「不自由展」をめぐるネット右派の論理と背理――アートとサブカルとの対立をめぐって

戦後民主主義と戦争サブカルチャー

 

このように今回の件には、ネット右派という存在に特有の論理と背理の構造が、アクティヴィズム系アートとオタク系サブカルチャーとの対立という状況をめぐってシンボリックに現れていた。ではそうした構造は、そもそもどのような経緯で形作られてきたのだろうか。しかもその際、オタク系サブカルチャーがそこで重要な役割を演じるようになったのはなぜなのだろうか。

 

元来、この種のサブカルチャーはむしろ左派との結び付きを強く持つものだったと見ることもできる。たとえば貞本の「先輩」に当たり、『機動戦士ガンダム』のキャラクターデザインなどで知られるクリエーターの安彦良和は、60年代末の学生運動とサブカルチャーとの結び付きについて繰り返し言及している。しかしその後、90年代になってネット右派が形成されると、オタク系サブカルチャーは右派から強く志向されるようになり、彼らの「部族文化」として採用されることになった。それはなぜなのだろうか。

 

そうした点について考えるためには、そもそもネット右派という存在が、そしてオタク系サブカルチャーというジャンルがどのような経緯で形作られてきたのかを、特に両者の関係という観点から考えてみる必要がある。そしてそこで両者がなぜ結び付くことになったのか、いかなるロジックがそこに働いていたのかを考えてみる必要がある。

 

そこで次に歴史社会学的なアプローチからこれらの点について検討することにより、今回の件の背景にあった事情をさらに深く掘り下げてみたい。以下、歴史的な経緯を振り返りながら考えていこう。

 

ネット右派とオタク系サブカルチャーとがなぜ結び付くことになったのか、その根本的な理由を考えるためには、このジャンルが明示的に成立する以前からその基盤となってきたあるジャンルにまず注目してみる必要がある。それは「戦闘サブカルチャー」とでも言うべきジャンルだ。1990年代の『エヴァンゲリオン』から遡れば、80年代の『ガンダム』から70年代の『宇宙戦艦ヤマト』へと至るものであり、さらにその原点には60年代の戦記マンガとプラモデル、とりわけミリタリーモデルの一大ブームがあった。

 

このジャンルがそれらのブームを通じて最初に成立したのは、1960年代前半、日本が高度経済成長期を迎えたころのことだった。一方で「戦後民主主義」という語が使われ始め、その理念が成立したのとほぼ同時期のことだ。つまり当時、日本社会の中から先の戦争の記憶が徐々に薄れていくなかで、「戦争」のリアルさをあらためて見つめ直そうとする「大人たち」の構えが戦後民主主義という理念に結晶する一方で、「戦闘」のリアルさをそこに見つけ出そうとする「子供たち」の構えが戦闘サブカルチャーというジャンルに結実したと言えるだろう。

 

当時の学校世界では、戦後民主主義的な言説がいわば日教組的な教条に翻訳され、教師から子供たちへとその「布教」が行われるのが常だった。そこでは戦争を絶対悪として全否定しようとする意気込みのあまり、戦争に関わる一切の思考をヒステリックなまでに排除しようとするかのような態度がときに示される。そうした態度に反発し、戦後民主主義的な言説の「押し付け」に対抗しようとした当時の子供たちが、自分たちなりの目線で戦争を思考してみたいと望んだところに生み出されたのがこのジャンル、戦闘サブカルチャーだったと言えるだろう。

 

とはいえそれは、戦後民主主義という理念に対抗しようとするものだったわけではない。むしろそれを受容し、彼らなりの目線でその理解を推し進めていくためのものだった。いいかえればそれは、むしろそれ自体として戦後民主主義的な現象の一つだったと言えるだろう。そのためそこでは「戦闘」のリアリティが追い求められ、そのカッコよさがマニアックに表現される一方で、「戦争」のリアリズムが追及され、その不条理さが執拗なまでに描き込まれる。『ヤマト』から『ガンダム』へと至る流れの中で、さまざまなアプローチを伴いながらそうしたスタンスが確立されていった。

 

