2014.01.21

今年1月1日、アメリカ合衆国コロラド州の州都デンバーで、レクリエーション用のマリファナ販売が開始された。販売免許をもつ店の前には、開店前から大勢の人たちが列を作り、販売開始が待ちきれない様子であった──このニュースはNHKをはじめとした日本のマスメディアでも取り上げられ、われわれの知るところとなった。

この販売開始は2012年11月に可決したコロラド州憲法の改正(Colorado Amendment 64)に基づくものである。この改正により同州ではマリファナの個人使用をアルコールと同じように扱うことになった(*1)。販売に課税することで税収増を目的とするのである。

アメリカ合衆国のマスメディアは今回の販売開始をアメリカ史上初のこととして大きく取り上げ、アメリカにおける薬物の歴史を変える出来事と論じており、CNNにいたってはコロラド州がマリファナ産業のシリコンバレーになるかもしれないなどとも報じている(*2)。

近年は医療用マリファナの販売がいくつもの州で認可されてきたが、レクリエーション用マリファナの販売はそれとは異なる意味をもっている。また、実はアメリカ合衆国でマリファナが合法的に販売されることは初めてではない。かつて禁酒法時代に、違法化されたアルコール販売に代わって、マリファナを喫煙する「ティー・パッド」というマリファナ喫煙所が大都市で営業されていた。しかしながらアメリカ最大の乱用薬物であるアルコールの魅力の前に、それらは早々に姿を消したのであった(*3)。

デンバーのマリファナ販売がアメリカで大々的に報じられたのは、単にこれが珍しい政策だからというわけではない。これをアメリカ合衆国の薬物政策の転換点、その変化の兆しとみているからである。マスメディアは「アメリカにおける薬物の歴史」などというけれども、そもそも薬物の歴史とは単なる「物質の歴史」ではない。それは「薬物をめぐってどのような思考と政策が生み出されてきたのかについての歴史」である。そして今回の変化は、端的にいえば、これまでの「薬物戦争」というアメリカ発祥の政策に終わりが近づいているのではないかという観測と期待を人びとに抱かせているのである。

わが国ではそもそも薬物政策という考え方自体にあまり馴染みがないために、これらのニュースや論評の意味が十分には伝わらないようにも思われる。そこでこの機会に、薬物政策とは何であり、それをめぐって各国がどのような情勢にあるのかについて述べながら、それが何を意味しているのか、さらには近い将来おそらくわれわれが考えなくてはならなくなるであろうことについて触れてみたい。

薬物政策とは何か

そこでまず薬物政策である。聞き慣れないこの言葉は“drug policy”の訳語であり、文字通り「薬物をめぐる政策」を意味する。すなわち、薬物をどのような物質として定義し、その物質に対してどのような資源を導入して対処するのか、対処の主体は何か、そしてその帰結として何が期待されるのか、などに関する一連の思考と、それをもとにした実践のことである。

もっとも、このように述べると奇妙に思う人も多いかもしれない。というのは、薬物が危険な物質で、人びとの人生を狂わせるものであることは当然であり、したがってその意味にもとづいて厳しく対処すればいいのであって、いちいち政策などとして議論する必要などないと思われがちだからである。

しかし仮に、薬物に関するそのような認識が正しいものであったとしても、実際には、そう認識し説明すること自体が政策の一部をなしている。そして、そのような認識や説明から導き出される、「危険なものをあえて使用する者には厳しく対処するべきである」という、わが国でよく見られる意見も、必ずしもそれに対する唯一の対処法とは限らない。そもそもそのような認識や説明にもとづいて「対処が自然に決まる」という発想自体もまた、政策や政策の一部を構成する考え方なのである。

要するに、政策や政策を巡る議論など不必要であるとする考え方自体が、わが国の──わが国だけではないが──薬物政策の一部をなしているのである。

(*1)同時期に同様の改正を行った他の州にワシントン州がある(Washington Initiative 502)。

(*2)http://edition.cnn.com/2013/12/31/us/colorado-recreational-marijuana/

(*3)この経緯については(佐藤ほか 2009)を参照。とくに第三章(pp.91-142)が参考になる。

20世紀の薬物政策と薬物廃絶パラダイム

薬物とはその名の通りそもそも医薬品であるか、あるいはそれを開発する過程で産出されたものであって、酩酊などを目的として作られたものではない。なかには、ほとんど人類の文明と同じくらい古くから治療を目的として使用されてきたものも含まれる。それがこんにちのような形で使用や所持に焦点を当てて問題化され、政策的思考の対象として浮かび上がってきたのは、19世紀後半から20世紀初頭にかけてである(*4)。

