演劇の「感動」はどこからくるのか――『わが星』から『わが町』のむこうへ

ワイルダーの一幕劇集

 

ワイルダーは『わが町』の前に、『長いクリスマス・ディナーとその他の一幕劇』(1931年)という5編の一幕劇を収めた戯曲集を出しているが、そこでは実験色の強い戯曲3編と、オーソドックスな戯曲2編が交互に配置されている。

 

本のタイトルにもなっている「長いクリスマス・ディナー」は、アメリカ独立当時から続く旧家ベヤード家の90年を約30分に圧縮したもので、場面は常にクリスマス・ディナーの食卓である。

 

クリスマスの食卓での会話は毎年同じような話題なのだが、その数行の繰り返しのうちに数年が経過する。90年は途切れることなく、残酷なほど滑らかに流れていく。登場人物は会話の途中で白髪のカツラをかぶったりして目に見えて年を取り、舞台の一方にある「死」の戸口から出ていく。また反対側の戸口は「誕生」を示しており、そこから出てきた者は青年期になると食卓につき、会話に参加する。俳優に求められる演技は特殊なものではないが、カツラをかぶるところを見せるなど、舞台が「嘘」であることが露骨に可視化されている。

 

何度も反復される話は似たようでいて、しかし微妙に差異がある。観客はクリスマスという静止した時間と90年の流れを、約30分という上演時間で同時に体験するのである。ベヤード家の90年間のクリスマスは、テーブルと椅子以外具体物のない舞台上で反復されることにより、その個別性は消滅し、時間と人間存在という普遍化された問題へと昇華されている。

 

 

ワイルダー「長いクリスマス・ディナー」の柴幸男版「華麗なる招待」の一場面。「ワイ! ワイ! ワイルダー!」で上演された 撮影:細川浩伸

ワイルダー「長いクリスマス・ディナー」の柴幸男版「華麗なる招待」の一場面。「ワイ! ワイ! ワイルダー!」で上演された 撮影:細川浩伸

 

 

2編目は「寝台特急ハイアワサ号」である。この戯曲は1930年12月21日、ニューヨークからシカゴに向かって走る寝台特急が舞台であるのだが、舞台上にはパイプ椅子以外何もなく、起承転結の明確な物語があるわけではない。戯曲の半ばには、この日の午後10時10分の列車を取り巻く世界の様子を、この寝台特急に乗り合わせた乗客の内面の独白や、草原や鉄道工事で命を落としたものの霊、さらには天体までが登場して描写しようとする場面もある。

 

またこの作品には舞台監督が「役」として登場する。元来舞台監督とは「裏」を取り仕切る人物であり、通常、舞台上に姿を現すことはない。ワイルダーは彼に劇の進行に関して様々な指示を出させることにより、舞台が「編集」されていく様を「生」の形で、「ライブ」で見せようとしているのだ。「長いクリスマス・ディナー」同様、巧妙な筋の展開により観客を魅了して物語の中に連れ込むのではなく、むしろ、演劇の構造を露骨にすることで、人間の「状態」を見せようとしているような印象を残す。つまり同化ではなく、異化の演劇なのだ。

 

最後の1編、「幸せの旅」も、4脚のパイプ椅子だけで進行する。話はカービー夫妻と二人の子供がニュージャージー州のニューアークからキャムデンまで車で移動するというものである。戯曲の大半は車中での家族の嫌になるほど平凡な会話であり、車が(と言ってもただのパイプ椅子だが)キャムデンに到着すると、彼らがこの地に嫁いだ長女の見舞いに来たことがわかる。彼女は出産直後に子供を亡くしたばかりであったのだ。

 

 

ワイルダーの「幸せの旅」の一場面。1952年のアメリカの大学での上演。A 1952 production of The Happy Journey at Shimer College

ワイルダーの「幸せの旅」の一場面。1952年のアメリカの大学での上演。A 1952 production of The Happy Journey at Shimer College

 

 

ここまで見てきた3編には必ず「死」の要素が入っているのも注目しておきたい。「長いクリスマス・ディナー」では何人もの人物が死の戸口から退場するし、「寝台特急ハイアワサ号」でも戯曲の後半で、乗客の一人、ハリエットが心臓発作で死亡し、大天使たちに導かれて昇天するという場面がある。ワイルダーの戯曲は一種の「メメント・モリ」の機能を果たしていることも一つの特色だろう。

 

これらの3編の一幕劇は、劇的な展開のある物語は一切なく、むしろ逆に日常や平凡な生活の一場面ばかりである。その凡庸さに比べて、その表現方法はかなり大胆であるが、その大前提となっているのが、装置のない裸舞台である。何もない裸舞台は、現在の日本の演劇では目新しいものでもなく、当たり前になっているが、20世紀前半のアメリカ演劇では舞台上に本物のような「リアル」な装置が作りこまれているのが普通であったから、何もない舞台でパイプ椅子しか使わないというのは、それだけで強い主張になっていた。

 

ではワイルダーは裸舞台で何がしたかったのだろうか。

 

 

「19世紀的な演劇」への絶縁状

 

ワイルダーは自らの戯曲集の序文で、一幕劇を書き始めた目的を「見せかけの本物らしさ(verisimilitude)ではなく、真実(reality)をとらえようとする試みであった」と書いている。

 

”verisimilitude”とは、Oxford English Dictionaryでは、”the appearance of being true or real: likeness or resemblance to truth, reality or fact”とある。

 

ワイルダーは舞台上で本物らしく見せようとする姿勢を、この”verisimilitude”という言葉を使って批判し、それは「子供じみた企て」だと断じている。

 

これは19世紀的な演劇、つまり自然主義リアリズム演劇、写実主義演劇への明確な絶縁状である。

 

