2015.08.07

戯曲とは何かを考える――「戯曲は作品である」展をめぐって

劇作家・岸井大輔氏インタビュー

文化 #SYNODOS演劇事始#劇曲#戯曲は作品である

「戯曲は作品である」とは、京都・ARTZONEで去る7月5日まで開催された展覧会のタイトルである。展示アーティストの岸井大輔は劇作家。通常、私たちが「演劇を見る」というときそれは「上演」を指していて、つまり舞台上の俳優の身体を見に行っているわけだが、その上演をとっぱらって「戯曲」に直(じか)に当たるのは、また別の楽しみであると思う(それを趣味とする人は少ないかもしれないけれど)。いまなぜ戯曲を問うのか話を聞いた。(聞き手・構成/長瀬千雅)

上演は作品じゃないかもしれない

――「戯曲を展示する」というアイデアはそもそもどこからきたものですか?

神奈川県に「パープルーム予備校」という美術コミュニティーがあるんですが、去年名古屋で開催されたパープルームの展覧会(現在東京で開催中)に、「油彩画家のための戯曲」を展示したんです。そのほかにも、グループ展などで戯曲を展示することが多くなって。だったら個展もできるんじゃないかと思ったんですね。

――「戯曲は作品である」というタイトルは、言外に含みを感じさせますよね。

「戯曲は作品である」の前に隠れているものがあるとすれば、「上演は作品じゃないかもしれないが」です。最初のいくつかの作品がそのことをテーマにしています。

――会場に着くといきなりバリケードで封鎖されていて、「本当に大事なことはあなたの目の前では起こらない」と書かれている。それも岸井さんの戯曲なわけですが、私自身は、「そうですよね、チケットを買って劇場へ行けばなんでも見せてもらえるなんて傲慢ですよね!」みたいな、反省とも逆ギレともつかない感情に襲われながら、きょろきょろと入り口を探しまして。

案内図が置いてあったんですけど、それは見なかったんですか?

――あ、はい。そういえば。そもそも戯曲展なんて見たことないんだから、どうせわからないならわからないまま自力で行こうと思って。

それはそれで楽しそう(笑)。「本当に大事なことはあなたの目の前では起こらない」というのがタイトルで、展示してある文章の内容は、観客が舞台上の俳優に期待していること、たとえば殺し合いとか、秘密の愛の語り合いとかを、黙ってただ見ているのは、つまり上演を見るということはよくないんじゃないの、ということが書いてある。

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「本当に大事なことはあなたの目の前では起こらない」展示風景。岸井さんのサイトで全文が公開されている 撮影=守屋友樹

上演が作品じゃないかもしれないというのは、いろいろ理由があるんだけど、上演が面白かったとしても、何が原因かわからないでしょう。俳優がうまかったのかもしれないし、セリフがよかったのかもしれない。お客さんの体調とか、どんなお客さんがいるかによっても変わるのが上演です。上演は確定が難しいがゆえに、何が作品であるかをいうのが困難なんです。でも、戯曲は自立しているから作品である、ということです。

――32の作品が展示してあるということですが、正直、全部は読めなかったので、自分が面白そうだと思うものだけとびとびで読みました。が、自分がイメージしている戯曲とは全然違った。指示書みたいなのもあるし、論文みたいなのもあるし、詩もあるし。

僕は、それがきっかけになって演劇ができればなんでも戯曲といえると考えています。たとえば音楽を聴いて感動して演劇を作ればその音楽が戯曲だし、絵を見て感動して演劇を作ればその絵が戯曲。でも僕はいまのところ戯曲を作ろうとすると言葉しか使えない(笑)。僕の戯曲がすべて言語なのは、弱点ですね。文章以外もあるといいんですけど。

――そう聞くと、「そもそも戯曲ってなんだっけ?」という問いが浮かびます。じつは、このインタビューが記事になるのは展覧会終了後なのですが、岸井さんが提示する「戯曲」の概念が同時代的で面白いと思ったし、また、ハンナ・アレントの『人間の条件』を下敷きにして「東京の条件」という戯曲を書いた岸井さんは劇作家としては相当変わった人だと思うので、かえって、ふだん演劇なんて全然見ないよという人が読んでも面白い話になるのではないかと思いました。

