2015.11.24

「中東のパリ」で何が起きているのか――2015年11月12日のベイルートのテロ事件を考える

末近浩太 中東地域研究 / イスラーム政治思想・運動研究

国際 #テロ事件#ベイルート

もしパリであの凄惨な同時多発テロ事件が起こらなかったら、大きな関心を集めることなく忘れ去られていたかもしれない。いつものように。

2015年11月12日の夕方、レバノンの首都ベイルートを襲った爆弾テロは、43人もの一般市民の命を奪った。負傷者は少なくとも239人、大惨事であった。しかし、世界の目は翌日のパリに注がれ、ベイルートの事件は話題から消えていった。

意外だったのは、その後である。パリ市民あるいはフランス国民に対して世界中から追悼が寄せられるなか、SNSを中心に「中東では同じようなことが毎日のように起こっている」、「中東の現実にも目を向けよ」といった声が上がるようになった。その結果、前日のベイルートの事件は再び脚光を浴びることとなり、ベイルート市民やレバノン国民への祈りが捧げられるようになった。

ベイルートだけではない。同じようにテロに遭ったバグダードやダマスカスに暮らす人びとへの連帯や団結の声も見られた。パリの事件は、暴力の拡大が止まないこの残酷な現代世界において、普遍的な共感を呼び起こすきっかけとなったのかもしれない。

パリだけを特別視するのはフェアではない、ベイルートを忘れるな。こうしたメッセージは正しい。しかし、連帯や団結といった心情こそ発散すれども、実際にベイルートの現状に目を向けた人はどれほどいたのだろうか。そうしたメッセージに十分に応えたメディアがどれほどあったか。

本小論では、ベイルートという街で何が起きているのか、なぜ狙われたのか、少し詳しく論じてみたい。

「テロの街」のイメージ

ベイルートには、「テロの街」としてのイメージがつきまとう。米国の映画やテレビドラマ、たとえば「スパイゲーム」(2001)、「シリアナ」(2005)、「ミュンヘン」(2005)、最近では「ホームランド」(2012〜)などでも、ベイルートはテロリストが巣くう危険な街として描かれてきた(レバノンの観光大臣が「ホームランド」でのベイルートの描写に抗議するということもあった)。こうしたイメージが、ベイルートのテロ事件への無関心の原因の1つになっているかもしれない。テロが起きても、「やっぱり」「またか」というわけである。

ただし、こうしたイメージは無根拠なわけではない。実際にベイルートではテロが繰り返されてきた。レバノン内戦(1975〜90年)中には主に西洋人を狙った誘拐事件や爆弾テロが頻発し、内戦終結後も要人の暗殺がたびたび起こってきた。たとえば、2005年からの10年間で20件以上のテロ事件が発生しており、ラフィーク・ハリーリー元首相を筆頭に10人以上の政治家やジャーナリストが殺害されている。その他、ターゲットが明らかでない無差別な爆弾テロもたびたび発生している。

確かに、ベイルートは「テロの街」かもしれない。しかし、ここで強調しておきたいのは、イメージ先行の慣れと思い込みが、無関心だけではなく、思考停止をも引き起こすことがある、ということである。言うまでもなく、テロの原因も結果も決して一様ではない。

今回のテロ事件にも個別の背景がある。

ダーヒヤという場所

まず、事件が起こったのは、ベイルートのなかでも「ダーヒヤ」と通称される、南部の郊外に広がる面積約16平方キロメートルの地域であった。狙われたのは、このダーヒヤを構成する12の街区の1つ、ブルジュ・バラージュナ街区であり、ベイルート国際空港のすぐ北隣に位置する。

ダーヒヤはいわばスラム街であり、住民の大多数はシーア派のイスラーム教徒、そして、パレスチナ難民である。近年では、イラクやシリアからの難民も増えている。ダーヒヤの北端から市中心部までの距離は2キロ程度、廃材で建てられた家々が密集するパレスチナ難民キャンプから20分も歩けば、欧米高級ブランドのブティックが軒を連ねる市中心部のきらびやかな繁華街ダウンタウンに出る。そして、高層リゾートマンションが立ち並ぶ先には、美しい地中海の水平線が広がっている。ベイルートは、表と裏、明と暗、富と貧、新と旧といった大都市特有のグロテスクなコントラストに満ちた街である。

