演劇の「感動」はどこからくるのか――『わが星』から『わが町』のむこうへ

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「未完成」「不完全」だからこそ想像力が立ち上がる

 

この舞台の大前提となり、このような実験を可能にしているのは何もない空間である。何もない舞台は、何もないがゆえに、どこにでも、またいつの時代にもなり得る。観客はそこに自らの想像力で見えないものを補って舞台を見ることになるのだが、その場合、観客は必然的に舞台上で進行していることと己の世界を融合させていくことになる。観客は無意識のうちに自分を舞台に関わらせてしまうのである。何もないということは一見不自由なようでいて、想像力さえあれば、むしろ大きな自由がそこにはあるということにもなる。

 

同じことは一人の女優が複数の人物を演じていることに関しても言える。「反復かつ連続」を見て、同じ人が何度も出てきて同じような台詞をしゃべっていた、という印象しか持たない人はおそらくいないだろう。この舞台を観る者は、この戯曲の仕掛けがわかる2巡目くらいから、この4姉妹+母親+祖母をそれぞれの想像力でアレンジしながら見ることになる。

 

相当に斜に構えて冷淡に舞台に接しない限り、人は己の意思とは関係なく、ほぼ自動的に想像力を起動してしまうのである。いや、想像力がひとりでに立ち上がるのだ。人間とはそのような想像的な生き物なのである。

 

もしこの作品を、ある一家の小さな家の朝食の風景として舞台上に具体的なセットを組み、6人の女優を使って上演したらどうなるか、想像してみればいい。そこには心動かされることは何ひとつないだろう。あるいはこの作品は、映画で可能だろうか、テレビドラマではどうだろうか、小説ではどうだろうか。これもなかなか想像しがたい。つまり、柴が「反復かつ連続」で試みていることは、演劇でしかできないことであり、観客が否応なくその演劇という「方法」にさらされる場を立ち上げることなのだ。何もない舞台は、ある意味で、「未完成」で「不完全」なものであるが、だからこそ、そこに観客が想像力を駆使できる余地ができ、人は作品との関係を結ぶことができる(岡田利規はほぼ同じことを「受精」ということばで説明している)。

 

さらに演技の問題がある。内山は6人を一人で演じているわけだが、それほど役を演じ分けているようには見えない。最後に登場する老婆ですら、老婆のようにはふるまっていない。ただお茶を飲み始めてから、遠くを見つめる目や、徐々に背中を丸めていく様はそれまでの彼女とは違う動きなので、演技と言えば演技ではあるのだが、それ以外のところで6人の女性を見事に「演じ分け」などという印象はまったくない。

 

内山の演技は基本的に「リアル」であるのだが、それは平田オリザの現代口語演劇以後の芝居における「リアル」である。そこには平田オリザ以前の演劇によく見られた(今でもよく見られるのだが)感情を増幅させたような説明的なオーヴァーアクションはないし、ましてや絶叫もない。もしそのような演技を芝居の基準とすれば、内山はほとんど芝居をしていないことになる。また4人の姉妹は名前で呼ばれることがないから、観客は台詞の言葉遣い、語尾などに感じられる差異で人物の違いがわかるくらいで、演技の色は極めて淡いものである。その演技の層の薄さゆえに、観客は「役」を見てはいるのだが、それ以上にそれを「演じている」内山を何度も見ることになる。内山の演技は、舞台上に一元的なイリュージョンを立ち上げることにはまったく向かっていない。舞台上には、どこかの家庭の朝の風景という虚構の時間と、内山が現実に演じていることが見える「今」、観客の想像力がそこに融合している「今」とが絶妙に混在した独特の空間が立ち上がっている。

 

柴もまたワイルダーと同様、演劇にしかできないことを舞台で実践しているが、それは舞台上で「本物らしさ」=verisimilitudeを求める自然主義リアリズム、写実演劇とは正反対の方向性を示す結果となっている。

 

 

柴幸男の「ハイパーリンくん」

 

『四色の色鉛筆があれば』の中で、「反復かつ連続」の前に上演されるのが「ハイパーリンくん」である。この作品ではラップが多用されている。10人の俳優で演じられるが、台本を見ても彼らには役名がなく、番号しかつけられていない。その一人一人がどのような背景を持ったどのような人物なのか、そのことは問題にすらされていない。

