解決されれば)、やがてはその延長線上に「社会主義化」も展望できようと(楽観的に)感得されていました(注19)。ただ、社会-経済体制の「社会主義化」が首尾よく達成されても、そのもとで「官僚主義」を克服し、個々人が自律的主体性を獲得していく課題は、あくまでも残る、と予期されてはいました。

(注19)ですから、「社会主義」と「近代主義」とが、相互に緊張を孕みながらも、ともに「プラス価値」として信奉されていたわけです。

むしろ、かりに「現場からの根底的近代化・民主化」という前提条件の熟成を待たず、また、独自の課題として顧みもせずに、権力奪取による旧秩序の解体と再編を急ぐならば、フランス革命がナポレオンⅠ世を、ロシア革命がスターリンを呼び出したように、「官僚独裁」に道を開き、「『解放』と『抑圧』の悪循環」(注20)を招くほかはない、と考えられました。

(注20)この論点については、「フランス大革命(第一革命)」後における「叛乱と圧政(革命と反革命)の悪循環」にかんする「保守主義者」デュルケームの考察から、多くを学びました。

とはいえ、マルクス主義、というよりもマルクスの思想(注21)は、そういう数々の問題点を抱えながらも、「敗戦後日本の、哲学的基礎づけもそなえ、真面目な人々を捕らえて離さない現役の思想」でした。そうであれば、実存主義との「二律背反」関係に追いやって全面的に拒否するのではなく、むしろ「対抗的相互補完」関係のもとに置いて、双方を「架橋」する手立てはないか、と考えました。そして、その媒体を「マルクス後の (post-Marxian) 思想家」ヴェーバーに求めたのです。

(注21)1956年の「ハンガリー動乱」以降、「共産圏」の実情が明らかとなるにつれて、「スターリニズム」あるいは「ロシア・マルクス主義」一般への懐疑がつのり、初期マルクス (マルクスの初心)に帰ろうとする思想潮流が勢いをえて、『経済学・哲学草稿』がこぞって読まれました。初期マルクスとヴェーバー研究との関連については、「戦後精神史の一水脈(改訂稿)――北川隆吉先生追悼」(折原浩のHP、2014年欄、後に、「『現場からの民主化』と『社会学すること』」と改題し、補遺を加え、庄司興吉編著『歴史認識と民主主義深化の社会学』2016、東信堂、324-49頁に再録)に詳述しましたので、よろしかったらご参照ください。

とくに、日本の敗戦後「実存主義」には、「現実存在が本質に先行する」という形式的規定から、なにもかも(「京都学派」の「戦死の『哲学』的意味づけ」という戦争協力も、敗戦直後の「我利我利亡者」の「闇商売」も)「実存的決断」として「正当化」しかねない問題傾向が窺えました。

そこで筆者は、一方では実存主義に学んで、集団の圧力に抗する「単独者の決断」を、(「みんながそうしているから」といって「正当化」はできない)各個人の責任課題として重視するとともに、他方では、決断の内容と、これを規制する規範的要素、ならびに当事者としての意味づけも、同等に重視していきたい、と考えました。そうすると、この点からも、「利害関心Interesse」とともに「理念Idee」の意義を強調するマックス・ヴェーバーが注目されます。こうした動機と視角からも、ヴェーバー著作の内在的読解に沈潜し、自分なりに評価する難行を、みずから選択し、決断した次第です。

2.『経済と社会』編纂問題でテキスト・クリティークに取り組む機縁

その関連で、1964年の「マックス・ヴェーバー生誕百年記念シンポジウム」が、確かにひとつの契機とはなりました。それというのも、このシンポジウムに「裏方」の一人として参加した小生は、大塚・川島・丸山といった「戦後近代主義」のオピニオン・リーダーと、じかに接し、かれらの抱えている問題をつぶさに観察する機会をえたからです。

まず、(a)かれらが一様に「強度の学知家」(「知の巨人」)で、まさにそれゆえ、相互間では、立場の相違が「前提的諒解事項」と化し、正面きっては議論されない、という実情、他方、(b)かれらにおいてさえ、ことヴェーバー著作の内在的読解にかけては、不備・不足が窺われ、少なくとも問題があること、などを、身近に、直感的・経験的にも確認できました。このうちの(a)については、別の箇所(注22)で一端に触れましたので、ここではむしろ、(b)をとりあげてみます。

(注22)「川島武宜-丸山眞男間に、法学部内で学問論争はあったか――高橋裕論文「川島武宜の戦後――1945~50年」(和田仁孝他編『法の観察――法と社会の批判的再構築に向けて』所収)に寄せて」(折原浩のHP、2014年欄)。

・「マルクスとヴェーバー」論のヴェーバー読解への疑問

三人のうち、この「百年シンポ」の主宰者で、ヴェーバー読解にかけては「第一人者」と目されていた大塚久雄氏を採り上げても、「マルクスとヴェーバー」という「旗印」にもかかわらず、あるいはむしろまさにそれゆえ、一方の「ヴェーバー」への内在の度合いには、やはり不備・不足が窺えました。

それというのも、予めマルクス理論の枠組みを前提としてしまって、ヴェーバー著作はむしろ「便利な『草刈り場』『石切り場』として利用」し、それ自体の内在的-体系的読解には踏み込まず、任意の論点や概念だけを、マルクスとの「一致」ないし「類似」を理由に、いきなり抜き出してきて無造作に取り込む「悪しき折衷主義」を免れていない、と見受けられたのです。

それもこれも、当時の「マルクス主義」的「権威主義・唯我独尊」という「時代風潮(注23)に棹さし」、「所詮は『草刈り場』『石切り場』にすぎないヴェーバーについては、学問的文献実証は怠っても許される」という「油断と甘え」が、どこかにあるからではないか、これでは「マルクス後の思想家」ヴェーバーによる「マルクス止揚」の側面(注24)には視界がおよぶまい、と思われました。

(注23)この風潮は、「ヴェーバー・シンポジウム」であるにもかかわらず、いきなりマルクス『資本論』の術語を持ち出し、「周知の前提」として語り出す、という流儀にも、露呈されていました。

(注24)たとえば、(1)比較的よく知られていた論点としては、「資本の集積-集中=労働者の生産手段からの疎外」というマルクスの観点を、「物的戦争経営手段からの兵卒の疎外」・「物的行政手段からの官吏の疎外」「物的研究手段からの研究者の疎外」「物的医療手段からの医師の疎外」といった「並行現象」に適用して、「官僚制化=官僚の『歯車』(伝導装置)化」という包括的カテゴリーを構成するとか、(2)それほどには知られていない論点としては、「アジア諸社会の不変性」の鍵を、もっぱら「自足的な[村落]共同体」=「無連絡な小生産有機体」の併存・再生産に求めるマルクス説の難点を、「村落」のみでなく全社会的な「客人-遍歴手工業」の普及と「種族-カースト間分業」の形成(「西洋的な市場-都市発展」との分岐)によって歴史的に説明し、乗り越えている「ヒンドゥー教と仏教」の叙述(小路田泰直編著『比較歴史社会学へのいざない』(2009、勁草書房、pp.58-95、参照)を挙げることができましょう。そういう「止揚面」が見えないのは「見ようとしない」からだったのでしょう。

・否定的批判から積極的再構成へ

とはいえ、「後から接近する世代」の否定的直感にもとづく、そういう批判は、じつはいたって安易で、それではいざ自分が、ヴェーバー著作の内在的-体系的読解に取り組むとなると、これは「大問題」「大仕事」です。

たとえば、大塚氏が、マルクスの「資本制生産に先行する諸形態」の発展段階論的解釈を基本的枠組みとして、「共同体」の「アジア的-古典古代的-ゲルマン的形態」を論じた名著『共同体の基礎理論』(1955、岩波書店)を採ってみても、なるほどヴェーバーの「ゲマインデ (Gemeinde)」が、文献詮索と典拠挙示を経た定義と概念規定は抜きに、マルクスによる再生産機構としてのゲマインデと、いとも簡単に同一視されています(注25)。

(注25)これと等価の問題性が、「アジア的形態」を論ずるさい、「種族」という語を、無概念でいきなり持ち出していること、「生産力発展が、分業の展開として『現われる』」というような「流出論」的思考表記が頻出していること、などに窺われます。後者には、じつは「1964年シンポ」でも、丸山眞男氏が、抽象的ながら「アニミズム的思考」の一種に見立てて「脱呪術化」の必要を説いていました。

ところが、それでは、ヴェーバーのゲマインデを、かれ自身の理論展開に即して的確に捉えようとすると、まずは『経済と社会』(旧稿)中の用語法を網羅的に検索して、たとえば、(1)ペルシャ帝国の「大衆馴致政策」により、ネヘミアの監督下、祭司長エズラに率いられて「バビロン捕囚」からエルサレムに帰還したユダヤ教「教団」、(2)「家産制」的支配者が「区画して『ライトゥルギー(賦役-貢納義務)』を課しoktroyieren」、「連帯責任」を負わせた農村の「近隣団体」、(3)政治的「自首・自律」(注26)を達成した「地域団体」としての「西洋都市」など、各所に分散して出てくる適用例を拾い集めて、比較照合し、それらに共通の「ゲゼルシャフト結成に媒介された近隣ゲマインシャフト(群)」という一般的規定を突き止めなければなりません。

(注26)団体の「首長Herr」を、外部から指定されるのではなく、内部から選出するのが「自首Auto-kephalie」。団体の「秩序Ordnung」を、内部で制定するのが「自律Auto-nomie」。

ところが、そうするとこんどは、「ゲゼルシャフト結成に媒介されたゲマインシャフト」とは、一体全体どういうことか――「ゲゼルシャフト」と「ゲマインシャフト」というふたつの基礎範疇が、(どうやら、「利益社会」と「共同社会」と機械的に訳出される学界通念とは異なり、「対概念」ではなさそうなのだけれども、では厳密には)どう概念規定され、どういう関係に置かれているのか――と問わざるをえません。

・『経済と社会』(旧稿)における基礎範疇の概念構成と戦略

ではここで、ヴェーバーによる概念構成の骨格を取り出してみましょう。

かれは、(1) 互いに「意味上のsinnhaft」関係にはない複数個人の集合・「集群Gruppe」(たとえば、突然の驟雨という自然現象に反応して、一斉に雨傘を拡げる通行人群) から、(2)「意味上の」関係にはあるが「無秩序」・「無定型」の「(たんなる)ゲマインシャフト関係」、(3)「非制定秩序」(たとえば「慣習律」) に準拠している「諒解 (的ゲマインシャフト) 関係」をへて、(4) 「制定秩序」(たとえば「法律」) に準拠している「ゲゼルシャフト (的ゲマインシャフト) 関係」というふうに、複数個人間の関係が、関与者個人の抱いている主観的「意味」によって、どのように、またどの程度、律せられ、その結果、そうした行為関係が、どの程度、再現・予測可能になるか、そうした(社会関係一般の)「合理化」にかんする一尺度を設定します。

そうしておいて、個々の問題事例を、この尺度上に位置づけるとともに、たとえばある「ゲゼルシャフト (関係の) 結成」から、どういう「諒解関係」(「コネクション」) が「派生」するか、「合理化」尺度上の「流動的な相互移行関係」を動態的に探り出そうとします。ですから、この概念戦略を把握しさえすれば、一方では「ゲマインシャフト」を「有意味行為-関係態」、他方では「ゲゼルシャフト行為-関係」を、(そうした「ゲマインシャフト行為-関係」のうちの)「制定秩序準拠行為-関係」と訳出して差し支えありません。ところが、いきなりそう定義したり、あるいは、「ゲゼルシャフト」に学界通念を押しかぶせて「利益社会」と訳出したりするのでは、いったいなんのことか、さっぱり分かりません。そのうえ、社会関係を「流動的な相互移行関係」において動態的に捉え返そうとするウェーバーの概念戦略を、的確に把握して、応用に活かすことも、とうてい不可能でしょう。

ところが、そうした概念規定の詮索に踏み込むと、さらに、『経済と社会』の「旧稿」(当時の第五版で「第二部」) と「改訂稿」(同「第一部」) とでは、原著者マックス・ヴェーバー自身は明記して概念規定を変更しているのに、マリアンネ・ヴェーバーからヨハンネス・ヴィンケルマンをへて『全集』版にいたる既存の全テキストは、原著者自身の変更を無視する誤編纂に陥っており、これにもとづく概念上の混乱が、日本ばかりでなく、ヴェーバーの祖国ドイツにも、広く流布していて、概念戦略の把握どころではない、という実情に、いやおうなく直面します。そこで、そうした混乱を解消し、原著者の概念戦略を救い出し、「社会学上の主著」とされる『経済と社会』の整合的解釈に到達するには、テキストそのものの誤編纂を是正して再出発しなければならず、それにはどうしても「テキスト・クリティーク」に立ち入るよりほかはなかったのです。

