戯曲とは何かを考える――「戯曲は作品である」展をめぐって

【シノドスに参加しよう!】

▶メールマガジン「αシノドス」

 https://synodos.jp/a-synodos

▶セミナー「シノドス・サークル」

 https://synodos.jp/article/20937

▶ファンクラブ「シノドス・ソーシャル」

 https://camp-fire.jp/projects/view/14015

この世界にある戯曲を、見えるかたちにしておく

 

――岸井さんが言う「戯曲」をもう少しイメージするために質問させてください。岸井さんは、東京に公共を実装するための戯曲(「東京の条件」)や、震災後に宮城県山元町のための戯曲(「201X年の山元町」)を書いていますよね。ということは、たとえば、雑誌の編集部みたいな集団にも戯曲を書くことができますか?

 

依頼があれば、ぜひやりたいですね。コンサルタントとかなら、企業を儲けさせることはできるでしょう。演劇として人間の集団を見るというのは、儲かるかどうかとか正しいということではなく、面白いかどうか、かっこいいかで見るということです。

 

つまり、僕が編集部をリサーチして戯曲を書くということは、愉快な集団にするための元となるテキストを書くことはできるってことです。編集部が愉快になる必要があるの?と僕も思いますが、就職先とか仕事の依頼先を考えるとき、儲かっているかどうか、よいことをしているかどうかとは別に、面白い連中かとか、かっこいいかとかを考えるでしょう。それは企業を劇団として見ているといっていいと思う。

 

だから、集団をかっこよいかどうかとか、ダサいかどうかみたいに、美的に見ることは案外多いんじゃないか。

 

ただ、僕には演出はできない。つまり、戯曲が実行されるかどうかは約束できない。

 

 

――劇作家と演出家の違いはそこにあると。

 

はい。企画書があって、会社があっても、企画書が実装されないよね。っていうのと同じことだと思います。ビジネス書が無数に出されていて、売れてるでしょ。あれも戯曲のようなものだとしたときに、でも本があるだけでは実際は組織は動かないですよね。締め切り決めようかとか、集まって会議するかとか、そういう些細な行動を起こすおかげでかろうじて動く。

 

その、何かコトを起こそうとするということが演出をしているということです。僕は劇作家ですから戯曲は提示しますが、演出はしません。

 

 

―そうすると組織のリーダーが演出というスキルを身につければ……

 

じつは演出というのは新しい概念で、200年ぐらいしか歴史がありません。かたや戯曲は2500年以上の歴史がある。いまは戯曲=企画書と俳優=会社員だけでは上演=仕事がすすまないからこそ、演出家=マネージャーが必要になるんでしょう。集団をマネージする手法は演出と考えていいと思います。

 

僕の「東京の条件」のなかに、「シェア・スープ・スリー・ウイークス」という作品があって、日本の組織は鍋的だということを問題にしたんですが。

 

 

DSC_4628_

『戯曲|東京の条件』より、3幕4場。「東京の条件」は、〈東京に必要な「公共の戯曲」を作る〉ことを目的に、東京都及び東京文化発信プロジェクト室との共催で、2009年から12年まで3年間にわたり上演された。http://www.kishiidaisuke.com/#!dramatokyocondition/c17i7

 

 

――宮本常一が書いたような、三日三晩宴会したら話がまとまっていた、みたいな。逆か。話がまとまるまでひたすら宴会を続ける。

 

日本ではそれをやってきたわけ。だから、リーダーというか鍋奉行しかいない組織があったりする。でも鍋奉行は、多様な意見を聞いて組織を生かすんじゃなくて、おいしいものとか酒で個人の意見をウヤムヤにしながら話を進める。

 

そういう組織の動かし方とは別に民主的なマネージメントもあります。人間がそれぞれ違い、それが一緒にことをなしていくようなリーダー。鍋奉行のように、みんなの意見を同じにするんじゃなくて、異なる人と一緒にやるの仕事だというリーダー観。

 

僕は45歳ですが、バブルまでは、日本はほぼ鍋型で組織が回ってたと思うな。つまり、景気がいいときは鍋でよかったんでしょうね。バブルが崩壊したら、横文字のマネジメントが流行って。これは民主的なリーダーが必要になったんだと思いますよ。

 

で、この違いは僕には演出の違いと思えるんですよね。僕は劇作家として会社とか組織のために戯曲を書くことはできますけど、いまの社会で実装するには演出家が必要ですし、組織がどうなるかは、最終的には演出家の手法とか好みに左右されるでしょうね。

 

 

――編集長が変わると編集方針が変わるっていうのは、為政者が変わると憲法が変わるってことに似てますよね。

 

為政者が変わっても変わらないために憲法というのでしょうけど。

 

 

――そうか、そこは一緒にしてはいけないのか。

 

それが、演出家と戯曲の違いってことですね。

 

 

――いまは新聞やテレビのようなマスコミが発達し切ったあとであるわけですが、それらは活動を促す装置にはならないですか? マスメディアにはオーソライズ機能もあると思っているのですが。