というわけであらためて、「戯曲に注目しようよ」というメッセージを発信する理由を教えてください。

いまって、経済学とか心理学とか平均的に人間をみる方法が広く使われていますよね。そうすると、個々の違いとか自由意志が無視されがちです。平均とずれる面白いことをしたいとか、個人的な好みとかははじかれていく。でも、人間って、変なこととか、自由なことをしたいものでしょ。となったときに、平均とは別の、人間を考えるリソースとして、芸術があると思うんですよ。

変な絵が多くの人に愛され残っているとか、よくわからないけどやっているうちに意味のわかる踊りとかをずっと大事にしてきた。そういうふうに人間は個性を扱ってきたんじゃないか。

演劇の面白さは、一方では、その場限りの、目の前の人とのコミュニケーションです。でもコミュニケーションが面白くなるのにまかせておくと、平均化された面白さになっちゃうことが多い。

――それはわかる気がします。実社会でも「コミュ力」がもてはやされるようになってもうだいぶ経ちますが、コミュニケーションが上手いことだけが評価されて、「で、何がしたいんだっけ?」みたいなことがわかんなくなっている感じがします。そんなふうに安易に重ねてはいけないのかもしれませんが。

いいんだと思いますよ。アートでも、ウオーホールは二次産業が盛んになったから工業(ファクトリー)を作り、同様に三次産業が中心になったからこそリレーショナル・アートをやるんだという理論もある。

演劇の歴史において、コミュニケーションに取り込まれずに、個の作り出す自由な面白さを担保してきたのが、コミュニケーションの外に存在している戯曲だと僕は思う。

いまの社会はコミュニケーションと平均化に流されがちで、そもそもどうしたかったのかとかが忘れられがちではないでしょうか。そんなとき、演劇は歴史的に戯曲に立ち返ってきました。だから社会全体に対して、「戯曲でものを考えようよ」ということが言いたい。

僕は日本でまちづくりとかアートプロジェクトと言われている現場にかなりコミットしていますが、ここ5年ぐらい、現場では、どう評価するかどう記録するかという議論がずっとなされてきました。アートプロジェクトやまちづくりの現場ではいろいろ素敵なことが起きていますから、そこにいない人にも伝えたいわけです。

だけど、ここでいう素敵なことは、よかったり面白かったりするコミュニケーション。でも、コミュニケーションは記録しづらいものだし、その場にいない人によさを伝えにくいものです。だから、本質的に、記録しにくい。コミュニケーションは、まきこまれていない人にはよさがわかりにくいですから、客観的に評価しにくいに決まっている。だってはっきりしないのがよさであり本質なんだから。

――なるほど。

演劇をしている僕らは、上演とかコミュニケーションははっきりしないのが魅力だと知っている。上演は1回1回違うこととかを経験でわかっている。だから、演劇上演の評価の基準をどうするか、何で面白いのかをはっきりさせるにはどうすればいいかという問題はずっとあるんですよ。

で、その問いへ回答のひとつが、戯曲を基準としてみる見方です。戯曲と上演を比べ評価したり記録したりを演劇はしてきた。戯曲とはぜんぜん違うけど面白い上演だった、とか、戯曲どおりではあったけどイマイチだな、とかね。だから、演劇以外でも、コトを問題にするのなら、その現場における戯曲にもっと着目した方がいいと僕は思います。それはつまり企画書と実践とかになると思うので、PDSCでみようというようなことだと思いますが(笑)。

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岸井大輔さん

――ちょっと脱線するかもしれませんが、はっきりしていない戯曲もありませんか? こう、台本がないとか、口立てみたいにその場でどんどん変わっていってしまうとか。

なるほど、戯曲がはっきりしない上演もありますよね。コミュニケーションだとなおさら。じゃあ、たとえば、国を考えてみましょう。いま一般的に国っていうのは人間が意識的に作ったものです。そう言うと怒られることがあるんだけど。

――国民国家という意味では人工物ですよね。

同意してもらえてよかったです。もちろん、国民国家になる前から日本と呼ばれる人間の集団はあった。そういうときは、台本がないとか、口立てみたいにその場でどんどん変わっていってしまうとかってことが一般的だったでしょう。