小生は、ヴェーバー研究一般のそうした基礎条件を整えるため、編纂問題を提起し、論争に持ち込もうとしました。しかし、おおかたの研究者は、自分が現に底本として使っているテキストの誤編纂を指摘されても、「非を非と認めて」改めようとはしません。むしろ、「まあ、いろいろある『テキスト解釈』のうち、そういう『変なの』が、ひとつくらいあってもいいやね」と「鷹揚に構え」、「『ほとぼり』が醒める」のを待ちます。現に、『経済と社会』(旧稿)の第三次編纂にあたる『全集』版(MWG, Ⅱ/21)も、第一次マリアンネ・ヴェーバー編と第二次ヨハンネス・ヴィンケルマン編の「合わない頭をつけたトルソ」とは異なるにせよ、誤編纂にはちがいない「頭のない五死屍片」のまま、モール・ジーベック社から堂々と刊行されつづけています。「テキスト・クリティーク」も、そういう「相対化-黙殺」策による「既成誤謬の支配」という現状にたいして、「テキスト上の決定的証拠」をつきつけて「改訂」を迫る、ひっきょうは論証手段にすぎず、なにかそれ自体が「究極の研究課題」というようなものではありません。

しかも、そのようにして概念規定にかんする詮索に踏み込むと、『経済と社会』の「旧稿」(1910-14年執筆、第五版で「第二部」)と「改訂稿」(1920年執筆、「第一部」)とで、原著者自身は明記して概念規定を変更しているのに、マリアンネ・ヴェーバーからヨハンネス・ヴィンケルマンをへて『全集』版にいたる既存の全テキストは、当の変更を無視する誤編纂 (「旧稿」と「改訂稿」との逆転配置か、「五死屍片」への解体) に陥っており、この誤導による概念上の混乱が、日本ばかりでなく、ヴェーバーの祖国ドイツにも、広く流布している、という実情に直面します。

そうした混乱を克服し、ヴェーバー研究を堅実な文献上の基礎に載せ、「社会学上の主著」とされる『経済と社会』の整合的解釈に到達するには、テキストそのものの誤編纂を是正して再出発するほかはないのです。

小生は、ヴェーバー研究般のそうした基礎条件を整えるため、編纂問題を提起し、論争に持ち込もうとました。しかし、おおかたの研究者は、自分が現に底本として使っているテキストの誤編纂を指摘されても、「非を非と認めて」改めようとはしません。そういう「知的誠実性」を欠落させたまま、「まあ、いろいろある『テキスト解釈』のうち、そういう『変なの』がひとつくらいあってもいいやね」と「鷹揚に構え」、「『ほとぼり』が醒める」のを待ちます。

現に、『経済と社会』(旧稿)の 第次編纂にあたる『全集』版(MWG, /21)さえ、第一次マリアンネ・ヴェーバー編と第二次ヨハンネス・ヴィンケルマン編の「合わない頭をつけたトルソ」(初版~第五版)とは異なるにせよ、誤編纂にはちがいない「頭のない五死屍片」のまま、モール・ジーベック社から刊行されつづけています。「テキスト・クリティーク」も、そういう「相対化-黙殺」策による「既成誤謬」の支配にたいして、「テキスト上の決定的証拠」を突き付けて「改訂」を迫る、ひっきょうは論証手段にすぎず、なにかそれ自体が「究極の研究主題」ではありません。

・敗戦後日本の「学界-ジャーナリズム複合態」にたいする批判の動機

とはいえ、そうした課題に真っ正直に没頭し、途方もない手間隙(注27)をかけるにつけては、「ヴェーバー研究」という「学知」の平面にかぎっても、「戦後近代主義社会科学の欠落」を補填して再出発し、ドイツ学界との関係についても、このさい「本店-出店意識」(日高六郎)を払拭し、「閉鎖的なくせに海外の最新流行には弱い学界 [とジャーナリズム] の体質」(内田義彦)から脱却して、世界のヴェーバー研究を堅実な基礎のうえに載せたい、という使命感が、ひとつの動機として(注28)はたらいたことは否めません。こういう基礎的欠落は、なにも大塚氏かぎりのことではなく、むしろ「大塚氏においてさえ『然り』とすれば、ましてや、その他大勢の (日独の) ヴェーバー研究者・論者において『をや』!」といえる問題だったのです。

 

(注27)当時はまだ、コンピューターによる検索は普及せず、カードに書き写して照合する職人仕事でした。

(注28)これと同一の意味づけ・動機形成の事情としては、1964年「ヴェーバー生誕百年シンポ」にも露呈された「戦後社会学」(少なくとも「ヴェーバー研究」)の「凋落」(たとえば、その後1970年代に続々刊行された創文社版『経済と社会』の全訳計画においても、この「社会学上の主著」の邦訳に、社会学者がひとりも登用されていない事実)、他面、「社会学者の不在」ゆえに全邦訳に持ち越された、底本の誤編纂の看過、したがって「社会学上の主著における社会学の不在」という (社会学者の) 責任問題に、やはり一社会学者として、一ヴェーバー研究者として、対応しなければならない、という問題がありました。これについては、HP 2016年欄「記録と随想4: 創文社刊・ヴェーバー『経済と社会』邦訳をめぐる半世紀――創文社の事業終結に思う」に詳述していますので、よろしかったらご参照ください。

1968年の学園紛争をめぐって

橋本 いまから約50年前になりますが、1968年をピークとして、日本ではさまざま大学において学園紛争があり、講義が成り立たないなどの非常事態が続きました。当時は日本社会が全体として、転換期を迎えていたように思います。

折原先生は、実際に当事者の一人として東大紛争に深く関わり、問題の根源を明らかにすると同時に、この紛争から派生する諸問題についても積極的に発言されてきました。『大学の頽廃の淵にて:東大闘争における一教師の歩み』筑摩書房(1969)、『人間の復権を求めて』中央公論社(1971)、『東京大学:近代知性の病像』三一書房(1973)、『大学-学問-教育論集』三一書房(1977)、『学園闘争以後十余年:一現場からの大学-知識人論』三一書房 (1981)、などの著作がその成果です。私はこれらの著作から大きな影響を受けてきました。

すでに折原先生は、人生のさまざまな時期に、この紛争が提起した問題が何であり、先生ご自身がこの問題をどのように背負ってきたのかについて、総括されています。その内容について、ここで簡単にまとめていただくことはスペースの関係で難しいと思いますが、いま振り返ったときに、この問題は、戦後史のなかでどのような位置を占めるものなのでしょうか。また端的に言って、東京大学は当時、何をすべきであったのでしょうか。折原先生の見解をお聞かせください。

折原 ご質問にもあるとおり、1968-69年「東大紛争」は、戦後史のなかで、1960年「安保闘争」、1962-63年「大管法(大学管理法)闘争」、(1964年「ヴェーバー生誕百年シンポ」を挟んで)1967年「10・8羽田闘争」という1960年代の「疾風怒濤」を経て、そうした激動のさなかに提起・展開・継受されてきた問題群のいわば凝集点という位置を占めています。この関連については、ご指摘のとおり、いろいろなところで論じていますので、ここでは要点だけ、抜き書きしましょう。

1960年「安保闘争」

小生は、1954年に教養学部入学、56年に文学部社会学科進学、58年に卒業して大学院に入りましたので、1960年は、(「学者経歴」の一階梯としては)「修士論文」を執筆する年に当たっていました。ところが小生、5~6月には、頻繁に国会デモに出掛ける一方、(法政大学1953年館の北川隆吉研究室に設置された)「民学研(民主主義を守る学者・研究者の会)」の事務局を手伝い、情報収集や市民団体間の連絡に携わり、修論執筆には手が着かず、一年繰り延べました(注29)。

(注29)ある先輩から、「そういうことをすると『経歴に傷がつく』から止めておきたまえ」と好意的に勧告されたのを思い出します。

・政治-社会運動に、学者・研究者としていかにかかわるか、の問題提起

そういう「立ち位置」で、小生の関心は、「日米安保条約反対」「議会制民主主義を守れ」というふたつの(相互間に「緊張」はあるにせよ、「最大公約数」的な)スローガンに唱和する共通面に加えて、つぎのような一連の問いに収斂しました。

すなわち、「市民運動がここまで盛り上がった動因は何か」、「それが、『悲惨な戦争体験』に根ざす『平和と民主主義への希求』にあるとしても、あるいはそうであればこそ、そういう感性とスローガンとの「境界」域で、思想的な形象化を企てる必要がありはしないか」、「この運動が、こうした非日常的盛り上がりのまま、その活性を維持して日常化・永続化することは不可能で、今後『頂点を過ぎて』『潮が引いていく』のは不可避とすれば、その局面で小生自身は、学究志望の一院生として、何をすればよいか」、(一般的に言って)「市民運動への関与と学問研究とを、どう関連づけて生きていくべきか」といった一連の問いです。

そしてそこに、敗戦後の政治-社会運動とくに学生運動が、従来とかく、(「党中央」に振り回されて)非日常的な街頭闘争に動員される「政治の季節」と、「元の木阿弥」に戻って(「トイレット・ペーパーをそなえよ」といった)日常的改良要求の域を出ない「学問の季節」との「単純な循環」を繰り返してきた、という負の印象が重なり、ヴェーバーやG・ジンメルの所見を媒介ともして、つぎのような発想が孕まれました。

すなわち、運動の昂揚をとおして従来の「殻Gehäuse」を割って出ようとする「生Leben」と「情念Pathos」を、運動の渦中で受け止め、「理念Idee」に結実・結晶させ、これをつぎの「学問の季節」に送り込んで、「生と形式」の「弁証法的螺旋関係」を創り出していくことはできないか、それこそ思想-学問の課題ではないか、という発想です。1962-63年「大管法闘争」も1968-69年「東大闘争」も、まさにそうした企図と抱負が具体的に試される正念場でした。

1962-63年「大管法闘争」

この闘争では、大学のあり方そのものが、直接、争点とされました。それだけに、小生にとっては1960年「安保闘争」以上に大きな意味を持ち、後から振り返ると、さながら1968-69年「東大闘争」の「前哨戦」――「東大闘争」では実存的投企に踏み切る課題群が出揃って、半ば自覚されてきた「前段階」――ともいえます。

・池田内閣による「大管法」制定企図の明示と社会学院生の対応

1960年「安保闘争」によって岸内閣が退陣した後に出てきた自民党の池田勇人氏は、「所得倍増計画」を掲げて、(街頭闘争には決起した)市民大衆を慰撫し、見事「高度経済成長」に絡め捕る立役者となった人として有名です。ところがかれは、国会で「貧乏人は麦を食え」と放言して物議をかもすなど、「率直な物言い」でも知られ、首相に就任早々、「大学が、学生デモ隊の『出撃基地』として利用され、『革命戦士』の養成所になっている、『大学の管理』をなんとかせねばならん」(趣旨)と正直にぶち上げたのです。

わたしたち社会学の院生は、「すわ」と受け止め、早速、「この機会を、『身に降りかかった火の粉を払いのける』だけの政治的防御には止めず、むしろ『大学のあり方』を考え、自分たちの『大学論・学問論』も構想し、将来の職業的実践に活かせる理念や指針を打ち出す『絶好の機会』として『逆手』にとろうよ」と申し合わせました。

そして、それまでにも文部省などが「アドバルーン」として打ち上げていた「大学管理」関連の諸案を収集して、比較分析し、討論資料を作成して、学内外に議論を呼びかけると同時に、『大学論』『学問論』関係の文献も広く集め(注 30)、院生室の一角に「ライブラリー」を設けて、互いに読み合い、議論しました。

(注30)政治運動に臨んで好んで読まれたマルクス主義や左翼の文献ばかりでなく、ドイツ観念論からヴェーバーをへてヤスパース、はては高坂正顕にいたる学問論・大学論関係の諸文献、オルテガ・イ・ガセの技術論と「大衆人」論、カール・マンハイムの「イデオロギー論」(「知識社会学」)、ロバート・E・パークらの「境界人」論など。このうち、「専門科学者」を (社会学的範疇としてではなく、「人間学的」範疇として)「知識人」ではなく「大衆人」と断じ、「学問という轆轤に繋がれた駄馬」と罵倒するオルテガ説は、1968-69年「東大闘争」における「専門バカ」論の先駆でした。小生自身は、「語の一人歩き」をおそれ、「専門バカ」という呼称は避けました。

そのようにして、「60年安保闘争」時にはなお「抽象的」発想と抱負の域を出なかった課題――「運動のなかで従来の『殻』を割って出ようとする『情念』を、渦中で汲み取って『理念』に結晶させ、つぎの『学問の季節』に送り込んで、螺旋状の発展を期す」という目標――が、一歩、具体化されたのです。