ベイルートは、20世紀半ばには金融業と観光業を二本柱とする独自のレッセフェール経済によって空前の繁栄を謳歌し、「中東のパリ」と称えられた(実際にレバノンはフランスの植民地の1つであった(1920〜43年))。しかし、1975年に始まった内戦によってベイルートは徹底的に破壊され、隣国のイスラエルやシリアによる軍事侵攻・占領を受けることでレバノンの国土も荒廃した。1990年に内戦が終息した後は、中東における金融・サービスの集積地としての地位を取り戻すべく、ダウンタウンを中心にめざましい復興を遂げてきた。

 

ダーヒヤは、このようなベイルートの輝かしい歴史に置き去りにされてきたような場所である。ダーヒヤはもともとアラビア語で「郊外」を意味する一般名詞であるが、レバノンではスティグマ化(烙印を押されること)された事実上の固有名詞となっている。ダーヒヤは、その外に住む者たちにとっては「シーア派」、「貧困」、「無法」、「低開発」などの言葉によってネガティブなイメージを想起させる場所である。

だが、今日のダーヒヤの特徴を最も表わしている言葉は「ヒズブッラー」であろう。ヒズブッラー(ヒズボラ)とは、レバノンのシーア派住民に巨大な支持基盤を持つイスラーム主義組織・政党のことである(注)。ダーヒヤは、現在、彼らの実効支配地域となっており、欧米のメディアでも「ヒズブッラーの牙城(stronghold)」と称されることが多い。

(注)ヒズブッラーについては、末近浩太「ヒズブッラーとは何か:抵抗と革命の30年」SYNODOS, 2014年2月14日を参照されたい。)

ダーヒヤに一歩踏み入れると、いたるところに掲げられているヒズブッラーの党旗や指導者ハサン・ナスルッラー書記長の写真が目に入ってくる。ここには、ヒズブッラーの本部があり、林立するアパート群には幹部たちの住処が点在している。路上では黒色の軍服を着たヒズブッラーの治安要員が人びとの往来に目を光らせる。ダーヒヤは「よそ者」が気軽に入れる場所ではない。

ヒズブッラーは、ベイルートの繁栄の陰で、低開発と行政の麻痺に苦しんできたダーヒヤの住民に対して過去30年以上にわたって様々な社会サービスを提供してきた。そのサービスは、医療、福祉、教育、社会開発、雇用対策、環境保護、治安維持、交通整理、戦災復興、報道・出版などありとあらゆる分野におよぶ。ヒズブッラーがしばしば「国家内国家」と呼ばれるゆえんである。ダーヒヤは、まさにその「国家」の中心地であった。(注)

(注)ダーヒヤにおけるヒズブッラーの社会サービスの詳細については、末近浩太『イスラーム主義と中東政治 レバノン・ヒズブッラーの抵抗と革命』(名古屋大学出版会, 2013年)の第7章を参照されたい。

誰が狙われたのか

2015年11月12日夕方、買い物客や家路を急ぐ人であふれかえるダーヒヤの一角、ブルジュ・バラージュナの青空市場で1人の男が自爆した。炎、煙、土埃、ガラスの破片、血、悲鳴。その約5分後、現場から約150メートル離れた場所で、負傷者の救助のために駆けつけた住民を狙って、もう1人の男が自爆した。

爆発の直後に撮影された映像からは、2つの爆弾の威力の凄まじさがうかがえる。現場周辺の4つのビルが損壊したという。レバノン国営通信は、このテロ事件の死者は43人、負傷者は少なくとも239人と報じた。また、自爆を決行する前(不発の可能性もあり)に2人目の爆発に巻き込まれてよって死亡した3人目の犯人の遺体も見つかった。

犯行声明は、その日のうちに文書のかたちでTwitter上に出回った。名義は「イスラーム国・レバノン」。ダーイシュのレバノンにおける細胞という意味である。文書では、今回の攻撃の目的がシーア派への復讐であるとし、「ラーフィダであるヒズブ・アーラートの拠点」(注)でそれが実行されたと述べられていた。そして、自爆犯たちは「カリフの兵士、殉教の騎士」と称えられ、今後も同様の攻撃が続くとの脅迫で結ばれていた。