ではどのように問題化されたのか。国家という水準で考えるのであれば、各国が実質的に薬物政策を立ち上げたのは、1909年の上海阿片委員会やそれに続く1911年のハーグ国際阿片会議とその国際協定(1912年)のためである。とくに1912年の国際協定は、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約(1919年)に引きつがれ(295条)、これを踏まえてイギリスやオランダも薬物統制に関する立法を行った。これらの会議の主唱国であったアメリカ合衆国では、1914年にハリソン法という麻薬(narcotics)(*5)統制の法律が制定され、他国に先駆けてその使用さえも禁じられた(*6)。

実は連邦政府による薬物統制は、それまでにも何度か議会で提案されたのだが、いずれも採択されなかった。それは薬物統制が州政府の管轄だと考えられたからである。その意味で今回のコロラド州などの動きは、州を中心にしたそもそもの薬物統制の原点に立ち戻るものであるともいえるだろう。

連邦政府による薬物統制へと風向きが変わったのは、上記の国際会議や国際協定後である。そもそも最初の国際会議を求めたのはアメリカ聖公会の主教であった。主教は当時の大統領ルーズベルトに手紙を書いて、合衆国が中心となって不道徳な阿片貿易の統制に乗り出すべきだと訴えた。ルーズベルトは、合衆国の中国移民政策に不満を抱いている中国政府のために、この機会をとらえて会議を主唱したといわれている。国際協定成立後はそれに合わせて国内の薬物統制立法が行われていくことになった(*7)。

なぜアメリカは国内で薬物を強く取り締まろうとしたのか。それは端的にいえば、薬物がアメリカ合衆国における移民問題や人種問題の象徴とされたからである。議会やメディア、あるいは薬剤師の全国大会などでは、移民や人種の問題をあげながら、薬物問題の重要性が論じられた。

例えば、そもそも阿片は中国人労働者によって使用されていたことが問題視された。中国人労働者は当初、大陸横断鉄道建設の貴重な労働力と見なされていたが、1869年の鉄道完成後はむしろ白人失業者の仕事を奪う余剰な労働者として敵視され、ほどなく中国人排斥法(1882年)が制定された。その過程で阿片も問題化されたのである。

また阿片系麻薬と同時に規制されることになったコカインは、南部のアフリカ系(黒人)労働者によって使用されていたことが問題視された。とはいえ、南部のアフリカ系労働者が興奮剤であるコカインを使用するようになったのは、そもそもは白人雇用主が彼らを過酷な労働に長時間耐えられるようにするために与えたからである。しかしながらそれがアフリカ系の間に普及すると、今度はその効果によって白人労働者の労働機会が奪われることが問題にされるとともに、コカインの普及に恐怖を感じて取り締まりの必要性が訴えられた。コカインを使用したアフリカ系には32口径の銃弾は効かないという噂が飛び、38口径に装備を変更した警察署すらあったのである。

さらにマリファナは、1920年代の好景気を支えたメキシコ人の移民労働者によって使用されていたことが、1929年の大恐慌後に問題化された。彼らもまた白人労働者の仕事を奪う異分子、合衆国を汚す異分子として非難された。このように、薬物の問題化の文脈にはアメリカ合衆国ならではの文脈と事情があり、その意味でアメリカ病(American disease)ともいえる問題でもある(*8)。それゆえ当初の国際会議や国際協定にはアメリカ以外の各国は乗り気ではなかった。

一方、あまり知られていないことだが、薬物使用を犯罪として取り締まるという傾向が国際的に一般化したのは、それほど古いわけではない。とくに欧州で薬物の所持と使用を犯罪として取り締まることが一般化したのは1960年代以降といえる(*9)。

これには1961年にニューヨークで結ばれた「麻薬に関する単一条約」に始まる国際麻薬三条約が影響している。71カ国が参加した「単一条約」は1964年に発効した。その後の国際協定として1971年の向精神薬に関する条約があり、さらに1987年には138カ国が参加した麻薬及び向精神薬の不正取引の防止に関する国際連合会議が開かれ、それに基づいた条約も翌1988年に定められている。

これら国際麻薬三条約は、いずれもいわゆる薬物廃絶パラダイムにもとづいているものである。薬物廃絶パラダイムとは、個人は社会が許容するような形で薬物を使用することは不可能であって、使用は必然的に常用へといたるがゆえにこれを廃絶することが求められるという考え方である(Korf 1995)。そしてこのパラダイムにもとづいて使用を犯罪として取り締まることが、この時期とくに欧州を含めて一般化した。その意味で薬物使用を犯罪として取り締まるという政策は、実は20世紀も後半になって国際的に一般化したものといえるだろう。

