2012.07.31

政策分析の二つの視点

大屋雄裕 法哲学

政治 #留年制度#教育政策

20世紀を代表する法哲学者の一人であったH. L. A. ハートは、法を分析するにあたって内的視点と外的視点を区別する必要性を指摘している。ある法システムの内部にいてその正統性を認めており、法律が守られるべきものとされていることを前提にする内的視点に対し、そのような引き受けのない・外部からの観察者として見るのが外的視点である。

内的視点と外的視点

たとえば人々がみなエスカレータの特定の側に寄って立つという事実があるとき、その根拠となる法・規則がないことを知っている我々からは単なる慣習と位置付けられることになるだろう。他方、日本を訪れた外国人の目から見ればそこには一定の規則に沿った(ように見える)行為があり、ほとんどの人々がそれに従っている以上「法」が実在しているということになるかもしれない。逆に、ひところまでの未成年者飲酒禁止法のように内的視点からは法として存在していても、まったく遵守されていないので外的視点からは実在するように見えないものも想定することができる。

我々が法廷に立つ場合には、内的視点を守らなくてはならない(たとえ多くの若者が従っていなかったとしても未成年者の飲酒は禁止されていたのであり、たまたま摘発されれば犯罪となる)。他方、ある行為が現実にどの程度危険かを予測するのであれば、外的視点に立たなくてはならない(それが違法行為だとしても、途上国の入国審査官に要求された賄賂を断ることはいい結果を生まない)。分析の視点と方法は、その目的に応じて適切に使い分ける必要があるということになるだろう。

政策分析における内部と外部

政策の分析においても、同様に内的視点と外的視点の違いを想定することができる。それを理解するための好例として、畠山勝太氏による「留年制度は効率的で効果的か?」?https://synodos.jp/education/1396?を見てみよう。大阪維新の会により提唱されつつあった義務教育段階での留年制度導入について、主として教育政策の経済分析の観点から否定的な結論を示した論考である。

結論的には、留年制度はコストが高く効果が見込めないわりに、対象児童にスティグマを負わせるので逆効果の危険性が高い。それよりはいわゆる早生まれの児童に入学を遅らせるオプションを提供するとか、学力の低い児童に補習授業を提供するような制度のほうが効果が高いという主張であった。

最初に言っておくと、畠山氏の論考はきわめて筋の通ったもので、物理的に可能な政策オプションのコストと効果を比較する外的視点に立つ分析として、異論はない。また、私個人として留年制度を擁護したり推奨するものでもない。しかし、その結論の扱い方には一定の注意が必要であろうかと思う。つまり、全体として物理的には一定の政策を取ることが望ましいとしても、それを実現するための現実的な法制度・権限・財源が存在するか・調達可能かという内的視点からの分析を別途する必要があるということだ。そして、この両者の分析は往々にして一致しないのである。

補習制度は遵守されるか

具体的に大きな問題が生ずるのは、おそらく低学力の児童に対する補習制度(放課後であれ長期休暇期間であれ)である。いま、補習制度の導入が望ましいことについて地方自治体・議会での民主的な合意が形成され、制度が創設されたとしよう。教員と教室を手当てし、一定の基準に基づいて対象となる児童が選抜される。これで無事補習授業がはじまって対象児童の成績が上がり、めでたしめでたしということになるだろうか。

おそらくはならない。問題は第一に、対象児童が自発的に補習授業に出席するか、あるいは保護者がたとえ対象児童が嫌がっても出席することを強制してくれるかという点にある。当然のことだが、議会での多数による承認はその選出母体である市民全員の同意ではないし、多数の意向と一致しているかもしばしば怪しい。まして、特定の市民の感覚・意見と一致しているかはきわめて疑わしい。

自分自身のことですら、理性では酒を控えるのが正しいと十分すぎるほど理解していてもついつい飲み過ぎてしまうというように、「正しい」結論に(意思の弱さによって)従いそこねることはまったく珍しくない。政策としての正しさが客観的に証明され、民主政プロセスで承認されたとしてもなお、個々の対象者がそれを遵守しない事態は大いに想定される。

まして対象は低学力の児童である。畠山氏自身が指摘する通り、日本では「低学力層と家庭の教育力が弱い低所得者層がかなりリンクしていると考えられる」。本人に強い学習意欲があるか・学力強化が非常に重要だという価値観が家庭にあれば学校側の対応を待つまでもなく私的な教育サービスを利用して(あるいは両親の努力によって)改善に努めているケースが多いだろうことを考えても、この指摘は納得できる。

さまざまな理由が考えられるにせよ本人の学習意欲が低く、家庭にも学力強化への志向が弱い場合に低学力児童が多く生じているとして、彼らに「勉強できる機会」を与えただけでそれを利用するようになるものだろうか。補習授業の提供が自発的な参加と学力改善に結びつくのは、本人・家庭に強い学習意欲がありながら経済的理由でそれが実現できていないという、日本ではやや珍しくなりつつあるパターンに限られた話なのではないだろうか。

出席を強制することは可能か

もちろん我々は、児童・家庭の自発的参加に待つのではなく参加を強制する方法について考えることができる。だが誰が? いつ? どうやって? 毎日毎日、正規の授業のあとに開かれる補習授業に、対象児童がもれなく出席しているか担当教員が確認するのだろうか。数人が遊びに行くために帰ってしまっていたとして、いまどこにいるのかわからないなか探しに行くのだろうか。

そもそも正規の授業においてすら、どこかにいなくなってしまう児童を(物理的に)捕まえ、必要があれば拘束してでも出席させるような権限を、教員は持っていない(そんな権限があれば多少は教室崩壊の事例が減ることだろうが)。

