「区域なき/住民なき自治体」? ―― あるシンポジウムから 

建築と法と震災

 

2012年3月23日、東京港区の建築会館において、日本建築学会復旧復興支援部会主催のシンポジウム「復興の原理としての法、そして建築」が開かれた。若手憲法学者の木村草太をモデレーターとして、基調講演に建築家の山本理顕、コメンター・討論者に憲法学者の駒村圭吾、石川健治、建築家の内藤廣、そして建築学をバックグラウンドとする作家の松山巌を迎えて、前年3月11日の東日本大震災から1年を経た時点において、震災からの復興という課題を通じて、復興のみならず社会編成の方法としての「法」と「建築」の意義、そして両者の関係について考察しようという意欲的なイベントであった。

 

そのレポートは日本評論社の雑誌『法学セミナー』の12年7月号、8月号に掲載されているので、関心のある方は一読をお勧めする。木村による配布資料はhttp://www.nippyo.co.jp/blog_housemi/wp-content/uploads/2012/05/sympopaper.pdfで閲覧できる。

 

建築にも法律学にも門外漢の筆者ではあったが、その場で実見した限りで理解したこのシンポジウムの趣旨は、木村の配布資料冒頭でも力強く論じられているが、

 

・建築と法という観点から見たときに、今回の震災において一つ考えなければならないのは、やはり「多くの人びとが「財産としての住宅」を失った」ということである。

・その意味において今次震災においては「何か全く新しいことが起きた」というよりも「以前からあった問題があからさまになった」だけのことである。

 

というものであった。それは大変にまっすぐで正当である、と考える。そのことの意味について、以下簡単に説明したい。

 

 

人間の条件

 

基調講演で山本理顕は、ハンナ・アレント(『人間の条件』他)を引いて「(財の)分配としての/(空間の)区画割りとしてのノモス」について語りつつ、仮設住宅における公共圏の貧困、そしてそれに対抗する自らの試み(理論としての「地域社会圏」と釜石市での実践)について語った。

 

1995年の阪神・淡路大震災においても、住み場所を失った罹災者の仮設住宅への収容が、罹災者たちを従来生活していたコミュニティから引き離し、あるいは旧来のコミュニティそのものを解体して、そのことが多くの二次被災とでもいうべき問題を引き起こしたことは社会的な教訓・知見として共有されていた(例えば仮設市街地研究会『提言! 仮設市街地』学芸出版社、2008年;http://www.gakugei-pub.jp/higasi/04kase.htmより無料ダウンロード可)はずなのに、今次震災においてもその教訓は行政によってほとんど生かされていない。

 

この反復はまさしく、戦後日本の住宅政策の歴史、持ち家取得を促進し公営住宅を軽視してきた歴史のしからしむるものである。そのような中で山本は、普通の市街地における(しかし今日では衰退しつつある?)「広場」や「路地」のような「公共圏」を備えた仮設住宅を作るべく苦闘している。

 

この山本の報告を受けて石川健治は、近代法(学)、憲法(学)と建築(学)との平行性、という大上段の議論を展開する。まずは山本が引いたアレントのそれと直に響き合う、カール・シュミットのノモス論(『大地のノモス』他)、そしてル・コルビュジェのモダニズム建築と近代法の論理的同型性、例えばピロティ——「構造物をあえて浮上させ、地面に付けないことで純粋性を保つ一方、しかし反面で、地面に杭は打ち込んでいる」(『法学セミナー』2012年7月号34頁)——と根本規範(ハンス・ケルゼンのいう、実定法に理論的に先行する無形のGrundnorm)の対応について触れた上で、近代法が「人」と「物」の二分法(ならびに「人による物の所有」と「国家による人の支配」の二分法)によって「空間」を見失った、と石川は指摘した。

 

この石川の指摘を私なりに咀嚼すれば、古典的世界では「物」であると同時に「空間」でもあった「土地」が、近代法の世界においては動産と同質の単なる「物」に還元され、「空間」が物理的な空間というよりはバーチャルに観念化され、物理的な空間、土地、その上の構造物と不可分なものであったはずの法(ノモス)もまた、抽象的な言語観念化した、ということであろう。

 

 

大地のノモス

 

言い換えるならば、近代法においてはもちろん土地法、都市法は制度的にも理論的にも実務的にも高度な発展を遂げてはいるが、「物」の秩序であると同時に「空間」秩序でもある「ノモス」としての法は、根本的にはむしろ衰弱しているのではないか、という問題提起として、石川の議論は解釈できる。そしてまた石川は、日本の憲法学における「(人権としての)財産権」観念の衰弱についても鋭く指摘している。戦後憲法においては「財産権の保障」とは、財産の公用収用に対して「正当な補償」を受けられる、つまり「財産価値の補償による保障」でしかない。つまり抽象的な「価値」にとどまらない、実体的な「物」として、「空間」としての財産への権利は、必ずしも十全に保護・保障されているとは言い難いのである。

 

地震や津波による家屋、住宅という「財産」の喪失は、貨幣換算可能な価値の喪失であると同時に、具体的な物財、「物」の喪失であり、そしてその住宅の空間的なトポスの喪失、それを通じての、その住宅の(所有者としてであれ賃借人としてであれ)居住者の、地域社会とのつながりの毀損でもある。戦後日本の憲法体制において、この意味での「財産権」はそもそも十分に保障されては来なかった。今次震災においても、その前例が踏襲されただけのことなのかもしれない。

 

憲法25条の「生存権保障」の実現としての仮設住宅供給においても、そこで保障された「生存」とは「公共圏につながりつつ私的領域を保障された生活」(それこそが「健康で文化的な最低限度の生活」ではないのか?)では必ずしもなかったようである。そして、後述する原発事故において問題となっている民事的な損害賠償においても、金銭的補償はあくまで「健康で文化的な生活」の一助でしかありえないことが、十分に踏まえられた形でそれがなされるかどうか、心もとない。

 

もちろんそうした戦後憲法解釈、更にはその背後にある近代法全体の展開には相応の理由があったはずではあるが、それはやはりある意味では何事か——アレント、シュミットのいう意味での「(財の)分配としての/(空間の)区画割りとしてのノモス」の衰弱、解体だったのであり、そのプロセスを一部の人びとはアレントに倣って「公共圏」の解体と見なしてきた。しかしそれはまた「私的領域」、古典的な意味での「私有財産」の衰弱でもある。公共性の解体は、公私の区別の解体でもある以上、私的なるものの衰退でもある。

 

今次震災において、被災者が私有財産と公共的つながり、その双方の毀損を被っていることは、それを劇的な形で示しているにすぎない。しかし我々はここしばらく、ともすれば「公」と「私」を「対」概念である以上に「対立」概念ととらえて来はしなかったか。(例えばこうした「公共性と私事性が背反するかのごとく観念されること」の問題性を克服すべく、駒村圭吾はプライバシー概念を従来の一方的な「自己情報コントロール権」から、関係性を正面から視野に入れた「自己情報の信託」へと読み替えていくことを提唱している。しかし主として情報セキュリティのフィールドを念頭に置いたその議論の、ここでのテーマに対する含意はいまだ充分に明らかであるとは言えない。)

 

それにしても、今次震災がその単なる兆候に過ぎないものであるところの、「近代」において一貫して進行している、公共性と私事性の同時並行的衰退とは、具体的にいえば何なのか? 少し考えてみよう。

 

 

 

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