戯曲とは何かを考える――「戯曲は作品である」展をめぐって

「戯曲は作品である」とは、京都・ARTZONEで去る7月5日まで開催された展覧会のタイトルである。展示アーティストの岸井大輔は劇作家。通常、私たちが「演劇を見る」というときそれは「上演」を指していて、つまり舞台上の俳優の身体を見に行っているわけだが、その上演をとっぱらって「戯曲」に直(じか)に当たるのは、また別の楽しみであると思う(それを趣味とする人は少ないかもしれないけれど)。いまなぜ戯曲を問うのか話を聞いた。(聞き手・構成/長瀬千雅)

 

 

上演は作品じゃないかもしれない

 

――「戯曲を展示する」というアイデアはそもそもどこからきたものですか?

 

神奈川県に「パープルーム予備校」という美術コミュニティーがあるんですが、去年名古屋で開催されたパープルームの展覧会(現在東京で開催中)に、「油彩画家のための戯曲」を展示したんです。そのほかにも、グループ展などで戯曲を展示することが多くなって。だったら個展もできるんじゃないかと思ったんですね。

 

 

――「戯曲は作品である」というタイトルは、言外に含みを感じさせますよね。

 

「戯曲は作品である」の前に隠れているものがあるとすれば、「上演は作品じゃないかもしれないが」です。最初のいくつかの作品がそのことをテーマにしています。

 

 

――会場に着くといきなりバリケードで封鎖されていて、「本当に大事なことはあなたの目の前では起こらない」と書かれている。それも岸井さんの戯曲なわけですが、私自身は、「そうですよね、チケットを買って劇場へ行けばなんでも見せてもらえるなんて傲慢ですよね!」みたいな、反省とも逆ギレともつかない感情に襲われながら、きょろきょろと入り口を探しまして。

 

案内図が置いてあったんですけど、それは見なかったんですか?

 

 

――あ、はい。そういえば。そもそも戯曲展なんて見たことないんだから、どうせわからないならわからないまま自力で行こうと思って。

 

それはそれで楽しそう(笑)。「本当に大事なことはあなたの目の前では起こらない」というのがタイトルで、展示してある文章の内容は、観客が舞台上の俳優に期待していること、たとえば殺し合いとか、秘密の愛の語り合いとかを、黙ってただ見ているのは、つまり上演を見るということはよくないんじゃないの、ということが書いてある。

 

 

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「本当に大事なことはあなたの目の前では起こらない」展示風景。岸井さんのサイトで全文が公開されている 撮影=守屋友樹

 

 

上演が作品じゃないかもしれないというのは、いろいろ理由があるんだけど、上演が面白かったとしても、何が原因かわからないでしょう。俳優がうまかったのかもしれないし、セリフがよかったのかもしれない。お客さんの体調とか、どんなお客さんがいるかによっても変わるのが上演です。上演は確定が難しいがゆえに、何が作品であるかをいうのが困難なんです。でも、戯曲は自立しているから作品である、ということです。

 

 

――32の作品が展示してあるということですが、正直、全部は読めなかったので、自分が面白そうだと思うものだけとびとびで読みました。が、自分がイメージしている戯曲とは全然違った。指示書みたいなのもあるし、論文みたいなのもあるし、詩もあるし。

 

僕は、それがきっかけになって演劇ができればなんでも戯曲といえると考えています。たとえば音楽を聴いて感動して演劇を作ればその音楽が戯曲だし、絵を見て感動して演劇を作ればその絵が戯曲。でも僕はいまのところ戯曲を作ろうとすると言葉しか使えない(笑)。僕の戯曲がすべて言語なのは、弱点ですね。文章以外もあるといいんですけど。

 

 

――そう聞くと、「そもそも戯曲ってなんだっけ?」という問いが浮かびます。じつは、このインタビューが記事になるのは展覧会終了後なのですが、岸井さんが提示する「戯曲」の概念が同時代的で面白いと思ったし、また、ハンナ・アレントの『人間の条件』を下敷きにして「東京の条件」という戯曲を書いた岸井さんは劇作家としては相当変わった人だと思うので、かえって、ふだん演劇なんて全然見ないよという人が読んでも面白い話になるのではないかと思いました。

というわけであらためて、「戯曲に注目しようよ」というメッセージを発信する理由を教えてください。

 

いまって、経済学とか心理学とか平均的に人間をみる方法が広く使われていますよね。そうすると、個々の違いとか自由意志が無視されがちです。平均とずれる面白いことをしたいとか、個人的な好みとかははじかれていく。でも、人間って、変なこととか、自由なことをしたいものでしょ。となったときに、平均とは別の、人間を考えるリソースとして、芸術があると思うんですよ。

 

変な絵が多くの人に愛され残っているとか、よくわからないけどやっているうちに意味のわかる踊りとかをずっと大事にしてきた。そういうふうに人間は個性を扱ってきたんじゃないか。

 

演劇の面白さは、一方では、その場限りの、目の前の人とのコミュニケーションです。でもコミュニケーションが面白くなるのにまかせておくと、平均化された面白さになっちゃうことが多い。

 

 

――それはわかる気がします。実社会でも「コミュ力」がもてはやされるようになってもうだいぶ経ちますが、コミュニケーションが上手いことだけが評価されて、「で、何がしたいんだっけ?」みたいなことがわかんなくなっている感じがします。そんなふうに安易に重ねてはいけないのかもしれませんが。

 

いいんだと思いますよ。アートでも、ウオーホールは二次産業が盛んになったから工業(ファクトリー)を作り、同様に三次産業が中心になったからこそリレーショナル・アートをやるんだという理論もある。