でも、集団に所属している人間が増え、周囲との関係が複雑になってくると、いろいろはっきりさせる必要が出てくる。で、はっきりさせるために作られたのがたとえば憲法ではないでしょうか。憲法を国家の戯曲と見てみようということです。大勢の人が尊重されながら自由にやっていくには、戯曲をちゃんとさせた方がいいだろうというのは人類の知恵ですよ。

戯曲を重視したほうがよいという僕の問題意識は、憲法が軽視されているということの問題と一緒だと思います。僕は日本国憲法をめぐっていま起きている状態は「戯曲を軽視している」ってことじゃないかと。憲法よりも現実とか景気でしょ、というのは戯曲よりもその日の上演が面白かったり集客すればいいんじゃない、っていうことに等しい。で、みんながそう思っているように僕には見えるわけ。

――なるほど。そう考えると腑に落ちるところがあります。

憲法が必要な理由はいろいろ言えるけど、演劇の人間として思うのは、演劇は歴史上さまざまに変容してきたけど、やっぱり戯曲があった方がいいよねっていうふうに、常に戯曲に戻ってきたんですよね。演劇史の知恵ですね。

戯曲は最初はかたちになってなくて、いたしかたなく書かれることもある。でも集団のよさとかのために、理想を夢見て、面白い集団に潜在的に存在していて、将来的にもよい活動が起きるものをテキストにしようと必死に作ってきたのが戯曲なわけです。だから、戯曲の本質は言葉ではなくて、その背後あるいは手前にある、人々が共有してる何か。そして、戯曲が機能していくと、その上で人間が楽しく生きていくベースになる。

よい演劇が維持されているときは戯曲をはっきりさせなくてもいいんでしょう。こんな展覧会もする必要はない。だけど、いまの日本はもうちょっとはっきりした方がいいと僕は思うので、戯曲を展示しようと思った。

――戯曲がなさすぎる。

そう。やっぱり、自分たちの戯曲を考えた方がいいと思います。いまの日本では。

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「メイド喫茶の条件」は「メイドカフェ批評」(2013年初版)という同人誌に掲載された。「東京の条件」と同じくアレント『人間の条件』が下敷きだが、こちらの戯曲は論考のかたちをとっている。

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展覧会期間中の2日間、閉館後の時間に「メイド喫茶の条件」が上演された。出演は二十二会(渡辺美帆子+遠藤麻衣)、演出は谷竜一(集団:歩行訓練)。谷による上演台本には、戯曲にはない部分がかなり書き足されていた。

 

この世界にある戯曲を、見えるかたちにしておく

――岸井さんが言う「戯曲」をもう少しイメージするために質問させてください。岸井さんは、東京に公共を実装するための戯曲(「東京の条件」)や、震災後に宮城県山元町のための戯曲(「201X年の山元町」)を書いていますよね。ということは、たとえば、雑誌の編集部みたいな集団にも戯曲を書くことができますか?

依頼があれば、ぜひやりたいですね。コンサルタントとかなら、企業を儲けさせることはできるでしょう。演劇として人間の集団を見るというのは、儲かるかどうかとか正しいということではなく、面白いかどうか、かっこいいかで見るということです。

つまり、僕が編集部をリサーチして戯曲を書くということは、愉快な集団にするための元となるテキストを書くことはできるってことです。編集部が愉快になる必要があるの?と僕も思いますが、就職先とか仕事の依頼先を考えるとき、儲かっているかどうか、よいことをしているかどうかとは別に、面白い連中かとか、かっこいいかとかを考えるでしょう。それは企業を劇団として見ているといっていいと思う。

だから、集団をかっこよいかどうかとか、ダサいかどうかみたいに、美的に見ることは案外多いんじゃないか。

ただ、僕には演出はできない。つまり、戯曲が実行されるかどうかは約束できない。

――劇作家と演出家の違いはそこにあると。

はい。企画書があって、会社があっても、企画書が実装されないよね。っていうのと同じことだと思います。ビジネス書が無数に出されていて、売れてるでしょ。あれも戯曲のようなものだとしたときに、でも本があるだけでは実際は組織は動かないですよね。締め切り決めようかとか、集まって会議するかとか、そういう些細な行動を起こすおかげでかろうじて動く。