・「大管法」案の狙いと「法制化見合せ」

まず、「大管法」諸案を分析すると、(文部省-大学関係については)(1)学長を初めとする学内人事にたいする文相拒否権の実質化、(大学内については)(2)学長の権限強化による評議会の諮問機関化、(3)教授会構成の限定的再編(若い助教授や講師の、意思決定過程からの排除)、(対学生関係については)(4)学生の(学外も含む)「秩序違反」にたいする処分の厳正・強化、(5)学内への機動隊導入にたいする「忌避感(アレルギー)」の払拭、(6)(一朝有事のさいには教員が学生を統制できるように、常時そなえておく)両者間の日常的コミュニケーションの円滑化・緊密化、などを謳って、上からの統制強化、とりわけ、大学の管理体制を中央集権化し、国家権力機構の出先・末端に編入して、(「学生処分」と「機動隊導入」とを二本柱に)学生運動の押さえ込みを狙う、という意図と構図が、はっきり読み取れました。

そこで、わたしたちは、たんに「大管法」の「法制化」を阻止するだけではなく、さらに、その意図を暴露して挫くだけでもなく、それらと現場で闘い、それらにとって代わる「現場からの主体-、自発的結社形成」も射程に入れて、広く「大管法」反対運動を呼びかけ、学内外の「討論集会」にも、資料を携えて参加していったのです。

さて、紆余曲折はありましたが、「大管法」案そのものは、(幸か不幸か)廃案になりました。それというのも、池田首相と「個人的persönlich(即人的)」に親しい「学界三長老」(中山伊知郎・東畑誠一・有沢広巳)が、「『上からの法制化』のような、そういう強権的なやり方では、『一般教員』の反撥を招いて逆効果になる、むしろ大学が『自主的に』取り組むように仕向けるから、ここはひとつ、わたしたちにまかせてほしい」(趣旨)と「とりなし」に入り、政府も「振り上げた拳は引っ込め」、「法制化」をひとまず断念したのです。

「大管法反対」には唱和して気勢を上げた全国の大学教員も、この「法制化阻止」を「闘争勝利」と総括し、安堵して「オールを休めて」しまいました。そして、「高度経済成長」「東京オリンピック」「国際万博」とつづく「飽満した気分の昂揚」に浸り、またぞろ「大学の季節」に単純回帰し、「大管法」の(じつは後刻、「国大協・自主規制路線」に姿を変えて現れる)狙いも、推認されず、いつしか忘却されたのです。

・東大内における「講座」家族主義の露呈

それでは、東大学内の小状況は、どうだったでしょうか。なるほど多くの東大教員は、「大管法」に反対は反対でした。しかし、その論拠となると、たとえば当時の東大法学部長が、「(大学内の基礎単位をなす)『講座』は、家族のようなもので、家風に合わない余所者が強引に押し込まれたのでは、やっていけない」(趣旨)と語り出すのが実情でした。当人はおそらく「こういえば通りがよい」と思い、ごく自然に講座を家族にたとえたのでしょうが、それだけに、法学部にかぎらず、大学内のいたるところに澱む「家父長制」的権威主義と「家族主義」的融和精神の残滓が「問わず語りに語り出された」ともいえましょう。

同じ東大法学部に在籍する『日本社会の家族的構成』や『現代政治の思想と行動』の著者は、この発言に「口を噤み」ました。わたしたち院生には、むしろこちらのほうが深刻な問題で、大学内の「風通しの悪さ」と「物言えば唇寒し」の伝統的精神風土に根ざす「学知と実践との乖離」したがって「(学知の)灯台下暗し」を、こよなく象徴する事態と受け止められました。

こういうことでは、「対外排斥と対内緊密の同時性」法則(注31)がはたらき、「このさい (『敵前』では)『臭いものには蓋』をし、『内部矛盾』には目をつぶって、事態を乗り切ろう」という雰囲気が醸成され、「大管法反対運動」が、克服されるべき残滓をかえって補強する「逆機能」を果たしかねない、と危惧されました。

(注31)これは、周知のとおり、「ユダヤ系マージナル・マン」のジンメルが鋭く見抜いて定式化した「一般経験則」「社会学的法則」です。

・「学問の自由」「大学の自治」への問い返しとその契機

学外・学内における教員層のこうした実情に直面して、わたしたちには翻って、「大管法」反対のスローガンを、従来どおり「『学問の自由』『大学の自治』を守れ」のままにしておいてよいものかどうか、という疑念が生まれました。大学における「学問」研究のあり方や「自治」慣行の実態は問わず、そこにはすでに「自由」や「自治」が「申し分なくある」という前提を置いて、そういう「名分」から出発し、現実は素通りして「名分」の補強に終わるような運動のままでよいのか、という疑問です。

わたしたちは、「大管法」をめぐる大状況を分析して、広く全国の大学教員層に反対を呼びかけ、政府・文部省の企図を押し止める運動を展望し、組織化していこうとしたのですが、それと同時に、自分たちの属する大学の小状況についても、学内各層の対応を分析して、運動を広めようとした結果、このとき初めて、「学知と実践との乖離」という深刻な問題に直面したのです。しかも、それはなにも「偉い先生方」(「戦後近代主義」の名だたるリーダー)にかぎられることではなく、まず誰よりもわたしたち自身の問題でした。とういのは、こうです。

わたしたち院生は、「大管法」にかんする資料を提供して議論を呼びかけたうえで、自分たちの属する文学部社会学研究室を皮切りに、各研究室単位で院生と教職員の議論を詰め、連署の「大管法」反対声明を、(できれば陸続と発表して)大状況に押し上げていこうと企てました。当時はなお、「学外権力の介入から『学問の自由』『大学の自由』を守れ」というスローガンが効力を保っていたので、署名は「院生-助手-講師-助教授-教授」へと順調に進みました(注32)。ところが、頂点に立つ主任教授のところで、暗礁に乗り上げました。

(注32)既成のスローガンと講座制の「縦の位階秩序」に乗ったままの、こうした運動の進め方自体、じつは問題だったのですが、当時、それが頓挫するまでは、気がつきませんでした。

「60年安保」時には、東大文学部の教員有志も、「樺美智子さん、虐殺抗議」の横断幕をかかげて(当局にたいしては、学生の「付き添い監視役」という名目を立てたようですが)本郷キャンパスの正門から国会の南門までデモ行進しました。わが社会学科の主任教授も、このときには一行に加わっていて、小生も「よくぞ」と感激したものです。

ところがこんどは、「そういうふうに『下から』署名を集めてきて、わたしひとりが加わらないとなると、世間に、『あ、本郷の社会学科、割れてるな』と思われる。逆に、わたしが最初に署名すると、他の先生方も同じことを考えて、署名せざるをえなくなる、いずれにせよ『内面的な拘束力』がはたらくから、そういう連署の声明はよくない」といって断られ、押し切られました。

小生は、「問題は『世間がどう見るか』ではなく、『先生ご自身が個人としてどうお考えになるか』です」と、喉元まで出かかったのですが、「内面的な拘束力」という言葉に捕らわれ、一瞬たじろぎました。このときは結局、主任教授抜きの共同声明は、「状況論的にかえって不利を招く」という議論が大勢を占め、見送られました。大学院の最上級生で、企画や交渉にあたった小生の責任は大きかったのですが、あまり追及はされず、それだけにかえって心に懸かり、反省を迫られました。

この一件は、まず、大学の講座が、いまなお「家父長制」的権威主義と「家族主義」的融和精神との残滓に支配され、「世間体を気にかけていうべきこともいえず」「ものいえば唇寒し」の空気が澱んでいる実態を、鮮明に露呈したといえましょう。加えては、そういう残滓が、「官僚制」の(指揮命令系統・昇進順位・ときとして抑圧移譲の体系をなす)「位階秩序」にともなう「職歴-、立身出世主義careerism」の大勢とも癒着し、自由な発言を内面から抑止し、闊達な議論と合意形成を妨げている実態を表出した、とも考えられましょう。

さらに、この実態を「比較文明論」的(「比較歴史社会学」的)に捉えるとすれば、「欧米近代」の侵略と脅威に曝された非欧米文化諸「境域marginal areas」(インド・ロシア・中国・日本など)では、「近代」の自生的熟成を待たず、いち早く「超近代」(「官僚制」)が持ち込まれ、あるいは取り込まれて、「前近代」と癒着するため、「近代的個我」の形成は、二重に阻害されて、個人の自律が伸び悩んでいる事態、というふうにも位置づけられましょう。

ところが、問題はじつは、そのように「理屈」をつけ、「客観的に位置づけて」済む「他人ごと」ではありませんでした。そういう弊害をよく心得て、言葉のうえではいつも反対を唱え、思弁も逞しくしていながら、いざ、自分の現場の問題となって、卑近な上司の意向に逆らう選択と態度決定を迫られるや、躊躇して拒否も反論も鈍る、自分個人の脆弱さを、いやおうなく思い知らされたのです。「実存主義」も形無しでした。

小生の脳裏には、カール・レーヴィットの箴言が、去来しました。一時期、東北大学に在籍して日本人学者の生態と意識に通じていたかれは、「日本人学者は二階家に住み、二階では好んで欧米近代の思想や学問を喋々するが、一階では伝統にどっぷり漬かって暮らしている」(趣旨)と、辛辣に語っていました。小生は、何気なく読み流していたこの箴言を、このとき初めて「図星」と受け止め、「それなら、一階でも、二階の原理原則を貫いてみせよう」と気負いました。しかし同時に、今後、同じような状況に直面したら、ひるまずに初志を貫徹しよう、と思いなおしもしました。

・「学問の自由」「大学の自治」の意味転換と、ヴェーバー社会学の思考方法

そういう経緯もあって、わたしたち院生の議論は、勢い、「学問の自由」と「大学の自治」とは、「すでに大学内に確立している」と仮定される「自由」と「自治」を、実態は不問に付したまま、「外部権力(政府・文部省)」の干渉や介入から「守る」というのではなく(少なくともそれだけではなく)、大学内の制度(「講座制」)と人間関係において不断に培われる「精神」を、現場で問題とし、したがって(「戦後近代主義社会学」が唯一問い残してきた「聖域」ともいえる)大学を、こんどこそ研究対象に据え、具体的問題を具体的に切開しながら自己変革を遂げていくことこそ、肝要ではないか、という方向に導かれました。

当事者としてのそういう現場批判・自己批判のなかから、理性的な議論を重ねて、「合意を形成」し、「自発的結社を創設」し、あるいは、既存の制度に編入されている(学科などの)単位諸集団も、そのような結社に「再編成」して「賦活」していくことが、「現場からの根底的民主化」の第一歩と考えられました。そして、「大管法闘争」の争点ともなっている大学現場で、そういう「自由」と「自治」を達成し、そこから大状況に向けても、「漸進的な拡充」を企て、「全社会的な官僚制化」に抗して、「近代的自我」形成を貫徹し、「個人の自律」を達成していくことが、当面の意識的目標とされたのでした。

 

(注33)この「近代主義」にたいしては、当時すでに、「西洋化至上主義」「欧米主義」という非難ないし批判が寄せられていました。しかし小生は、「近代的自我」の形成=「個人の自律」の達成を優先目標とし、そのうえに、「日本的伝統」のなかから選択的に活かせる要素を探り出し、「現在的文化総合」(E・トレルチ)を達成して、「雑種というひとつの新しい個性」(加藤周一)を創り出すこと、あるいはむしろ、「近代的自我」形成という意識的目標追求が、「思いがけない随伴結果」として、そういう「個性」を実らせること、に期待をかけました。

 さて、運動目標とスローガンのこうした意味転換は、当時は自覚していたわけではありませんが、じつは、ヴェーバーの思考方法とも呼応する性格をそなえていました。ヴェーバーは生涯、「学問と政治(という「異なる神々」)間の緊張」を一身に体して生き、大状況の政治にたいする現在進行形の論評と批判を怠りませんでしたが、後に上山安敏氏や野崎敏郎氏の研究によって明らかにされたところでは、若いころの就職事情の軋轢を「トラウマ」として抱え、その切開から始めて、卑近な大学問題への発言と行動も欠かさなかったようです。

たとえば、「ベルンハルト事件」(注 34)についても、問題を、「プロイセン文部省 (学術局) 対ベルリン大学哲学部国家学科」という「社会形象」間の対立に集約 (解消) はせず、ベルンハルト個人が、やがて同僚となるべき人々(「国家学科」の教員たち)の学問上の信頼を勝ち得る努力は怠ったまま、「領邦」政府・行政当局の意向に唯々諾々したがって赴任した「個人責任」を問いました。

(注 34) 1908年、当時のプロイセン文部大臣が、キール大学国民経済学教授ルートヴィヒ・ベルンハルトを、学部に照会することなく、ベルリン大学哲学部国家学科の正教授に任命したことに端を発する「ベルリン大学紛争」。

これは、「社会形象」を「集合的主体」として「実体化」はせず、それぞれを構成している諸個人の「行為」に遡って、微視的にも分析し、そのうえで「社会形象」を「秩序づけられた協働行為連関」として捉え返し、そのようにして「原子論」と「全体論」とを総合していくヴェーバーの社会学が、期せずして(この場合には)卑近な小状況に適用され、活かされた一例ともいえましょう。