(*4)このような経緯については(佐藤ほか 2009)を参照。とくに第一章(pp.18-64)が参考になる。

(*5)ここでいう麻薬とは阿片系薬物である阿片、モルヒネ、ヘロインに加え、当時合衆国で、とくに南部を中心に広く流行していたコカインを意味している。

(*6)ここで「使用さえ」というのは、ヴェルサイユ条約の295条が経済条項であることからも分かるように、そもそもの薬物統制は実は生産や流通(貿易)に関するものであったからである。しかしながら、それがアメリカ合衆国ではハリソン法によって医師による処方を含めて使用にも適用され、麻薬使用者は犯罪者として処遇されるようになった。その後マリファナもマリファナ税法(1937)によって規制されることになる。

(*7)アメリカスペイン戦争に遡る上海委員会開催経緯については(佐藤ほか 2009)の第三章(pp.91-142)を参照。あるいは(Kleiman & Hawdon 2011: 703)を参照。

(*8)この経緯については(佐藤ほか 2009)の第三章(pp.91-142)が参考になる。ちなみにアメリカ病とはアメリカ合衆国の薬物政策史の専門家であるマストの言葉であり(Musto 1973)、彼の研究のほか、コートライトの研究もこの経緯については参考になる(Courtwright 1982)。また、いわゆる禁酒法にも旧来のアメリカ市民が新たに流入した移民を問題化する過程が深く関わっていることが指摘されている。この点については(岡本 1994)が参考になる。

(*9)それ以前、例えばイギリスでは先のヴェルサイユ条約のために1920年に危険薬物法を制定した後、保健省が主体となってロールストン・システムと呼ばれる政策を実施していた。これは麻薬常用者を病人として医療的に処遇する政策である。より詳しくは(佐藤 2008)の第五章(pp.148-178)を参照。

薬物戦争の登場

この薬物廃絶パラダイムを最も強く押し進めたものが、冒頭で触れた薬物戦争である。薬物戦争という政策が現れた理由やその行く末を考えるためには、実は以上のような文脈を理解しておく必要がある。薬物戦争は、20世紀薬物政策のある意味で極端な、まるで戯画化されたような形をしているのである。

さて、その薬物戦争を唱えたのがアメリカ合衆国のニクソン大統領であったことは比較的有名である。彼は1971年6月にニューヨーク市の薬物使用者の増加を指摘しながら「アメリカ人最大の敵は薬物乱用である。この敵と戦い、打ち破るために、新しい総攻撃を行う必要がある(America’s public enemy number one in the United States is drug abuse. In order to fight and defeat this enemy, it is necessary to wage a new all-out offensive)」と、新たな薬物政策についてのテレビ演説を始めている(*10)。そしてその敵である薬物の撲滅のために法執行と治療を含めて年間3億5千万ドル(当時のレートで1260億円)にのぼる集中的な予算の投入について言及している。

この演説中にも述べられているのだが、この政策にはいくつかの文脈がある。そもそもは前任のジョンソン大統領の時代に、この時代の社会問題の多くが60年代を通じて増加した薬物乱用によるものだという認識がひろまったのが基礎にあり、またニクソン大統領ならではの文脈もある。

その一つが、当時はまだその渦中にあったベトナム戦争である。ベトナム戦争従軍兵士の中には、現地で流通するヘロインやマリファナに嗜癖する者もいて、それが問題であると考えられた。もっとも実際にはそのような兵士はごく少数であるのに、それを問題化したのがニクソンであって、その後にハリウッドが神話を作りあげたという見解もある(Kozmarov 2009)。いずれにしても、ベトナム従軍兵士の薬物使用を問題化したのがこの政策であり、戦時であるという文脈がここにはある。

そしてもう一つが、この前年に「包括的薬物乱用防止統制法(Comprehensive Drug Abuse Prevention and Control Act)」とその一部である「薬物統制法(Controlled Substances Act)」が制定されたという文脈である。この法律はそれ以前の薬物法制とは一線を画す画期的な法律であった。それまで麻薬なら麻薬のための法律、マリファナならマリファナのための法律という形で、それぞれに法律があったと同時に、それぞれの薬物に対して工夫した制度化が必要であった。というのも、合衆国憲法では個人の身体に関する自由が保障されているのに対して、いかにして個人的な薬物使用を禁止させられるかということが問われていたからである。しかしながら薬物統制法はそのような前提を考慮しなくてよい時代の到来を示している。そうした時代の現れの一つが先に述べた国際麻薬三条約であろう。

薬物統制法によって、薬物はスケジュールと呼ばれる5段階の危険度別階級に位置づけられ、階級ごとに取り締まりの方針が決定できるようになった。しかもこれまでのように逐一議会の承認を必要とせずに薬物政策を策定できるようになったのである。そしてこの新しい条件下でマリファナが危険度最高位にあるスケジュール1へと位置づけられたのであった。しかしこのような極端な措置は、やがてアメリカの薬物政策の合理性を疑わしく思わせるきっかけの一つになる。その現れが冒頭に述べたコロラド州でのマリファナ使用の合法化であろう。