その、何かコトを起こそうとするということが演出をしているということです。僕は劇作家ですから戯曲は提示しますが、演出はしません。

―そうすると組織のリーダーが演出というスキルを身につければ……

じつは演出というのは新しい概念で、200年ぐらいしか歴史がありません。かたや戯曲は2500年以上の歴史がある。いまは戯曲=企画書と俳優=会社員だけでは上演=仕事がすすまないからこそ、演出家=マネージャーが必要になるんでしょう。集団をマネージする手法は演出と考えていいと思います。

僕の「東京の条件」のなかに、「シェア・スープ・スリー・ウイークス」という作品があって、日本の組織は鍋的だということを問題にしたんですが。

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『戯曲|東京の条件』より、3幕4場。「東京の条件」は、〈東京に必要な「公共の戯曲」を作る〉ことを目的に、東京都及び東京文化発信プロジェクト室との共催で、2009年から12年まで3年間にわたり上演された。http://www.kishiidaisuke.com/#!dramatokyocondition/c17i7

――宮本常一が書いたような、三日三晩宴会したら話がまとまっていた、みたいな。逆か。話がまとまるまでひたすら宴会を続ける。

日本ではそれをやってきたわけ。だから、リーダーというか鍋奉行しかいない組織があったりする。でも鍋奉行は、多様な意見を聞いて組織を生かすんじゃなくて、おいしいものとか酒で個人の意見をウヤムヤにしながら話を進める。

そういう組織の動かし方とは別に民主的なマネージメントもあります。人間がそれぞれ違い、それが一緒にことをなしていくようなリーダー。鍋奉行のように、みんなの意見を同じにするんじゃなくて、異なる人と一緒にやるの仕事だというリーダー観。

僕は45歳ですが、バブルまでは、日本はほぼ鍋型で組織が回ってたと思うな。つまり、景気がいいときは鍋でよかったんでしょうね。バブルが崩壊したら、横文字のマネジメントが流行って。これは民主的なリーダーが必要になったんだと思いますよ。

で、この違いは僕には演出の違いと思えるんですよね。僕は劇作家として会社とか組織のために戯曲を書くことはできますけど、いまの社会で実装するには演出家が必要ですし、組織がどうなるかは、最終的には演出家の手法とか好みに左右されるでしょうね。

――編集長が変わると編集方針が変わるっていうのは、為政者が変わると憲法が変わるってことに似てますよね。

為政者が変わっても変わらないために憲法というのでしょうけど。

――そうか、そこは一緒にしてはいけないのか。

それが、演出家と戯曲の違いってことですね。

――いまは新聞やテレビのようなマスコミが発達し切ったあとであるわけですが、それらは活動を促す装置にはならないですか? マスメディアにはオーソライズ機能もあると思っているのですが。

新聞・テレビも活動を促すときは戯曲と考えればいいんだと思います。あと、戯曲にもマスメディアとは別のオーソライズ機能もあるんですよ。

そもそも戯曲の起源のひとつは古代ギリシアなんですけど、同じ時期にプラトンが対話篇を書いていて、同時期に孔子の弟子が論語を作り、ブッダの弟子が仏典を編んだ。ソクラテスも孔子もブッダも文字は書いてなくて、弟子が残した。その残し方はどれも対話の文字化ですから、戯曲形式でしょ。

孔子とかブッタとかソクラテスは活動をしたわけですが、その教えを、弟子別に話し方を変えている対話で残さないと、よさが伝わらないと判断されたんでしょう。戯曲として読むからこそ、活動が促され、オーソライズもされる。逆にいえば、これらは、演劇的な読解力がないと読めない。

――なるほど。

ソクラテスにしてもブッタにしても孔子にしても、本当のすごさは目の前にいないとわからないんだと思います。でも、それは必ずしも彼らが偉人だったからではない。人間の活動のよさは、目の前にいるときしかわからないものだからです。だから、それを伝えたければまず上演をするとよい。

僕は年中移動していて、日本のあちこちでトークイベントとか読書会とかをしています。この、しょっちゅう人とコミュニケーションをするスタイルは、前近代の、つまり、旅のお坊さんみたいなことだなと思う。

