「当事者研究」の可能性について語る

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「異なる部分」をどう語るのか

 

荒井 綾屋さんの文章を拝読していると、下手すると誤解されてしまうんじゃないかと思うことがあります。なかなか上手く表現できないんで、少し遠回りしながら説明したいんですけど。先日、朝日新聞の記事で、日本ではADHDが成人の「1.65パーセント」というような記事が出ていました。なんでそんなことを数値化できるんだろうって、そのことも疑問だったんですけど、とにかく記事を読んでみたら、ADHDの紹介が「脳の機能に何らかの障害を持っていて…」という解説からはじまるんです。私はこの「何らかの障害を…」っていう表現が気になるんです。

 

というのは、脳の機能というか、もっとざっくりと言ってしまうと、人間の個性ってツルツルしたまん丸じゃあり得ないですよね。どこかが凹んでいたり、出っ張っていたりして。たとえばレーダーチャートで人間の個性を測れるとして、測れないと思うけど仮に測れるとして、きれいな円形になる人はほとんどいないはずです。みんな個性があるわけですから、それぞれデコボコしているはずです。で、その凹みや出っ張りの部分を、何の注釈もつけずに「障害」と呼んでしまっていいのかな、という気がするんです。そんなこといったら、「涙もろい」は障害なのか。「笑い上戸」は障害なのか。ということになりかねない。

 

熊谷 確かに。

 

荒井 人より動いちゃうとか、人より集中するのが苦手とか。何をもってその部分を「障害」と呼ぶのか。安易に「障害」と呼んでしまう想像力が、すごく気になっているんです。みんなそれぞれの形にデコボコしたレーダーチャートも、10万人分とか100万人分集めて平均をとれば、きっとキレイな円形に近づきます。でも、それが「平均的な個性」だと思われてしまうと大変なんですよね。計算上は平均値なのかもしれないけど、でもそれは実体のないゴーストです。人口層が一番厚いわけじゃなくて、むしろ存在しないんです。

 

今「発達障害」とか「ADHD」といった障害を医療的にくくって行こうという立場の人たちは、その「平均」が実体的に存在していると思っているのかな、と考えさせられてしまう節があります。その「平均」から突き出たり、凹んだりしている部分をとらえて、何の注釈も付けずに「障害」と言ってしまったいいのかなって・・・。

 

大切なのは、それを「障害」と呼んでしまうのは、きっと社会側の要請があるからなんですよね。だから私は、綾屋さんのお仕事は、そのデコボコの部分をきちんと言葉にして、それを一気に「障害」と呼んでしまうんじゃなくて、そこに注釈をつけていきましょう、というお仕事だと受け取りました。

 

熊谷 そうですね。そうかもしれない。綾屋さんに聞いてみないとわからないですけど、たしかにあるかもしれません。綾屋さんのナラティブを聞いてみると、こんな感じです。

 

つまり、最初物心ついたころから「何かずれてる」と感じていて、でも何がずれているのかということもよくわからない。「どうも自分は他人と繋がれていない」という表現からはじまって、自分の違和感を言語化できないモヤモヤ状態を30年間くらいずっと経験していた。精神科にいって薬が出されるんだけど、飲んだら眠くなるだけで、全然変わらない。なんでこんなことを感じるんだろうということを、いろんな本を読んだりして考えるんだけれど、どれもピンと来ない。

 

それで、ある日「自閉症」とされる人の手記を偶然読んで、そこに書かれている違和感のディテールが、あまりにも自分とぴったり合うということで、不思議な感傷にいたるんですね。それまでも「自閉症」とか「アスペルガー」とかの教科書的な知識はあったみたいなんですが、それは医学的な記述っていうんですかね。それを読んでも自分には関係ないことだと思っていたんだけど、当事者が書いたものにはピンとくる。そこで、名状しがたいしんどさに、もしかしたら名前が付くかもしれない、ということに思い至るわけです。

 

そして、それはすごく「生きやすさ」に繋がるんじゃないかと。それで、自分の職場の先輩が専門医だったので、そこに紹介して診てもらうというようなことをしたわけです。

 

でも、晴れて診断名をもらって、それによって自分の違和感が全部解決したのかというと、むしろスタートだったというか。そして綾屋さんは、三つの問いにぶつかるんですよね。一つは、なんで当事者の手記を読むと「おお」っと身体が反応するのか。もう一つは、でも専門家の記述にはピクリとも身体が動かないのはなぜか。三つ目が、それなのに、なんで専門家の診断書が自分の物語的な構造の中で意味を持つのか。この三つの問いからスタートするんです。特に三つ目ですよね。三つ目が一番誤解されやすいんですけど。なぜ権威ある他者の診断書が必要なのか、っていうところが一番言語化に時間がかかる場所なんです。

 

とりあえず、ここでは二つ目について私なりに言葉を足しておくと、専門家の言説を読んでみると、納得できない部分があるんです。たとえば「自閉症」の概念にしても、それこそディスアビリティのレベルをインペアメント化している。他者関係とか、社会との相互作用の場で生じるレベルのディスアビリティであるにも関わらず、本人の脳の中になにか特定のインペアメントがあって、それによって社会性に何か障害が生じるという流れが出来つつあるんです。

 

最近よく聞く言葉だと、「ソーシャル・ブレイン研究」とかですね。脳の中に「ソーシャル」なんてあるわけがないのに(笑)。でも、ソーシャル・ブレイン研究でも、わかっている人たちは、一個の脳の中にソーシャルはないということくらいはわかっているんですよね。そういったことをわかっている人たちは「ソーシャル・ブレインズ」って言っています。Sを付けるか付けないかがすごく重要なんです。複数の脳、あるいは複数の身体の相互作用でソーシャルという現象が起きるということがわかっている人と、一個の脳の中にソーシャルがあるって思っている人とでは、全然方向性が変わるんです。

 

こういった専門的な研究が、いざ実践の中に翻訳される瞬間に、すごく矮小化されてしまうことを危惧しています。一個のブレインの中にソーシャルなものがあるという理解の仕方になってしまう。でも、これはちょっとおかしい。綾屋さんと自分の関心は、そもそも定義がおかしいっていうところからはじまって、そのディスアビリティのインペアメント化という現象を、どう捉えていったらいいのか、という方向に移って行ったところがあります。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.264 

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