ミシュランガイドはなぜ歓迎されるべきか 

「格付けすること」の意味

 

「素材は一流、腕は二流」などと称される北海道の食文化が、ミシュランガイドの発行でどの程度変わるかは未知数だ。東京と関西でミシュランガイド発行の反響や反応は微妙に異なっていたように思えるが、いずれにしても料理人やグルメガイドの反応は、1)無視、2)歓迎、3)反対の三つにわかれたようにみえる。

 

反対派の論拠は、外国を基準にした評価は日本には当てはまらない、外国人が喜ぶものが日本人と同じとはかぎらない、日本の味が本当に分かるのかといった、見当はずれな意見が多かったように思う。なかには、ミシュランガイドの公平性を疑う意見もあった。日本でもミシュランの覆面調査員を16年務めたパスカル・レミー氏が内部事情を暴露し(「調査員はテーブルに着く[原題 L’inspecteur se met a table])、そもそも毎年厳格な調査は行われず、覆面調査が行われることはまれで、多くの場合は自分の身分を明かし、場合によっては代金を支払わずに食事をしているなどといった内容が報じられた。

 

もちろん、人間が人間の感性や作品を評価するのだから、完璧はありえない。フランス国内の星付きレストランだけでも500以上を数えるのだから、マネージメントにミスがあるのも致し方ない部分もあるだろう。もし批判をするとしたら、ミシュランガイドそれ自体がいまや権威と化しており(星を失ったがゆえにシェフが自殺するといった事件もある)、通常は星がつくごとに定価が2-3割高くなってしまうということがある。ガイド自体が市場をつくり上げてしまう場合、ガイドそのものの性格が歪んでしまう。そうした意味では、賛成するにせよ、反対するにせよ、日本人自身がミシュランを評価することで、自らの市場を歪めてしまっているのである。

 

ミシュランガイド、とくに日本版のそれにさまざまな問題点やバイアス、経営戦略があることを認めつつも、北海道版を含め、ミシュランガイドがそれでも日本の各地の宿泊所とレストランを評価しつづけることを歓迎すべきことだと思う。

 

☆   ☆  ☆

 

企業にせよ、国債にせよ、大学にせよ、対象が評価され格付けされている。そして、数多くのグルメガイドが日本国内に存在するなかで、考えてみれば飲食店を格付けすること自体が(「編集部お薦め」といった良心的なものを除けば)皆無に等しかった。その点においても、日本人など足元に及ばないほどに頑固なフランス人を相手にしたミシュランの試みは、革新的かつ野心的だったのである。

 

リーマン・ショック以降の金融危機で、市場評価が不適切だったとして、格付け会社自身が批判の対象になっている。格付けして評価するということは、それだけの経験と覚悟に裏打ちされている必要がある。たとえば、日本の政党のマニフェストのように、政策メニューを並べて、それを実現します、というのはそれと正反対の姿勢である。優先順位をつけて、それに納得してもらうこと。つまり、評価する主体であるということは、責任の主体となるということでもある。その姿勢のなかに、評価の主体と、評価される客体との真剣なせめぎ合いが生じるのだ。

 

もちろん、だからこそ評価基準は多様かつ多数存在している方が好ましい。レストランガイドでいえば、すでに多くの国で「ザガット」や「ゴーミヨー」といった他のレストランガイドがミシュランと凌ぎを削っている。今夜の美味しい一皿を求めて店を探すユーザーが、ミシュランガイドに反発して、独自の判断基準をもってその店を訪れるのであれば、それはミシュランの格付けなどにびくともしない、強固でしなやかな市場をつくっていくことに貢献することになるだろう。そのときにこそ、日本でのミシュランガイドの真価は問われるに違いない。

 

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.275 

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