(注)ラーフィダは、シーア派の蔑称。ヒズブ・アーラートは、ヒズブッラーのことを指す。ダーイシュなどの過激派は、ヒズブッラーの名称にアッラーが含まれていることを嫌い、アーラートに置き換えることが多い。

こうした信奉する宗派の違いだけを理由に他者を排除したり攻撃したりする言動、すなわち俗に言う「宗派対立」を煽るような言動は、レバノンのみならず中東において「宗派主義」と呼ばれ、タブー視されている。人間の属性に基づく硬直した敵味方の二項対立的世界観は、レイシズムのそれと同じである。ダーイシュをはじめとする一部の過激派は、この「宗派主義」を原動力に武装闘争やテロを繰り返してきた。そのため、シーア派住民が多く集まるダーヒヤは、これまでも繰り返し過激派のテロのターゲットにされてきた。

●2013年7月9日 ビール・アブドでの爆弾テロ(負傷者53人)、「自由シリア軍」の一派を名乗るグループによる犯行声明

●2013年8月15日 ルワイスでの爆弾テロ(死者21人、負傷者336人)、「信徒たちの母アイーシャ大隊」による犯行声明

●2013年11月19日 ビール・ハサンのイラン・イスラーム共和国大使館近くでの爆弾テロ(死者23人、負傷者146人)、「アブドゥッラー・アッザーム旅団(アル=カーイダ系)」による犯行声明

●2014年1月2日 ハーラ・フライクの路上での爆弾テロ(死者6人、負傷者66人)、犯行声明なし

●2014年1月21日 ハーラ・フライクの路上での爆弾テロ(死者4人、負傷者46人)、「ヌスラ戦線(アル=カーイダ系)」による犯行声明

●2014年2月19日 ビール・ハサンのイラン文化センターでの2度の爆弾テロ(死者5人、負傷者160人以上)、「アブドゥッラー・アッザーム旅団(アル=カーイダ系)」による犯行声明

●2014年6月23日 タユーナのカフェでの爆弾テロ(負傷者15人以上)、犯行声明なし

 

こうしたテロが起こるたびに、ヒズブッラーはダーヒヤの警備を強化し、住民の不安を取り除こうとしてきた。たとえば、2014年1月の爆弾テロ事件の直後に筆者がダーヒヤの調査に訪れたときは、時限型の車載爆弾への対応策として、住民以外の車の路上駐車を防止するためのフェンスが主要道路に敷設されていた。また、何カ所もの検問所が設けられ、ヒズブッラーの治安要員がダーヒヤに出入りする車を念入りにチェックしていた。

つまり、ヒズブッラーの治安対策によって、ダーヒヤでは最高度のセキュリティが確立されていたのである。にもかかわらず、シーア派住民が集住している「ヒズブッラーの牙城」であるとの理由から、ダーイシュはあえて厳戒体制下のそこを狙ったのであるだといえる。

ここで留意しておかなくてはならないのは、ダーヒヤの住民にも様々な宗派や政治的立場があるという、当たり前のことである。事件に巻き込まれた人びとがすべてシーア派ないしはヒズブッラーの支持者であったかといえば、そうではないだろう。「シーア派だから」、「ヒズブッラーだから」という観点は、あくまでもダーイシュの動機を説明するときにのみ有効となる。

こうした観点を、言い換えれば、ダーイシュの世界観を通して現実を見ることは危険である。それは、ダーヒヤの住民の宗教的・政治的信条の多様性を無視するだけでなく、「シーア派信徒だから、ヒズブッラー支持者だから、狙われたのは仕方がないことだ」といった見方につながりかねない。事実、SNS上では、事件の被害者たちを「テロ組織であるヒズブッラーのメンバーや支持者」と決めつけ、彼ら彼女らの殺害を歓迎するような投稿も見られた。しかし、宗教、宗派、政治的立場がいかなるものであろうと、パリとベイルート、そして世界のどこであろうとも、人の命の重みに違いはない。

「テロとの戦い」の代償?

