2014.08.28

「流動的人間関係vs固定的人間関係」と責任概念

松尾匡:連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

経済 #自己責任#メンバーシップ型

前回は、責任概念には「自己決定の裏の責任」「集団のメンバーとしての責任」の二種類があるというお話をしました。

前者は自分で決めたことの結果は、他人に及ぼさずに自分で引き受けることで、典型的な責任の取り方は補償です。後者は自分で決めたかどうかにはかかわらず、集団の中で決められた役割を果たすことで、典型的な責任の取り方は「詰め腹を切る」ことです。

どちらが主にとられるべきかは、その行為がなされる社会システムのあり方によって決まってくるのですが、それが食い違うとおかしなことになるということでした。

前回のお話でも、「自己決定の裏の責任」は人間関係が流動的な社会システムにマッチして、「集団のメンバーとしての責任」は人間関係が固定的な社会システムにマッチするということに触れましたが、今回は、どうしてこのような対応関係が成り立つのか、そもそもどうして社会システムがこのように二種類の人間関係のものに分かれるのかを考えてみたいと思います。

連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

「ジョブ型責任とメンバーシップ型責任」

前回のウェブ記事が掲載されたあと、濱口桂一郎さんが早速拙稿をとりあげて下さいました。

「ジョブ型責任とメンバーシップ型責任」hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)

拙稿の議論を応用し、日本企業で一時流行った「成果主義」が、どうして「糞」なものになってしまったのかを、「自己決定の裏の責任」と「集団のメンバーとしての責任」の混同から説明しています。

濱口さんは、以前から、雇用のあり方は「ジョブ型」と「メンバーシップ型」に分かれると言っています。欧米企業は主に「ジョブ型」で、これまでの日本企業は「メンバーシップ型」だったと言うのです。

「ジョブ型」というのは、百パーセントの典型は、特定のイベントをするのに通訳を雇うとかデザイナーを雇うとかいうようなものだと思います。事業をするための「職務」が具体的に決まっていて、その職務のために、それぞれ報酬などの条件を決めて雇用されるものです。だから、その職務を必要とするプロジェクトがなくなれば、雇用がなくなってもおかしくありません。

それに対して「メンバーシップ型」というのは、具体的な職務は未定の状態で先に従業員という「メンバー」になり、あとで事業の進み方に応じて仕事が決まってくるというものです。

それで、濱口さんによれば、「自己決定の裏の責任」というものは「ジョブ型」の仕組みに合う責任概念だと言います。というのは、自己決定の裏の責任が問えるためには、どこまでが自己決定できるか、出てきた結果のうちどこまでがその決定の結果なのかがはっきり確定できないといけないからです。「ジョブ型」の場合は、そうした権限があらかじめはっきり決められた上で雇用されます。典型的には、イベントの失敗が通訳の選んだ訳語のミスのせいか、企画のせいかは、間違いようがないということをイメージすればいいと思います。「ジョブ型」では、もっと普通の事務仕事でも同様だというわけです。

濱口さんによれば、成果主義はこういう仕組みを前提してはじめて成り立つのだということです。事業の出来不出来が、どこまでその人の決定の結果かがはっきりするので、報酬と連動させるのもはっきりできます。そこでは、報酬が低いのは、自己決定の結果の成果の悪さを自分で引き受けているだけで、「懲戒」とは次元が違うのだと思います。

他方、「メンバーシップ型」だった従来の日本企業の多くは、職務も権限もはっきりしないのが特徴だったと言います。事業の出来不出来が誰のせいかよくわからないわけです。ということは、そもそも「自己決定の裏の責任」を問うことができない仕組みだったわけです。だから、責任追及も個人ではなくて、集団単位でやっていたのだと言います。

そこで個人の責任を問うことがあったとすれば、それは「集団のメンバーとしての責任」の方だったわけです。つまり、本来果たすべき役割を果たさないこと、典型的には、サボったり、経費を私物化したりといったことが、個人責任を問われるケースだったということになるのだと思います。つまり、「懲戒」事案とひと続きのことというわけでしょう。悪意なく人並みにがんばっているかぎり、個人責任を問われることはなかったわけです。