 

台詞は先生とリン君を含めた生徒たちのやり取りのように聞こえる。しかし彼らは誰もがリン君になり、先生になるので、リン君や先生といった人物自体に深い意味があるようには思えない。彼らは光のこと、太陽のこと、科学のことなどをとても短いセンテンスで口にし、戯曲の半ばで円周率の数字を延々と続けるのだが、このあたりから完全なラップになっていく。

 

 

柴幸男「ハイパーリンくん」の一場面 撮影:青木司

柴幸男「ハイパーリンくん」の一場面 撮影:青木司

 

 

そこから彼らは人類の発見や発明、つまりは科学史を年表のように、これもラップで語り、ジャンプしながら次第に一列に並んでいく。そして一列になったところでジャンプをやめ、息が上がった状態で次のような台詞を言う。

 

 全員  先生!

 2  はい、リン君。

 9  私達は何を知っていますか?

 4  何を知りませんか?

 5  いつからいますか?

 8  いつまでいますか?

 7  なぜいますか?

 1  どうしたらいいですか?

 0  いまどこにいますか?

 3  どこまで行けますか? 

 

大きな歴史の流れを意識し、「私達」の位置を確認しようとするこの問いの連続はかなり重要だと思う。特に「0」が言う「いまどこにいますか?」という問いには心震える。この作品は「反復かつ連続」以上に、「役」という発想がないので、観客は登場人物に感情移入できる隙がなく、彼らの語る言葉に身をゆだねるしかない。柴が0に言わせているのは、たとえば森達也が最近の対談集に『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』というタイトルをつけた時の問題意識とまったく同じものがあるだろう。今、わたしたち(日本人、人類)にとって、この問が極めて重大であるのは、21世紀に入っても、20世紀の残務処理に追われているような状況だからだし、何か根本的な価値転換が期待されているにもかかわらず、その方向性がまったく見えないことからくるぼんやりした、しかしかなり大きな不安が感じられるからだろう。森も柴も多分、かなりの緊迫感を持って、この言葉を選んでいるはずだ。

 

そして舞台はすべての数値の基準となる0の「いまどこにいますか?」に応えるように、「私たちがどこにいて、どこまで行けるのか」確かめるために、「10のn乗ずつ」世界を広げて旅に出るという場面になる。その旅は「今ここから始まります」という言葉で始まり、10人の役者は輪になり、10をn乗するごとにその輪を広げていく。すぐにその輪は客席にまで広がるが、それにつれて舞台、客席を含めた劇場内はどんどん暗くなる。当然、すぐにその数値は劇場の大きさをはみ出し、最後は暗闇の中で役者の声のみが響く。最終的にその壮大な実験は10の26乗、100億光年先まで世界(宇宙)を広げることになる。これ以上の俯瞰はないだろう。暗闇の中、役者の発する声で、観客は想像力をフル稼働させるしかない。その出発点は「今」「ここ」に「いる」「わたし」なのだ。

 

この視点は私たちの日常生活である横軸の人間関係の中からは出てこない縦軸の発想である。しかも「ハイパーリンくん」で語られているそのほとんどは科学的な「事実」である。ラップで語られる科学的事実の果てに、科学とは一見無縁の想像力でここにいる「わたし」を見るのだ。

 

『四色の色鉛筆があれば』では、この「ハイパーリンくん」に連続して、「反復かつ連続」が上演される。100億光年のむこうから「ここにいるわたし」を見たその眼で、誰にでも訪れる朝の食卓の風景を見るのである。何もない舞台と想像力によってもたらされた演劇空間の極致であると思う。

 

場所や時代を限定されない何もない舞台は、そのこと自体で想像力を稼働させ、見慣れて通過するだけの日常の中に普遍を発見する場へと変質する。その過程では装置も、道具も、そして物語もほとんど介在していない。柴は演劇にとってそれらが副次的なものでしかないことを見事に立証しているのである。

 

 

19世紀という時代精神〜ワイルダー以前

 

ここで少し視野を広げて、二人の戯曲を世界の演劇史の流れの中で考えてみたい。

 

