高等教育の量的拡大はどのように行われるべきか?

民主党の「大学改革ワーキングチーム」で大学や短大などの修了者を同学年人口の95%にまで増やす計画を含んだ、高等教育の量的拡大を柱とした大学改革の報告書がまとめられ、この計画に4兆円を投入する方針が次期総選挙のマニフェストに盛り込まれる予定である事が7月に公開され、ニュースを賑わした。「大学生は多過ぎるのか、大学に行く価値はないのか?」の記事(https://synodos.jp/education/1336)の中で、大学に行く価値があるのかどうかの議論の方法論を提示し、全体の平均で見ると大学に行くベネフィットが大学に行くコストを上回っているため、大学に行く価値はあるし、大学生は多すぎる事もないと議論した。95%という数字の妥当性はさておき、現状からの高等教育の量的拡大それ自体は必要な事であり、この報告書の方向性は評価されるべきものだと考える。

 

しかし、「大学生は多過ぎるのか、大学に行く価値はないのか?」で議論した内容はあくまでも大学生全体の平均である。大学といっても、国公立・私立・文系・理系・全日制・社会人入学、とその内容は多岐に渡り、それらが如何に雇用や収入につながるか、すなわち如何に学生の人的資本の形成に結びつくのかは、それぞれ大きく異なっている。さらに、その記事中で提示した平均は現在大学で学んでいる学生にとっての平均であって、現状から就学率を増加させる政策を執る事によって新たに大学へ進学するようになる学生にとっての平均とは決して一致するものではない。つまり、「大学生は多過ぎるのか、大学に行く価値はないのか?」の議論は大学の量的拡大を図るという方向性の妥当性は示すものの、いかにして量的拡大をすべきかを議論したものではない。

 

今世紀に入ってからOver Education Theoryが注目を集めている。この理論は、教育が教育を受けた人の生産性を下げる場合もある事を示したものである。つまり、Over Education Theoryは、日本がむやみやたらと大学の量的拡大を図っても、場合によっては新たに大学教育を受けた人達の生産性を上げるどころか下げるだけの結果に終わる可能性がある事を示唆している。

 

そこで、今回は方法論の提示を主な目的とした「大学生は多過ぎるのか、大学に行く価値はないのか?」の内容から一歩踏み込み、大学で学ぶ事が如何に学生の人的資本の形成に結びつくのか、大学の多様性を考慮した議論を行う。もちろん、大学で学んだ事で形成される人的資本がどの程度雇用や収入につながるのかについては卒業時の労働市場の状況も大きく影響するが筆者の扱える範囲を超えるので、大学で学んだ事が如何に人的資本の形成に結びつくのか、すなわち大学で学ぶ価値を教育側の要因に絞って議論を進める。

 

まず2章では大学で学ぶ事が人的資本の蓄積にどの程度結びつくのかを決める要因について、理論的な背景や外国での研究結果を簡単に紹介する。次に、3章でそれらに基づいて現在の日本の大学の状況を概観する。4章では、過去20年間の日本の高等教育の量的拡大の在り方を概観しつつ、なぜ大学生の数が過剰であると言われるようになったのか、その背景も考察する。最後に、今後の高等教育の量的拡大の在り方を議論する。

 

 

大学で学ぶ事の人的資本形成を規定する要因

 

いつ大学へ進学するか?

 

人的資本形成からはやや外れるが、大学をいつ卒業するかは大学教育で形成した人的資本の価値を変化させる要因となるため、ここで少し触れる事とする。高校卒業後直ちに大学に進学した場合と、社会人入学・ギャップイヤー等を経験して高校卒業後数年してから大学に進学した場合では、大学教育で形成した人的資本の価値が異なり、前者の方が金銭的価値が高くなる。これは、下記の図1のように放棄所得の違いと大学卒業後の労働期間の違いによって引き起こされる。図1の黒線は高卒者の賃金、赤線はストレートで大学に入学・卒業した者の賃金、青線は大学に社会人入学した者の賃金である。大学に18歳で入学した場合と社会人で入学した場合を比較すると、水色で塗りつぶされた部分の分だけ社会人入学者は放棄所得が高く、かつピンクで塗りつぶされた部分の分だけ社会人入学者は生涯所得が低くなる。

 

 

(図1)

(図1)

 

 