ところが、そんな仕組みがそのままの中で、「成果主義」が導入されるとどうなるか。自己決定の権限もはっきりしないのに、成果の不出来について個人に責任を負わせろというのです。濱口さん曰く、「「集団のメンバーとしての責任」の過剰追求が始まってしまう」「「みんなに迷惑かけやがってこの野郎」的な責任追及にならざるを得ず、「俺だけが悪いわけじゃないのに」「詰め腹を切らす」型の個人責任追及が蔓延するわけですね。まさに、自己決定がないのに、自己決定に基づくはずの責任を、集団のメンバーとしてとらされるという、「悪いとこ取り」になるわけ」です。

人間関係のシステムの二大原理

とてもわかりやすいケースだと思います。濱口さんの「ジョブ型」「メンバーシップ型」については、最近の『若者と労働──「入社」の仕組みから解きほぐす』(中央公論新社)や『日本の雇用と中高年』(筑摩書房)にも大変わかりやすく解説されているので、興味のある人は是非お読み下さい。

私から見ると、この「ジョブ型」「メンバーシップ型」というのは、それぞれ流動的人間関係と固定的人間関係の社会システムの典型例だと思います。私は、2009年に出した拙著『商人道ノスヽメ』(藤原書店)の中で、流動的人間関係の社会原理のことを「開放個人主義原理」、固定的人間関係の社会原理のことを「身内集団原理」と呼んで、その違いを整理しています。

もちろん、社会原理をこの二つにわけることは昔から言われつくされた話で、有名なテンニースの「ゲマインシャフト/ゲゼルシャフト」はじめ、マルクスもウェーバーも大塚久雄も共同体と市場の関係として真正面から取り組んだとおりです。そんな中でも現代では、社会学や社会心理学で、実証的な分析が進んでいます。もちろん私はしろうとでそうした議論をすべて知っているわけではないのですが、拙著では愚見の及ぶかぎりで整理紹介しました。

とくに、なぜ社会システム原理がこの二つに分かれるのかについて、拙著では山岸俊男さんの議論を筆者なりに敷衍して説明しています[*1]。ここで基本に出てくるのが、やはり「リスクへの対処」ということです[*2]。

[*1] わかりやすい一般書としては、『安心社会から信頼社会へ』(中央公論新社、1999年)を勧める。ほか、専門書として『信頼の構造』(東京大学出版会、1998年)。

[*2] 以下主に拙著『商人道ノスヽメ』36-38ページでの議論。

固定的人間関係による解決

人間は社会的生物で他者と関係しなければ生きていけないわけですけど、他者と関係することにはリスクが伴います。もちろん一番大きなリスクは、悪いやつにあたって食い物にされてしまうリスクです。そのほか、自分の必要にフィットした能力の人や自分を必要とする人にあたるかどうかというリスクもあると思います。

これを処理する一つの方法は、人間関係を固定して、その中でできるだけ社会を完結することです。一番典型的には、数家族でムラを形成し、みんな一生そのムラの中で過ごし、必要なものはあらかたそのムラの中で自給自足してしまうというやり方です。

この場合、悪事をしたらムラのみんなに知れ渡るので、人格的には実は悪いやつでも、簡単に人を裏切って食い物にすることができません。だから、この固定された人間関係の中にいる限り、食い物にされる心配をせずに安心していられます。自分が必要とする技能をまあまあ持っているのが誰かということも、よくわかっています。

しかしそのかわり、リスクはすべて集団の外に押し出されます。ムラの外は魑魅魍魎の住む世界とみなされるわけです。「内は安心、外は危険」という図式になるのです。固定的関係の外の人、「ヨソモノ」は、本当はいい人かもしれないし、協力しあえばとても利益がある人かもしれませんが、もし悪いやつだった場合、こっちが裏切られてもムラのメンバーによる制裁が届きません。だから、とりあえずはみんな危険なやつとみなして排除しておけば安心ということになります。

この方法をとったならば、固定的関係の中にいる限りは、絶対の安心が保障されなければお話の大前提が成り立ちません。それゆえこの場合、「身内を裏切ることは最大の悪」という倫理観が必要になります。そうなると、周囲に対して身内への忠誠心をアピールするよう気を遣うことが自分を有利にします。