お寺にいるお坊さんは住職といいますが、住職って言葉は「住んでる」以外何も言っていませんよね。住むのが仕事ってことです。そんなはずないんで、じつは住職は遊行僧とセットの言葉だったと思うんです。つまり遊びに行く人=遊行僧と住んでる人=住職がコンビになっている。このコンビから遊行僧が消えて住職しかいなくなったから住職とはなんだかわからなくなっちゃったんじゃないかな。

移動する人が開かれた情報を運んでくる。でもその人は閉じたコミュニティーには外部だから、コミュニティーのメンバーがアクセスできる窓口として住職が必要だったわけですね。

いま、いろんな町にできているまちづくりの拠点とか、アートスペースとかは中世的なお寺で、その場所にいてまちづくりをしている人は住職とみなすこともできると思う。僕は遊行僧としてやって来て、一定期間そこに滞在し、地元の人に投げて、情報を収集して、次へ行く。ということを繰り返しているわけです。昔は、マスコミはなかったけど、遊行僧に付随するかたちで文書のやりとりもあって、全国を細かく正確な情報が行き来してたわけだよね。

グローバリゼーションとともに世界が新しい中世となるという可能性は多くの人が指摘していますが、中世化するのならその英知も復活させなければならない。そのひとつが戯曲だと思うんです。戯曲によって引き起こされたよい活動が、オーソライズを提供する。とにかく人間のよい活動を引き起こすことが可能になるものを戯曲とみてたくさん紹介し、作り、見えるかたちにしておかないといけない。この世界にある戯曲を、なるべく見えるかたちにしておく。そして戯曲を読解できる人を涵養する。

――いま私たちが「劇作家」でイメージするのは現在のいわゆる劇場システムにのっとったもので、岸井さんが考えているのはもっと、根源的なのか、逆に先端的なのか、わかりませんけれど、そういうことなんですね。

岸井さんのプロフィールに、中学・高校時代から現代アートを見ていて、演劇だけが近代芸術であることに疑問をもったということが書いてありましたが、「現代アートとしての演劇」と思えばいいのでしょうか。

現代アートとしての演劇は、いま面白いですよ。いま現代化、モダニズムの前線が演劇のところに来ていて。だから、チェックしておくべきは演劇ということになってきたんだと思うんです。美術や音楽でもますます演劇的表現が増えていくと思うし。

で、他のジャンルのアーティストも、演劇から知恵を得ようと思ったらやっぱり戯曲が大事なんですよね。戯曲を読めるようにならないと演劇はわからない。だから戯曲をもっと読んでほしいと思うし、演劇界も応答していくべきだと思う。たとえば、ままごとの柴幸男くんが「戯曲公開プロジェクト」を行っていますが( http://www.mamagoto.org/drama.html )、彼も現状に対して戯曲を訴えた方がいいっていう判断を直感的に下したんだと思うんですよ。

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「油彩画家のための戯曲」(2014年)と、それをもとにして描かれたペインターの安藤裕美さんの絵画作品。撮影=守屋友樹

「読経」は「上演」であると考えてみる

――展示のことに戻りますが、閉館後の時間帯に、ほぼ毎日のように戯曲の上演やトークイベントが行われていましたね。岸井さんにとって今回の展示はそれ自体が上演の一つだった、ということになりますか?

いま、日本の仏教の話でたとえましたから、あえて同じたとえで続けますけど、「戯曲の展示」の先行事例を考えたときに、お経があるなと思ったんです。お経は、先ほどいいましたが、基本的には仏と他の登場人物の対話だから、戯曲構造を持っていると読める。しかも、しばしば音読、つまり上演されています。毎日各地で般若心経が読み上げられています。木魚という音楽つきで。いろんな読み方やシチュエーションがあるんだから、演出プランもいろいろあるでしょう。

でも考えたら、仏教の教えを知りたいだけなら黙読すればいいじゃないですか。なのに音読が続いているということは、やっぱりお経を戯曲とみなして、再演しようとした人が何人かいたと思うんですよね。妄想ですけどね。「ブッダ役は君ね」みたいな上演があったんじゃないか。やってみたら、あ、わかった!みたいな体験があって、じゃあ、みんなでやってみようとやっていたのが、いつの間にか音読だけ残ったんじゃないかと思う。

しかし演劇をやっている人間としてわかるのは、音読していれば十分「上演されてるよさ」が現れるし、ただ読み上げているだけでちゃんと上演されているというところに落ち着いたんでしょう。

