2016.10.26

アーキテクチャによる自由と規制は表裏一体である

『表現の自由とアーキテクチャ』著者、成原慧氏インタビュー

情報 #「新しいリベラル」を構想するために

日々新しい問題が生み出されていくネット社会。見えない監視にどう向き合うか、著作権侵害はどう防げるか、性表現はどう扱うべきか、忘れられる権利はあるのか――。そうしたさまざまな場面の規制を考える際、不安や期待とともに「アーキテクチャ」が口の端に上がります。しかし、見えないところで機能してしまう規制方法でもあり、従来の「表現の自由」論と同じ地平で議論できるのか、もやもや感じることも。

アーキテクチャとはいかなる権力なのか、表現の自由はなぜ保障されるのかといった原理的な考察を、アクチュアルな問題に接合させる議論として『表現の自由とアーキテクチャ』にまとめた成原慧さんに、本書のポイントや背景をうかがいました。(勁草書房編集部)

面白くて役に立つ!? インフォマティブな議論

――ノーベル賞を受賞された大隅先生の発言をきっかけに、学問は「役に立つ」べきか、それとも「面白さ」を追求すればよいのかといった問題が話題になっていますが、実は、『表現の自由とアーキテクチャ』の原稿を読み終わってまず「これ、なんか面白くて、役に立つ!」と感じたんです。ちょっと曖昧な言い方ですけれど。

駆け出し研究者による初めての単著で、比較法や学説史的研究が中心の学術色が強い本なので、面白かったとしても、そんなにすぐには役に立たないと思いますけれど、そう言っていただけると嬉しいですね。ありがとうございます。

――成原さんに届いた反応ではいかがですか?

たしかに、読者の方からも役に立つという感想をもらいました。例えば、知財・コンテンツ法分野で活躍される弁護士の方や、情報通信に関する法制度を調査されている国会図書館職員の方が、理論的な面白さを感じるだけでなく、手元に置いて何度も参照したいと言ってくださったんです。

この本では、「表現の自由」と「アーキテクチャ」について、情報法、憲法学、法哲学、さらには社会科学の議論を参照して理論的に検討すると同時に、性表現のフィルタリング、著作権の技術的保護、ネット監視、忘れられる権利などアクチュアルな問題に即して、幅広く多面的に論じたので、知的好奇心旺盛な実務家の方にも価値を見出していただけたのかもしれません。

――実務畑の方が役立つというのは、「インフォマティブ」でいろいろ刺激を受けたということなのかもしれませんね。

この本の学際的な性格を反映してなのか、法学だけでなく、社会学や政治学などいろいろな分野の方が手にとって読んでくださいました。基本は情報法の本ですが、そうした多分野の方々から、「面白い」という反応をいただけたのは、望外の喜びです。

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制約もし、可能にもする、両義的なアーキテクチャ

――なるほど。おそらく、その要因にはタイトルの「アーキテクチャ」がありますよね。成原さんはどういう意味で使われたんですか? 建築……、ではないんですよね?

はい、もともとは「建築」という意味で古くから使われてきた概念ですが、近年ではコンピュータやネットワークの構造も「アーキテクチャ」と呼ばれるようになっています。こうしたアーキテクチャ概念の変遷・展開を踏まえて、アメリカの法学者ローレンス・レッシグが物理的・技術的手段による規制という意味で、アーキテクチャ概念を再構成しました。そこから情報法を中心に、さまざまな分野で「新たな権力としてのアーキテクチャ」による規制が論じられるようになりました。

そういった議論状況を踏まえて、私は本書でアーキテクチャを「何らかの主体の行為を制約し、または可能にする物理的・技術的構造」(12頁)と定義しています。

ここでのポイントは「制約する」と「可能にする」の両面性です。ともすれば、新たな権力としてアーキテクチャが語られるとき、フィルタリングやブロッキングのように、個人の自由を規制する手段としての側面が強調されがちです。しかし、反面で、アーキテクチャには、個人の行為を可能にする側面もあります。

たとえば検索エンジンというアーキテクチャがあって、検索という行為が可能になる。さらにいえば、インターネットのインフラストラクチャに支えられて、インターネット上で情報を発信や収集をする自由が構成される。そして重要なのは、アーキテクチャによる自由の構成と規制は表裏一体の関係にあるということです。つまり、今日の情報社会において、われわれの自由はインフラに依存しているからこそ、そのインフラを通じて規制されるようにもなっているわけです。

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原理的な問題とアクチュアルな問題を往復する情報法

――その「アーキテクチャ」と「表現の自由」をつなげて、テーマにしたきっかけは?