またニクソンは同じ日の別の演説の中で、国際的な薬物統制の協力体制について言及している。そこではメキシコやタイなど、薬物の供給地と考えられている国々との連携によって、この問題に対処していくことの重要性が論じられている。薬物戦争政策の特徴は、このような国際的協力の名の下、薬物供給地へ直接介入することが国内的には正当化され、80年代になるとコカインの供給地の南米において、そして90年代にはメキシコにおいて、武力で密造拠点を制圧する作戦が行われるようになった点にある。

ただし薬物戦争がそれまでのアメリカの薬物政策の、いわば尖った針先に位置することからもうかがえるように、先の演説にあるような「アメリカ人最大の敵は薬物乱用である」という表現と考え方自体は、ニクソンから始まるものでもないし、彼のオリジナルというわけでもない。そのような発想は、実はアメリカが薬物を規制し始めた当初から持っている考え方であり語り方である。

例えば、嗜癖者を刑事的にではなく医療的に処遇することを求めた社会学者リンドスミスが、嗜癖が犯罪の原因というのは神話だと論じたこと(Lindesmith 1940)に対して、サンフランシスコ地方裁判所の判事ミシェルスンは1940年に、嗜癖者は「米国に年間500億ドルも使わせる犯罪組合の首領なのだ。……そのような人物の道徳の放棄は錯覚などではなく、それがゆえに世間最大の敵だ!(Public Enemy No.1 !)」(Michelsen 1940: 382)と述べている。

このように、薬物戦争の基盤となる発想そのものは、アメリカに脈々と受け継がれてきたものである。そして、ニクソン以降もやはりそれが生き延びて受け継がれていく。とくに、薬物が政治的な資源になることはアメリカ的発見であった。そもそも薬物戦争は反共的政治介入を推し進めるために使われたとも考えられる (Bullington & Block 1990)。したがって、薬物戦争の行く末を占うのであれば、薬物問題自体を考えるよりもむしろ、アメリカの国内政治状況や対外戦略の文脈と内容について検討した方がおそらくはいいだろう。

ニクソン政権後、1970年代後半のカーター大統領の時代には薬物戦争政策をあらため、薬物使用とくにマリファナ使用を犯罪とはしない政策が掲げられ、11の州で実際にそのような政策を採用した。しかしながら、このようなリベラルな政策の時期は僅かの間であった。1981年レーガン政権が発足すると薬物戦争政策が復活し、ナンシー大統領夫人が音頭をとって「ノーと言おう(Just –Say-No)」キャンペーンを始めた。そしてとくに都市部を中心に、クラック(*11)と呼ばれるコカイン系の薬物の流行が問題化され、強い取り締まりを求める傾向がメディアなどで顕著になった。その結果連邦議会は、安価であるがゆえに貧困層に広がったクラックを、比較的高価であるがゆえにある程度所得のある者が使用する従来の粉末コカインの、100倍換算で厳罰に処する1986年薬物乱用防止法(Anti-Drug Abuse Act of 1986)を成立させたのである。

ここにもアメリカ特有の背景がある。というのも、一方で経済格差の拡大を助長するような経済政策を運営しつつ、他方では格差拡大の原因を努力不足などといった個人の責任に求め、とくに都市部の経済状態の悪い非白人地域地域においては、その原因や責任をクラックなどの薬物とその使用を助長するような環境にあるとするような意見を広めたと考えられるからである(Reinarman and Levine 1997)。そして同時に、1986年薬物乱用防止法は、貧困層の薬物使用者、主としてアフリカ系の使用者にとって極めて不公平な状況を形作り、彼らを差別し排除するための制度として機能したのである。このような薬物戦争政策の流れは次のブッシュ大統領にも引きつがれ、彼による薬物戦争の重要性を訴える1989年の演説に世論は好意的に応じ(*12)、やがてコカインの供給地である南米への援助と介入が行われたのであった。

(*10)Richard Nixon: “Remarks About an Intensified Program for Drug Abuse Prevention and Control.”, June 17, 1971. Online by Gerhard Peters and John T. Woolley, The American Presidency Project. http://www.presidency.ucsb.edu/ws/?pid=3047. ちなみにこの演説においては薬物戦争という言葉は直接には使われておらず、「薬物依存に対する戦争(war on drug addiction)」と表現されていた。

(*11)クラックとはコカイン含有の固形物を熱して気化したコカインを煙で吸い込むことで摂取する薬物のこと。フリーベースとも呼ばれた。コカインに重曹などを加えて加工した薬物である。