そこで彼らは、なぜ戦争が起きたのか、起きなければならなかったのかを、『ヤマト』のガミラス帝国や『ガンダム』のジオン公国のさまざまな事情を検討しながら考察していく。それは戦争という事態を、教師に言われるままに単純に全否定するのではなく、その複雑さを複雑さのままに思考してみたいという、彼らなりの反発心の一つの表現だったと言えるだろう。いいかえれば戦闘サブカルチャーとは、戦後民主主義という理念を受容しつつも、一方でその教条的・独善的な態度と、それゆえのある種の「単純さ」に対抗しようとするものだった。

 

そうしたなか、特に『ガンダム』ではそのシリーズ展開を通じて、「複雑さ」を担保するための方法論がさまざまに開発されていく。その一つは「歴史的物語観」とでも言うべきものだろう。いわゆる「物語消費」のアプローチに基づき、個々のエピソードの背後に戦争年代記の体系を構築していくという考え方だ。そこではさまざまな陣営の込み入った事情がさまざまな角度から描き込まれ、そうした複眼的な視座のもとで、何が正義で何が悪かも判然としないような混沌とした世界観が提示される。そこに「善悪二元論批判」とでも言うべきもう一つの考え方がもたらされることになる。

 

 

ネット右派の形成と頽落

 

一方でその間、1990年代になると、歴史上の大きな動きに伴ってさまざまな動きが日本社会の中に現れてくる。それに伴って社会運動の領域も活性化され、左右両翼からの動きがさまざまな盛り上がりを見せていく。

 

まず左派勢力の間では、冷戦体制の終結という動きを受け、マルクス主義的な「革新」から市民主義的な「リベラル」への綱領転換が図られるなかで、「リベラル市民主義」の動きが大きな盛り上がりを見せていく。一方で保守勢力の間では、55年体制の終焉という動きへの危機感から、「東京裁判史観」を見直そうとする運動が推し進められ、「歴史修正主義」の動きが大きな盛り上がりを見せていく。さらに右翼勢力の間では、昭和から平成への改元という動きを受け、「右翼のイノベーション」を掲げてヨーロッパのネオナチに接近していった一部の極右勢力により、「排外主義」の動きが形作られていく。

 

そうしたなか、ネットの普及という状況に後押しされつつ、これらの動きと連動しながら形作られていったのがネット右派だった。

 

当初彼らは、市民運動の場などに見られるリベラル市民主義の「正義」への、それも行き過ぎた「正義」への反発から、「反リベラル市民」というアジェンダを掲げ、独自の運動を繰り広げていった。そこで問題化されていたのは、「市民」を自認する者の中にしばしば見られる啓蒙主義的な規範意識と、選良としての特権意識、そしてそれらの上で繰り広げられる硬直したユートピア論の空疎さという特質だった。

 

しかしそうした運動の過程でやがて彼らは、歴史修正主義というアジェンダを掲げる一部の保守勢力や、排外主義というアジェンダを掲げる一部の極右勢力と接触し、帯同するようになる。それらの勢力にとってもリベラル市民主義はやはり大きな敵だったからだ。その結果、いわば呉越同舟の寄り合い所帯が営まれることになり、その過程で彼ら自身もやがてそれらのアジェンダを標榜し、信奉するようになる。

 

そうしたなかで彼らは、自らの立場をシンボリックに表象するアイコンとして、戦闘サブカルチャーというジャンルと取り結んでいった。というのもそこには、彼らが掲げていたアジェンダとの相同性、類似性、親和性がさまざまに見られたからだ。

 

まず反リベラル市民というアジェンダは、リベラル市民主義という立場が陥りがちな啓蒙主義的・規範主義的な性格への反発から生まれたものだったが、一方で戦闘サブカルチャーは、戦後民主主義という立場が傾きがちな教条的・独善的な態度への反発を伴ったものであり、両者の間には強い相同性があった。

 

次に歴史修正主義というアジェンダは、歴史を「国民の物語」として捉えようとする「物語的歴史観」や、日本だけが悪かったわけではないとする「善玉悪玉史観批判」などの考え方に支えられたものだったが、一方で戦闘サブカルチャーは、「歴史的物語観」や「善悪二元論批判」などの考え方を伴ったものであり、両者の間には強い類似性があった。