 

新聞・テレビも活動を促すときは戯曲と考えればいいんだと思います。あと、戯曲にもマスメディアとは別のオーソライズ機能もあるんですよ。

 

そもそも戯曲の起源のひとつは古代ギリシアなんですけど、同じ時期にプラトンが対話篇を書いていて、同時期に孔子の弟子が論語を作り、ブッダの弟子が仏典を編んだ。ソクラテスも孔子もブッダも文字は書いてなくて、弟子が残した。その残し方はどれも対話の文字化ですから、戯曲形式でしょ。

 

孔子とかブッタとかソクラテスは活動をしたわけですが、その教えを、弟子別に話し方を変えている対話で残さないと、よさが伝わらないと判断されたんでしょう。戯曲として読むからこそ、活動が促され、オーソライズもされる。逆にいえば、これらは、演劇的な読解力がないと読めない。

 

 

――なるほど。

 

ソクラテスにしてもブッタにしても孔子にしても、本当のすごさは目の前にいないとわからないんだと思います。でも、それは必ずしも彼らが偉人だったからではない。人間の活動のよさは、目の前にいるときしかわからないものだからです。だから、それを伝えたければまず上演をするとよい。

 

僕は年中移動していて、日本のあちこちでトークイベントとか読書会とかをしています。この、しょっちゅう人とコミュニケーションをするスタイルは、前近代の、つまり、旅のお坊さんみたいなことだなと思う。

 

お寺にいるお坊さんは住職といいますが、住職って言葉は「住んでる」以外何も言っていませんよね。住むのが仕事ってことです。そんなはずないんで、じつは住職は遊行僧とセットの言葉だったと思うんです。つまり遊びに行く人=遊行僧と住んでる人=住職がコンビになっている。このコンビから遊行僧が消えて住職しかいなくなったから住職とはなんだかわからなくなっちゃったんじゃないかな。

 

移動する人が開かれた情報を運んでくる。でもその人は閉じたコミュニティーには外部だから、コミュニティーのメンバーがアクセスできる窓口として住職が必要だったわけですね。

 

いま、いろんな町にできているまちづくりの拠点とか、アートスペースとかは中世的なお寺で、その場所にいてまちづくりをしている人は住職とみなすこともできると思う。僕は遊行僧としてやって来て、一定期間そこに滞在し、地元の人に投げて、情報を収集して、次へ行く。ということを繰り返しているわけです。昔は、マスコミはなかったけど、遊行僧に付随するかたちで文書のやりとりもあって、全国を細かく正確な情報が行き来してたわけだよね。

 

グローバリゼーションとともに世界が新しい中世となるという可能性は多くの人が指摘していますが、中世化するのならその英知も復活させなければならない。そのひとつが戯曲だと思うんです。戯曲によって引き起こされたよい活動が、オーソライズを提供する。とにかく人間のよい活動を引き起こすことが可能になるものを戯曲とみてたくさん紹介し、作り、見えるかたちにしておかないといけない。この世界にある戯曲を、なるべく見えるかたちにしておく。そして戯曲を読解できる人を涵養する。

 

 

――いま私たちが「劇作家」でイメージするのは現在のいわゆる劇場システムにのっとったもので、岸井さんが考えているのはもっと、根源的なのか、逆に先端的なのか、わかりませんけれど、そういうことなんですね。

岸井さんのプロフィールに、中学・高校時代から現代アートを見ていて、演劇だけが近代芸術であることに疑問をもったということが書いてありましたが、「現代アートとしての演劇」と思えばいいのでしょうか。

 

現代アートとしての演劇は、いま面白いですよ。いま現代化、モダニズムの前線が演劇のところに来ていて。だから、チェックしておくべきは演劇ということになってきたんだと思うんです。美術や音楽でもますます演劇的表現が増えていくと思うし。

 

で、他のジャンルのアーティストも、演劇から知恵を得ようと思ったらやっぱり戯曲が大事なんですよね。戯曲を読めるようにならないと演劇はわからない。だから戯曲をもっと読んでほしいと思うし、演劇界も応答していくべきだと思う。たとえば、ままごとの柴幸男くんが「戯曲公開プロジェクト」を行っていますが( http://www.mamagoto.org/drama.html )、彼も現状に対して戯曲を訴えた方がいいっていう判断を直感的に下したんだと思うんですよ。

 

 

p-1

 

 

 p-2

「油彩画家のための戯曲」(2014年)と、それをもとにして描かれたペインターの安藤裕美さんの絵画作品。撮影=守屋友樹

 

 

「読経」は「上演」であると考えてみる

 

――展示のことに戻りますが、閉館後の時間帯に、ほぼ毎日のように戯曲の上演やトークイベントが行われていましたね。岸井さんにとって今回の展示はそれ自体が上演の一つだった、ということになりますか?

