『いいモノ』食ってりゃ幸せか? われわれはみな〈社会的〉に食べている

「好きでもないヤツと暮らす場所」

 

五十嵐 遠藤さんの書いたブログの中で、すごく腑に落ちた言葉があって、「地域は好きでもないヤツと暮らす場所」というものなんです。

 

今、facebookやTwitterで、趣味の繋がりから、空間を超えて付き合ったりすることが簡単にできる時代になりました。そうすると、コミュニティーはつくりやすいんですけれど、自分と似ていない人には、逆に会う機会が少なくなる社会でもあるんですよね。一方、地域というのは、単純に隣通しで暮らしているという共通項しかない場合が多いです。

 

これが格差の拡大が深刻になってくると、アメリカなんかのように、年収とかで地域が輪切りに形成される社会になる可能性があります。一部でそういう動きもありますが、現在の日本は幸いそこまでの区分けはなくて、戸建ての住宅地も団地も工場も農地も混在するという環境が、まだまだ残っています。地域にはいろんな職業のいろんな人がいる。ネットで知り合った人よりも、せまい地域の方が、多様性が高かったりするんですよ。その中で、なにかやるとなると、難しさと面白さが両方ありますね。

 

遠藤 たとえば企業の世界だったら、正社員と非正規が口を聞かなくても、業務のシステムや市場さえうまく保っていれば、生きていけるという錯覚に陥ることができる。Facebookなどがあって、友たちという錯覚も味わうことができる。

 

でも、同じ地域で暮らしていると、そうはいかない。たとえば、ウチの地域の場合、顔を合わせれば挨拶や、公園の清掃や防犯パトロールなどもそれなりに付き合ったりするわけで。地域というのはもともと、そうやってできているわけです。

 

五十嵐 地域には多様な人がいることが、3.11以降の経験であらためて実感した気がします。

 

遠藤 匿名性が普通のように言われる都会の生活では、普段は、はっきり一人ひとりが見えているわけじゃないからね。

 

五十嵐 同時に今は、「好きでもないやつ」との間をどうやって越えていくか考える必要があります。ぼくは、誰しもが毎日経験する「食べる」という行為は、ひとつのきっかけにできるようにおもいます。「美味しいは正義」じゃないですけど、美味しいもの食べると笑顔になるといった側面がたしかにあって。それを軸にいろんな価値観の溝を原初的に超えることができる。

 

円卓会議も「農家を助ける」というだけの運動だったら絶対に続かなかった。これは自信があります。消費者自身が、「新鮮で美味しものを食べ続けたい」という風に価値転換できてこそ、長続きするんですよ。

 

柏の野菜はすごく美味しいんです。でもそれって、柏で食べるからなんですよね。いわきで食べたらいわきで食べたものの方が美味しいし。食品のかなりの部分って鮮度と旬で決まってしまうんです。多くの野菜の場合は、基本的には、採れたその場で食べるというのが最高です。その上で、土の相性や技術で、「この野菜はこの農家さんが最高」というのが出てくる。

 

つまりそれは、野菜のうまさが、究極的にはお金じゃ買えないってこと、一番美味しいものを食べたいなら、その場にいることだけが大事って、じつは結構平等なビジョンですよね。美味しい野菜を食べるために、そのモノが採れる地域や畑にどれだけ足を運べるか、どれだけ時間を使ってコミットできるのか、ってところがある。そして、その場にいる人が美味しいもの食べて、繋がることができるっていうのは、能天気なことを言うようですが、なんか可能性があるようにおもうんですよね。

 

遠藤 美味しいまずいは、人間関係が大いに関係しているからね。まぁ、でも、地域の話は難しいよね。これだけ社会が複雑になると。シンプルに考えて、「一緒に飯を食えばなんとかなるよ」という感じでやった方がいいのかもしれないね。

 

人間が最初に料理を作りはじめてから長い間は、共食が普通だったわけで。それが、社会の原型だとおもうの。一緒の社会で共に食料を確保して食べて。そこには「神さま」までいる。動物的に腹を満たすだけなら、奪い合いになって早いもの勝ちになってしまうんだよね。でも、料理をつくって、器に盛り分けて食べる。それが繰り返されているのが食事だろうとおもうんです。