 

さらに排外主義というアジェンダは、ヨーロッパのネオナチを通じてかつてのナチスドイツの思想や文化から学ばれたものだったが、一方で戦闘サブカルチャーは、その軍装、兵器、儀式などへのマニアックな関心から、「ナチサブカルチャー」の意匠に彩られたものであり、両者の間には強い親和性があった。

 

これらの相同性、類似性、親和性のゆえにこそ、ネット右派は戦闘サブカルチャーと取り結び、それを彼らの「部族文化」として採用することになったと言えるだろう。一方でその間、このジャンルを基盤に、より広範なジャンルとして形作られていったのがオタク系サブカルチャーだった。ネット右派とオタク系サブカルチャーとがなぜ結び付くことになったのか、その理由の背後には、戦闘サブカルチャーというジャンルを介したこうした経緯があった。

 

しかしそうした経緯を通じて、一方で彼ら自身のスタンスも変化し、変質していったというもう一つの経緯が生じたことにここで注意しておく必要があるだろう。

 

当初彼らは、元来は反権威主義的な思潮だったはずのリベラル市民主義が一つの権威となってしまったことを問題化し、自らが反権威主義的な立場に寄りながら、その啓蒙主義的・規範主義的な性格を批判するという運動に取り組んでいった。しかしその後、一部の保守勢力や極右勢力と取り結び、その権威主義的な体質と協働していくなかで、やがて彼ら自身の体質も変質し、権威主義的な傾向を帯びていくことになる。

 

あくまでも「複雑さ」を担保しようとしていたかつての態度はいつのまにか忘れ去られ、それどころか保守勢力からもたらされた超国家主義や、極右勢力からもたらされた陰謀論などにまみえるうち、むしろ暴力的なまでの「単純さ」にその思考が乗っ取られてしまう。その結果、彼ら元来の論理はすっかり空洞化し、背理に蝕まれてしまうことになる。その過程で彼らの議論は過激化し、極端化し、そして頽落していった。

 

 

おわりに

 

以上のような経緯を踏まえてあらためて考えてみると、「不自由展」をめぐる今回の件の別の側面が見えてくるだろう。

 

そこでのネット右派の反発は、元来は政治的なものというよりもむしろ文化的なものであり、アクティヴィズム系アートとそれに帯同するリベラル派という、特権的な文化エリートのヘゲモニーに対するものだった。つまり彼らなりの反権威主義の実践だったわけだが、しかしその過程で彼らは、逆に権威主義的な存在と取り結んでいく。そこで召喚されることになったのが河村市長や菅官房長官だったわけだが、しかしそこにはもう一つのより大きな存在、絶対的な存在があった。それは天皇だろう。

 

つまり天皇という究極の権威と取り結んでしまえば、「芸術家」だろうと「教授」だろうと、アクティヴィズム系アートだろうとリベラル派だろうと、並の権威はその前で押し黙らざるをえなくなり、それら一切を無条件にやり込めることができる。特権的な文化エリートなどよりも遥かに特権的な、絶対的に特権的な存在と取り結ぶことを、そのことは意味するからだ。

 

元来、ネット右派の議論では天皇中心主義というアジェンダが取り上げられることはほとんどなく、その初期には「共和制」への志向が表明されたことなどもある。したがって彼らが天皇中心主義を強く信奉しているとは思われないが、にもかかわらず今回、天皇をめぐる議論がにわかに浮上してきたことの一つの背景には、こうした事情もあったのではないだろうか。

 

そこには彼ら独自の思考法がいわば究極のかたちで表現され、刻印されていたと言えるだろう。反権威主義への志向が逆に権威主義と結び付き、「複雑さ」への志向が逆に「単純さ」に回収されてしまうという、自己撞着的で自己欺瞞的な思考法だ。だとすればやはり今回の件には、ネット右派という存在に特有の論理と背理の構造がシンボリックに現れていたと言えるだろう。

 

 

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