 

いま、日本の仏教の話でたとえましたから、あえて同じたとえで続けますけど、「戯曲の展示」の先行事例を考えたときに、お経があるなと思ったんです。お経は、先ほどいいましたが、基本的には仏と他の登場人物の対話だから、戯曲構造を持っていると読める。しかも、しばしば音読、つまり上演されています。毎日各地で般若心経が読み上げられています。木魚という音楽つきで。いろんな読み方やシチュエーションがあるんだから、演出プランもいろいろあるでしょう。

 

でも考えたら、仏教の教えを知りたいだけなら黙読すればいいじゃないですか。なのに音読が続いているということは、やっぱりお経を戯曲とみなして、再演しようとした人が何人かいたと思うんですよね。妄想ですけどね。「ブッダ役は君ね」みたいな上演があったんじゃないか。やってみたら、あ、わかった!みたいな体験があって、じゃあ、みんなでやってみようとやっていたのが、いつの間にか音読だけ残ったんじゃないかと思う。

 

しかし演劇をやっている人間としてわかるのは、音読していれば十分「上演されてるよさ」が現れるし、ただ読み上げているだけでちゃんと上演されているというところに落ち着いたんでしょう。

 

さて、僕の理解では、法華経には、「お経で文字に見えるのは実は、巨大な蓮の花びらとその香りである。さらに言えばそれは法である。だけど人間には法や蓮の花びらが直接感知できないから、文字になって見えている」と書いてある。同様に、戯曲も、本当は花びらや法なんですよ(笑)。

 

 

――ええっ、全然感じとれてなかったかも……。

 

冗談ですけどね。そう思って読むといいかもしれない。

 

ところで、経を音読しても、その時点の人間の暮らし方とかで、上演がうまくいかないこともあったと思うんですよ。上演は演出家とか組織に左右されます。何せ上演は作品ではないかもしれないんです。そんなとき、経文そのものを石板に刻もうという考えができたんだと僕は思うんですよね。だって、文字に見えるけれど本当は蓮の花なんですから。音読=上演されなくても、戯曲を読み取る力があれば、南無妙法蓮華経とあればその向こうに蓮の花びらがあるはず。

 

面白いと思うのは、経を刻む様式なんですけど、装飾的な文字になってたりする。これは、蓮の花であることをあらわしたいというテンションが溢れちゃってるんじゃないか。だから、彼らも、戯曲が作品であることを伝えるために、上演じゃなくて、展示を選んだんだなあと感じます。

 

 

――蓮の花が象徴するものってなんだろう、調和のとれた世界みたいことですか?

 

象徴じゃなくて、事実ですよ!とかいうと、怪しいことをいう人に思われるか。言葉の向こうにある人間の生きた状態でしょうね。たとえば、幼稚園の子どもたちがのびのびとみんなで集まってラクガキをしているような、人間の集団がいきいきしている状態です。それを維持するのや創造するのが難しい状況はあるわけです。今の日本もそうではないか。

 

しかし、大事なのは、そういうことが人間には可能だという情報は失っちゃいけないということ。経済活性が一番大事だみたいな情報のみになってしまうと、自由にやるより我慢が、個性より成果が重要だとかなっていくでしょう。危険ですよ。

 

だから僕は、石板にお経を刻んで、「蓮の花感」を出した人の気分がすごくよくわかる。これは本当はただの字じゃなくて、過去に人々の自由な美しい活動というものがあり、それぞれの人は自由で、自分の人生をつくるのは自分で、それは非常に面白かったのだということ、しかもそれはあなたにも可能だという情報を共有したかったんだろうと。だからそれは事実ですというべきだと思う。

 

戯曲そのものの展示をするっていう今回の試みは、時代に抵抗して演劇のよさをつたえるために、文字の向こうにある戯曲を見せる方法を試行したいと思ったからです。もっといい手を考えないといけないし、今回展示をしてみてやっぱり上演も大事だなとわかったけど、でも、この社会のどこにその情報の置き場を作れるのか。これからも考えていきたいですね。

 

 

p-3

 

 

p-4

ARTZONEの2階に展示された「劇作家のための戯曲」と「埋蔵する」は、本展のために新たに描かれた。撮影=守屋友樹

 

 

▽展示情報

「戯曲は作品である』」
2015年6月13日〜7月5日(会期終了)
会場: ARTZONE(京都市中京区)

 

▽関連情報

「戯曲は作品である」を記録する

展示の記録集をつくるためのクラウドファンディングを実施中です。

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

 

1 2
シノドス国際社会動向研究所

vol.266 

・山本昭宏「平和意識の現在地――〈静けさ〉と〈無地〉の囲い込み」
・田畑真一「【知の巨人たち】ユルゲン・ハーバーマス」
・吉田徹×西山隆行×石神圭子×河村真実「「みんながマイノリティ」の時代に民主主義は可能か」
・松尾秀哉「【学び直しの5冊】〈現代ヨーロッパ〉」
・木村拓磨「【今月のポジだし】活動を広げよう――不登校支援」
・鈴木崇弘「自民党シンクタンク史(10)――「シンクタンク2005年・日本」自民党政権喪失後」