アーキテクチャに関心をもったきっかけは、『コード』をはじめとするレッシグの著作、また、それを受けて日本で展開された批評家の東浩紀さんや法哲学者の大屋雄裕先生らによる学際的な議論に接して、知的刺激を受けたのが大きいですね。

もともと勁草書房さんが出版されているような言語哲学、法哲学、理論社会学などの本を愛読する変わった学生だったこともあり(笑)、アーキテクチャという新たな権力の浸透によって、個人と国家は解体されてしまうのか、そうだとすれば、自由や民主主義といった近代社会の基本原理はどのように変容していくのかといった、原理的・哲学的な問いに惹きつけられたんです。

そうした問題意識をもちながら、東京大学の大学院学際情報学府に進学して、アーキテクチャ論について学際的な研究を試みようと思ったのですが、しだいに、アーキテクチャにもさまざまな種類・性質のものがあり、アーキテクチャが用いられる具体的な場面に即してアーキテクチャが提起する問題を分析していくことが必要なのではないかと考えるようになりました。

当時、アーキテクチャと自由の関係がもっとも先鋭的な形で問われる場面が、インターネット上の表現の自由、プライバシー、著作権などの法的問題だと考え、大学院では情報法を専攻することにしました。本の「あとがき」にも書きましたが、原理的な問題とアクチュアルな問題とを往復しながら、議論を構築していくところに情報法の魅力を感じました。

――プライバシーや著作権などではなく、表現の自由に焦点を当てたのはなぜですか?

アーキテクチャとの関係が問題となりうる各種の権利・自由のなかでも、表現の自由に焦点をあてた理由は2つあります。

第一に、インターネット上でアーキテクチャによって規制されるのは、情報の発信・流通・受領に関する行為であり、なんらかの形で表現の自由が関わってくることが多い。たしかに、アーキテクチャによるプライバシーや著作権の保護も重要なテーマですが、それらもやはり表現の自由との関係で問題となることが少なくない。表現の自由という切り口は、インターネット上のアーキテクチャと自由の関係について包括的に論じる手がかりになりそうだと思いました。

第二に、日本や米国をはじめ多くの立憲民主国家において、憲法上保障された権利・自由の中でも表現の自由は、民主主義のプロセスに不可欠であり、また、個人の自律とも密接に関わるため、とりわけ重要視されてきました。つまり、アーキテクチャと表現の自由の関係に着目することを通じて、アーキテクチャが個人の自律や民主主義といった近代社会の基本原理にいかなる挑戦をしているのか明確にできるのではないかと考えたのです。

アーキテクチャ論から初期レッシグへ

――これまでのアーキテクチャ論とは異なる、この本のポイントは何ですか?

従来の日本の議論では、アーキテクチャという不可視の権力により、近代的な個人が解体され、理性的な議論に基づく民主主義が成り立たなくなり、人間は動物として統治されていくようになる、といった論調が強かったのではないかと思います。

私は、そのような時代診断に一定の説得力を感じつつも、それを相対化し、表現の自由という切り口から、情報社会において自律的な個人と理性的な議論に基づく民主主義の可能性を再構築しようという問題意識からこの本を執筆しました。

実際、私たちは「アーキテクチャ」概念と「アーキテクチャ論」を通じて、さまざまなアーキテクチャによる自由やプライバシーの制約を明らかにし、ある程度はアーキテクチャの統御を図れるようになっています。このことが示唆しているように、表現の自由は、アーキテクチャによって一方的に規制されるだけではなく、むしろ、公共的な議論を通じて、アーキテクチャが有する問題を可視化し、それを法的あるいは民主的に統御することを促す可能性も秘めているのではないでしょうか。

――そういう視点を取りつつ、なかでもレッシグの初期の議論に着目された点がおもしろいですよね。『コード』や『コモンズ』が有名ですが、なぜ初期に注目されたんですか?

