政策分析の二つの視点

20世紀を代表する法哲学者の一人であったH. L. A. ハートは、法を分析するにあたって内的視点と外的視点を区別する必要性を指摘している。ある法システムの内部にいてその正統性を認めており、法律が守られるべきものとされていることを前提にする内的視点に対し、そのような引き受けのない・外部からの観察者として見るのが外的視点である。

 

 

内的視点と外的視点

 

たとえば人々がみなエスカレータの特定の側に寄って立つという事実があるとき、その根拠となる法・規則がないことを知っている我々からは単なる慣習と位置付けられることになるだろう。他方、日本を訪れた外国人の目から見ればそこには一定の規則に沿った(ように見える)行為があり、ほとんどの人々がそれに従っている以上「法」が実在しているということになるかもしれない。逆に、ひところまでの未成年者飲酒禁止法のように内的視点からは法として存在していても、まったく遵守されていないので外的視点からは実在するように見えないものも想定することができる。

 

我々が法廷に立つ場合には、内的視点を守らなくてはならない(たとえ多くの若者が従っていなかったとしても未成年者の飲酒は禁止されていたのであり、たまたま摘発されれば犯罪となる)。他方、ある行為が現実にどの程度危険かを予測するのであれば、外的視点に立たなくてはならない(それが違法行為だとしても、途上国の入国審査官に要求された賄賂を断ることはいい結果を生まない)。分析の視点と方法は、その目的に応じて適切に使い分ける必要があるということになるだろう。

 

 

政策分析における内部と外部

 

政策の分析においても、同様に内的視点と外的視点の違いを想定することができる。それを理解するための好例として、畠山勝太氏による「留年制度は効率的で効果的か?」 http://synodos.jp/education/1396 を見てみよう。大阪維新の会により提唱されつつあった義務教育段階での留年制度導入について、主として教育政策の経済分析の観点から否定的な結論を示した論考である。

結論的には、留年制度はコストが高く効果が見込めないわりに、対象児童にスティグマを負わせるので逆効果の危険性が高い。それよりはいわゆる早生まれの児童に入学を遅らせるオプションを提供するとか、学力の低い児童に補習授業を提供するような制度のほうが効果が高いという主張であった。

 

最初に言っておくと、畠山氏の論考はきわめて筋の通ったもので、物理的に可能な政策オプションのコストと効果を比較する外的視点に立つ分析として、異論はない。また、私個人として留年制度を擁護したり推奨するものでもない。しかし、その結論の扱い方には一定の注意が必要であろうかと思う。つまり、全体として物理的には一定の政策を取ることが望ましいとしても、それを実現するための現実的な法制度・権限・財源が存在するか・調達可能かという内的視点からの分析を別途する必要があるということだ。そして、この両者の分析は往々にして一致しないのである。

 

 

補習制度は遵守されるか

 

具体的に大きな問題が生ずるのは、おそらく低学力の児童に対する補習制度(放課後であれ長期休暇期間であれ)である。いま、補習制度の導入が望ましいことについて地方自治体・議会での民主的な合意が形成され、制度が創設されたとしよう。教員と教室を手当てし、一定の基準に基づいて対象となる児童が選抜される。これで無事補習授業がはじまって対象児童の成績が上がり、めでたしめでたしということになるだろうか。

 

おそらくはならない。問題は第一に、対象児童が自発的に補習授業に出席するか、あるいは保護者がたとえ対象児童が嫌がっても出席することを強制してくれるかという点にある。当然のことだが、議会での多数による承認はその選出母体である市民全員の同意ではないし、多数の意向と一致しているかもしばしば怪しい。まして、特定の市民の感覚・意見と一致しているかはきわめて疑わしい。

自分自身のことですら、理性では酒を控えるのが正しいと十分すぎるほど理解していてもついつい飲み過ぎてしまうというように、「正しい」結論に(意思の弱さによって)従いそこねることはまったく珍しくない。政策としての正しさが客観的に証明され、民主政プロセスで承認されたとしてもなお、個々の対象者がそれを遵守しない事態は大いに想定される。

 

まして対象は低学力の児童である。畠山氏自身が指摘する通り、日本では「低学力層と家庭の教育力が弱い低所得者層がかなりリンクしていると考えられる」。本人に強い学習意欲があるか・学力強化が非常に重要だという価値観が家庭にあれば学校側の対応を待つまでもなく私的な教育サービスを利用して(あるいは両親の努力によって)改善に努めているケースが多いだろうことを考えても、この指摘は納得できる。

さまざまな理由が考えられるにせよ本人の学習意欲が低く、家庭にも学力強化への志向が弱い場合に低学力児童が多く生じているとして、彼らに「勉強できる機会」を与えただけでそれを利用するようになるものだろうか。補習授業の提供が自発的な参加と学力改善に結びつくのは、本人・家庭に強い学習意欲がありながら経済的理由でそれが実現できていないという、日本ではやや珍しくなりつつあるパターンに限られた話なのではないだろうか。

 

 

出席を強制することは可能か

 

もちろん我々は、児童・家庭の自発的参加に待つのではなく参加を強制する方法について考えることができる。だが誰が? いつ? どうやって? 毎日毎日、正規の授業のあとに開かれる補習授業に、対象児童がもれなく出席しているか担当教員が確認するのだろうか。数人が遊びに行くために帰ってしまっていたとして、いまどこにいるのかわからないなか探しに行くのだろうか。

 

そもそも正規の授業においてすら、どこかにいなくなってしまう児童を(物理的に)捕まえ、必要があれば拘束してでも出席させるような権限を、教員は持っていない(そんな権限があれば多少は教室崩壊の事例が減ることだろうが)。

子供に義務教育を受けさせない親に対しては最終的に罰金刑を科すことが可能になっているものの(学校教育法144条)、逆に言えばそれは、罰金を覚悟した親に対する強制手段がそれ以上はないということを意味する(北海道の無人島に移り住んだ畑正憲氏が学齢に達した娘の就学を故意に遅らせた例を想起しよう)。「義務教育」とは子供に教育を受けさせる親の義務・教育を提供する政府の義務であり、児童自身の義務はそこに含まれていない。

 

 

 

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http://synodos.jp/info/18459

 

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