かれは、自然科学系諸学部を起点とする大学全般の「官僚制化」(物的研究手段の研究者からの分離・「疎外」) が、「領邦」 権力の介入とも、学部教授会の「家父長制」的「権威主義」の慣行とも癒着して、教員個々人を「体制(大勢)順応型」の「ビジネス・マン」(「学問の神」とは異なる「産業経営の神」や、場合によっては「政治権力の神」に仕えるacademic careerists) に馴致し、成型する、現に圧倒的な傾向と風潮に「いかに抗するか」と問題を立て、小状況の学内問題についても、そのつど「現場で社会学すること」(注35)を実践しました。そのうえで、そういう個々人どうしが、それぞれの経験と意見を持ち寄り、汎「領邦」的また全国的な規模でも「大学教員会議」を結成し、連帯して闘っていくことを、重要な課題と心得ていたのでした。

(注35)「自分の実存とは無縁に、『社会理論』を構成し、人々に『見世物』を展示するのでは虚しい」という感性から、ヤスパースの「哲学」と「哲学することPhilosophieren」との区別を「社会学」にも援用して、「社会学することSoziologieren」ないし「社会学的アンガージュマン」(サルトル) という範疇を立てました。

・将来の教育実践を、責任課題として捉える

他方、「小状況の現場から出発して、『自由』と『自治』を大状況にも押し上げていく」方向と段取りについて、わたしたち院生の間には、つぎのような発想が生まれました。

すなわち、院生はおおかた、近い将来、大学教員になる予定を「自明のこと」としていたのですが、そのさい、研究者としての「将来のポスト」には思いを馳せても、「どういう大学教員になって、どういう質の教育を担っていくべきか」とは、ほとんど考えず、少なくとも主題化して論じ合うことはなかったのです。「小・中・高の公教育の民主化」について持論を唱え、ジャーナリズムに出て論陣を張る「日教組講師団」のひとりが、大学における自分の講義には熱意を示さず、もっとも休講率が高い、という現実を、誰も問題とは感じていませんでした。

それにたいして、わたしたちは、「大管法闘争」を闘って初めて、将来の「教育実践」をとおして「日本社会の近代化・民主化」に寄与していくことはできないか、できるとすればいかに、というふうに問題を立てました。大状況の政治課題を達成しようとする非日常的街頭行動やジャーナリズム発言と、小状況の日常的研究-教育活動との間を、無媒介に行き来して「単純な循環」を繰り返すのではなく、双方を「弁証法的螺旋関係」に「転轍」していく小状況の出発点として、「大学における教育実践」を位置づけ、大状況への「波及効果」も射程に入れて、研究ともども全力を傾けて取り組もう、と思いいたったのです。

・「教養教育」理念としての「社会学すること」

小生の場合、この発想が、1964年「ヴェーバー生誕百年シンポ」を経由し、(1965年に赴任した)教養学部における教育理念と教材編成に、実を結びました。すなわち、大状況の政治課題や自分の生活史から乖離して専門的「学知」に閉じ籠もってはならず、むしろ、同時代の大状況を展望しながら自分の現場で「社会学すること」を、「教養」の核心に見立て、その方向で学生ひとりひとりの「自己形成」を介助することが「教養教育」の課題であると考え、この理念に即応する教材編成を、一歩一歩、具体化していこうとしたのです。

「軍国少年」だった筆者が、「現場からの近代化・民主化」を志すようになった経緯を振り返っても、(結果に追われて前提を問ういとまのない生き方を強いる)受験勉強から解放され、自分自身を顧みる余裕(モラトリアム)を取得し、社会にも目を開かれ、読書と思索に耽り、習作の論文も綴って『同人誌』や『クラス雑誌』に発表し、夜を徹して議論することもできた、大学教養課程の自由な二年間が、じつに大きな、かけがえのない意味をもっていました。

そこで、教養課程の現役の学生諸君が、同じように「自由な二年間」をすごし、授業からも、(マルクス、デュルケーム、ヴェーバーといった社会科学の古典を教材として)「現在進行形で『社会学する』こと」ないし「現場問題への社会学的アンガージュマン」のスタンスを会得してくれれば、どんな専門課程に進学し、卒業後いかなる社会領域に乗り出していくとしても、そのスタンスを堅持して各々の現場の問題と取り組み、「日本社会の根底からの民主化」に寄与し、民主主義の裾野をそれだけ広げていってくれるだろう、と期待し、そういう教育実践に全力を傾注していこうと決意しました。  

・「ヴェーバー生誕百年シンポ」には「身の丈にあった実践」の回避が露呈

つぎに、1964年の「ヴェーバー生誕百年シンポ」ですが、これについては、前問(1)で、ヴェーバー研究の展開の一契機として取り上げられたので、当時の「マルクスとヴェーバー」論の問題点と「旧稿」テキスト・クリティークとの関連について、「学知」の平面にかぎってはお答えしました。

ここでは、このシンポを、別の視角から、1968-69年「東大闘争」に連なる「学知と実践との緊張」の一齣として、採り上げる必要がありましょう。しかし、この点については、中野敏男他編『マックス・ヴェーバー研究の現在』(2016、創文社)、第三部第一証言「歴史社会学と責任倫理――生誕100年記念シンポジウムの一総括」、第七~十三節(296-308頁)で、立ち入って論じていますので、主としてはそちらを参照していただければ幸いです。

小生は、「裏方」の実務と、「Rationalisierung [合理化] とIntellektuslismus [主知主義]」と題する(意図して文献的検証に徹した)第二日第二報告とを、なんとか無事終えて安堵すると同時に、登壇したり、討論で発言したりするヴェーバー研究者・関係者がいずれも、「学知」の限界を堅く守り、それを越える問題を突き付けられると、「知の巨人ヴェーバー」か「もっと身近な偶像」を引き合いに出し、「隠れ蓑」にして、各人の「身の丈にあった実践」は回避しているのではないか、という印象を受け、これを通弊と感じて、考え込みました。

なるほど、討論では、(1)丸山眞男氏が(大塚報告に反対して)、「素朴実証主義」と「発展段階論」という対極的二形態をとる「対象への凭れ掛かり」を、「アニミズムに連なる」「呪術的思考」として批判し、なおヴェーバーから「脱呪術化 Entzauberung」を学ぶことができるし、学ぶべきである、と唱えました(この発言が、このシンポの「ハイライト」であったことは確かでしょう)。

しかし、氏の力説する「脱呪術化」は、学者個人の思考方法にかぎられ、現場の「(いわば呪術的)無風状態」(たとえば東大法学部の「家父長制」的権威主義と「家族主義」的融和精神の残滓に由来する「無討論状態」)を内部から「突破」し、一般市民の実践的営為へと架橋-拡張していくべき課題とは、自覚されていなかったようです。

また、「求道者」にたいする丸山氏の(いかにも氏らしい)一面的非難も、ヤスパースをもっぱら「精神病理学者」「自然科学者」として引き合いに出し、「『実存-理性』に依拠して『ザッハリヒカイト(具体的客観性)』も求めて止まない求道者」、つまり(精神医学者-心理学者-哲学者ヤスパースが、ヴェーバーを念頭に置いて彫琢した、勝義の)「みずから哲学する人der philosophierende Philosoph」という範疇には想到していなかった、と解されましょう。

いまひとつ、(2)内田義彦氏の「報告補遺」は、戦前・戦中・戦後の日本で、学者が「純粋力作型」たらんと、もっぱら学問的要請にしたがい、農民・労働者・学生との連携を求めると、力量を発揮できる場から「弾き出される」ほかはなく、「パリア(コネ)力作型」のみ「主流に乗って」「活躍できる」という通弊を、久保栄の『火山灰地』(という文学)を素材として指摘しました。しかし、この問題にたいする氏自身のコメントは、「『パリア力作型』など好む者はいない。しかし、どうもがいてもそうなる。おそろしいことです」という感懐の吐露に終わっています。

・10・8闘争における山﨑博昭君の虐殺と、死因をめぐる虚偽報道問題

さて、翌1965年には、ベトナム戦争が激化し、2月には、米軍が「北爆」を開始しました。しかし小生は、同じ2月に教養学部に専任講師として赴任し、4月から教養課程の「社会学」講義を始めなければならないとあって、教材編成に大童でした。それから三年間は、講義と演習の準備に追われ、やはり「学問の季節」に戻ってしまっていたことになります。

ところが、1967年 10月8日、佐藤栄作首相の南ベトナム訪問に抗議し、羽田空港に向かってデモをしていた京大生の山﨑博昭君が、弁天橋付近で、機動隊の乱打による頭蓋骨陥没で死亡しました。報道によると、同君は、カント、ヘーゲル、マルクスなど、当時の学生が挙って読んだ古典類をぎっしりリュックに詰めてデモに参加していたとのことでした。そのなかの一冊にキルケゴールの『誘惑者の日記』があったと聞き、実存主義にも関心を寄せていた様子が窺えて、小生は、特別の親しみを感ずると同時に、時ならぬ早世を痛惜したのでした。

しかも、この件につき、警察は「学生仲間の運転する車が、誤って同君を轢いた」と発表し、翌日の各紙は、この警察発表を鵜呑みにして報道しました。ところが、遺族、弁護士、鈴木道彦・竹内芳郎・海老坂武氏らサルトリアン大学教員が、山﨑君の運び込まれた病院の医師の証言と記録、また監察医務院の「死体検案書」も調べ、礫傷がないことと頭蓋骨陥没を確認し、警察の「事実」捏造を克明に立証して、マス・コミの報道姿勢を厳しく糾弾したのです。

このスタンスに、小生は、感銘を受けました。闘争のさなかでも、あるいはまさに闘争のただなかでこそ、しばしば相対的には些事として軽んじられ、忘れられがちな細かい事実も、さればこそしっかりと確認し、記録し、継承することが大切で、それこそ知識人の責任である、と銘記しました。

やがて、1968年6月の駒場キャンパスでは、学生たちが、激化するベトナム戦争を止めることも、日本政府の荷担を抑えることもできず、日々「勉強」に明け暮れている自分自身の「加害者性」に苛立ちを感じ、いつになく激しく教員を追及してきました。小生には、そういう「実存主義社会派」の感性をそなえた学生たちに、ときとして山﨑博昭君の姿が重なりました。

1968-69年「東大闘争」

この闘争の事実経過については、一教員当事者としての現場経験を、(東京地裁の「東大闘争裁判」(注36)に証人として喚問され、出廷した、大河内一男前総長や加藤一郎総長代行ら)当局側責任者への尋問をとおして、検証し、その最終弁論を『東京大学――近代知性の病像』(1973、三一書房)と題して公表して以来、いくたびか語ってきました。

(注36)1969年1月18-19日に東大安田講堂に立て籠もって逮捕され、起訴された学生と院生の裁判」(1969-73年)。

最近も、東大医学部のデータ改竄疑惑につき、総長に公開質問状を発した岡崎幸治君らの問題提起に答えて、「1960年代精神史とプロフェッショナリズム――岡崎幸治『東大不正疑惑 「患者第一」の精神今こそ』(2014年11月8日付け『朝日新聞』朝刊『私の視点』)に寄せて」を、HP 2015年欄に掲載しました。ご参照願えれば幸いです。

今年から二年後の「安田講堂50年」(2019年1月18-19日)にかけては、東大当局が再導入した約8,500人の警察機動隊に、学生・院生が火炎瓶を投じて果敢に抵抗する姿が、たびたびテレビに映し出されることと予想されます。その光景を、「マス・コミの風物詩」として受け流すのではなく、「なぜ、かれらがあそこまで?」と問い返す機会として、活かしていただければと思います。

・ベトナム戦争の激化と荷担構造の可視化

さて、敗戦後日本の学生運動は、日本共産党その他、政治党派の指導のもとに、「政治の季節」と「学問の季節」との「単純な循環」を繰り返してきました。ときに激しい「街頭行動」や「(反基地)現地闘争」によって、世人の耳目を聳動し、マス・コミの注目を浴びる「政治の季節」と、「授業料値上げ反対」から「トイレット・ペーパーをそなえよ」にいたる日常的改良要求を「勝ち取って」、党員や下部組織員を増やし、勢力を拡張-温存して、つぎの「街頭行動」にそなえる「学問の季節」との反復でした。

ところが、1960年代後半には、ベトナム戦争の激化にともない、自民党政権や財界の戦争荷担の構造が、見紛いようもなく可視化されてきました。沖縄の基地を飛び立つB-52は、ベトナムで絨毯爆撃を繰り返し、佐世保には原子力空母エンタープライズが入港し、東京の王子には(戦死者に化粧を施して本国に送り返す機能も併せ持つ)「野戦病院」が開設されました。