しかし、固定的関係の外の人は、もともとすきあらばこちらを食い物にしてくる人ぐらいに思っておけば間違いないわけですので、こっちもすきあらば相手を食い物にすることは、あまり悪とはされません。それで身内のために資するならば、かえって良いこととみなされるかもしれません。

このやり方ならば、いちいち他者の信頼性を見極める努力をしなくていいので、情報コストがおおいに削減されます。しかし、もっと別の人間関係、もっと別の場所ややり方に変えた方がいい場合にも、なかなかいままでどおりの人間関係や場所ややり方を変えることができない欠点を持っています。だから環境の激変に対応できず、メンバーがまくらを並べて絶滅ということもあり得ます。

流動的人間関係の解決

しかし同じくリスクを処理するにも、もう一つ別のやり方があります。それは、危険と思ったら被害がひどくならないうちに、速やかに相手や場所を変えること。あるいはいままでの方法を改めることです。だからこの場合は、常にアンテナを張って相手の人格や技能についての情報をキャッチし、迷惑な相手かどうか見極めることが大切になります。

しかし、逆に言えばこの場合、いままでつきあったことのない相手とも協力しあわなければなりませんので、見知らぬ白紙の状態の人は、とりあえず信頼しないとやっていけません。よそ者も身内もない。だいたいの人間は善良とみなして分け隔てせず、ただ少数の悪人の可能性にはそなえるという態度が必要になります。

この方法をとったのが流動的人間関係の社会システムになります。環境の変化が激しいケースや、情報コストを軽減できる客観的条件がある場合(ex.「IT革命」)には、固定的人間関係の原理よりもこのやり方の方がいいでしょう。環境の激変が起こっても、最悪でも絶滅は免れて、誰かが生き残るでしょう。この場合、場所や相手の変更は悪事ではなくむしろ必要なことです。だから、一旦関係が続いた以上は裏切ってはいけないとする固定的人間関係の原理とは、そもそも出発点から相容れなくなります。

みんな互いの信頼性について見極めあっていますから、他人にちょっとでも不信感を抱かれないようにいつも注意しなければなりません。だから、この原理の社会においては、誰からも信頼されるように、他人にわけへだてなく誠実に振る舞う姿勢を示すことが、常に必要になります。

流動的人間関係のシステムで機能するポジティブ情報

拙著出版後に出た、山岸俊男と吉開範章さんの2009年の共著『ネット評判社会』(NTT出版)では、流動的システムの究極形とも言えるネットオークションの世界で、評判がどのように秩序維持機能を果たすのかを、実験結果を交えて検討しています。

固定的人間関係のシステムでは、先に述べた通り、悪いことをしたら知れ渡って制裁を食らうことが秩序を維持したのでした。ネットオーションの実験では、各被験者のid名を固定するケースがそれにあたります。この場合には、ズルいことをしたら、「ズルいことをした人」というネガティブ評判が自動的に制裁として機能して秩序を維持しました。

しかし、流動的人間関係のシステムではその制裁は機能しません。それにあたるのが、id名が変えられるケースの実験です。ズルいことをしてネガティブ評判がたっても、id名を変えてチャラにできるからです。そうするとこの場合、時間がたつにつれて、ネガティブ評判よりも、「良い取引相手である」というポジティブ評判が不正を防ぐために機能するようになります。ポジティブ評判が取引を重ねて高まっていくことが、一種の資産のようなものになり、公正な取引に努める誘因になるというわけです。

そうすると、流動的社会のただ中で、固定的な関係の人だけにえこひいきしていると、信頼性を疑われ、ホジティブ評判が広まらないことになると思います。えこひいきのない、正直で公正な人の方が、ポジティブ評判が広がって有利になるはずです。

すなわち、固定的人間関係のシステムのただ中で、流動的人間関係の振る舞いをすると、「身内をすぐ見放すやつ」と見られて忠誠心を疑われ、なにがしかの制裁を受けてしまうし、その一方、流動的人間関係のシステムのただ中で、固定的人間関係の振る舞いをすると、信頼できる人というポジティブ評判が広まらずに不利になってしまいます。結局、固定的人間関係のシステムの中では、各自はそれにフィットした振る舞いをし、流動的人間関係のシステムの中では、各自はやはりそれにフィットした振る舞いをして、それぞれのシステムを再生産することになります。