(*12)1989年9月12日付けニューヨーク・タイムズによれば、1989年夏に行われたクラック問題をめぐる報道後にブッシュ(父)大統領が提案した薬物戦争政策の支持は7割となり、夏前に行われた調査の3倍の支持を得たという。ブッシュ(父)の提案した予算は7.9億ドル(当時の為替レートで約1兆1千億円)だが、調査では38%の人がこれを適正規模、22%がこれでは少ないと答えている。

薬物問題のノーマライゼーション

もっとも、世界はこの時期、薬物戦争政策一色だったわけではない。むしろ80年代後半の欧州では別の動きが始まりつつあった。その震源地はオランダである。

欧州でも1960年代以降、薬物政策といえば犯罪化を中心に展開していたことは先に述べたとおりだが、そのなかでやがて独特の政策を展開したのがオランダである。オランダは1919年以降阿片法(Opiumwet)に多少の改正を加えながら、元々は流通を中心に、やがては使用を含めて犯罪とする政策を運営していた。

しかしながら、1976年の同法改正によって独自の道を歩み始める(*13)。薬物を麻薬などのハードドラッグとマリファナなどのソフトドラッグの二つにわけ、前者の密売には刑事的に対処しつつ、その嗜癖には医療的にアプローチする一方で、後者は原則的に非犯罪化するという二重の政策、「二軌道政策」をとるようになったのである。

なぜこのような政策をとったのか。それは、ハードドラッグとソフトドラッグの市場を分けること(「薬物市場の分離」と呼ばれる施策)で、マリファナなどのソフトドラッグを使用した若者たちがヘロインやコカインなどのハードドラッグへと移行していくことを防ぐことを目的としたからである。

いまだ犯罪化政策の続いていた1971年に行われた調査では、すでに若者の20%がマリファナを使用しており、さすがに5人に1人の割合の若者を司法の対象とすることは問題とされた。そこでマリファナが彼らにもたらす以上の害を、彼らを犯罪者とすることでもたらすべきではないという見解をもとに政策を組み立てたのである。とはいえ「麻薬に関する単一条約」を批准しているために合法化は行わず、違法ではあるが個人使用分の所持は犯罪とはしない「非犯罪化」という政策をとることになった。

このようなオランダの施策は同時に「薬物問題のノーマライゼーション」という発想に立脚しつつ展開された。この発想はとくに70年代後半から80年代にかけて発達し普及したもので、薬物はたばこやアルコールのようにすでに社会に堅い足場を築いてしまっているという前提に立って、そうであるならば薬物使用者を社会のなかに統合して、使用者やその環境あるいは社会全体に対してドラッグがもたらす害を低減することを求めるという考え方である。そうはいっても使用を無条件に認めるわけではない。薬物使用者もまた社会のメンバーの一員であり、一員としての義務と権利に照らして、許容できる行為の範囲が設定される。だからこそ1990年代以降は、市民の許容範囲との関係で「迷惑行為」防止という観点が前景化し、さまざまに規制が強化された。

これら「薬物使用の分離」と「薬物問題のノーマライゼーション」という考え方は、その後「リスク制限」という考え方に集約される。この「リスク制限」について、実際にオランダの薬物政策を担当していた研究者らは以下のように述べている。

オランダの薬物政策は、開かれた民主主義社会においては、違法薬物を追放することが不可能であるという考えに立脚している。この政策──リスクの制限──の主たる目的は、オランダは薬物使用を容赦するということでもないし、放任主義の社会を追及するということでも決してない。薬物は合法化されないし、販売・生産・所持に対しては抑圧的な政策を追求する。しかしながらオランダは、ある特定の政策手段、例えば使用者の犯罪者化は、望ましくない副作用を生みだしうると認識している。リスク制限のコンセプトにもとづいた薬物政策をとることで、政策の作用と副作用を秤にかけることができるのである。(de Kort and Cramer 1999: 488-9)

薬物使用がなくならないのであれば、それに伴うリスクを下げることを目的とするこの政策は、したがって、ハードドラッグについても現実的で功利的と呼ばれる施策や方法を含んでいる。

もちろん薬物を止めさせることも重要であるし、できるならそれが望ましい。しかしながら離脱症状(いわゆる禁断症状)を伴い、困難が避けられない断薬は実際にはそう簡単ではない。であれば、まずはさしあたって代替薬物や処方されたヘロインなどによって安全に使用を継続できるようにするというのも現実的な方法として考えられる(*14)。それによって薬物入手のための経済犯罪を防ぎ、コミュニティへのリスクを低下させることができるからである。

さらにいえば、代替薬物やヘロインの入手に際して、担当機関──多くの場合、公衆衛生機関や医療機関──に継続的に接触することで、使用者自身の健康のチェックや、さまざまな相談、あるいはリハビリテーションなどの機会を持つことが可能になるのである。