こうした動きにたいして、学生・院生・若手教員の一部には、「何もしないで『研究』や『勉強』に閉じ籠もっていていいのか」「『拱手傍観している自分』は、『第三者』に止まらず、『無関心』ないし『黙認』によって、当の構造を支えている『加害者』ではないのか」という疑念が目覚めました。

そして、こうした感性的素地のうえに、医療制度の改変(「インターン制」から「登録医制」への再編成)や、(そうした問題を採り上げて制度改悪に反対する学生・研修生の運動にたいする)「処分」といった、大学現場の小状況で起きる問題も、大状況の「戦争加担構造」とけっして無縁ではなく、その「合理化」「再編」の一環・一分肢ではないのかと、互いに関連づけて捉え返されるようになりました。

「医療(医学部、病院)の『帝国主義』的再編」や「教育(大学とくに理工系)の『帝国主義』的再編」が問われる一方、1962-63年の「大管法」以降、その再編目標を達成するため、大学への権力統制を強化し、大学内にも触手を延ばす「国大協・自主規制路線」が、(「大管法」の法制化見合せと引き換えに)発進-整備され、学生処分と機動隊導入との二本柱の形をとって発現してきている、という認識も生まれました。

・大学運動史上画期的な、院生・助手の大規模参加

ところで、1960年代までの学生運動には、その担い手がまさに学生「である」という制約がありました。つまり、各人の人生行路の一時期だけ、一過的に運動に熱中しても、学部卒業・就職後には、異なる組織の職場に移り、学生時代のことはおおかた忘れて、別のことを始める、という前提条件と、これにともなう制約です。たとえば、学生時代にはアジテーションに巧みで華々しく活躍した「活動家」が、卒業後の職場では、そうはできず、場合によっては (持ち前の「権勢欲」をみたすために) むしろ「既存の権力」にすり寄り、「権力主義者」に転身して生き延びる、という現象も目立っていました。

ところが、「1968-69年学園闘争」では、大学院生や助手が、初めて、それまでにない規模で、運動に加わり、自由闊達に発言し、議論し始めました。かれらは、学部卒業後、長期の見通しのもとに、学問研究を自分の「使命 (ないし職業)」と心得、学問的思考の訓練もそれだけ長く積んでいました。そういう院生や助手の大量参加は、敗戦後の社会運動史、とくに大学運動史上、画期的なことだったでしょう。

こうした与件変更から、「1968~69年学園闘争」では、「『学問の自由』と『大学の自治』を『守れ』」という図式が、大衆的にも疑われ、崩れ始めました。全共闘系の学生-院生は、(1)1962-63年「大管法」闘争のさい、東大構内の銀杏並木で集会を開いたとの事由による学生処分、(2)「1967年『登録医制』(『インターン制』再編)」問題にかかわる(第一次、第二次)ストライキにたいする学生処分、(3)これに反対する「第一次時計台占拠」にたいする、大河内一男東大総長による第一次機動隊導入、とつづく経過から、1968年の夏には、「大学」をもはや単一の「社会形象」とは見ず、「当局・教授会」対「学生総体」、後者をさらに「秩序派学生」対「闘う学生」の対抗的力関係として捉え始めました。

「当局・教授会」は、「国大協・自主規制路線」の大学内「橋頭堡」にすぎず、(学生処分と機動隊導入を梃子に、学生運動の弾圧と封じ込めを狙う)体制の一環に編入されてしまっている、また、教員はといえば、個人として良心的に振る舞おうとしても、教授会メンバーとしては「国大協・自主規制路線」を末端で担う「権力の手先」として機能するほかはなく、そういう「立ち位置」の教員が呼びかける「話し合い」や「コミュニケーション」は、(「大管法」諸案が明示ないし示唆していたとおり)学生一般を学内秩序に「からめ捕り」「統合」する「策動」以外のなにものでもないから、「断固排徐する」か、あるいは「さほど敵対しないまでも、幻想を抱いてはならない」というわけです。

・なお残る「社会形象」の実体化と「流出論」的思考法

この主張はなるほど、1960年代に現実に起きた(学生処分や機動隊導入といった)諸事件を、従来の「『学問の自由』『大学の自治』を守れ」図式よりも的確に捉え、すっきりと説明していました。ただし、思考方法としては、相変わらず (1)「社会形象」を「実体化」する捉え方のまま、「対立」の軸を学内にずらしただけで、(2)「社会形象」を「諸個人の有意味行為」にいったん還元し、それぞれの「動機」を問うたうえで、「多種多様に秩序づけられた協働行為連関」として捉え返し、(3)(体制「矛盾」が発現してくるという)「流出論」を、いったんは仮説とみなし、学内外における「諸個人の行為連関」の次元で、なるべく具体的に検証し、説得的に論証しようとするスタンスは、なおけっして十分とはいえませんでした。

したがって、他方では逆に、(4)小状況の諸個人の行為から出発して、どう「自発的結社」を創り、どう大状況の変革に繋げていくのか、その構想と戦略を練り、当面の闘争(とくに「大学闘争」というひとつの部分闘争)を、そうした展望のもとに相対化して、過大な抱負と「終末論的幻想」は自己抑制し、闘争を (当面の要求項目の実現を確認したうえでは)いったんみずから収束し、「学問の季節」に繋げ、つぎの「政治の季節」にそなえて、実力を蓄える、というような、柔軟で慎重なスタンスには、やはり乏しく、「若者特有の抽象的で生硬な議論」の域を出ない嫌いがあった、といわざるをえません。

しかし、教員、とくに社会科学のプロフェッショナルとしては、若者たちがいつになく真摯に問いかけてきているのですから、「その問やよし!」と正面から受けて立ち、もとより問題点も指摘し、議論の端緒を見つけて、対抗的にも相互補完関係・連帯関係を創り出していくべきだったでしょう。そこを、「権力の手先」と決めつけられ、建物や研究室を封鎖され、「平和な城内を荒らされた」と憤激するばかりで、学生・院生が問いかけた内容には(その時点でも事後にも)まったく応答せず、相手の欠点や(後に派生した)逸脱行動ばかりを論って「自己正当化」に躍起となるようでは、研究者兼教員、とくに後者として、大人気なく、なさけない、というほかはありません。

それはともかく、「東大紛争」が全学化する1968年6月の局面に戻ると、もしかりに全共闘系の学生・院生が、従来どおり一本調子に「医療と教育の帝国主義的再編粉砕」「国大協・自主規制路線粉砕」といった政治スローガンを翳すだけだったとしたら、たとえ医学部全学闘が、時計台本部の占拠-封鎖という冒険戦術に出た(1968年6月15日)としても、大河内一男総長の第一次機動隊導入 (6月17日) 以後、日共・民青系の宣伝(「時計台占拠こそ、機動隊導入を招いた暴挙で、『大学自治』の敵」)のほうが効を奏し、これを契機に闘争がかえって全学化する前代未聞の「逆説」的事態は、とうてい起きなかったにちがいありません。ところが、じっさいには、学生世論が、なんと占拠支持に傾き、全学ストライキ体制に収斂したのです。これはいったい、なぜだったのでしょうか。

・非日常的処分のみか、日常的学問経営も問う契機――医学部「T君処分問題」をめぐる高橋・原田報告書の意義

その間、学内の関心を集めた焦点のひとつに、「T君処分問題」がありました。医学部で処分を受けた17名の学生・研修生のうち、T君は、処分理由とされた「春見事件」当日、久留米に出掛けていて事件の現場には居合わせなかった、と主張していました。そして、この件については、医学部専任講師の高橋晄正・原田憲一両氏が、学会の帰途、久留米に足を運んで、T君の足跡を調査し、その報告書を公表して、冤罪の疑いが濃厚になってきたのです。

この調査報告書は、大状況の政治イデオロギー問題はいったん棚上げして、小状況の現場における東大当局の「誤り」(あるいは少なくとも「杜撰」) を綿密に立証し、図らずも学生・院生の「抽象的で生硬な議論」を補完する形になっていました(注37)。ところが、医学部教授会は、この高橋・原田報告に取り合おうとせず、また、(処分という不利益処遇の「規範的・法的妥当性」に専門的関心を向けてしかるべき専門部局の)法学部教員も、高橋・原田報告の追検証にも、その内容にたいするなんらかの応答にも、乗り出そうとはせず、「口を噤んで」いました。他学部の教員も、学生から「T君処分をどう思うか」という質問を受けると、言を左右にして、のらりくらりと逃げる始末でした。

(注37)そのうえ、これまた図らずも、学内各層の議論を、下記のとおり、大状況から小状況へと「水路づける」役割を果たしました。

こうした実態が、つぎつぎに明るみに出てきて、「一般学生」も、「これは黙過できない」と感じ始めました。さらにそこから、「こんなことが罷り通る大学は、学生処分という例外的・非日常的な事件にかぎらず、日常的な経営、したがって研究と教育の質においても、問題ではないか、東大教員の学問は、何のためにあるのか、法学部教員にかぎらず、社会科学の専門家は、いったい何のために『研究』しているのか」という疑問が、拒みようもなく芽生え、尖鋭化されました。

この問いは、当時の状況では、「ベトナム戦争における米軍の暴虐を報道では知りながら、手を拱いて『勉強』や『研究』に明け暮れている自分たちの『日常』とは何か」という問いとなって「わが身に跳ね返り」ました。

さらに、「医学部学生・研修生の闘いを『対岸の火災』のように傍観していた自分たちの『日常』こそ、かれらを(かれらにとっては「起死回生」の)時計台占拠に追い詰めた元凶ではなったか」、「なるほど、建物占拠それ自体は、(前後のコンテクストから切り離して見れば)『暴挙』にはちがいないが、では他に、どういう選択肢が現実にありえたのか、かれらに『泣き寝入りしろ』とでもいうのか、それよりもなによりも、この自分は、どうすればよかったのか」というふうに、当事者の立場に身を置いて問題を「わがこと」として捉え返す課題を、ひとりひとりに突き付けたのでした。

1962-63年「大管法闘争」のさなかには、ごく少数の院生に孕まれた「実存主義社会派」の感性と発想が、このときには「一般学生」「一般院生」の間にも広まったのです。「『大学自治』の名分に囚われず、実態を見つめよう。同時に、自分はこの間、何をしていたか、何をすればよかったのか、考えよう。1968年1月29日の「春見事件」発生から、当事者からの「事情聴取」も経ずに、数週で決められ、20日後には発令された、17名の大量処分を、『何もしないでいた自分』は、事実上追認して、支えていたのではないか。自分たちのこの無関心と黙認が、時計台占拠と機動隊導入を『まさに招いた』のではなかったか。そうした既成事実に責任を執らず、いままた傍観者になりすまし、被処分者に『泣き寝入り』を迫っていいのか」と。

「翻って、こうした学内問題は、『米軍によるベトナム人虐殺』と『何もしないでいる自分』との『共扼-共犯』関係と、はたして無縁であろうか。機動隊導入の現実は、学内における(「国大協・自主規制路線」の発動であるかどうかはひとまずおくとしても、『学部自治』という名の『特別権力関係』による『人権侵害』の疑いが濃厚な)拙速で杜撰な大量処分につづく、当局による不当な権力行使の第二弾ではないのか。自分はこうした目の前の現実を、いままた拱手傍観して、やり過ごしてよいか。むしろいまこそ、そうした『傍観者性』、『加害者性』をみずから拒否し、(やがてかれらの口にのぼる言葉を使えば)『自己否定』して、医学部全学闘と連帯し、共に闘うべきではないか。この闘いを起点に据えて、『ベトナム戦争反対運動』にかかわっていくべきではないか」と。

 

こうした受け止め方がこれほどの大衆的規模におよんだのは、敗戦後の学生運動においておそらくは初めてのことだったでしょう。東大教員が「知識人」であれば、こうした昂揚を、従来の「殻」を割って出る「生」と「情念」の息吹として、とりわけ敗戦後の実存主義が社会運動にも着地して芽を吹く画期的兆候として、渦中で注目し、「理念」に結晶させ、精練して、つぎの「学問の季節」に送り込むべきだったでしょう。ところが、東大教員は、この芽生えに正面から向き合おうとせず、結局は1969年1月18-19日の機動隊再導入により、政治的・強圧的に潰してしまったのです。

・「七項目要求」中、学内最大の争点となった「文学部処分」問題をめぐる攻防

1968年夏の「全学スト体制」以来、1969年1月18-19日の機動隊再導入にいたる経過については、他所で詳細に述べていますので、ここでは繰り返しません。ただ、「それでは、具体的に、どうすればよかったのか」という貴兄のご質問には、つぎのとおりお答えしましょう。

大河内執行部が、医学部処分と第一次機動隊導入の責任をとる形で退陣した後、11月には、加藤一郎総長代行(法学部教授)が登場しました。この新執行部と全共闘との最大の争点は、双方も衆目も一致して認めていたとおり、一貫して「文学部処分」問題でした。