以上の議論を下の図にまとめておきます。

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再び「マグリブ商人vsジェノア商人」

この議論で私が経済学者として思い出したのが、この連載の第5回でご紹介したグライフさんの「マグリブ商人vsジェノア商人」のモデルです。ここでは、マグリブ商人は、ネコババをした現地代理人は商人仲間の誰ももう雇わないようにする仕組みで不正を防いでいました。これは、雇い賃は安くてすむのですが、固定した商人仲間の間で関係が閉じてしまうのでした。

それに対して、ジェノア商人は、現地代理人の雇い賃を高くしてクビになったときの損を大きくすることで、不正を防ぎました。貿易商側にとっては雇い賃が高い分不利なのですが、その代わり、自分たちが入植しなくても新しい代理人を見つけて貿易先を広く開拓できるので、地中海貿易の覇権はジェノアに移ったということでした。ここで、マグリブ商人のシステムが固定的人間関係のシステムで、ジェノア商人のシステムが流動的人間関係のシステムにあたることは言うまでもありません。

ここで、第5回では脚注で触れたのですが、グライフさんのモデル自体の中にはないことなのですが、彼の論文の文章の中では、ジェノア型システムを支えた仕組みとして、司法機関の整備をあげています。私益どうしの争いを公権力が民事裁判で仲裁するわけです。マグリブ型の場合は、不正をした代理人は共同体から「制裁」されることになるわけですが、ジェノア型の場合は、賠償を求められることになるわけです。

「集団のメンバーとしての責任」の根拠

さて、以上のように見ると、二種類の責任概念の違いがどうしてでてきたのかがわかります。

固定的人間関係の場合は、そもそも人間が原因になるリスクは、内部からきれいさっぱり一掃してしまっているのが理想型です。だからそこには自己決定の余地もありません。いつの間にか決まっている各自の役割を、各自が好むと好まざるとにかかわらず果たすことで、リスクなく協力関係が維持されるわけです。各自が自己決定するとしたら、その役割を果たすことから自己利益のために逸脱することでしかなく、それは他のメンバーとっては迷惑なリスク要因になりますから、目に余れば制裁の対象となるわけです。

人間に原因があるリスクは排除されているのが原則ですので、同胞から期待される振る舞いをまじめにしている人が直面するリスクと言えば、天災や病気や不慮の事故や、そこまでいかない様々な不運でしょう。このリスクも固定的人間関係の内部からはなるべくなくすのが理想です。だから、同胞が困っていたら助けてあげる態度が期待されます。その期待が成り立ってこそ、不運に対処したり備えたりするぬけがけをせずに、各自が与えられた役割をまじめにがんばる気になるわけです。

それゆえ、ここにおける責任概念は、自己決定するかどうかにかかわりなく、同胞から期待されている役割を果たし、同胞が困っていたら助ける責任となります。そしてこれが果たせなかったときの責任の取り方は、同胞のそしりをはじめとする制裁を受けるということになるわけです。このような責任のあり方が成り立ってこそ、固定的人間関係内部での協力関係を維持できるわけです。

「自己決定の裏の責任」の根拠

それに対して、流動的人間関係が前提しているのは、もっとリスクに囲まれた世の中です。どんなことをすれば人々のニーズがもっと適切に満たされるのか、どんな人間関係を組み合わせればもっといい仕事ができるのか、事前にはわからない世の中です。

こんなときには、やり方についても、人間関係についても、いろいろやってみるしかありません。いろんな人にいろんなことを思いついてもらって試してもらうのが一番です。その際には、試みが多ければ多いほど正解に近いものが見つかる可能性が高いですから、なるべくたくさんの人に試みに乗り出してもらうほど、人々の厚生を高めることにつながります。

ということは、リスクのあることを思いついてトライすることを、奨励するようにしなければなりません。決まったことから逸脱するリスクに手を染めるのは「悪」だという認定をする仕組みではだめなのです。「定められた役割をはずれずに果たす責任」という責任概念では都合が悪いということです。

しかし、その結果失敗しても尻拭いしてもらえたり、他人に迷惑をかけても補償しなくてよかったりするならば、みんな過剰にリスクの高いことにどんどん手を出してしまいます。だから、結果としての損は決定者が自分ですべてかぶり、他人に迷惑をかけたらきっちり補償する仕組みにして、できるかぎり慎重なリスク計算は各自ちゃんとするようにしむける必要があるわけです。これが「自己決定の裏の責任」ということです。