ワイルダーは先にも引用した戯曲集の序文の中で、自分の目指そうとする演劇は19世紀的な自然主義リアリズム演劇、写実主義演劇からの脱却であることを明言している。リアリズムも写実主義も19世紀という時代精神の中で完成し、近代科学の開花と深いつながりがある。自然主義の唱道者エミール・ゾラは「若者たちへの手紙」の中で、「世紀の思想つまり時代を導くそれは、科学的な方法、実験的な分析、自然主義である」と主張し、観察を重視し、「演劇における自然主義」では「想像力はもはや用をなさず」と、想像力をバッサリと切り捨てている。

 

しかし、20世紀が過ぎ去り、21世紀に生きているわたしたちは、どうやら科学が万能ではなく、扱い方ひとつでとてつもない不幸を引き起こすことを知ってしまっている。近代科学が扱えるのはたかだか数値で表せる領域でしかない。数値化できないものは存在しないことにするしかないのだ。要は「プロバビリティ」という枠内でしか世界を見ないことになる。

 

ワイルダーが「演劇を窒息させ」、「演劇を博物館のショーケースに閉じ込めた」と考える19世紀的自然主義リアリズムの背景には、この科学の発想が貼り付いている。ワイルダーの演劇的実験は、演劇をこのショーケースから「解放」することであり、そのことにより想像力を復権させることであった。このようなワイルダーの指向性が徹底して近代演劇のルールを無視し、舞台に詰め込まれた具体物を取り除かせたのだ。そしてその発想は、「理性」に全幅の信頼を置いてきた「近代」にも抗うことを意味する。

 

 

日本のリアリズムのねじれと限界〜柴幸男以前

 

では柴はどうだろうか。ここでワイルダーと同じように語れないのは、日本の近現代演劇の流れが、かなり捻じれているからだ。

 

日本のリアリズムは平田オリザによってようやく成し遂げられた。それは明治以来追い求められてきたものではあったが、平田の出現によってようやくねじれのないリアリズムが成立したのだ。そして平田は演劇における口語のあり方を確立しただけではなく、そのリアリズムの限界も明確に自覚しており、みずからのリアルな作品の中でそのことを示している(『東京ノート』にはそのことが最も知的に、また詩的に語られている)。だから、平田以後の劇作家の中に、特に平田と何らかの関係を持つ若い世代の劇作家の中に、明確にそのリアリズムを乗り越えるような作品が出てきているのだ。

 

その意味で『わが星』の岸田賞選評の中で、形式に関して最も意識的であった宮沢が『わが星』に関して「いわゆる現代口語演劇を再構築する」と評しているのは極めて正しいと思う。柴もまたワイルダーとほぼ同様の方法に訴えることにより、近代という発想から生まれたリアリズム、あるいは明治以後様々な要因でねじれの生じたリアリズム「みたいな」芝居から演劇を解放していると言えるだろう。

 

 

「近代の被膜」が取り払われる

 

『わが町』と『わが星』の間には70年ほどの開きがあるのだが、ワイルダーと柴の演劇に対する感覚は驚くほどよく似ている。ワイルダーはこれまで生きてきた人は誰でも、その人の個別の瞬間を生きてきたのであり、同じことは一度として起こっていないと考えていた。人は誰もが、初めての自分を生きている、ということだ。それは真実である。だから人類はそのような途切れることのない、たった1回しか起こらない出来事の連続を生きてきたのである。

 

しかし一方で、ワイルダーはその無数のたった 1回の個別の出来事をよく見ると、まったく異なる瞬間の出来事であるにもかかわらず共通したものがあり、繰り返し反復されていることにも気づいている。それは普遍的な次元のことであり、そこにも真実はある。

 

そしてワイルダーは他の芸術にはみられない演劇特有の力が、個別の出来事を見せながらも、それを普遍のレベルまで昇華させることができる点にあると考えていた。彼はこの二つの真実を損なうことなくうまく開示するためには、個別の真実を舞台に展開しながらも、それが実は虚偽、見せかけ、虚構であることを見せ、虚/実を同一空間に同居させることが重要だと考えていた。

 

だから、舞台に一元的なイリュージョンを作ろうとする芝居は、ワイルダーからすれば、演劇の特質を半分しか活かしていないことになる。

 