さて、僕の理解では、法華経には、「お経で文字に見えるのは実は、巨大な蓮の花びらとその香りである。さらに言えばそれは法である。だけど人間には法や蓮の花びらが直接感知できないから、文字になって見えている」と書いてある。同様に、戯曲も、本当は花びらや法なんですよ(笑)。

――ええっ、全然感じとれてなかったかも……。

冗談ですけどね。そう思って読むといいかもしれない。

ところで、経を音読しても、その時点の人間の暮らし方とかで、上演がうまくいかないこともあったと思うんですよ。上演は演出家とか組織に左右されます。何せ上演は作品ではないかもしれないんです。そんなとき、経文そのものを石板に刻もうという考えができたんだと僕は思うんですよね。だって、文字に見えるけれど本当は蓮の花なんですから。音読=上演されなくても、戯曲を読み取る力があれば、南無妙法蓮華経とあればその向こうに蓮の花びらがあるはず。

面白いと思うのは、経を刻む様式なんですけど、装飾的な文字になってたりする。これは、蓮の花であることをあらわしたいというテンションが溢れちゃってるんじゃないか。だから、彼らも、戯曲が作品であることを伝えるために、上演じゃなくて、展示を選んだんだなあと感じます。

――蓮の花が象徴するものってなんだろう、調和のとれた世界みたいことですか?

象徴じゃなくて、事実ですよ!とかいうと、怪しいことをいう人に思われるか。言葉の向こうにある人間の生きた状態でしょうね。たとえば、幼稚園の子どもたちがのびのびとみんなで集まってラクガキをしているような、人間の集団がいきいきしている状態です。それを維持するのや創造するのが難しい状況はあるわけです。今の日本もそうではないか。

しかし、大事なのは、そういうことが人間には可能だという情報は失っちゃいけないということ。経済活性が一番大事だみたいな情報のみになってしまうと、自由にやるより我慢が、個性より成果が重要だとかなっていくでしょう。危険ですよ。

だから僕は、石板にお経を刻んで、「蓮の花感」を出した人の気分がすごくよくわかる。これは本当はただの字じゃなくて、過去に人々の自由な美しい活動というものがあり、それぞれの人は自由で、自分の人生をつくるのは自分で、それは非常に面白かったのだということ、しかもそれはあなたにも可能だという情報を共有したかったんだろうと。だからそれは事実ですというべきだと思う。

戯曲そのものの展示をするっていう今回の試みは、時代に抵抗して演劇のよさをつたえるために、文字の向こうにある戯曲を見せる方法を試行したいと思ったからです。もっといい手を考えないといけないし、今回展示をしてみてやっぱり上演も大事だなとわかったけど、でも、この社会のどこにその情報の置き場を作れるのか。これからも考えていきたいですね。

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ARTZONEの2階に展示された「劇作家のための戯曲」と「埋蔵する」は、本展のために新たに描かれた。撮影=守屋友樹

▽展示情報

「戯曲は作品である』」
2015年6月13日〜7月5日(会期終了)
会場: ARTZONE(京都市中京区)

▽関連情報

「戯曲は作品である」を記録する

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プロフィール

岸井大輔劇作家

1970年生まれ。1995年より、他ジャンルで追求された創作方法による形式化が演劇でも可能かを問う作品を制作している。記憶の再生が演技を生み出す事そのものを演劇と見なすプロジェクト『記憶の再生』、判断を全てサイコロに委ねる演劇『P』などを発表。その過程で、演劇を「人間の集団を素材とする」と定義。人間集団として、「まち」を捉え、まちが表現する状況を設定する作品群『POTALIVE』、人間集団へ出入りする場を演劇として提示するシリーズ『LOBBY』、集団が良い劇を創作する方法の一つを形式化したワークショップのシリーズ『作品を創る/演劇を創る』、日本集団を日本語を通して捉えるプロジェクト『文(かきことば)』など。2009年から2012年には、東京における公共を考えるために、ハンナアーレントの『人間の条件』を戯曲と見なし都内で上演するプロジェクト『東京の条件』実施。現在は日本中を回りながら、地域や伝統に隠れた戯曲をかくプロジェクトを多数実施している。http://www.kishiidaisuke.com/

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