 

演劇の歴史において、コミュニケーションに取り込まれずに、個の作り出す自由な面白さを担保してきたのが、コミュニケーションの外に存在している戯曲だと僕は思う。

 

いまの社会はコミュニケーションと平均化に流されがちで、そもそもどうしたかったのかとかが忘れられがちではないでしょうか。そんなとき、演劇は歴史的に戯曲に立ち返ってきました。だから社会全体に対して、「戯曲でものを考えようよ」ということが言いたい。

 

僕は日本でまちづくりとかアートプロジェクトと言われている現場にかなりコミットしていますが、ここ5年ぐらい、現場では、どう評価するかどう記録するかという議論がずっとなされてきました。アートプロジェクトやまちづくりの現場ではいろいろ素敵なことが起きていますから、そこにいない人にも伝えたいわけです。

 

だけど、ここでいう素敵なことは、よかったり面白かったりするコミュニケーション。でも、コミュニケーションは記録しづらいものだし、その場にいない人によさを伝えにくいものです。だから、本質的に、記録しにくい。コミュニケーションは、まきこまれていない人にはよさがわかりにくいですから、客観的に評価しにくいに決まっている。だってはっきりしないのがよさであり本質なんだから。

 

 

――なるほど。

 

演劇をしている僕らは、上演とかコミュニケーションははっきりしないのが魅力だと知っている。上演は1回1回違うこととかを経験でわかっている。だから、演劇上演の評価の基準をどうするか、何で面白いのかをはっきりさせるにはどうすればいいかという問題はずっとあるんですよ。

 

で、その問いへ回答のひとつが、戯曲を基準としてみる見方です。戯曲と上演を比べ評価したり記録したりを演劇はしてきた。戯曲とはぜんぜん違うけど面白い上演だった、とか、戯曲どおりではあったけどイマイチだな、とかね。だから、演劇以外でも、コトを問題にするのなら、その現場における戯曲にもっと着目した方がいいと僕は思います。それはつまり企画書と実践とかになると思うので、PDSCでみようというようなことだと思いますが(笑)。

 

 

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岸井大輔さん

 

 

――ちょっと脱線するかもしれませんが、はっきりしていない戯曲もありませんか? こう、台本がないとか、口立てみたいにその場でどんどん変わっていってしまうとか。

 

なるほど、戯曲がはっきりしない上演もありますよね。コミュニケーションだとなおさら。じゃあ、たとえば、国を考えてみましょう。いま一般的に国っていうのは人間が意識的に作ったものです。そう言うと怒られることがあるんだけど。

 

 

――国民国家という意味では人工物ですよね。

 

同意してもらえてよかったです。もちろん、国民国家になる前から日本と呼ばれる人間の集団はあった。そういうときは、台本がないとか、口立てみたいにその場でどんどん変わっていってしまうとかってことが一般的だったでしょう。

 

でも、集団に所属している人間が増え、周囲との関係が複雑になってくると、いろいろはっきりさせる必要が出てくる。で、はっきりさせるために作られたのがたとえば憲法ではないでしょうか。憲法を国家の戯曲と見てみようということです。大勢の人が尊重されながら自由にやっていくには、戯曲をちゃんとさせた方がいいだろうというのは人類の知恵ですよ。

 

戯曲を重視したほうがよいという僕の問題意識は、憲法が軽視されているということの問題と一緒だと思います。僕は日本国憲法をめぐっていま起きている状態は「戯曲を軽視している」ってことじゃないかと。憲法よりも現実とか景気でしょ、というのは戯曲よりもその日の上演が面白かったり集客すればいいんじゃない、っていうことに等しい。で、みんながそう思っているように僕には見えるわけ。

 

 

――なるほど。そう考えると腑に落ちるところがあります。

 

憲法が必要な理由はいろいろ言えるけど、演劇の人間として思うのは、演劇は歴史上さまざまに変容してきたけど、やっぱり戯曲があった方がいいよねっていうふうに、常に戯曲に戻ってきたんですよね。演劇史の知恵ですね。

 

戯曲は最初はかたちになってなくて、いたしかたなく書かれることもある。でも集団のよさとかのために、理想を夢見て、面白い集団に潜在的に存在していて、将来的にもよい活動が起きるものをテキストにしようと必死に作ってきたのが戯曲なわけです。だから、戯曲の本質は言葉ではなくて、その背後あるいは手前にある、人々が共有してる何か。そして、戯曲が機能していくと、その上で人間が楽しく生きていくベースになる。

 

よい演劇が維持されているときは戯曲をはっきりさせなくてもいいんでしょう。こんな展覧会もする必要はない。だけど、いまの日本はもうちょっとはっきりした方がいいと僕は思うので、戯曲を展示しようと思った。

 

 

――戯曲がなさすぎる。

 

そう。やっぱり、自分たちの戯曲を考えた方がいいと思います。いまの日本では。【次ページにつづく】

 

 

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「メイド喫茶の条件」は「メイドカフェ批評」(2013年初版)という同人誌に掲載された。「東京の条件」と同じくアレント『人間の条件』が下敷きだが、こちらの戯曲は論考のかたちをとっている。

 

 

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展覧会期間中の2日間、閉館後の時間に「メイド喫茶の条件」が上演された。出演は二十二会(渡辺美帆子+遠藤麻衣)、演出は谷竜一(集団:歩行訓練)。谷による上演台本には、戯曲にはない部分がかなり書き足されていた。

 

 

 

 

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