だが考えてみれば、近代以前の演劇は、ギリシア悲劇だろうが、エリザベス朝演劇だろうが、はたまた能舞台だろうが、どれも舞台の上で「本物らしさ」を求めたものはなく、すべては「嘘」が前提で成り立っていた。そこではゾラが「用をなさない」と切り捨てた想像力が要となる(シェイクスピアの『ヘンリー五世』のプロローグを思い出してもいい)。そう考えれば、ワイルダーも柴も、近代的な発想に基づく演劇を捨て、演劇の源に帰ろうとしているようにも思える。だからそのような演劇を意図的に20世紀、あるいは21世紀にやれば、当然、近代演劇が想像力をないがしろにし、演劇の能力のごく一部しか見せていなかったことが明らかにされる。そしてワイルダーや柴の作品が観客の想像力を刺激し、その想像力が稼働し始めたとき、私たちの目や感性を覆っていた近代の被膜が取り払われ、日常の目では見えなかったものが見えてくるのだ。

 

 

 

「わが星」(2015年公演)の一場面 撮影:濱田英明

「わが星」(2015年公演)の一場面 撮影:濱田英明

 

最終的に像を結ぶのは、縦軸と横軸の交差により浮かび上がる「生」そのものの姿だろう。演劇という形式に内在する潜在的な可能性が十全に発揮されたところで、初めて「生」の姿が見えるのである。

 

ワイルダーや柴の芝居の感想でよく目にする「感動」はこの過程から生まれてくるものだと思う。そしてその感動とは、「嘘」と「虚偽」の集積である演劇という方法が「普遍的真実」を開示できるという逆説によって、わたしたちの日常の眼のフレームが崩されることへの驚きとその開放感そのものに対するものであり、それまでとはまったく異なった視野を得られたこと自体の驚愕に起因するのではないか。つまりその感動とは、演劇という形式によって引き起こされたものであり、かつ舞台上の物語によってではなく、想像力によって、観るものの中にすでに存在しているものが動員されたことにより引き起こされたものなのである。

 

21世紀に入って、混迷した「現在」を見直す新たな視点を人々は求め、違った見方、違った生き方、違った在り方を希求しているという現状がある。特に若い世代はそうだろう。わたしたちは近代の呪縛から解き放たれたいのだ。見当識を失ってしまった時、人はまず原点に立ち戻りたくなるのではないか。ワイルダーの戯曲はそんな思いに応えてくれる。そして私たちは私たちの本当の姿を見たいのだ、確実に死に向かって生きている私たちのリアルな姿を。『わが星』『わが町』の感動の大部分は、演劇という形式によってもたらされたものであり、日常の様々な諸原則、自分を規定する諸々の価値基準、身分、しがらみ、枠組み等々、すなわち「近代」的な思考枠が崩され、浮遊した状態になり、「わたし」という「個人」を、私の中でそっと感じ取ったことによるのではないかと思う。そしてその感じは、今、とても重要だと思うのだ。

 

ワイルダーは戯曲集の序文の最後で次のように書いている。

 

「演劇は私たちの時代に、男や女がどのように考え、感じているかを表現する〈新しい方法〉を探し出すことにおいて、ほかの芸術に遅れを取っている。私は現在求められているような新しい劇作家ではないだろう。そうであればいいとは思うが。しかし、私は新しい劇作家が進む道を準備することで一役買ったのではないかと思う。私は革新者ではないかもしれないが、少なくとも忘れられていたものを再発見したし、目障りながらくたを取り除くことはできたのではないかと思う。」

 

「何を書くか」から「どう書くか」に方向転換して模索していた柴にとって、ワイルダーは演劇という形式に語らせる良き先駆者として心強く映ったのではないか。

 

柴は、ある時、中野成樹に「柴君の作品ってワイルダーの新作みたいだね」と言われ、とてもうれしかったという。いい話だと思うし、芸術の流れを聖火リレーのようだと言っていたワイルダーが聞いても、喜んだのではないだろうか。柴は確実にワイルダーが準備した「新しい劇作家が進む道」を選択し、その道を歩んでいる。そして、彼もまたワイルダーのように、次に現れる新しい劇作家が進む道を準備しているのだ。そしてその新しい劇作家たちはすでに姿を見せ始めているのではないだろうか。

 

 

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