子供に義務教育を受けさせない親に対しては最終的に罰金刑を科すことが可能になっているものの(学校教育法144条)、逆に言えばそれは、罰金を覚悟した親に対する強制手段がそれ以上はないということを意味する(北海道の無人島に移り住んだ畑正憲氏が学齢に達した娘の就学を故意に遅らせた例を想起しよう)。「義務教育」とは子供に教育を受けさせる親の義務・教育を提供する政府の義務であり、児童自身の義務はそこに含まれていない。

遵守を調達するコスト

外的視点から最適とされる政策のうち、関係者の自発的な遵守が期待できるものについては内的視点との乖離もあまり生じないだろう。最適とは到底言えないだろうが「子ども手当」のようなものを考えれば、断固としてその受取を拒否する保護者もあまりいないだろうし、いたとしても社会的に大した問題ではない(その家庭が一定額の利益を失うだけで済む)。だが関係者が協力を拒む可能性がある場合、にもかかわらず遵守を強制する仕組みがなければ政策が現実化することはないだろう。そして、その遵守の仕組みを用意し・機能させるためには相当に大きなコストが必要となる。

教員の労働を強化するか、出席管理する係員を追加で雇用するか、あるいはアメリカにおいてしばしば見られるように警察官を学校に導入することを検討する必要があるかもしれない。あるいは保護者が協力しない場合に、それを虐待の一種と看做して親権を停止・剥奪したり、児童相談所に介入させるという方法もある。だが当然ながらこれらすべては行政コストの増大に繋がるし、教育に関する理念・効果に照らして社会的な承認が得られるかという問題もある。

社会一般にはどうも逆の通念があるようだが、日本の行政機関が何かを強制するために持っている権限はきわめて乏しいというのが比較法研究の成果である。にもかかわらず補習授業を実質的に機能させようとすれば、民間の警備員を多数雇って対象児童を追いかけ回すか、そのような現在の行政法制を抜本的に改革し、政府に強大な強制権限を付与するしかない。

介入の強度と頻度

これに対し留年制度の特徴は、児童の生活に対する日常的な介入がいらない点にある。単にその可能性があることだけを事前に告知しておき、普段は児童と家庭の自主的な努力に任せておけばよい。学年末には評価が行われるが、そこでも児童に何かを強制する必要はない。淡々と成績を調べ、一定の基準に達していなければ進級を許さないだけで済むだろう。具体的には次学年のクラス編成において原級に留め置くという学校行政内部の措置で実現することができるので、やはり児童・家庭に対する介入を行なう必要はない。

もちろんこれは端的に言って、行政は何もせずに児童側の努力に委ねるということではある。だが、新たな政策実現のために投入できる行政の人的・財政的なリソースが不足しているにも関わらず何かをせねばならないと迫られたとすれば、やむを得ない選択・何もしないよりはマシ程度のものとしてではあれ、提言としては理解できるだろう。少なくとも、行使できる強制力の面も含めて行政に与えられたリソースを改善する意思・そのための経済的負担などを引き受ける覚悟もない人々に悪口を言われるようなものではないだろうと、そう思うわけだ。

制約条件への責任

繰り返して言うが、しかしこのような事情は外的視点に立つ分析としての畠山氏の議論の正しさに影響するものではない。一般的に、ある国の現状に照らして政策Aが最適であるところ同国の制度Bがその実現への妨げになっているとして、制度Bを維持して政策Aを断念するか、政策Aを実現するために制度Bを改正するかは、その国の政治的意思決定に属する問題だからである。少なくとも政策Aが物理的に実現可能である限り、外的視点に立つ専門家としてはあくまでその正しさを主張すべきであろう。望むなら、制度Bの改正を選ばなかった同国の政治家や国民全体の悪口を言い続けてもよい。

他方、その国の特に官吏にとってはそうではない。制度Bを守るという国民の選択が示されればあくまでそれを「正しいもの」として行動することが求められるし、政治家と違い、特定の選択が正しいと直接国民に訴えることは望ましいと考えられていない。行政に対する制約条件を規定するのは国民であり、それを行政は引き受けなくてはならない。それこそが民主政というものだ。

だが逆に言えばそのことは、国民の選択に由来する制約条件によって理想の政策が実現しないことの責任を行政が引き受けられるはずはないということも意味している。決定権を国民が持っているからこそ、その責任も国民にある。それこそが民主政というものだ。

留年制度より補習授業の方が望ましいと主張する国民は、その実現のために身体拘束を含む懲戒権を学校・教員に与えよとか、対象児童を補習に行かせない保護者から親権を(一時的にであれ)剥奪し・代理行使するために児童相談所の人員・予算・権限を拡大せよと、同時に主張すべきだろう。そのような負担への意思抜きに理想の実現だけを要求するのは統治者たる市民の資格がない・他者に配慮されるべき二級市民の態度だということにならないだろうか。

政策の分析や評価にあたっては、その物理的な実現可能性や帰結予測だけでなく、その実現に対してどのような責任を負っているかという要素を踏まえることが不可欠だというのが、本稿の結論である。さて、あなたは国家の内部と外部、どちらにいるのだろうか。

プロフィール

大屋雄裕法哲学

1974年生まれ。慶應義塾大学法学部教授。法哲学。著書に『法解釈の言語哲学』(勁草書房)、『自由とは何か』(ちくま新書)、『自由か、さもなくば幸福か』(筑摩選書)、『裁判の原点』(河出ブックス)、共著に『法哲学と法哲学の対話』(有斐閣)など。

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