そしてもう一つ、公衆衛生という観点からすればより重要なことに、感染症があげられる。薬物使用は多くの場合注射によって行われてきた。そのため、汚染された注射針が感染症を媒介し、より広い範囲、より大勢の人にB型肝炎やC型肝炎などの感染症を拡大する原因となってきた。そこで注射針の交換サービスを行うことで、感染症の拡大を防ぐという施策を行ってきたのである。

(*13)その経緯については(佐藤 2008)の第六章とくにその第二節(pp.193-202)が参考になる。

(*14)例えばオランダ公衆衛生局が運営する施設では特定の基準に基づいてヘロインを処方している。ヘロイン処方はスイスから始まったものである。

欧州とハーム・リダクション

上記のようなオランダ型の政策は多くの批判を呼び起こしたと同時に、多くの共感も生んだ。アメリカ発の情報と思考に左右されやすいわが国では、オランダの政策に対してはマスメディアを中心に批判や非難を耳にしがちだが、実際には異なる二つの対応を生んだのである。

オランダ型の政策への共感の一つが、薬物施策に関する都市間協定、1990年のECDP(European Cities on Drug Policy)である。これはいわばリベラル派の都市間協定であり、フランクフルト(ドイツ)やアムステルダム(オランダ)、ローマ(イタリア)やエンポリ(イタリア)など19都市が参加した、「合法化」「リベラル化」「ハーム・リダクション」を共通施策として情報の共有などを行う協定である。

ちなみに、この協定に対抗するまた別の都市間協定も成立した。ストックホルム(スウェーデン)、ロンドン(イギリス)、パリ(フランス)などの大都市やハルスト(オランダ)などの中都市を中心として計21都市で成立したECAD(European Cities Against Drugs)である(1994年)。こちらは「禁止」「ゼロ寛容」「薬物戦争」を掲げたアメリカ型の都市間協定である。

なぜこの時期にオランダ型を支持するECDPのような都市間協定が生まれたのか。それはHIV/AIDSの流行によるところが大きい。欧州では80年代中頃にHIV/AIDSの急激な流行を受け、薬物使用者の注射器共有による感染の広がりが注目された。当時、薬物問題対策の担当者や研究者たちだけでなく、公衆衛生の担当者にとっても、このHIV/AIDSの流行は喫緊の課題として、どのようにしてそれを抑えるのかが非常に重要な任務であった。そのなかで「ハーム・リダクション」と呼ばれるオランダ型に原型をもつの政策が大きく注目を集めたのである (Stimson, 1990; O’Hara, 2007)(*15)。

では、その「ハーム・リダクション」とは何か。それは文字通り有害性(harm)を減らす(reduction)ということであるが、薬物政策におけるハーム・リダクションとはとくに薬物使用者個人とともにコミュニティへの害をも減らす施策のことを指す。これは過去20年間にさまざまに論じられ、また随所で政策として掲げられることにより、具体的には多くのバリエーションを持っている。そこでこの施策を理解するためには、ある程度共通のプログラムをもつものとして考えた方が分かりやすい。その幾つかを組み合わせて持っている場合にそのように呼ばれることが多いからである。

その場合の共通のプログラムとなるのが、メタドン維持療法(*16)、注射針交換、ユーザースペース、啓蒙・教育活動などである。このうちメタドン維持療法、注射針交換は伝統的ともいえるプログラムだが、ユーザースペースは薬物消費施設(Drug Consumption Facility)とも呼ばれる、欧州ならではのプログラムである(写真はアムステルダム公衆衛生局が運営するユーザースペース)。これは、使用者が安全に薬物を使えるための空間を用意するプログラムであり、2009年現在ドイツ30カ所、オランダ16カ所を含む世界61都市に合計92カ所が設定されている(Rhodes and Hedrich 2010)。最近では、これらは集約された施設によって一括して運営されるなどしている。ほかにも、市内を巡回したり、コンフェレンスを開催するなどによって、健康への悪影響や子どもへの悪影響を軽減する方法など、より安全に薬物と付き合うための、さらにはそれを減らしていくための啓蒙活動や教育活動なども行われている。

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これらのプログラムはEUや自治体の支援を受けながらNGOが運営しているものも多いが、中にはオランダのアムステルダム市公衆衛生局が市の施設として運営しているものもあり、さまざまな形で欧州に広がっている(*17)。それというのも、例えば2009年から2012年までの「EU薬物行動計画」でハーム・リダクションを重要視するなど、現在ではEUの行政機関である欧州委員会がハーム・リダクションを欧州全域の薬物対策アプローチとして採用しているからである。