 

でも、システムが複雑になることによって、実態の関係がはなれちゃったというか。繋がっている幻想に支配される。もっとどんどん一緒に食事をするといいんじゃないかな。

 

おれは、ゲストハウスの経営に絡んでいて、そこでは、毎週火曜日に宿泊している外国人はもちろん、500円と飲み物を持って誰でも参加できるワンコインディナーパーティってのがあるんです。おれは英語を喋れないんだけど、「この料理はこうだ」と、美味しい料理を挟んで、「うまい、うまい」と話しているうちに、なんとなく通じるものが生まれるんだよね。食によって超えられることってあるのかもしれないね。

 

 

「安全」なんて誰も言えない

 

遠藤 今回の放射能問題ですごく感じたのは、食の安心と安全に対する騒ぎ方ってヒステリックで異常だなと。よくたしかめないで騒ぐ。これまでも農薬などが問題になって、農薬の場合は、ちゃんと洗えばかなり大丈夫なことでも、なかなかわかろうとしない消費者もたくさんいて、頭ごなしにダメってことで、騒ぎが大きくなったりするんだよね。

 

味に関して言えば、畑の近くに住んで採れたてを食べれば、農薬使った野菜だって美味いんですよ。新鮮なものが一番いいとわかっている。だけど今の大方の流通経路でいくと、消費者に届くのは速くて二日目くらいだから、ホウレンソウなんて一番うまいところを通り越して届くから、残念ですよね。

 

でも、農薬の問題だって、放射能の問題だって、科学的にたしかに証明されたというわけではないでしょ。

 

今までだって、絶対安全なんてなくて、社会的な関係の中で、安全だったり安心だったりしたシステムで動いていただけ。「おれは安全だとおもってる」、「おれも安心だとおもってる」というのが混ざり合って、ひとつの流れになってきただけなんですよ。

 

だから、「安全」というのは、科学的に成り立っているという部分よりも、多くは文化や社会で支えられているというのが実態だとおもいます。

 

五十嵐 たしかに、「どの農薬をどの時期にどれくらいしか使ってないから安全」って、確実に言える人って多いわけではないですよね。放射能問題になったとたん、それがいきなり、放射能だけがゼロベクレルに近い数字出してればそれでOKって、むしろ変な話なのかもしれません。

 

遠藤 確実に絶対に安全とは言えないってことは、ずっと前から同じなのにね。現在の流通って、消費者からは生産者の顔が見えないですよね。でも、どうして今まで成り立ってきたのかといえば、結局、流通業者に対する信頼があったからです。でも、震災以後は、その信頼が壊れてしまった。生産者でもなく、「産地」だけが問題にされた。

 

五十嵐 消費者の前で、放射能の安全性について説明する機会があるんです。その時、「検出下限値○○ベクレルで不検出です」といってもうまく伝わらないんです。ある意味、良くわかんない方が自然なんですよね。結局、買ってくださる人はなにに頷いて納得してくださるのかというと、「柏の農家さんはものすごく放射能のこと勉強している」という姿勢です。そのほうがはるかに食いつくんですよ。「それなら柏の野菜は安心ね」と感じてもらえる。ぼくらが個別の農家の勉強する姿勢とか誠実な人柄とかを伝えることで、地域の農家全体、ひいては地域の農産物への一般的な信頼へと繋がっていく。人間ってそんなもんですよね。良い、悪いではなく、それでいいんだとおもいます。

 

遠藤 そうですよね。この前、盛岡の『てくり』という町雑誌の最新号「パンとごはん」の特集をみたら、ある流通業者の方が「本当なら、皆、家族で飯を食っていける分の食材を自給自足すればいいんだけど。それができないなら、信頼のおける農家とつながるしかない。『安全』はモノに対しての判断だけど、『安心』は人と人の関係じゃないですか」と言っているわけ。おれはその通りだとおもいました。顔が見える部分があれば、信頼関係を築くことができるんだよね。

 

 

五十嵐泰正氏

五十嵐泰正氏

 

 

 

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