そこで、この処分の発端となった「1967年10月4日の文学部協議会 (文協)」に遡ってみますと、現場の行為連関はこうでした。すなわち、真っ先に文協の会場から出た教授会委員の助教授Tが、後からつづいてくる同僚委員(三名)の退出を助けようと、囲みの一番外側にいたオブザーバー学生Nの左袖を抑えたところ、Nが振り向きざまTに詰め寄って「ネクタイを掴んだ」というのです。文学部教授会は、この「後手抗議」を、文協会場からの「退席阻止」と称し、「教官にたいする非礼」(後に「暴力行為」)と認定して、無期停学処分に付しました。

「先手」は問わず、「後手」だけを取り上げて処分したのですから、明白な「身分差別」ですが、それはともかく、「後手抗議」を「先手の」「退席阻止」と取り違えていたことは確かで、これまた(医学部の「T君処分」と同様)事実誤認にもとづく冤罪処分でした。ところが、加藤一郎氏は、いかにも規範・概念法学者らしく、「退席阻止」という事実誤認を引用・明記していながら、「この処分は、当時の手続きに照らして正当になされたから、再検討はできない(処分制度を改めるさいの参考にはする)」と主張して譲らなかったのです。

ところで、加藤氏は、総長代行に就任するさい、条件として「危機独裁」「委任独裁」の権限を取り付けていました。したがって、かれが、文処分の事実経過を検討し、事実誤認の冤罪処分と分かれば、学部長会議・評議会・各学部教授会などの了承を経る必要はなく、即刻、白紙撤回を決めて、文教授会の責任者に責任を取らせることができるはずでした。そこで、文処分の事実経過を検討して問題ありと考えていた教養学部の西村秀夫氏は、「平時であれば望ましいやり方ではない」と思いながらも、このさいは加藤氏に直接会って、問題点を伝え、議論しようとしました。ところが、「特別補佐」や秘書の壁が立ちはだかり、「面会の時間がとれない」という理由で、断られ通しでした。

また、助手共闘のなかにも、学生・院生が年を越して延々と闘争をつづけるのは無理と察し、大衆的支持をえている「七項目要求」を貫徹したところで、ひとまず「矛を収め」、勢力を温存して再起を企てたほうがよいと考え、執行部との間を「取り持とう」と非公式に接触を保っていた「大人」がいました。しかし、加藤執行部が、「七項目要求」中、最重要な争点の文学部処分問題で、事実誤認と冤罪に拘り、白紙撤回を認めないようでは、とうてい全共闘側の妥協を取り付けることはできない、と断念するほかはなかったのです。

・文処分における「TN行為連関」の「理解社会学」的再構成

それでは、小生自身は何をしていたか、と問われましょう。

小生も、文処分には疑問を感じて、全共闘側の白紙撤回要求と教授会側の釈明文書とを比較-照合し、真相を究明しました。そのさい、なにか意識的にヴェーバーの思考方法を適用したのではありませんが、そこはやはり、普段から馴染んでいる「理解社会学」を「10月4日事件」の現場に適用して「T⇌N行為連関」を再構成することになりました。

教授会文書が提供している「史実的知識」によると、「文協」会場から退席しようとした四人の教官委員のうち、真っ先に学生の囲みを解いて扉外に出たTに、学生Nが「並外れて激しい行為に出て、ネクタイを掴んだ」というのですが、そこに、ヴェーバーの「因果帰属」の論理にしたがい、「人間は通例、(ある類型的状況に)どう反応するか」にかかわる「法則的知識」をリンクしてみますと、こうした状況で、通例ならまだ扉内にいる委員長に詰め寄り、文協の継続とつぎの日取りの確約を取り付けようとする学生Nが、なぜ、よりによって、唯一の助教授で平委員のTに、「並外れて激しい行為」におよんだのか、その「動機」が分かりません。

この教授会文書は、Nの行為の「並外れて激しい」したがって「処分に値する」特性を「説明」していないのです。他方、(教授会文書は一貫して不問に付している)Tについて、同様に「動機」を問うと、扉内にとり残されている同僚を気遣い、「振り返って見た」というのが「自然」で、教官一般の「恒常的習癖」にも適いましょう。そして、こういう「摩擦」状況では、Tが咄嗟に、学生の囲みを振り解こうとして、最後列にいた学生の腕ないし袖に、先に手を掛け、これに(背後から押さえられて、それだけ大きい手応えを感じた)Nが、振り向きざま「激しく抗議」したとしても、不思議ではありません。

このように、教授会見解を甲説、学生側所見を乙説として、双方を公平に比較-対照してみれば、「T⇌N行為連関」を「T先手⇌N後手抗議」と捉えたほうが、「(動機理解の)明証性」も「(行為経過としての)経験的妥当性」もともに高い「説明」がえられます。

しかし、「すべては疑いうる」「もっともラディカルな懐疑が認識の父である」という学問の規範的要請に照らすと、思考によって再構成されたこの「T先手⇌N後手抗議」が「現実にもそのとおりに起きた」と即断はできず、なお疑いを差し挟む余地は残されています。とりわけ、T本人の証言による裏付けが必要でした。ところが、当人および文学部教授会のガードが堅くて、実現しませんでした。

かりにNが、身分保全の訴訟を起こしていたとしたら、裁判所は、Tを証人として喚問し、法廷で尋問-反対尋問-再主尋問に曝したでしょう。ここでもTが、「大学自治」という「特別権力関係」に守られてしまいました。ただ、そういう懐疑が、学者としては大切でも、あの状況で、「T先手⇌N後手抗議」説を、あくまで仮説として状況に投企し、マス・コミにも発表して、議論を喚起し、そのなかでT証言も引き出し、N処分を「事実誤認にもとづく冤罪」として「白紙撤回」に導き、そうした「勝利」の確認を前提に、「闘争の一時収束」への「とりなし」を実らせることができなかったか、と問うことはできましょう。

・「沈む泥船のファッシズム」

しかし、東大教員の精神状況は険悪でした。圧倒的多数は、問題を「医学部で『負け』、また文学部でも『負ける』のか」と、政治のカテゴリーで捉え、「いきり立つ」寸前でした。この「鬱憤」に火をつけたのが、1968年11月4-11日の「文学部八日間団交」にたいする本郷の教員有志の声明でした。

早くから発言を期待されながら、学内の争点については口を閉ざしてきた丸山眞男氏が、氏の研究室からすぐ近くにある「団交」会場に足を運んで、議論されている内容や、文学部教員は出入りが自由といった事実をみずから確かめることもなく、このとき初めて「口を開き」、「林文学部長の不当監禁」「人権侵害」「大学を無法地帯とする暴挙」と決めつけ、マス・コミ向けとしか思えない大仰な「声明」を発して、学内気流の反転・反動の「油に火をつけ」ました。

西村氏や小生が、教養学部の教授会や教官懇談会で、「全共闘が加藤執行部との話し合いにいまのところ応じないのは、(この点にかぎっては双方が一致して認めているとおり)『七項目要求』中の文処分問題がネックになっているからで、ついてはその発端となった『10月4日事件』の事実経過に遡って再検討しようではないか」と提唱しますと「なに?『文処分』?なんでいま『そんなこと』を、教養学部で議論しなければならないのか?」という感情的反撥が勝って、とても議論にはなりませんでした。「そんなことをすれば、林文学部長の『頑張り』や丸山教授らの折角の発言を『無にしてしまう』ではないか」と口に出す人もいました。「あァ、これはもう、沈む泥船のファッシズムだ」という絶望が、一瞬、胸をよぎりました。

加藤執行部からは、小生にも、「新たに発足させる『大学改革準備会』の正式のメンバーになってほしい」という要請が(工学部の鈴木成文氏を通して)伝えられましたが、小生は、「争点の文処分問題について納得のいく解決を見ないうちに、一足飛びに『改革』に取り組むわけにはいかない」といって、はっきり断りました。

そういうわけで、小生は「東大紛争」の全期間中、同僚の教員になにか(たとえばヴェーバーの「責任倫理性」のような)高度の要求をつきつけたのではありません。科学者ならば、相対立する主張に直面しても、双方を甲説と乙説として比較-対照し、どちらに「理」があるか、根拠を挙げて判定し、各人のそうした所見を持ち寄って、議論することはできるはずで、それこそ「教授会自治」の第一歩ではないのか、そういう「ごくあたりまえの」規準に、みずからしたがい、同僚にもしたがうように求めたにすぎません。ただ一点、ヴェーバー社会学が、当時思っていた以上に、状況内の定位と投企に、よく活かされてはいたようです。

初期の大作『危機における人間と学問』

橋本 折原先生の大作『危機における人間と学問』(1969)は、その当時の学園紛争問題を背景に、独自のウェーバー像を提示された重要な書物であると思います。またこの時期とその前後には、日本においてウェーバー研究が一つの最盛期を迎えています。大塚久雄、山之内靖、内田芳明などの研究者たちが、それぞれ独自のウェーバー像を提出し、重要な問題提起をしました。

折原先生のウェーバー像は、端的に言うと、近代的な啓蒙主体の意義を体系化したものであります。私はかつてこれを「近代主体」と名づけて論じたことがあり、合わせて「問題主体」という別のウェーバー像を提出しました。

お伺いしたいのは、折原先生のウェーバー理解、とりわけウェーバー像は、『危機における人間と学問』の段階から、発展ないし変化してきたのかどうか、ということです。

折原先生はこれまで、さまざまな社会問題について、その都度、ウェーバーに引き寄せてご発言をされてきましたが、その際の視角は、この『危機における人間と学問』において確立されたものでしょうか。あるいはその後発展していったのでしょうか。

折原 意図して自己点検したことはないのですが、大掴みにはこうもいえましょうか。

『危機における人間と学問』は、前半の「境界人」論と、後半の「マックス・ヴェーバー」論に二分されます。

・「マージナル・マン」論

前半では、R・E・パークとE・S・ストーンクィストによる文字通りの「マージナル・マン」理論を、1920-30年代のアメリカ合衆国における(東欧他からの)移民と移民二世の「窮境」という理論触発基盤に遡って、要約して紹介はしました。

しかし、小生の関心は、「二文化の『狭間』『境界』に置かれて、双方からの『交差圧力』を受け、『ふたつの自我の間で動揺』を繰り返しながら『人格解体』に陥る」という「境界人」の消極面ではなく、むしろ、「二文化双方を、『外部生』『余所者』の視点から『客観的に捉え返す』ことができ、場合によっては二文化の『総合』も追求できる(あるいは『文化的ハイブリッドcultural hybrid』という『新しい個性』に転生しうる)という積極面に向けられました。

力点は、そうした可能性を開示する議論を展開しているG・ジンメルやK・マンハイムからE・デュルケームにいたるまで(注38)、さまざまな思想家・理論家をとりあげ、いわば「境界人」として積極的に生きるための「参考素材集(ソース・ブック)」をしつらえる、というところに置かれました。体系的な理論を構築するよりもむしろ、参考になりそうな素材を、手当たり次第に掻き集めて遺漏のないように書きとめておこうとした次第です。

(注38)とはいえ、この三人はいずれも「ユダヤ系マージナル・マン」です。

・「マージナル・マンとしてのマックス・ヴェーバー」論

後半では、「マージナル・マンとしてのマックス・ヴェーバー」と題する架橋の一章から、「ヴェーバー論」に転じ、(「人種的ハイブリッドracial hybrid」ではないとしても)「文化的ハイブリッド」としての「境界人」の可能性を、フルに体現して生きた一思想家として、ヴェーバーを捉えようとしました。

そこでは、「カテゴリー論文」を主たる典拠として、「合理化=没意味化」問題を掘り起こすと同時に、この問題を逸失している林道義氏の解釈と邦訳に批判を加えました。ところが、小生としては、林氏を矢面には立てても、「ヴェーバーの『合理化』論は、『合理化』批判ではなく、『道具的合理性』の擁護に帰着する」という趣旨の「フランクフルト学派」の論難に対抗したい、という動機が、じつはむしろ勝っていました。

そのため、これはじつは「勇み足」ではあったのですが、「ヴェーバーの『目的合理性』概念には、ただたんにそのときどきの『所与の目的』にたいする『合理的手段』の選択という平板な意味だけではなく、個々の『目的』の背後にある『究極の価値理念』に照らして、個々の『目的』の『意味』を反省し(学者だったら、自分の研究主題とその目的の「意味」を検証し)、『明晰に』制御していく、そういう高度の意識性が含意されている、だからこそ、ヴェーバーの『合理性』論には、『実存理性』による『没意味化』批判という意義がある」と主張したかったのです。

これにたいしては、社会学出身で「フランクフルト学派」を研究しておられた敬愛する先輩の徳永恂氏から、「目的合理性」にかんする折原の解釈は「思い入れが過ぎる」と窘められましたが、「だが自分は、その思い入れのほうに共鳴する」という評言をいただいて、たいへんうれしかった記憶があります。

