ジャンルもおもしろみも多様な8作品――第61回岸田國士戯曲賞予想対談

市原佐都子『毛美子不毛話』

 

あらすじ:「私」は本革のパンプスを求めて路地裏をさまよっている。付き合っている会社の先輩は「私」の言うことを端から否定する傲慢な男だ。本革のパンプスを手に入れることで自信を取り戻そうとする「私」は路地裏で「もう一人の私」や胸から巨根を生やした「カチコンおじさん」、合皮のパンプスの呪いを解く鍵を握る中国人歌手マオ・メイジーの代理人と出会うが、本革のパンプスは手に入らないのであった……。(山崎)

 

いちはら・さとこ:1988年生まれ。福岡県出身。桜美林大学卒。Q 劇作家、演出家。

 

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(写真撮影:佐藤瑞季)

 

 

山崎 『毛美子不毛話』は二人芝居で、登場人物は「私」と「私」が出会う人々。戯曲には、「『私』は俳優A、それ以外の役は俳優Bが演じる。」と指定されています。市原さんは近作では特に、一貫して女性をテーマにしていて、体毛や排泄行為など、一般的には忌避されたり見て見ぬフリをされるポイントをあえて取り出して見せるような作風が特徴です。

 

 市原さんが主宰するQでは、そもそも女性の前に、犬などの動物をモチーフにした作品を発表していましたよね。

 

山崎 2013年の『いのちのちQⅡ』なんかは、生物としての人間そのものを問い直すような広がりがあって、おもしろく見ました。

 

 最近、小説の流れでいうと、村田沙耶香の『消滅世界』など、男も女も妊娠できるようになったり、子宮がいらなくなったり、性を均した世界が舞台になっている作品が目立ってきています。最近では、古谷田奈月の『リリース』もすごかった。あれはあらゆるセクシャリティを尊重しながらぶっ壊し、足下揺さぶってくる恐ろしい小説だった。そういう一度、男女の性を均してみて、そこからの新しいシミュレートが文学の世界では今試されているように思うんですね。

 

でも、市原さんは、巨乳もつけるし男性器もつけて最強になるみたいな、とにかく足して足していく方向性。だから巨乳の象徴としてのホルスタインや両性具有のケンタウロスに執着があるのかなと思いますが、「本革のパンプスを求めるのは世の女性の常なのです!」というふうに、台詞でざざっと女性を代表しちゃうんですよね。

 

その瞬間、いや、私は私の思う「女性」の要素として、パンプスを求めるっていうのは思ってないですけど……大事なとこすっ飛ばして女を一般化する台詞は、わざとなのは分かるけどちょっと嫌です……と引っかかってしまって、非常に入り込みづらかったです。

 

山崎 全体の構造について言えば、「私」が路地裏で何人かの人と出会うわけですが、その中に「もう一人の私」がいます。本物と偽物、憧れと現実といった二項対立が二人芝居であることの意味になっている。「私2」は、最初は男社会の価値観にとらわれない自由な女性であるかのように描かれますが、実は男にモテるとかそういうことに価値を見出していて、「私」と大差ないことがわかってしまいます。

 

 結局、「私」は「私2」に誘われてスカーフを胸に詰め込まれ、「巨乳」であるホルスタインになってしまう。つまり、男を誘惑できる体を得るわけです。でも、誘惑の価値を定めるのは「男性」ですから、結局勝ってない。

 

そもそも、「私2」が登場したときの「私は特別に自由よ、他の女と違うのよ」という特別視の方法は、女性がミソジニー(女性嫌悪)から逃れる手段として使い古されているんですよ。しかもそれは、特別になれない他の女性への差別を再生産しているだけなので、見ていて苦しくなってしまう。……何度も言うとおり、わかってやっているんだと思いますが、わかってやっているから何なのって思っちゃう。

 

山崎 男性的価値観に対するアンチに見えたものが、結局は男性的価値観を内面化しているだけだった。マッチョになることによって特別になろうとしているんだということが、最終的に胸の谷間から男性器が生えてくることで表現されています。結局、内面化を乗り越えるつもりが、ますます内面化してしまってそこから逃れられないという話なんだと思います。逃れられないならもう踊るしかないよね! と言って、自分から踊ることを選ぶ。

 

 「私」がずるずると付き合うことになる会社の先輩ひろしは、「私」を馬鹿にすることでしか自分の優位を確かめられないわけですが、その成れの果てが、後半の登場する、胸から生えている巨根にしか自尊心の拠り所のない「カチコンおじさん」というのは悲哀溢れるストーリーですよね。それは結局、女を馬鹿にできるという意味の男の規範の中で強く男らしくありたかった、でもそうなれなかった男の姿なんですよね。

 

