「当事者研究」の可能性について語る

「研究してみようか」――自身の「障害」を分析し、研究する「当事者研究」。当事者は研究にどう関われるのか、その可能性について語り合う

 

 

当事者研究の広がり

 

荒井 最近、「当事者研究」という言葉が、あちこちで使われるようになりました。この広がり方の背景には、おそらく、それだけ「当事者が主体となって何かをする」「新しい価値や枠組みをつくっていく」ということに対する潜在的な需要があるのだと思います。その需要の具体像を言い当てることは難しいのですが、今日のお話の流れの中で、その糸口だけでも掴むことが出来たらいいかな、と思っています。

 

もともと、「当事者研究」という言葉は、北海道の浦河町で活動している「べてるの家」の試みから生まれてきたものですね。熊谷さんも、綾屋紗月さんと共著で「当事者研究」と冠した著作を出されていますし(『発達障害当事者研究――ゆっくりていねいにつながりたい』医学書院、2008年)、あえてその言葉は使わなくとも、内実は「当事者研究」といってよいご本も出されています(『リハビリの夜』医学書院、2009年)。こういう言い方が正しいかどうかわかりませんが、熊谷さんや綾屋さんのご著書と、「べてるの家」の人たちの著書を読み比べてみると、「べてる」の人たちのほうが「文学的」な感じがします。もちろん「当事者研究」の「当事者」の中身が違うので、やり方が違うのは当たり前なのですが。

 

熊谷 そうかもしれませんね。

 

荒井 「べてる」の人たちがやっているのは、「研究」と銘打ってはあるけれども、実際は、「自分という人生の語り直し」に近いように思います。それに比べると、綾屋さんのご本などは特にそうなのですが、自分の身体的な特徴を限界まで言語化しようとする試みですね。「当事者研究」という言葉自体はいろいろなところで目にするのですが、その言葉を使う人たちの中で、ちょっとずつ中身が違っているようにも思います。熊谷さんご自身は、「当事者研究」という言葉について、具体的に、どのようなイメージをお持ちですか?

 

熊谷 「障害」という括りが適切かどうかわからないのですが、なにか困りごとを抱えている人がいたとして、その困りごとに対して「研究してみようか」という呼びかけがなされたときにピンときた人たちが、各々で自分たちについての研究をはじめている、というのが、当事者研究という実践を説明する一番広いくくりと言えると思います。「べてるの家」をつくった向谷地生良さんも、当事者研究の定義について具体的な内包とか外延とかは規定しているわけではありません。研究方法もかなりマチマチです。

 

大切なのは、「研究してみようか」という呼びかけが何を意味するのかという点ですね。「研究」にもいろいろな効果があります。たとえば「べてる」で「当事者研究」が最初に明示的にはじまったエピソードというのが象徴的かもしれません。有名な方なのでお名前を出してもいいと思いますけど、河崎寛さんという方がいて、大変な問題を抱えていらっしゃった。親を殴る、学生を殴る、食事中に茶碗を投げる、親の大事なものを壊して親を困らせる、住宅ローンが払い終わったばかりの自宅に放火するなど、いわば「問題行動」をたくさん起こしていたのです。

 

そういう誰も手を付けられないような状態で、担当のソーシャル・ワーカーだった向谷地さんが面接することになった。仲間も、医療関係者も、支援者もさじを投げかけていて、万事休すじゃないけど、打つ手なしというような状況にあって、向谷地さんもなかば破れかぶれに、「研究でもするか」と言った。そのときに、急に河崎さんの眼の色が変わって、「研究、したいです」というふうに言ったんだそうです(『べてるの家の「当事者研究」』)。このエピソードは、研究とはなんであるかを考える上で、とても象徴的な何かだと思ってるんです。その瞬間、何が起きたんだろうということですよね。

 

いろんなことが考えられると思うのですけど、一つは「免責」っていうんでしょうか。それまで本人は、爆発をしてしまった後にどこかで自分を責めるという回路がすぐにやってきて、その責める回路が次の爆発の燃料になるみたいな悪循環の内にいたんだということが、河崎さん自身の当事者研究で明らかになった。

 

そして、その循環というのは、ある種の常識的な価値判断みたいなものを前提にした回路だと思うんです。物を壊してはいけないとか、自分や他人を傷つけてはいけないとか、そういう常識的なものを当事者も内面化していて、それがベースになって、ある種のサイクルを作り上げてしまう。そういう人に対して、「研究してみようか」という呼びかけをすることは、一度その常識的な価値判断をカッコに入れる効果があると思うんですよね。まずは他人事のように、自分のしでかしたことを分析対象にしていく。研究対象にしていく、という掛け声ですね。

 

荒井 「他人事のように」という距離感が面白いですね。

 

熊谷 このエピソードを聞いたときに、ある編集者さんが、「なんて無責任な」と言ったらしいんですね。つまり「研究してみよう」と呼びかけることは、常識的なことを棚上げするというか、規範に沿わない自分のふるまいを他人事のように観察するということなので、市民的な常識では「責任の自覚がない」という風に見られがちな、リスキーなことなんです。でも、実は「免責」されてはじめて「引責」できるという構造がどこかにあるような気がするんです。それは自分の経験に照らし合わせても実感があります。

 

たとえばいつも引き合いに出すのは「失禁」ですね。「おもらし」です。自立生活運動に関わる前までは、私も「おもらし」を私秘化していたというか、恥ずかしいこと、禁じられたこと、端的に悪いことだと思っていたんですけど、自立生活運動の中ではオープンになっていました。「エルドラド(黄金郷)問題」って言われていて(笑)。いわば失禁が公共化しているような空間に出会って、ある種、ものすごく「免責」されたんですが、同時に全然違う角度から重たい「引責」が加わってきたんです。

 

具体的に言うと、失禁の仕方ですよね(笑)。失禁を公共的なものにしていくときに、無制限にしていいかというと、そうでもない。「失禁スタイル」みたいなコードが別のところからやってきて、自分でコントロールできる領域とできない領域の線引きが変わるんです。コントロールできる選択の幅が残されている領域は「引責」できるんだけれども、選択の幅がない、必然的に、機械論的にそれが起きてしまう領域というのは「引責」できるわけがない。だから「引責」と「免責」の境界ラインというのは、自分で変えられる部分と変えられない部分の境界ラインでもあると思う。

 

ところが、私たちはいつの間にか常識的な境界ラインを内面化しているので、その境界ラインが自分の体に合っていないということがしばしば起きるんですね。その線の引き直しが、「研究してみよう」という呼びかけの基本的な機能だと思うんですよ。

 

 

 

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