・「責任倫理」的行為主体における「価値理念」から、「各人の生の糸 (複数) を繋ぎ止めて離さない『ダイモーン』と『根基』」にかかわる議論へ

それ以降、大筋ではこの「思い入れ」――正確に規定すれば、自分の「価値理念」に照らして、そのときどきの「目的」を吟味-制御する「自己責任性」と、当の「価値理念」から(「心意「倫理」一辺倒にはならずに)そのときどきの状況における「目的」を「意味-論理整合的」に導き出すと同時に、当の「目的」を「状況に投企」し、「目的合理的」に手段を選択し、「随伴結果」も含めた「結果」を予測して、これにも責任を執ろうとする「責任倫理性」、要するに「『責任倫理』的行為主体」という人間理念=「明晰な」生き方の理念――を主軸に据え、自分の状況内「投企」と、学問における個々の研究主題の価値検証-制御の規準、ならびに、他者にたいする批判の規準としても、活かそうとつとめてきました。

もっとも、東大闘争のさいに、なにかいきなり、こうした「過大な規準」を翳して、東大教員を「なで斬り」にした、というのではありません。そこでは、前問への回答でも触れたとおり、「科学者ならば、教授会-当局の見解と学生の主張とが、甲説と乙説として対立しているとき、『自分は教授会メンバーであるから』と初めから甲説に荷担するのではなく、『どちらが妥当か』、双方の内容を比較-対照し、吟味-検証し、互いに自分の所見を持ち寄って議論することはできよう」という、ごく普通の規準にしたがったにすぎません。

それはともかく、「『責任倫理』的行為主体」論に戻ると、やがて、個々の目的の背後に、それらを統べ括る「価値理念」があることは確かだとしても、それをただちに「究極の価値理念」に見立て、「理念」の次元で「絶対化」してしまってよいものかどうか、それではやはり「観念論」に陥るのではないか、という疑念が目覚めました。そしてその後、そういう「個々の価値理念」を「根底から」問い返す必要と、そうした「根基radix」の実在と規準を模索して、現在にいたっています。ヴェーバー自身においても、晩年には、「価値理念」から「ダイモーン」や「各人の生を繋ぎ止めて離さない糸(複数)」といった議論に、力点が移っている、という印象を受けます。

しかしこれは、小生には未解決の難問です。この論点について、小生に考えられるかぎりのことは、HP 2016年欄の「記録と随想1: 『職業としての学問』末尾の『デーモン』とは何か――マックス・ヴェーバーの人生と闘いを支えた究極の立脚点は何処にあったか」と「記録と随想3:1960年代における滝沢克己『原点』論の登場とその意義」に書きとめ、問題提起はしていますので、よろしかったらご参照ください。 

右派としてのウェーバーをどうみるか

橋本 次の質問は、「右派としてのウェーバー」をどうみるか、です。

ウェーバーは、「国民国家と経済政策」と題するフライブルク大学教授就任講演(1895年)において、ポーランドからの季節労働者を受け入れるべきかをめぐって、ナショナリストとしての価値関心を明確にしています。

ウェーバーは次のように述べます。

「われわれの事業に意味を失わせたくないならば、その事業を未来のため、すなわちわれわれの子孫のための配慮として行うほかありません。……われわれ自身の世代が墓場に入った後のことを考える際に、われわれが心を揺さぶられる問いは、未来の人間がどのような暮らしをするかということではなくて、どのような人間であるかということですが、これこそはまさしく経済政策上のすべての事業の根底に横たわっている問いでもあるのです。われわれは、未来の人々の無事息災を請い願うのではなくて、人間としての偉大さや気高さを形作るとわれわれに感じられるような資質を、彼らのうちに育て上げたいと思います。」

「われわれが子孫に餞(はなむ)けとして贈らなければならないのは、平和や人間の幸福ではなくして、われわれの国民的な特質を護りぬき、いっそう発展させるための永遠の闘いです。」

「その究極的な価値基準は『国策』です。……究極的・決定的な裁決を与えるのは、ドイツ国民とその担い手であるドイツ国民国家との、経済的および政治的な権力的価値関心でなければならない、という要求です。」(『世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集』田中真晴訳、所収)

ここでウェーバーは、一方では、未来の人々の無事息災を願うのではないという意味で「反福祉国家」の立場をとりながら、他方では、ポーランド移民を受け入れるべきではないとして「反グローバル市場経済」の立場をとっているように思われます。この立場を何と呼ぶべきかは難しい問題ですが、ウェーバーはここで、広い意味での倫理的なナショナリズムにコミットメントしているといえるでしょう。

日本ではしかし、多くのウェーバー研究者たちは、福祉国家に反対することはなく、また、国民的特質だとか国策といった価値基準に対しては、むしろ批判的なリベラルの立場をとってきたのではないかと思います。

端的にお伺いしますが、この「国民国家と経済政策」に照らして、折原先生はこれまでどのような価値関心に立脚されてきたのでしょうか。

折原 小生、「前期」ヴェーバーの就任講演「国民国家と経済政策」(1895)からは、例の「上に向かっても、下に向かっても、自分の属する階級に向かっても、『嫌がられること』をいってのけるのが、われわれの科学の使命である」という言表をたびたび引用しました。しかし、「いってのけなければならない内容」は、引用者と被引用者とで、異なっています。ヴェーバーの当時のナショナリズム、あるいは「国益至上主義」には、小生は批判的です。そうした側面を再評価しようとする昨今の日本の研究動向にも、批判的です。

・ヴェーバーの生涯における「生の危機」と、「難船者」の「実存-理性」による「学問の再建」

むしろ小生は、ヴェーバーの生涯が、1898年の精神神経疾患を境目として、「前期」と「後期」とに大きく分かれている事実に始終注目してきました。それまで順風満帆だったかれの「航海」が、思いがけず「座礁」して、急転直下、再起も危ぶまれる苦境に陥り、学問のみか、生そのものが「危機」に瀕しました。かれは、この「危機」からの脱出を求めて「藁にも縋る」思いで「難船者の生」を開始し、「学知-理性」ではなく「生-理性」「実存-理性」によって「学問も再建」し、その学問も織り込む「責任倫理」的実践によって、後半生を生き抜いたといえましょう。

小生は、その軌跡に、重要な意義を認めます。「職業人しか完全な人間とは見ない」近代的職業理念や、生の「人間的側面」には目の届かないピューリタニズムや合理的禁欲への疑念も、この「生の危機」のただなかで孕まれましたが、それらの「全否定」にはいたらず、(「比較歴史社会学」に通じる)「再建された学問」によって相対化され、位置づけられることになります。

・後期ヴェーバーにおける学問と政治理念の深化

とはいえ、「前期」ヴェーバー研究など「あらずもがな」とはいいません。「学知上」の価値ある研究であれば、それはそれとして、そのかぎりで尊重したいと思います。ただ、「前期」と「後期」とを同平面に並べ、「二流受験秀才」よろしく、アングロ・サクソンへの劣等感とスラヴへの優越感との間で交互に揺れる「ヴェーバー」像を描き出すような研究には、ほとんど興味を感じません。

「前期」には無反省のままに使われていた「種族」「民族」「国民」といった概念にも、「後期」ヴェーバーは根本的反省を加え、それぞれを構成する諸契機をひとつひとつ精細に研究する必要を説き、それが達成された暁には、そうした集合名辞は捨ててもよい、とまで断言しています。

また、第一次世界大戦の末期、なるほどかれは、ヨーロッパ亜大陸で、海洋大国イギリスと、地続きの大国群(とくにロシア)との「狭間」にあるドイツが、「無併合・無賠償の早期講和」を実現して「大国」としての存立を保つべきことを力説しました。しかし、その根拠は、「前期」とは異なっています。

すなわちかれは、ドイツが「ロシアの官僚制」または「アングロ・サクソンの『社会(ソサエティ)慣習』」の世界制覇にたいする防波堤となることを「歴史的責任」として強調しますが、そのさいかれは、「ドイツ文化」ないし「ドイツ民族の資質」の「優越性」を唱えず、そもそもドイツ文化の「内容」ないし「特性」に言及すらしません。

かれの主張の根拠は、「強大国群の勢力均衡のみが、小国群の自由を保障する」という一点にありました。ヨーロッパ亜大陸の個性的な諸小国が、列強間の狭間で、「西洋中世内陸都市」と同じように「漁夫の利」を占め、「中世都市自治」と等価の、それぞれに独自の自由な発展を遂げられるように、もっぱらその外的な条件を確保しようと説くのみでした。

なるほど、こうした主張は、穿った見方をすれば、「『諸小国の保護者』を自任して自国の権力主張を『正当化』する『大国のイデオロギー』」とも解されかねません。しかしその主張は、「ヨーロッパに独自の自由な文化発展」にかんする(古代と中世に通じる)社会学的知見に媒介され、裏打ちされており、そのかぎり「国家」や「国民」を越える普遍的な理念の表明でもあります。

この理念によって、自国の権利主張が意味づけられると同時に、相対化され、限定されています。その点でヴェーバーは、単純な「国民主義者」ないし「国益論者」ではありませんでした。「ヨーロッパの多様で自由な文化発展」を保障しようと、そのかぎりで、狭間の大国ドイツに権力を留保し、歯止めを欠く「権力のための権力」あるいは「権力の威信のための権力」を戒めて止まなかったのです。小生は、かれの「政治思想」も、「後期」のこの側面に注目して、継受-発展させていきたい、と念願しています。

日本マックス・ウェーバー論争、その後

橋本 「羽入-折原論争」についてお伺いします。

羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪』ミネルヴァ書房(2002)が刊行されると、ウェーバーの解釈をめぐって、一連の論争が展開されました。その一部は私のホームページにも掲載され、さらに成果の一部は、橋本・矢野編『日本マックス・ヴェーバー論争』ナカニシヤ出版に、加筆修正のうえ収録されています。

折原先生はこの論争に深くコミットメントされて、『学問の未来 : ヴェーバー学における末人跳梁批判』未來社 (2005)という大著を刊行されました。合わせて、『大衆化する大学院 : 一個別事例にみる研究指導と学位認定』未來社(2006)や『ヴェーバー学の未来 : 「倫理」論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ』未來社(2005)などの著作も出版されています。

その後、羽入先生からの応答がありましたが、この応答に対する応答は、ほとんどなされていないようにみえます。私も応答していません。折原先生は、この羽入先生の応答に対する追加的な応答をされましたか。あるいは応答をしない理由をお持ちですか。このあたりについてお伺いします。

折原 貴兄が、貴兄ご自身のHPに、「羽入-折原論争コーナー」を開設して、寄稿を呼びかけ、「短期集中-、短期決戦型論争」の完遂に寄与された功績は、多大だったと思います。そうした「場の提供者」として、貴兄が「形式的公平」の規準を遵守されたことは、あの期間、大いに意義がありました。しかし、羽入氏は、貴兄のコーナーに「応答」を寄せなかったばかりではなく、寄稿が「峠を越して」「論争としては『けり』がついた」と「衆目がほぼ一致」する(注39)状況になってから、ずっと後で、『学問とは何か』と題する著書を、ミネルヴァ書房から刊行しました。

(注39)『VOICE』誌上の「谷澤-羽入対談」は、谷澤氏が羽入氏を「窘め」、「幕引き」をはかった、とも読めましょう。

小生は、貴兄の「形式的公平」原則は尊重し、寄稿集中期にはそれにしたがい、必要に応じて他の寄稿者に応答したり、丸山尚士論文を評価したり、できるかぎりの寄与はしたつもりです。しかし、はるか時期遅れの羽入著『学問とは何か』(2008、ミネルヴァ書房)は、その延長線上にはなく、むしろ「コーナー」とは切り離して、独自に対応し、評価すべき一問題と受け止めました。そして、早速一読はしましたが、応答する必要は、まったく認められませんでした。答えのない、答えられるべくもない『学問とは何か』は、内容上、論争への「追加的な応答」の体もなしてはいません。

そもそも、羽入氏の前著『マックス・ヴェーバーの犯罪』(2002、ミネルヴァ書房)を採り上げたのも、同書に、相応の意義を認めたからではありません。「倫理論文」一篇さえ、まともに読まずに大言壮語し、罵詈雑言を振りまいて自画自賛に耽るような人物を、まともに相手にする理由は見当たりませんでした。なるほど、それにもかかわらず、『犯罪』を採り上げて批判しましたが、それはなにも、羽入氏個人を戒慎させようと意図したからではありせん(表向きはともかく、そんなことをしても「無駄骨」とは、初めから分かっていました)。

むしろ、(1)東大文学部倫理学教室が博士号を与え、(2)日本倫理学界が学界賞「和辻賞」を授け、(3)養老猛司・山折哲雄・中西輝政・松原隆一郎ら「評論家」連中が「『よいしょ』して持ち上げる」など、「学界-ジャーナリズム複合態」の無責任な体質が露呈して、「これを放置しておくのは、日本のヴェーバー研究総体、社会科学総体にとってよくない」と判断せざるをえなかったからです。

しかし、小生はそれ以上に、研究上の実績は挙げている若手や中堅までが、あれほどの駄作に「びびり」始め、「口籠もり」「口を閉ざす」様子に、危惧を感じました。「これはいけない」と、重い腰を上げ、(それ自体として内容上はごくつまらない) 批判の筆を執り、執れば徹底させるほかはありませんでした。「学界-ジャーナリズム複合態」の惨状にたいする、一学者としての「責任倫理」的対応でした。

さて、『学問とは何か』にいたっては、流石、かつての空騒ぎも弱腰も「なりを潜め」ました。「八つ当たり」で誹謗中傷された第三者が、苦情を訴えてきたくらいです。とすれば、他に「応答」すべき「恵贈著作」を数多く(年平均約50点は)抱える小生が、再度「無駄骨を折る」のは、無意味で無責任と判断しました。

「羽入書事件」に目を瞑り通した「ヴェーバー研究者」は、どう評価されるべきでしょうか。

人生の究極的な意味とは?