ハーム・リダクションは予防や治療、リハビリテーション、供給縮小などに寄与するバランスのとれた方法として、すでに論争の的というよりも、コンセンサスの一部となっているとさえいわれている(Gotz 2010)。その一端は、たとえば、日本赤十字が加わってはいないためにわが国ではほとんど知られていないが、欧州の赤十字をはじめ、中国の赤十字などアジア各国の赤十字やアフリカの赤十字など、世界各国の赤十字が加わっている「人道的薬物政策のためのローマ・コンセンサス」というネットワーク活動などにも見ることができるだろう。

(*15)ここで少々補足しておかなくてはならないのが、なぜ都市レベルで薬物政策の協定が結ばれるのかということであろう。欧州各国は国レベルの薬物政策をそれぞれ定めている。しかしながらそれはいわば外枠であって、同時に各都市はそれぞれの市民にとって直接的なコミュニティとして独自の対策を立てている。それぞれの都市はそれぞれ置かれている状況が異なっているからである。これらの経緯については(佐藤 2013)を参照。しかしおそらくこのような説明は、今後は十分なものではなくなっていくだろう。とくにEU成立後はEU委員会がそれぞれの都市で活動するNGOなどに直接的に財政的支援を行うなどしたせいもあって欧州的アプローチ(European Approach)が広まってきた経緯からすると、このような説明の前提にある、国家が薬物政策を定めるという枠組み自体が問い直されていくと思われるからである。実際、上記の経緯を十全に理解するためには、今後は「果たして統治に国家が必要であるのか」ということを考える必要がある。

(*16)メタドン置換療法とは、阿片系麻薬の嗜癖の場合に合成麻薬のメタドンを摂取させることで離脱症状(禁断症状)を抑えることで違法薬物への接近を抑制するプログラムのことである。そもそもはヘロインをメタドンに置き換える(置換する)ことでヘロインに由来する犯罪行為を防止するという仮説をもとに始まった治療法であるが、その仮説自体はその後否定されている。その経緯については(佐藤 2006)。

(*17)その具体的な財政支援やプログラムの事例については(佐藤 2013)が参考になる。

薬物戦争とハーム・リダクションの間

以上見てきたように、薬物戦争政策とは、そもそもから犯罪化政策という20世紀型薬物政策の尖鋭化したもの、もしくは政治化されたものであり、ある種アメリカ的でユニークなものと理解できる。

ただしそれはアメリカの陰謀といった、必ずしも策略的なものを意味しているわけではなく、アメリカが置かれた地理的条件や歴史的文脈とともに理解する必要がある。それゆえ、薬物政策という地平においてはまた別の条件と文脈で、別の思考、別の選択肢が、ある種のグラデーションを伴って広がっている。欧州の事例はその典型である。そしてその条件や文脈は、時代の変化に従ってそれ自体も変化する。薬物戦争政策の対極に位置する事例としては、こんにち、2001年に全ての薬物を非犯罪化したポルトガルの政策があげられるだろう。その意味で、オランダの政策はすでにかつてのようにラディカルなものとは思われていない。世界の方が変化したからである。

このような配置と文脈のなか、オバマ政権になってアメリカの薬物政策が変化するのではないかという観測が随所に広がった。2009年にはオバマ政権では薬物戦争という言葉を使用しないという発表も行われた。確かに部分部分では、かつてのような人種差別ともいわれる政策の見直しなども行われている。先に述べた1986年薬物乱用防止法の改正などはその例である。いまだに不十分ではあるものの、貧困層に不利な差別的待遇はそれまでの100倍から18倍程度には改善されている。

しかしながら、アメリカの薬物政策は先に述べたようにすでに政治的資源の有力な一部となっており、もし変わっていくとしてもその速度はとてもゆっくりであるに違いない。投入予算の減額が行われ、また薬物戦争の名による他国への干渉はなくなるとしても、アメリカの薬物政策の責任者である薬物皇帝(*18)が述べているように、合法化などのリベラルな路線をとることはないからである。また、薬物戦争政策開始から40年以上が経ち、レーガン政権下で誕生した人種差別的な薬物政策からも30年近くが経つことで、さまざまな既得権益がアメリカの薬物政策の周りに根を下ろしているからでもある。

したがってむしろ、そのような変化は州レベルで生じ始めている。各州による医療用マリファナの認可もその一例であるし、冒頭に述べたコロラド州やワシントン州の非医療用マリファナの合法化もその例である。シンクタンクとして有名なランド研究所薬物研究センターの研究成果などをみても、アメリカにおいてでさえこんにち、ハーム・リダクションを除外して政策を議論することは難しくなっている。