山崎 既存の価値観から抜け出すことの困難を描いた作品だと思うから、抜け出せていないというところを取り出して批判しても意味がないとは思います。だからといって単に抜け出すことの困難を描いているというだけでは俺は評価できないです。

 

 私が思ういちばんの問題点は、既存の価値観に自己言及的であることこそが、見る側に、ミソジニーなり、既存の価値観に安住することへの免罪符になっているのではないか、ということです。

 

山崎 この作品の上演を見て、自分の問題として捉える男性はそれほど多くないと思います。男性があまりに戯画化されているので、俺はあんなにマッチョじゃないよ、と安心して見ることができてしまう。一方、女性は嫌なものを見せられたと思う人が多いのではないかと思うのですが、そのことに果たしてどれほどの意味があるのか。

 

 派手に戦っているようで、本当はミソジニーとの対決を避けているんじゃないかな。たったひとりで戦えるものじゃない、という絶望はわかる。だけど戦っているように見えてしまうというのは、不幸なことだと思う。

 

山崎 終盤で「私」は、怪しい中国人歌手の代理人になぜ女は合皮のパンプスを買わされるのかと問われて、「はい 女性支配のためです パンプスのせいでお金が常にないので 男性に媚びてご飯をおごってもらおうとしてしまいます」と言わされます。

 

男性の欲望を「私」が代弁させられているわけですが、この戯曲では同じ構造が形を変えて繰り返されています。カチコンおじさんにフェラチオする人形がおじさんの腹話術でしゃべる場面が顕著ですが、中国人歌手マオ・メイジーもおそらく「毛美子」だし、実際に登場するのはその代理人で、「私」はさらにその代弁をすることになる。

 

俳優2が今回の上演では男性で、しかも一人で複数役をやることの意味がここにあるのは明らかです。構造としては極めて巧みで、手を替え品を替え同じ構造を繰り返すことでその逃れがたさが浮かび上がってきます。

 

ミソジニーを自分に向けることによってそこから逃れようというある種倒錯した試みが行われていて、当然だけどそんなことをしても苦しいだけ。逃れられるわけがない、ということが書かれているわけですが……。

 

 うん。「自分に向ける」というか「私」に、よね。だから、この「私」は十分に傷ついているから、観客が「私」を悪く言うのはやめてあげようみたいな気になりかけるのも、危ないところなんだよね。作品自身が、もっと突き抜けた自己肯定に辿り着ける力を、いつの日か見たいなと思いますが、今作は、先人の女性劇作家たちが築き上げてきた女性の地位を、スタート地点に戻してしまいかねないものなので、受賞するべきではないと思います。

 

 

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■山縣太一『ドッグマンノーライフ』

 

あらすじ:男1〜4、女1〜4による演劇作品。ある夫婦がおり、どうやら夫は失業した模様。かわりにスーパーのパートに出るようになった妻が最近、外で輝きを増していて、男ができたんじゃないかとか、なんとなく不安だったりそうじゃなかったりの毎日。スーパーで駒になって働くむなしさ、恋人とのだらだらした関係。人間は所詮、犬のように誰かに飼われ囲われるしかないのか? 発話によるさまざまな体の変化を通して、演劇と言葉の関係性を見つめ直す意欲作。(落)

 

やまがた・たいち:1979年生まれ。神奈川県横浜市出身。自由の森学園高等部卒。オフィスマウンテン 主宰、劇作家、演出家、俳優。

 

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 山縣太一さんは、チェルフィッチュに長く出演してきた俳優でもあり、現在はオフィスマウンテンというカンパニーで作・演出を手がけるようになっています。今回の『ドッグマンノーライフ』は、音楽家の大谷能生さんと組んだシリーズの第2回公演として発表された作品です。男1〜4、女1〜4の登場人物がダベりながら話が進んでいきます。いちおうの筋立てとしては、ある夫婦がいて、夫が仕事を失い、妻がスーパーのパートに出るようになってから、なんだかどうも輝き出していて、ちょっと不安、という話を延々としている。

 

山崎 最初にザッと読んだとき、話の筋がほとんど頭に残りませんでした。

 

 タイトルは『犬人間能生』の英訳らしいよ。『ドッグマン(犬人間)・ノー(能)ライフ(生)』

 

山崎 まじか(笑)

 

 それくらい、意味には重きを置かれていない。つまり、これが評価されたのは、身体と一体化した言語のグルーヴィーさにあるのではないか。戯曲の中でも「っていや演劇っぽくないですか? こういうの?」とか、「演劇っぽくなってきたぞっと」とか、台詞での演劇への自己言及があって。発話と身体、音楽的な言葉の流れというものが現代的ということ……かなあ。

 

