「保守/リベラル」という図式ははたして有効か

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「保守/リベラル」という構図が見落としているもの

 

次に、「保守/リベラル」という構図が何を見落としているのか、考えてみよう。

 

年配の読者には当然のことだろうが、この構図は明らかに、「左翼」を切り落としている。かつて、政治勢力としての「リベラル」は「保守/リベラル/左翼」という座標のなかで「中庸」を是としており、「保守」とも「左翼」とも対話可能な勢力だった。言うまでもないかもしれないが、自民党の派閥である「宏池会」の議員が「リベラル」と呼ばれ、古くは石橋湛山が「リベラリスト」と呼ばれていたのである。

 

しかし、冷戦が終わった90年代以降は、「保守/リベラル/左翼」という構図から「左翼」が次第に抜け落ちていった。現代日本では、「左」という言葉を耳にすること自体が少ない。それにより、労働の問題が政治・社会と切り離されるような言論の環境と人びとの意識がゆっくりと、しかし確実に、でき上がってしまった。なぜここで唐突に労働という言葉が出るのかというと、それが「保守/リベラル」とは異なる対立の構図の鍵になるからだ。

 

さて、「労働の切り離し」とでも言うべき動きは、70年代から散見されるが、それが頂点を迎えるのが、90年代だったというのが筆者の見立てである。90年代は、長期不況の幕開け期ではあったが、マス・メディアにはバブルの残り火もあり、労働者自身が社会と労働の関係をほとんど意識せずに済むようになっていた。

 

現代の私たちは自分の労働をいかに理解しているのか、問うてみてほしい。労働の現場での充実した人間関係はあるだろうし、労働を通して社会の一員であることを自覚できているという人もいるだろう。それでもやはり、「労働は辛く、耐え忍ぶものであり、消費者としてそのストレスを発散する」という理解が一般的なのではないか。

 

そうだとすれば、自らを「労働者」として自覚するのは、心地よいものではない。明確な「対価」を実感しにくい労働運動には人が集まらない。好きなアーティストのライブやイベントに集って消費者としてのパワーを社会に提示することはできても、労働者として集うという発想は生まれてこない。2000年代後半に格差社会や貧困が社会問題になったが、自己責任論は根強く、「グローバル資本による搾取が問題だ」と主張しても、現在の日本では「それなら努力して転職か起業でもせよ」と返されるだけだろう。

 

「労働者のパワー」という発想が、時代遅れなのだろうか。たしかに、一つの職場に、正社員、契約社員、アルバイトと多様な労働形態が混在する現代日本では、かつてのように労働者が一枚岩になる見通しを立てることは困難だ。そうした社会で、選挙前に慌てて「リベラル勢力結集」と言っても、迫力がない。

 

しかし、近年は、労働者の自発的結集の可能性に再び光を当てるような動きが世界で見られる。たとえば、イギリスで支持を集める労働党のジェレミー・コービンは、はっきりと「階級」を意識した政策提言を行っている。あるいは、フランスで今年の11月17日に起こった「黄色いベスト」運動も注目に値する。燃料税の引き上げに反対する低所得者層の運動には、28万人もの人が関わっていると報道された。

 

昨年出版された、ブレイディみかこ氏の著作『子どもたちの階級闘争:ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房、2017年)は、「上と下」という構図を提起している。重要な問題提起だと思う。ただし、個人が自らを労働者として主体化する環境にありがながら、それよりも「中流でありたい」「豊かな国の国民でありたい」というそれ自体は否定しようのない願望の方が、個人に強く作用しているのが現状だ。その願望が、「保守」に票が集まる現状を生み、「上と下」という構図で社会を見る態度を拒んでいる。

 

否定的な展望ばかり述べたが、これが日本社会の現状だろう。「リベラル」だけが問題なのではない、事態は「保守」も同じである。「経済大国」であるという自画像を守りたいという以外に、何を守り保とうとしているのか、もはやよく分からない。

 

 

身近な対立のラインの錯綜に目を凝らす

 

こうした状況で、「保守」と「リベラル」という対立の構図を描いても、もはや有効に機能しないだろう。「保守」「リベラル」に代わる別の言葉が必要なのだ。ではそれはどんな言葉か? 最後に筆者の考えを記しておきたい。

 

現代日本社会には、政治勢力の対立としても、思想・信条の対立としても、大きな対立軸はそぐわない(あえて言うなら、「改憲/護憲」「上/下」だろう)。むしろ、視野を転じて、より身近な対立のラインの錯綜にこそ、目を凝らすべきだ。

 

私たちは日常生活のなかで、あるいはネット上で、「保守/リベラル」という対立の構図よりは遥かに切実に感じられるような対立のラインに日々接している。たとえば、この記事の読者である日本語話者の私たちは、職業・生活水準・将来設計・自らの来歴・家族構成・性に関する意識・宗教・国籍など、ほんとうに数多くの違いを抱えこみながら、人間関係を構築している。そうした人間関係のあいだを走り、ときには排除に傾く対立のラインを、まずは意識し、解きほぐしていくという実践が求められているように思う。

 

ほとんど機能不全の「保守/リベラル」対立の構図の前で「踏み絵」を踏まされ、「公共の議論に加わるべきだ、それが責任ある個人だ」と真顔で正論を言われても、ちょっと引いてしまう――。こういう「感覚」もまた、潜在的な対立ラインだと思うが、私たちはそういう「感覚」にこだわって、そこから言葉を紡いでいくのが良いのではないか。

 

論点が変わっていると受け止められるかもしれないが、筆者は、そうは思わない。

 

「保守/リベラル」の対立の図式をどれだけ精緻化しても、社会に錯綜している対立のラインを意識するというそれぞれの実践を抜きにしては、結局はそのなかに生きた人間を見つけることができないだろうから。

 

言葉を紡ぐというのは、自己の内外に目を凝らし、耳を澄ませることだ。日常生活のなかからくる「感覚」を言葉にするための場所は、いまではどこにだってある。言うまでもないが、言葉を紡ぐことと、条件反射的にテンプレートを貼り付けることとは、異なる。身の回りをよく見て、それを言葉にすることで意識していく、対話していく、まずはそこからだ。それなしには、とのような大きな構図も意味をなさない。

 

もってまわった言い方になってしまったかもしれない。これが正解だと胸を張ることもできない。「もっと明快な代案を出せ」と怒られそうだが、それは筆者にもわからないのだ(もし、明快な対立の構図を言う人がいたとしたら、疑ったほうがいいということは、わかっている)。開き直るわけではないが、私たちの議論の土台そのものが果たして妥当なのか、それを問うべきなのだろう。

 

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vol.266 

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