しかしその一方で、連邦政府の水準では上に述べたようにマリファナはスケジュール1に位置づけられているままであり、そこには「ねじれ」がある。そのねじれはアメリカ固有の「ねじれ」というよりもむしろ、薬物問題の政治資源化がもたらす「ねじれ」である。これはしばらくの間、解消されないだろう。しかしその「ねじれ」を目にすることで、人びとはゆっくりと薬物戦争、そして薬物政策が何を意味するものなのかを理解していくに違いない。われわれはそれほど愚かではないはずだからだ。

(*18)アメリカでは薬物政策の責任者のことを通称ドラッグ・ツァーリ=薬物皇帝drug czarと呼んでいる。

われわれがやがて議論することになるはずの思考と政策

さて、随分と長くなってしまった。実はこの原稿は、そもそもはこの半分程度の長さで書く予定にしていたのだが、わが国では薬物政策についての情報があまりに不足しているために、その文脈まで伝えつつ書こうとすると、どうしてもこのように長くなってしまうのである。つまり、われわれが自国の薬物政策について考えようとするとき、おそらくは以上のような見取り図と思考、さらには言葉遣いについても理解しておく必要があるということである。とくにわれわれ自身が薬物について考えるとき、実は薬物のこと以上の何かを考えてしまっているという事態について、自覚しておく必要がある。

どういうことか。例えば、こんにちではすっかり忘れ去られているが、そもそも覚せい剤取締法は、覚醒剤の密売や密造を取り締まるための法律として制定された(1951年)。所持を取り締まる条項は、密売者を取り締まりやすくするために挿入されたものであった。しかしながら覚せい剤取締法制定の後の1954年、とくに中国や北朝鮮などの共産主義勢力が覚醒剤を利用して日本人を攻撃しているという風評が、国会や行政機関を巻き込んで広まり、共産党員や在日朝鮮人などとともに、覚醒剤自体も強く問題化された。共産主義と覚醒剤との結びつきは実証されないままに、共産主義の戦略物質としての覚醒剤、という見方がなされたのである。その過程で所持や使用も強く取り締まられるようになった(*19)。

そして当初の共産主義勢力から、時代の変化により、暴力団や在日外国人など、覚醒剤は常にわれわれの社会の周縁もしくは外部にある敵によって社会に持ちこまれるものとして扱われてきた。それはアメリカで発見された薬物の政治的資源化の、また別のバリエーションでもある。

このような「薬物は社会の外部からやってくる」というわれわれの感覚と思考は、島国であるわが国においては水際作戦という発想に結実し、また同時に使用者は刑務所などに排除すれば良いという思考にも結びついている。しかしながら、例えば欧州アプローチのように、使用者もまたわれわれと同じ社会のメンバーであると考えるのであれば、薬物やその使用者に対して、これまでとは異なった思考や政策が生まれてもよいはずであるし、またそれをわれわれ自身が考える必要もある。それは昨年に成立した「薬物使用等の罪を犯した者に対する刑の一部の執行猶予に関する法律」によって、刑罰をわずかに減らす代わりに執行猶予を長くとり、そのための施設が十分には存在しない現在の状況下でリハビリテーションを強制的に行わせるという施策の合理性・妥当性について考えることにもつながっていくことだろう。

冒頭に触れたコロラド州の政策は、それ自体としては税収増などの財政政策とも結びついたものであって、逸脱か否かという道徳的な問題を経済的な問題で置き換えてしまうという、これまでとはまた別の問題を生じさせるようにも見える(*20)。しかしながら、たとえそうであったとしても、もし万一その実験的な政策がゆっくりと──おそらくはとてもゆっくりと──アメリカ全体に広がってくのであれば、わが国もまたその動きに翻弄されていくに違いない。そのとき、われわれのとる薬物政策は、われわれ自身を映し出す鏡となる。薬物政策をめぐるさまざまな思考とその帰結を理解し、また記憶しておくことは、そのためにも無駄ではないはずであるし、また必要なことでもあるだろう。

(*19)その経緯について詳しくは(佐藤 2006a)を参照。とくに第七章(pp.299-366)が参考になる。

(*20)これは「逸脱の経済化」と呼ばれる問題傾向である。詳しくは(佐藤 2006b)を参照。

参照文献

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プロフィール

佐藤哲彦社会学

1966年神奈川県生まれ。1997年京都大学大学院文学研究科博士課程中退。博士(文学)。熊本大学を経て、2011年から関西学院大学社会学部教授。『覚醒剤の社会史』(東信堂)により日本犯罪社会学会奨励賞および日本社会病理学会学術奨励賞を受賞。他の著書に『ドラッグの社会学』(世界思想社)や『麻薬とは何か』(共著、新潮社)などがある。薬物政策研究の国際学術雑誌であるThe International Journal of Drug Policyの編集委員をつとめる。

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