『コード』以降のサイバー法や著作権の議論ももちろん面白いのですが、それ以前の論文も読んでみると、なかなか刺激的なんですよ。

レッシグの学者としての軌跡も興味深いんです。レッシグは、イェール大学というリベラルな学風のロースクールで、批判法学やブルース・アッカーマンらの影響を受けつつ法学を修めた後、連邦控訴裁のリチャード・ポズナー判事の下で、続いて最高裁のアントニン・スカリア判事の下でロークラークを務めます。

スカリアは、憲法制定時の理解に即して憲法を解釈すべきだとする原意主義を支持してきたのに対して、ポズナーは、法制度を経済学的に分析し、リバタリアン的な法・政策を志向するシカゴ学派の法と経済学を牽引しており、方法論的には大きく異なるのですが、2人は現代アメリカを代表する保守派の裁判官として知られています。

レッシグは、彼らの議論を継承しつつも内在的に批判して、いわば脱構築し、「翻訳」や「新シカゴ学派」というアプローチを提示します。そうした中で、経済学や社会学といった社会科学の知見を取り入れて法学のあり方を問い直すとともに、ソ連崩壊後の東欧において立憲主義への移行のための法整備支援に携わるなど、学問と実践を行き来して、理論を構築するんです。

さまざまな方法論や政治思想がせめぎ合う現代アメリカ法学のダイナミズムの狭間で、一見アクロバティックに見えつつ、根底では一貫性のある理論を作り出していくところに魅せられました。

――なるほど。その中でも注目したのが……。

本書のキーワードの一つである「翻訳」です。レッシグは、憲法の元来の意味を維持するためには、技術の発展や社会意識の変化などコンテクストの変化に即して憲法の条文を読み替える「翻訳」が必要だと主張します。

このように、翻訳という方法論は、原意主義というアメリカ憲法学に特有の解釈方法論から出てきたものです。しかし、規範の意味の同一性を維持し、機能の等価性を確保するために、コンテクストの変容に即してテクストを読み替える方法論として普遍化すれば、翻訳は、原意主義を採用するか否かにかかわらず、役立つ示唆を与えてくれるように思います。

最先端の表現規制と伝統的な表現規制との意外な共通点

――その翻訳という方法論を用いると、アーキテクチャは、表現の自由論にどのようなインパクトを与えたといえるんでしょうか?

一つ例を挙げます。伝統的な表現の自由論では、英国で行われていた出版免許制のように、思想が市場に現れる前に公衆に見えない形で広汎に抑制されることが、何よりも警戒されてきました。米国憲法をはじめとする近代憲法が制定された際の表現の自由は、まず何よりも検閲や事前抑制からの自由を意味していたんです。

20世紀の中盤になると、米国の最高裁は、表現の自由を事後規制からも保障しようとするようになります。その手がかりとなったのが萎縮効果という概念です。すなわち、メディアが事後規制を予期して、萎縮して自己検閲することで、検閲に相当するような制約効果がもたらされる。このような心理的・社会的効果に着目して、事後規制も厳格に審査されるようになっていきます。

現代の表現の自由の法理の多くは萎縮効果という概念を頼りに形成されてきたといっても過言ではありません。今日のアメリカのNSAによるネット監視などでも、表現の自由への萎縮効果は依然として無視できない問題です。

一方で、フィルタリングやブロッキングのように、アーキテクチャが情報の流通を事前に見えない形で広汎に抑制することが新たな問題となっています。このような問題は、伝統的な表現の自由論でもっとも警戒されていた検閲や事前抑制と通底する側面があります。

――最先端の表現規制と伝統的な表現規制が実は共通の問題を抱えているというのは意外な発見ですね。

もちろん、裁判所による出版の差止めのような古典的な事前抑制と現代のアーキテクチャによる事前抑制とは、少なからず構造・性質・効果が異なります。

例えば、古典的な事前抑制が国家による表現の送り手に対する直接規制だったのに対して、今日のアーキテクチャによる事前抑制は、アーキテクチャを設計・監理する媒介者を通じて間接的に行われるようになっています。こうした表現規制の構造・性質・効果の変容に即して伝統的な法理を再構成する上でも、翻訳という方法論は有用な手がかりを与えているように思います。

守るべき価値は何なのか――技術の発展と規範の起源を行き来しながら考える

――一方で、私たち自身が価値選択を行う必要性も強調されていますよね。

なぜなら、技術の発展は、それだけで私たちの社会の進むべき方向を決めたりはしないからです。技術の発展によって社会の進む方向が決まると考えるのが技術決定論だとすれば、この本はそのような見方をとりません。他方で、社会のあり方が技術の発展による影響から無縁でいることもできません。技術の発展は、社会のあり方を一義的に決めないとしても、社会のあり方を問い直すきっかけを与えます。

