「障がい」表記は差別の解消に有効なのか?

表現と心のプロセス

 

表記は一部とはいえ、人の意識に影響を及ぼしていた。それはなぜだろうか。「あじさい」「アジサイ」「紫陽花」など、漢字、片仮名、ひらがなを比べると、ひらがなは丸みを帯びており、やわらかい印象を受ける。実際、季語を扱った研究では、ひらがな表記は他に比べて、よい・やわらかいといった特有のイメージをもつことがわかっている(杉島・賀集、 1992;浮田・杉島・皆川・井上・賀集、 1996)。

 

「障がい者」表記について調べた今回の調査では、その効果が限定的に現れることがわかった。関心が高かったり、経験に伴う様々な情報があるなど、対象への態度が柔軟であろう人において、ひらがなに合致するイメージ(すなわちポジティブなイメージ)があった時に、ひらがな表記の効果は発揮されるのかもしれない。

 

表記の効果が限定的であるという結果は、当然といえば当然のことだろう。表現のみで人の意識が大きく変化するのであれば、人間はあらゆる言動に過剰に気を配らなければならないことになる。

 

もちろん、表現によって誰かが傷つくことは軽視できない問題であるし、戦争やいじめにおいては非人間的な表現を用いて(例:鬼畜、野蛮、馬鹿)、非難や攻撃を煽る。人は、動物や機械よりも人に対して慎重で丁寧に振舞うことを考えると、非人間化するような表現によって行動が変わる可能性も否定できない。

 

つまり、ある人を「鬼畜」と呼んだり考えたりすることで、その人への振る舞いが冷酷になることもあるかもしれない。そう考えると、表現を単なる言葉のあやだと瑣末に切り捨てるのもいかがなものかと悩まされる。

 

みなさんはどのように考えるだろうか。

 

一部であったとしても、態度に変化があることを重視するのか、限定的な効果であること重視するのか、そもそも表記の議論自体に意義を見出すかどうかも人それぞれだろう。人がそれぞれ言葉に対する情報価値をどれほどおいているのかも、この問題の背景に映し出される。

 

ただし、この調査で捉えていた態度が障害者に対する態度の全てではないこと、調査対象者が限られていること、調査が行われた時期と現在では状況が違うことなど、一度の調査で表記の効果に関する結論を出せないことはご注意いただきたい。

 

 

「障害」の捉え方と表記の問題

 

障害の表現方法も様々であるが、「障害」自体の捉え方も様々である。障害というと、耳が聞こえない、目が見えない、足がスムーズに動かせない、などの機能に注目した定義が浮かんでくる。こういった特徴をもつ人は、不自由だろうと私たちは考える。

 

しかし、実際にこれら自体が独立して、不自由と結びつくことはない。もし大多数の人間の耳が聞こえなければ?もし多くの人の目が見えなければ?足がスムーズに動かせなければ?これらを前提とした社会が構成されるはずだからだ。実際にあった社会を例に考えてみよう。

 

アメリカの北東部にあるマーサズ・ヴィンヤード島は、隔絶された地域性と遺伝により、島の多くの人が聴覚障害を有していた。このような地域社会でのコミュニケーションの主体は手話であり、聞こえる者も手話を使っていた。漁業が主体のこの社会では、海の上でのコミュニケーションにおいても手話は有用であった。

 

この社会では「聞こえない(聴覚障害)」ことは「障害」だろうか?他の多くの社会と異なり、当時のマーサズ・ヴィンヤード島では音声言語がいくら流暢に使えたとしても、手話が使えなければ「障害者」となるだろう。手話がつかえなければ、周囲の人とコミュニケーションがとれず、様々な不自由が生じるからだ。

 

すなわち、障害とは、機能の損傷や不全ではなく、他者との比較によって生じる数の問題であり、その大多数にあわせた社会の構成が「障害者」を生み出していると考えられる。これが、いわゆる社会モデルと呼ばれる障害の捉え方である。

 

社会モデルにおいては、変わるべきは社会であり個人ではないとする。なぜなら、障壁を生み出しているのは、障害者本人ではなく健常者という多数派にあわせて作られた社会(例えば、音声言語が主体の情報提供)であり、社会のあり方が変われば、少数派が生きやすくなることも可能だからだ。

 

一部の障害者団体はこの考えに基づき、ひらがな表記に疑義を呈している。東京青い芝の会は、「ひらがなに置き換えてしまうと、『社会がカベを作っている』、『カベに立ち向かう』という意味合いが出ない。」と述べている(「障害」の表記に関する作業チーム、 2010)。

 

障害を社会との相互作用の関係で捉えると、ひらがな表記にすることは、社会が作りだす障壁に対する過小評価とも捉えられる。障害をどのように捉えるかによっても、表記の捉え方も変わってくるだろう。(ただし、ひらがな表記を用いているからといってすぐさまその人の障害に対する考え方がわかるわけではない)

 

忘れてはならないのは、「障害」「障がい」表記の議論の背景に、障害者に対する偏見や差別、誤った理解があるということである。読みたい本を読む、公共交通機関を使う、習い事に通う、みんなと同じ教室で勉強する、受験や就職試験を受ける、親元や施設を離れて一人暮らしをする、多くの人にとって普通で当たり前のことが制限されている人達がいる。これらが「できない」ことは本人のせいだろうか?

 

社会にある多くの障害物や障壁こそが「障害者」をつくりだしてきた。このように社会に存在する障害物や障壁を改善又は解消することが必要である。―DPI日本会議

 

2016年4月に障害者差別解消法が施行されるが、法律で全てが解消されるわけではない。結局のところ私たち1人ひとりの意識だろう。その集合が社会である。私たちは差別の現実から目を背けずにいられるだろうか。

 

参考図書:栗田季佳(2015)「見えない偏見の科学:障害者に対する潜在的偏見を可視化する」京都大学出版会

生瀬克己(1994)「障害者と差別表現」 明石書店

 

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