橋本 ウェーバーは「職業としての学問」(岩波文庫、尾高邦雄訳)のなかで、学問の意義について語っています。

なるほどトルストイが言うように、学問は、「われわれはいかに生きるべきか」に対しては、なにも答えない無意味なものかもしれません。ウェーバーはこのことを認めたうえで、しかしもし正しい問い方をすれば、学問は別の貢献をすることができるといいます。

例えば、「いかに生きるべきか」という問題に対して、私たちがある世界観に立脚して、その答えを与えたとしましょう。すると学問は、その世界観の根本的な態度から「内的整合性」をもって意味をたどることを可能にする、とウェーバーは言います。この場合の学問とはすなわち、生きる意味を整合的に解釈する営みであり、学問は、「各人に対して彼自身の行為の究極の意味についてみずから責任を負うことを強いることができる」のだとウェーバーは言います。

しかし、どうでしょう。学問を営む人々の多くは、世界観についての根本的な態度を築いているわけではないでしょう。またかりに、ある世界観を根源的なものとして引き受けたとしても、その意味を整合的に解釈していく作業を引き受けている人はあまりいないでしょう。ウェーバーから見れば、そのような人たちは、二流の学者に過ぎないということなのかもしれませんが。

お伺いしたいのは、折原先生にとってこの「行為の究極的意味」はどのようなものでしょうか。またそのような究極的意味から、どのようにして生きる意味を整合的に解釈ないし展開していらっしゃったのか、という問題です。いわば「生きる意味の整合的体系化」という問題です。

折原 社会学的範疇としての「学者」すべてに、「みずから哲学する人der od. die Philosophierende」として生きよ――「究極の『根基』-個人としての『価値理念』-諸『目的』」という関連を自覚し、整合的に制御し、なおかつ「当の目的を状況に投企して、結果-随伴結果を予測し、『責任倫理』的実存として、生涯をまっとうせよ」――と要求するのは、現実にはいかにも無理でしょう。しかしそれでは、そうした規範的理念は引っ込めて、現実に歩み寄ればよいのか、というと、けっしてそうではありません。

・人間学的範疇のかぎりで、「批判的少数者」としての「知識人」と、「大衆」との区別を堅持

小生は、社会学的範疇ではなく、人間学的範疇としての「みずから哲学する人」という、いうなれば「知的英雄の理念」は、撤回せず、あくまで堅持することが、可能かつ必要と考えます。ただ、それをなにか「普遍的な」理念として、万人に期待し、押しつけようとすると、かえって途端に奇怪しくなり、「主権的独裁」にも通じかねません。ですから、そういう誘惑に屈してはならない、と思います。

そこでやはり、あくまで人間学的範疇として「大衆」と「知識人」(というのは、この場合、あくまで「みずから哲学すること」を辞さない「批判的少数者」)とを区別し、「自己責任」的かつ「責任倫理」的実存という理念を、後者に限定して堅持することが肝要と思います。この意味における「知識人」は、下手に「多数派工作」などに乗り出して「政治価値」に絡め取られてはなりません。あくまで「批判的少数者」に徹し、「他領域への転移」に「足を掬われない」ように、「ガードを固めて生きる」ことが肝要でしょう。

まさにそうすることによって、一見「逆説的」でも、「大衆社会」のただなかで、(人間学的範疇としての)「大衆」には想到不可能な選択肢を、提起-温存-確保し、いざ「危機」というときに、採用可能な選択の幅を広げて、「多数派」の柔軟な「危機」克服にも資することができましょう。そこに「批判的少数者」に固有の(「普遍化」はできず、してはならない)「使命」がある、と思います。

小生における「根基-価値理念-諸目的」関連については、「根基」のほかは、上記 (1) への応答で触れています。「根基」問題については、前記のとおり、ヴェーバー自身における「根基」の問題とあわせて、HP 2016年欄の二記事「記録と随想1: 『職業としての学問』末尾の「デーモン」とは何か――ヴェーバーの人生と闘いを支えた究極の立脚点は何処にあったか」および「記録と随想3:「1960年代における滝沢克己『原点』論の登場とその意義」で、できるかぎりは論じています。

人生とは何か?

橋本 折原先生は、ご自身の人生を振り返って、いまどのように捉えているでしょうか。このインタビューの最後に、「人生とは何か」、「生きる意義とは何か」という大きな質問について、素朴にお伺いしてみたいと思います。

念のため補助線として、ウェーバーの「世界宗教の経済倫理 中間考察」(『宗教社会学論選』大塚久雄/生松敬三訳、みすず書房(1972)所収)から引用します。

「自然的因果律の秩序界を創造した科学は、自分自身の究極的な前提について確実な解明を与えることはできないにしても、『知的誠実性』の名において、科学こそが思考による世界観察のただ一つの可能な形態だ、という主張を携えて立ち現れてくる。そして、知性が……人間のあらゆる人格的・倫理的な諸資質からまったく独立した、したがって同胞関係に反するような合理的文化所有の貴族主義を作り出すことになる。」(156頁)

「ところが、……このような文化所有には、倫理的罪過のほかにも、さらに、文化所有をそれ自体の尺度で評価しようとする場合さえ、その価値をはるかに決定的に喪失せざるを得ないようなものが、つまり無意味化という事実がまとわりついている。ひたすら文化人へと現世内的に自己完成を遂げていくことの無意味化、言い換えれば、『文化』がそこに還元されうるかに見えていた究極的価値の意味が失われてしまったことは、宗教的思考からすれば、……死が意味を失ってしまったということから帰結したのであって、死の無意味化こそが、ほかならぬ『文化』という諸条件のもとにおいて、生の無意味化を決定的に前面に押し出したのだということになる。」(156-157頁)

「『文化』なるものはすべて、自然的生活の有機体的循環から人間が抜け出ていくことであって、そして、まさしくそうであるがゆえに、一歩一歩とますます破滅的な意味喪失へと導かれていく。」(158頁)

ウェーバーはこのように述べています。この文脈でウェーバーはまた、ますます専門分化し多様化する学問における「無意味化(意味喪失)」、あるいはまた、現世を実践的・倫理的に合理化しようとする努力がもたらす矛盾としての「無意味化(意味喪失)」についても指摘しています。いったい近代人としての私たちは、死の無意味化や、仕事・研究の無意味化、あるいは実践的・倫理的振る舞いの無意味化といった事態に直面して、どのような態度をとることがふさわしいのでしょうか。

以上は補助線であり、無視していただいても構いません。

折原

・ヴェーバーは「中間考察」では「現世否定の諸契機」を理念型的に構成

ヴェーバーは、『中間考察』では、「現世肯定的・現世適応的」と見た「儒教」の文化圏から、「現世否定的・遁世的」とみなす「ヒンドゥー教と仏教」の文化圏に、考察を転ずるにあたり、「儒教」と同じく「現世に志向させられているweltangewendet」欧米近-現代人の読者を、対蹠的なインド文化圏に、なんとか内面的にも導き入れようとしました。

そこで、「およそどういうところで、現世拒否・現世否定のスタンスが孕まれうるのか」と問い、その諸契機を「理念型」的に極限化して提示します。そのコンテクストで、「現世的文化財」の創出や享受が「『知』や『趣向』のカリスマ」による「貴族主義」を欠きえず、これが「宗教的同胞愛倫理」に抵触する、という論点を提起するだけではなく、「現世的文化財そのもの」の観点と規準に照らしても、いわば「現世内在的(非宗教的)」にも「当の現世の否定」に通じる、という帰結を、理論的に導こうとしたわけです。

そうした理論的目的のもとに、「文化財の総量が、個々人一生涯の摂取量を越えてしまった近-現代には、個々人がどうあがいても、死以前はもとより、死の時点にも、なんらかの文化的『飽和』『完成』には至りえない」、「そのようにして『死』が『文化財総摂取の未完了』という意味で『無意味』になるとすれば、翻って生も(そういう『無意味』な帰結にいたるほかはない過程として)同じく『無意味』とならざるをえない」という「帰結」が、大がかりでもなにか特異な論理操作によって、導かれます。

この論説は、文化的「飽和」「完成」を求めて止まない欧米近-現代人には、一定の説得力をもち、異質な対極としての「遁世的瞑想・観照」文化への格好の導入部とはなりえたかもしれません。

しかし、古代インド人はともかく、近-現代人がどう生きるか、という実践の問題になると、話はちょっと変わってきます。近-現代人が、欧米の近-現代人であれ、「無意味」感の前提となる「文化財の総量を総摂取し、一望のもとに俯瞰せずには止まない」というような「『文化人』としての(そのじつ、度はずれた)野望」をまだ抱いているでしょうか。ヴェーバー自身はともかく、おおかたは、すでに捨て去っているのではないでしょうか。

・文化財の一領域・「学問」の「固有法則性」にいかに向き合い、自分の生涯をいかに「意味」あらしめるかが肝要

とはいえ、そうした局面で、個々人が「文化財の総量」とまではいわないとしても、文化財の「固有法則性」に巻き込まれると、はたしてどうなるか、――これはこれで、ひとまずは別個の、問うに値する、重要な問題です。じつは、この問題が、ヴェーバー最晩年の講演『職業としての学問』で再提起され、展開され、答えられています。

たとえば学問に「完成」を求めると、「学知」の限界は「旅人にたいする地平線」のように、一歩進むごとにそのつど後退しますから、どこまで行っても無際限で、「完成」にはいたらず、「きり」がありません。

そこで、そういう「学問」に固有の本質、この「固有法則性」が、なおかつそれに携わろうとする学者に課する「完成に至りえない」という宿命をしかと見据えて「悪あがき」(注40)を捨てるとき、そのときにこそ、問題は、「では、そういう『きりがない』『一見無意味な』仕事に携わることで、この自分の人生に、どういう『意味』が与えられるのか、あるいは、自分の限られた人生に、どういう『意味』を与えることができるのか」というふうに、再定立されましょう。

(注40)それが、あたかも「完成」にいたっているかのように振る舞う「似而非科学」、ヤスパースが警告して止まなかった「科学迷信Wissenschaftsaberglaube」にほかなりません。

そしてこのとき、「意味への問い」も、「近代合理主義の帰結にいかに抗するか」というような(なんといっても)気楽な一般問題ではなく、自分の「実存にとって切実な」問いに転化し、各人に回答を迫ってくるはずです。

この問いに答えるには、「文化財の『完成』の『高み』に立とう」などという、その度外れた野心と幻想は捨て、歴史的時期の限られた生涯に、自分として、また、「過去すべての死者と、未来すべての、不本意な死に脅かされかねない世代者とにたいする、その意味で二重の責任性存在」として、「いったい何をなしうるか」というふうに、問いの立て方そのものを改め、「身の丈にあった、等身大の実践」に踏み出せばよいのではないでしょうか。

このことは、「各人の生をしかと捉えて離さない『ダイモーン』の声に耳を傾け、なんの『けれん』もなく生きていこうと決意し、『その日その日の要求』にまっとうに取り組みさえすれば、いとも容易に達成されましょう」。

このインタビュー、とくに最初の二つのご質問への回答は、「1935年生まれ世代」の小生が、「戦中・戦後の限られた一時期」を、「二重の責任性存在」として、どう生きてきたのか、みずから総括し、「後から距離をとって接近してくる世代」に「批判と乗り越えの素材」を提供しようとする試みでした。(2017年4月10日、脱稿)

橋本 この度は小生のインタビューに応じていただき、ありがとうございました。心よりお礼申し上げます。小生がインタビューを依頼したのは2016年12月のことでしたが、その後折原先生はご自身のホームページで公開されていますように、癌の摘出手術をされました。現在、大変過酷な生活を余儀なくされているのではないかと察します。

とりわけ手術後に、お身体の状態を細心の注意で労わらねばならない状況のなか、本インタビューにお答えいただくことは、小生の想像を超える労苦を伴ったにちがいありません。術後の経緯は改善に向かっているとのことですが、どうかお身体の具合を最優先にご自愛いただき、そしてまた天職としてのご研究をお続けくださればと願っております。