そうしたときに手がかりとなるのが、先ほどお話しした翻訳というアプローチですが、翻訳にも不確定性が伴います。例えば、アメリカ憲法の修正1条は「言論の自由」とともに「プレスの自由」を保障しています。プレスの自由は、「出版の自由」や「報道の自由」と訳されることがあるように、長らく新聞社のような報道機関を制度として保障しているという理解が有力でした。報道機関という第4の権力を保障することにより、国家権力に対して外からの抑制を図るのがマディソンら建国者の意図だと考えられてきたのです。

ところが最近では、情報通信技術の発展を踏まえ、プレスの自由を技術の自由として捉え直す見方も提示されています。憲法制定時には、大規模な新聞社や出版社は存在しておらず、無数の政治家や知識人が印刷機(printing press)を利用してパンフレットを印刷し、配っていたはずではないかと。だとすれば、プレスの自由は、特定の制度を保障するのではなく、すべての人が表現活動を伝うために必要な技術を利用する自由として理解されるべきだというのです。

このように「プレスの自由」の起源に遡ってみても、プレスのあるべき姿を決めてはくれませんが、情報社会に生きる私たちに対照的な選択肢を示してくれます。インターネットで誰もが情報を発信できる今日の社会でも、新聞社のような報道機関は、依然として民主主義に不可欠な公共性の高い情報を選別し提供する役割を期待され、「プレスの自由」の名の下に特権を保障されるべきなのか。

それとも、誰もが自由に情報を発信し享受できるように、かつての印刷機に相当する役割を果たす検索エンジンやソーシャルメディアのような情報通信技術を利用する自由こそ現代の「プレスの自由」として保障されるべきなのか。

プレスの自由の理解一つとっても、究極的には、私たちがどのような社会のあり方を望んでいるのかという問いにつながっていきます。技術の発展をきっかけに、規範の起源に遡り、それがもともと守ろうとしていた価値を問い直し、われわれが取りうる選択肢を提示すること。それがこの本の目指すものです。

情報法か、憲法か、情報社会か、はたまた建築か

――誰に本書を読んでもらいたいですか?

インターネット上の先端的な法的問題を扱っている本なので、まずは、やはり、情報法・政策にかかわる弁護士、公務員、企業法務関係者、研究者、大学院生・学生の方々に読んでいただきたいですね。

そして、大学院生の頃から、学際的な環境の中で、いろいろな分野の方と議論しながら研究してきた結果として出てきた本でもあるので、アーキテクチャについて関心をもっている人文科学・社会科学から理工系まで、さらに、情報社会における自由や民主主義のあり方に興味をもっている読書人の方にも広く届いてほしいです。

この本、書店によって置かれている場所がいろいろなんですよ。東京駅の丸善では情報法のコーナー、池袋のジュンク堂では憲法のコーナー、アマゾンでは情報社会のカテゴリー、さらに友人の弁護士が見つけてくれたんですが、札幌の大手の本屋さんでは建築コーナーにあったとのこと。まさに、アーキテクチャ論の起源である建築の領分に戻っていった(笑)。

著者としては、こうした「誤配」も含めて、さまざまな分野の方に本書が届いて、読んでもらい、フィードバックを頂けるとありがたいですね。アーキテクチャと自由のあり方については、法律家だけではなく、各分野の専門家、そして市民が広く参加して、熟議し、価値選択を行っていくべきで、そのためにも表現の自由は不可欠なのだ、というのがこの本の核にあるメッセージでもありますので。

――今後の研究、次回作への抱負をお聞かせいただけますか。

最近はお仕事の関係でAIに関する法的・倫理的問題について研究していることもあり、次はAI、IoT、ビッグデータに関する法的問題について原理的な視点を交え論じることができればと思っています。

IoTにより現実世界とサイバースペースが融合し、AIにより「自律的」な判断・動作が行われ、ビッグデータ分析により個人の判断・行為が先取りされる将来の社会において、表現の自由やプライバシーをはじめとする人権と、その根底にある個人の自律や民主主義といった近代社会の基本原理をいかに翻訳し、法制度やアーキテクチャへと実装していくべきなのか、すぐに答えるが出るような問いではないと思いますが、じっくりと考えていきたいと思っています。

プロフィール

成原慧情報法

1982年生まれ。九州大学法学研究員准教授。専門は情報法。表現の自由、プライバシー・個人情報保護、人工知能・ロボットに関する法的問題について研究している。主著に、『表現の自由とアーキテクチャ』(勁草書房、2016年)、『アーキテクチャと法』(共著、弘文堂、2017年)、『ナッジ!?自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』(共著、勁草書房、2020年刊行予定)など。

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