具体的な数字に触れる事とする。厚生労働省の賃金構造基本統計調査のデータを用いて男性が18歳と25歳で大学へ進学した場合を比較すると、高卒男性が18歳から4年間で稼ぐ金額は約878万円であるが、高卒男性が25歳から4年間で稼ぐ金額は約1290万円に達し、その差は約412万円となる。この412万円が上記の図1で水色で塗りつぶされた部分となる。大学卒業後の労働期間についても、ストレートで大学に入学・卒業し、何事もなく62歳まで働けたとすると、大学教育のベネフィットを享受できる期間は41年間となる。これに対し、社会人入学した場合、大学教育のベネフィットを享受できるのは34年間となり、前者と比べて大学教育のベネフィットを享受できる期間が20%近くも短くなる。この20%が上記の図1でピンク色で塗りつぶされた部分となる。

 

このように、大学に進学するのが遅くなればなるほど、大学で学ぶための放棄所得も大きくなり、かつ大学で教育を受けたベネフィットを享受出来る期間が短くなるため、大学教育で形成された人的資本の価値が小さくなっていく。

 

社会人入学をすると、高校卒業後直ちに大学進学した場合と比べて大学教育で形成した人的資本の金銭的価値がどれぐらい落ちるのか? という研究は、社会人入学の割合が最も高い国の一つであるスウェーデンで盛んに行われている。それらの研究結果を紹介すると、1)30歳以上であったとしても、大学を卒業する事によって賃金も上昇するし、失業するリスクも減少する、2)社会人入学については、賃金が高かった者よりも低かった者の間で、男性よりも女性の間で、その効果が大きい、3)大学に行くのが1年遅れる毎に、30歳の時の賃金が約3%減少する、と言った事が明らかとなっている。さらに、ギャップイヤーの経験年数と生涯収入の減少額の関係については下記の表1で示している。

 

 

(表1)

(表1)

 

 

大学で何を学ぶか?

 

人的資本の形成に話を戻すと、大学で学ぶ内容も人的資本の形成に影響を与える。日本のメディアでも「理系vs文系年収比較」といったテーマが取り上げられて盛り上がる事がしばしばあるが、これはゴシップ記事としての価値は高いのかもしれないが、政策的示唆を持つものではない。まず、ネット調査や特定の人材サービス会社に登録している人材を調査対象とするなどサンプルに偏りがありすぎるし、それに加えてもともと優秀でかつ家庭環境が良い人物が特定の学部へ進学している影響を考慮していない。さらに、特定の学部の教育の質が他学部よりも良い可能性、ある学部の卒業生が収入の良い業界に固まって就職している可能性、も存在する。

 

この分野で政策的示唆を得るためには、大学で学ぶ内容が人的資本の形成に与える影響からこれらの影響を取り除き、大学で何を学ぶ事がより人的資本の成長につながるのかを知る必要がある。

 

ここでは大学で学ぶ内容が人的資本の形成に与える影響について、各国での研究結果の一部を簡単にご紹介したい。下記の表は、国別にある特定の学部の卒業生と比較して別の学部の卒業生の収入が何%高い/低いのか、それとも収入に差があるとは言い切れないのかを示している。例えば下記の表2を見ると、イギリスでは経済学部卒業生の年収は、物理学部卒業生と比較して5.6%高いが、ビジネス系学部の卒業生の年収は物理学部卒業生の収入と比較して差があるとは言い切れず、歴史・哲学系卒業生の年収は物理学部卒業生の収入と比較して6.9%低い事を示している、といったものである。

 

 

(表2)

(表2)

 

 

(表3)

(表3)

 

 

上記の一連の図で紹介した研究結果もそのような傾向を示しているが、この分野の他国の研究結果を参照しても、質的なものを扱った系統を学ぶよりも、統計や数学といった量的なものを扱った系統を学ぶ方が、より人的資本の形成につながる傾向がある。具体的には、工学部・理学部・経済学部といった系統が人的資本の形成につながりやすい一方で、総合系・体育・芸術系・社会科学系・人文科学系といった系統は人的資本の形成につながりづらい傾向が各国で存在している。

 

医学部(特に公衆衛生系統)・教育学部については、卒業生の多くがヘルスワーカーや教師といった公務員になるため、そもそも賃金が市場原理によって決まるわけではない上に、各国の公務員給与が民間と比較して高いか低いかによって大きく左右されるため、上記で紹介した学部ほどには各国で一貫した傾向が確認できない事も記しておく。

 

 

 

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