「当事者研究」の可能性について語る

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ハイブリッドとしての「当事者研究」

 

荒井 向谷地さんが出されたという「研究してみよう」という一言は、ソーシャル・ワーカーの「職人技」ですね。ベテランのソーシャル・ワーカーさんの中には、現場で鍛え上げられた「職人技」としか言いようがない技術を持っている人がいます。

 

熊谷 そうですね。

 

荒井 「べてるの家」の人たちの研究っていうのは、いままで奪われてきた「自分物語」みたいなものを、もう一回自分の言葉で語りなおそうというところがあるんだと思います。「精神科」が扱う症状って、すごく難しいところがあって、「統合失調症」の幻聴や幻覚の現れ方一つとってみても、当人の人生の積み重ねと切っても切れない部分があるように思います。みんな同じように幻聴が現れるかっていうとそうでもなくて、いままでの人生の積み重ねがあって、そのうえで幻聴がある。

 

病院の診察室では、その幻聴の部分だけ切り取られて、「あなた幻聴がありますね。幻聴があるから精神障害者ですね」という言われ方をしてしまう。「べてる」の試みには、医療がきちんと相手にしてくれなかった「自分物語」の部分を、もう一回自分の言葉で積み上げてみようという部分があると思うんです。だから向谷地さんの「当事者研究」のご著書を読んだときに、私は「これは物語論だ」って思いました。医療にいままで奪われてきた言葉を取り戻す試みなんだと。

 

熊谷 確かに、そうかもしれません。

 

荒井 医療って、ある程度客観化できで、数値化できて、測量できる問題を取り扱うわけですよね。たとえば腕が30度しか曲がらない人と、50度まで曲がる人がいて、二人の腕の可動範囲は測定できるじゃないですか。で、その結果として30度しか曲がらない人のほうが客観的に「障害が重い」ですよね。医療的な観点からすると、そうなってしまいます。

 

でも、その二人比べて「人生どちらが幸せか」っていうのは、それとは基本的には関係がない。それは自分の人生という「自分物語」を、どちらがより豊饒なものとして持っているかという問題です。向谷地さんたちのやっている「当事者研究」というのは、今まで医療が見てこなかった、客観的には測定できない「自分物語」を編みなおして行こうという試みなのかなと思います。それは、私の感覚からすると、すごく「文学的」なんです。それに比べると、熊谷さんや綾屋さんがやっている「研究」は、本当にアカデミックに近い「研究」のような気がします。

 

熊谷 大まかにわけると、そういうところがあるかもしれませんね。正しいと思います。ただ一方で、向谷地さんって、すごく「メカ好き」なんですよ。車とかパソコンとかが好きだったり、基本的には機械論的な発想の人という印象があります。当事者研究の中でも、苦労の「メカニズム」という言い方をよくします。石原孝二先生と『当事者研究の研究』(医学書院)という本を共著で出したんですけど、そこで向谷地さんにインタビューしたときに、いろんなものが合流して「当事者研究」が出来上がってきた様子が伺えて興味深かったです。

 

荒井 いろんなものが合流、というところに興味があります。「当事者研究」はハイブリッドなものなのですね。

 

熊谷 既存のいくつかの実践が源流となって、それが合流して、現在の「当事者研究」という潮流が出来上がっています。

 

一つ目は、いま荒井さんがおっしゃった「語りの文化」ですね。実はアルコール依存症の自助グループであるAA(アルコホリック・アノニマス)の語りと分かち合いの文化を、統合失調症の自助活動に取り入れたSA(スキゾフレニック・アノニマス)という試みを、日本で初めてやったのが「べてるの家」らしいんですね。当時、海外ではすでにSAはあったんですが、日本ではAAや、薬物依存症のNA(ナルコティック・アノニマス)しかなく、AAと同じものをやってみたいと「べてる」メンバーが提案して、当事者だけのグループでSAをやってみた。

 

それから二つ目の源流は、1980年代の自立生活運動の流れです。向谷地さんは、北海道の小山内さんの「いちごの会」にずっと関わってこられたので、そのあたりの流れがもつ思想も合流している。

 

三つ目は、SST(social skills training 生活技能訓練)とか認知行動療法などの流れです。これらは問題を機械論的な枠組みでとらえ返し、仮説検証的に生活を組み替えていくという部分で当事者研究に方法論的な枠組みを与えている源流ですが、どちらかというと自助というよりもセラピスト―クライアント間の治療の枠組みとしてとらえられがちです。しかし、「べてる」での取り入れられ方っていうのは、かなりアレンジしているようですね。

 

たとえば診察室の中で行うのではなく、現場やコミュニティーの中で行うわけです。ある意味、安全じゃない場所で行うといいますか、まさにトラブルを目の前にして、ケンカしている相手と一緒にSSTをやったりするんですね。診察室の中で、クライアントとセラピストの間でやるんじゃないという点が、「べてる」でのエッセンスなんじゃないかって思います。ですので当事者研究は、物語的なナラティブの文化を持ちつつも、機械論的な観察と解釈、検証の発想も合わさった部分があると思います。

 

そのような整理をした上で、あえて違いに注目するとすれば、いま荒井さんがおっしゃったとおり、「べてる」に比べると、綾屋さんや自分がやっているのは、ちょっと機械論の比重が大きい、という感じですかね。これは比率の違いであって、本質的なものではないと考えています。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.264 

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