ワイルダーは19世紀の演劇は舞台に様々な具体物を詰め込むことにより、そこで展開される物語の時間と場所をある一瞬、ある特定の場所に限定し、想像力によって観客が舞台との関係を結べなくなっていると考えた。そのような状態をワイルダーは「演劇を博物館のショーケースに閉じ込めてしまった」と嘆く。何もない舞台は19世紀的な舞台の対極にある。ワイルダーが一幕劇でやろうとしていたのは、演劇が「嘘」の集積であり「作り物」であることを最大限に利用し、日常性の中に埋没することで自動的に視野から消去されている部分、日常のフレームの中ではとらえきれない何かを、観客の内部に想起させる場の創出であった。「死」の要素を必ず入れるのもそのためだろう。

 

これら3編に対し、他の2編「フランスの女王たち」「恋の治療法」はオーソドックスで、因習的な作りになっており、舞台装置も物語も普通にある。しかしこの2作品は、「嘘」「虚偽」を一つの契機にして、登場人物が新しい「生」の局面を体験するという物語になっているので、この因習的な構造を持つ2作品が芝居の「嘘」を大前提にした実験的な3編の戯曲の間に配置されることにより、一幕劇集全体が、虚偽に基づく実験的な作品の正当性を作品自体に語らせるという極めて有機的な戯曲集になっているのだ。

 

 

柴幸男の「反復かつ連続」

 

まったく同じことが『わが星』を書く以前の柴の短編劇にも言える。

 

柴は劇作をするようになった当初、物語の展開の面白さで舞台を牽引していくようないわゆるシチュエーション・コメディを書いていたという。しかしその方向で人が書いていない「新しいこと」をやろうとしても、ほとんどのことはすでに書かれており、ほどなく限界を感じたという。そこで彼は「何を書くか」から「どう書くか」という点において「新しいこと」をやろうと方針を変える。

 

そこで生まれた戯曲のひとつが、のちに『四色の色鉛筆があれば』(2009年、演劇ユニットtoiとして制作された4つの短編を一続きに上演するオムニバス作品)にも入る「反復かつ連続」であった。

 

音楽の分野では、一人のミュージシャンがすべての楽器を演奏し、多重録音することで一つの曲を完成させることがあるが、それを演劇に応用したのがこの「反復かつ連続」である。少し長くなるが、「反復かつ連続」がどのように演劇という形式を提示しているのか、その内容を確認してみよう。

 

舞台の上には何もなく、照明で照らされた長方形の空間が浮かび上がっているだけだ。登場人物は一人。内山ちひろがこれからのすべてを演じる。

 

何もない空間に目覚まし時計の音が響くと、その空間の上手奥の角、光の外に立っていた内山が照明の中に入ってくる。そこで彼女は朝の風景だと思われる場面を一人で演ずるのだが、周囲にいると思われる人物は舞台上に存在しないし、音もないので、彼女の台詞は会話の断片とならざるを得ず要領を得ないが、その内容から彼女は子供の役をやっているようである。ほどなく「ピンポーン」というチャイムの音で、学校に行く友達が来たのだろう、見えないランドセルを背負って、「行ってきまーす」とその空間を出る。

 

 

柴幸男「反復かつ連続」の一場面。演じているのは内山ちひろ 撮影:青木司

柴幸男「反復かつ連続」の一場面。演じているのは内山ちひろ 撮影:青木司

 

 

光の外へ出た内山は急ぎ足で最初の位置まで戻るが、その走る姿は客席から光の空間のむこうに見える。そして2度目の目覚ましの音が鳴ると、再び内山がその光の空間に入ってくる。そして、前の場面で内山が小学生と思しき人物として喋っていた台詞がまるで録音されていたかのようにスピーカーから流れ、内山は別の人物、姉の一人になり、そのスピーカーから流れてくる言葉の合間に台詞を言う。観客はここで初めてこの芝居の仕組みを理解する。演じるのは内山一人だが、彼女はある一家の朝の同じ時間を、それぞれ異なった人物で最終的に5回反復する。多重録音のように、回を重ねるごとにその朝の風景の全体像が見えてくるという仕組みだ。

 

そして5人目の母親が登場したところで、父親不在の4人の姉妹+母親の一家の朝食の風景は完成するのだが、柴はさらに続ける。

 

6回目の反復では舞台に誰も登場せず、これまで内山一人で演じてきた場面がすべて重ねられた音声が流れるだけである。パッフェルベルの「カノン」(これも反復の典型だ)が流れる中、観客はこれまで見てきた姉妹+母親の朝の風景の音だけを聞きながら、何もない舞台をしばらく見ることになる。そしてその終盤、急須と湯呑を載せたお盆を持った内山がこれまでとは違った場所から登場すると、照明で区切られた演技空間を突っ切り、舞台前面に腰を下ろし、お茶を飲む。にぎやかな朝の風景の音声が終わったところでスピーカーから「お母さーん、ご飯ご用意できましたよー。お母さん? そんなとこでうたた寝してると風邪ひきますよー」という声(この声も、もちろん内山)が流れると、内山は初めて演技らしい演技、老婆のように背を丸めてうつむいたまま、つぶやくように「行ってきまーす」と応える。最後は、「カノン」が流れる中、スピーカーから「行ってきますって……どちらにですかー」という母親の声で終わる。ここで舞台全面にこの芝居が始まる前と全く同じフラットな照明が入り、何もない大きな舞台の前面に内山がすわっているのが見える(以上はHEADZから出ているDVD『四色の色鉛筆があれば』で確認できる)。

 

毎年、学生にこの映像を見せる機会があるが、たった15分のこの作品を見終わった学生は一様に「感動」を口にする。その感動は、一体どこから来るのか。何に起因しているのか。それは『わが星』の感動ともつながっていると思う。【次ページにつづく】

 

 

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