大事なことは、だからといって、人々がいろいろな試みに手を出すことに水を差してはいけないということです。だから、結果としての損は自分でかぶり、他人に補償を十分にしたならば、人々のそしりをはじめとする制裁の対象とはしないことが必要です。つまり刑事罰の対象としての「悪」とは、次元の違うものとして扱わなければならないのです。

フィットする責任概念が変わった

よく言われるように、戦後高度成長時代の日本企業は、欧米の先進技術と商品を導入して改良すればよく、大きなリスクにはほとんど直面しませんでした。こんなときには、固定的人間関係がメジャーな仕組みで企業を運営することが適切だったと言えます。必要な人材や部品供給者などを見つけることができるかというリスクは、当時の情報技術のもとでは無視できなかったのですが、企業や系列の固定的関係の中に内部化することで解消したのだと言えます。

しかしいつしか日本経済は技術面でも消費スタイルでも世界の最先端に立ち、企業は、次に何をすべきかをお手本なく、自分で決めなければならなくなりました。世界の同時代的な転換としても、グローバル化やIT化等が、固定的関係の外での有利な取引機会を増やすとともに、人々のニーズの多様性や世の中の動きの不確実性を高めています。第5回でも触れましたが、日本企業の従来の固定的人間関係に基づくシステムは転換を余儀なくされていると言えます。

この転換の結果、流動的人間関係に基づくシステムになることは、必ずしも雇用が不安定化することを意味しません。スウェーデンはかなり雇用が流動的な国ですが、それをもって「スウェーデンは解雇自由」などと言うと濱口桂一郎さんが毎度怒ります。大変厳しい解雇規制の国なのです。日本だってそれを目指すことはできます。しかしもちろん、この転換の結果、現実には日本企業の雇用が不安定化してしまう恐れはあるでしょう。

しかし、もっと問題なのは、冒頭の濱口さんのブログのお話にもあるように、中途半端な「悪いとこどり」の対応をしてしまうことです。大きなリスクのない時代には、誰がどんな権限で決めたことかはっきりしないことを、みんな粛々と遂行するのが各自の責任と言っていても問題はなかったでしょう。しかしこれが、決定にリスクがともなう時代になってもなお続いていそうなので困ります。明らかに現場の誰も決定に参与していないのですが、誰かが考えたに違いないこと、しかし誰が決めたのかはっきりしないことを押し付けられます。それを粛々と遂行したあげくマズい結果になってしまったら、真の決定者は誰も責任を取らずに、現場の遂行者が「詰め腹」型の責任を取らされる──こういうことが起こりがちです。

経営側のどこかが決めているならば、はっきりとそう権限と責任を明確にして、現場に責任を及ぼさないようにする。現場に責任を負わせるのならば、それにふさわしい決定権を現場が握るようにする。これが真に必要なことになるわけです。

次回も拙著『商人道ノスヽメ』のテーマについて、引き続き解説します。

(本連載はPHP研究所より書籍化される予定です)

連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

第一回:「『小さな政府』という誤解

第二回:「ソ連型システム崩壊から何を汲み取るか──コルナイの理論から

第三回:「ハイエクは何を目指したのか ―― 一般的ルールかさじ加減の判断か

第四回:「反ケインズ派マクロ経済学が着目したもの──フリードマンとルーカスと『予想』

第五回:「ゲーム理論による制度分析と「予想」

第六回:「なぜベーシックインカムは賛否両論を巻き起こすのか――「転換X」にのっとる政策その1

第七回:「ケインズ復権とインフレ目標政策──「転換X」にのっとる政策その2

第八回:「新スウェーデンモデルに見る協同組合と政府──「転換X」にのっとる政策その3

第九回:「「自己決定の裏の責任」と「集団のメンバーとしての責任」の悪いとこどり

サムネイル「A Panoramic View of the City of Tokyo」Yoshikazu TAKADA

https://flic.kr/p/of8BeX

プロフィール

松尾匡経済学

1964年、石川県生まれ。1992年、神戸大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。1992年から久留米大学に奉職。2008年から立命館大学経済学部教授。

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