今回のベイルートでのテロ事件にはまだ不明な点も多く、全容解明には当局による捜査の進展を待つ必要がある。内務地方行政省の発表では、これまで(18日)に事件への関与の容疑で9人が逮捕されている。そのうちレバノン在住者は2人で、残りの7人はシリア出身者だという。さらに、事件が犯行声明どおりダーイシュによるものだったとすれば、やはりそこにはシリアの存在が浮かび上がる。

シリアとレバノンは、フランスの植民地時代に画定された国境線に沿って現在の国が創られる以前は、歴史的に1つの地域を形成していた。1つの家族が両国にまたがって暮らすなど、今日でも社会的・経済的・文化的なつながりは強い。そのため、2011年からのシリア「内戦」がレバノンに波及するのは時間の問題と見られていた。

2013年の半ば以降にレバノンへのテロ攻撃が増加した背景には、シリア「内戦」の泥沼化、特に過激派の台頭があったことは間違いない。だが、それと同時に、ヒズブッラーが独自の「テロとの戦い」を掲げ、シリアへの軍事介入に踏み切ったことを見逃すことはできない。

ヒズブッラーは、2013年5月、長年の同盟者であるバッシャール・アサド政権を軍事的に支援するために、シリア領内に軍事部門を展開させていることを公式に認めた。兵力2000〜4000人と推計されたヒズブッラーの部隊は、シリアの各地で反体制諸派や過激派と激しく交戦した。レバノン政府はシリア「内戦」の国内への波及を防ぐために非介入の原則を打ち出したが、国内の様々な政治勢力のなかで、ヒズブッラーだけが独断で「内戦」への介入に踏み切った。

今回のベイルートでのテロ事件の犯行声明には、ヒズブッラーのシリア介入への言及はなかった。しかし、ヒズブッラーがシリアへの派兵を公式に認めた2013年5月以降に一連のテロ事件が始まったのは、決して偶然ではないだろう。ダーイシュや類似の思想を持った他の過激派グループとヒズブッラーが衝突を繰り返すことで、「ヒズブッラーの牙城」であるダーヒヤも「戦場」に飲み込まれていったのである。

そのため、レバノン国内では、ヒズブッラーのシリア介入こそがダーイシュによるテロを招いた原因であるといった批判がある。その一方で、ダーイシュの脅威は遅かれ早かれレバノンを襲ったとし、強大な軍事力と高い士気を持ったヒズブッラーがいなければ事態はいっそう深刻なものになっていた、という見方もある。

こうしたダーイシュに対する軍事作戦の有効性については、レバノンだけではなく、今まさにフランスをはじめとする米国やロシアなど関係各国の対シリア政策における争点となっている。フランスは、反アサド陣営の急先鋒であるため、親アサド陣営のヒズブッラーとは対立する立場にある。しかし、レバノンもフランスもダーイシュと戦いの最前線にあり、また、それゆえに自国が過激派によるテロの脅威に晒されている点では共通する。

今回のベイルートのテロ事件は「レバノン内戦終結以降、最悪」、パリの事件は「第二次世界大戦後、最悪」だとされ、両都市とも「最悪」を更新してしまった。繰り返されるテロの悲劇を終わらせるために必要なのは、ダーイシュに対する軍事作戦の拡大でも自国内での過激派の取り締まりの強化でもなく、結局のところ、シリア「内戦」の一刻も早い政治的解決だけなのかもしれない。

サムネイル「Beirutcity」Yoniw

プロフィール

末近浩太中東地域研究 / イスラーム政治思想・運動研究

中東地域研究、イスラーム政治思想・運動研究。1973年名古屋市生まれ。横浜市立大学文理学部、英国ダーラム大学中東・イスラーム研究センター修士課程修了、京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科5年一貫制博士課程修了。博士(地域研究)。日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、現在立命館大学国際関係学部教授。この間に、英国オックスフォード大学セントアントニーズ・カレッジ研究員、京都大学地域研究統合情報センター客員准教授、、英国ロンドン大学アジア・アフリカ研究学院(SOAS)ロンドン中東研究所研究員を歴任。著作に、『現代シリアの国家変容とイスラーム』(ナカニシヤ出版、2005年)、『現代シリア・レバノンの政治構造』(岩波書店、2009年、青山弘之との共著)、『イスラーム主義と中東政治:レバノン・ヒズブッラーの抵抗と革命』(名古屋大学出版会、2013年)、『比較政治学の考え方』(有斐閣、2016年、久保慶一・高橋百合子との共著)、『イスラーム主義:もう一つの近代を構想する』(岩波新書、2018年)がある。

この執筆者の記事