山崎 「かなあ」(笑)。でも、そうなるよね。

 

 どうしても、上演ありきというか、会話から身体以外のものが浮かび上がってこない感じがあって。

 

山崎 同感です。それで何が悪いと言われても、いや別に悪くないです、みたいな。それはそれでいいと思うけど、でもそれに戯曲賞を与えるかと聞かれると、考え込んでしまいます。

 

 そうなんです。

 

山崎 身体にグルーヴを生じさせるための装置として戯曲、という評価はあり得るか。戯「曲」ですから、「曲として評価している」といわれたら、なるほどと思うところもあります。

 

 これラップだとしたらけっこういいリリックですよ。声に出して読んでみたけど、韻も悪くない。

 

山崎 ほとんどそれしか考えてないんじゃないかという印象を受けました。駄洒落という意味では、去年の候補作の神里雄大作『+51 アビアシオン, サンボルハ』とどう違うんだ、と言う人もいるかもしれないけど。

 

 やっぱり神里雄大とは、駄洒落における背景と思想が違うんじゃないかな。

 

山崎 『アビアシオン〜』は駄洒落で連なる言葉がイメージを広げる役割を果たすけど、『ドッグマン〜』の駄洒落は音でしかない。身体以外に立ち上げたいものがない感じがします。

 

 身体のゆるさや柔軟性、移動を引き出すための駄洒落、言葉の滑り。それがこうして賞の俎上に乗っているわけですが、この形式に戯曲賞という権威を与えるのは、良いことなのだろうか。

 

山崎 演劇のためのものというより、ダンスのためのものだと言ったほうがまだ納得できるかもしれません。

 

 「ダンスのため」というのはつまり「身体を動かすため」の言葉という意味になるよね。この作品は、結果的に言葉で身体が動かされたことによって、観客なり、俳優の心なりが動くものだと思うので、戯曲の段階で心動かされるということは、私は起きなかったです。

 

山崎 単純に読み物として評価するとおもしろくない。「女3 女2の話の途中で登場。スーパーのピークタイムの店員、もしくはライブ会場で盛り上がった客のような忙しない動きをしている」みたいなト書きからは、台詞ほどグルーヴを感じられなかったのも気になりました。

 

いずれにせよ、この戯曲を評価するか否かという問題は、戯曲をどのようなものとして捉えるかという問題になってくると思います。グルーヴを生むことのきっかけとして優れているかどうかという点で評価しなければならないのであれば、俺にはそれを評価するための十分な基準がないです。

 

今日、作品を扱う順番は、作品のタイプやモチーフが近いものごとにグループ分けして並べてみたんだけど、結果的に戯曲から上演台本へという並びにもなっているように思います。というわけで最後は『PORTAL』です。

 

 

林慎一郎『PORTAL』

 

あらすじ:街の中心にいる男・クラウドは日夜、街の住民をナビゲートしている。一方、クラウドによって街の外れへと飛ばされる男・ハンマーはポータル(入り口)を作る銃を手に中心を目指す。託児所、レンタルビデオ店、パチンコ、インターネットカフェ、スタジアム。日常の街の風景の裏側では、スマートフォンを手にしたエージェントたちによる画面越しの戦争が行われている。(山崎)

 

はやし・しんいちろう:1977年生まれ。北海道函館市出身。京都大学総合人間学部卒。極東退屈道場 主宰、劇作家、演出家。

 

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(写真撮影:清水俊洋)

 

 

山崎 林慎一郎さんは、極東退屈道場という関西の演劇ユニットを主宰しています。今回の作品はご自身のユニットで上演したものではなく、昨年亡くなった松本雄吉さんの演出で「KYOTO EXPERIMENT 2016 春」で上演されたもの。イングレスというスマホの陣取りゲームが題材です。

 

物語を追うのは少々難しい作品ですが、スマホの画面を通じてしかアクセスできない都市のレイヤーというところからはじまって、都市の中にたしかにあるけど見えていない、見ないことにしている風景の存在、周縁からの中心の転覆の可能性といったことが書かれた作品だと理解しました。

 

 視覚、聴覚、穴を開けるという手応え、いろんな感覚をフルで動員する作品だなとまず思いました。だけど、最後まで通して読んでみても、その「街」の概念が概念のままでありすぎて、取り合いの虚しさがリアルなところに届いてこないなと思った。

 

街の概念を拡張するというゲーム的な空虚さと、戯曲の概念的な台詞の空虚さはリンクするんだけど、これはやっぱり、維新派(松本雄吉演出)ならではの建築物のような舞台美術とセットでないと、文字だけではそのリアリティに迫れないのではないかと思いました。

 

山崎 上演台本問題にはあとで戻ってくることにして、もう少し戯曲の内容に踏み込みたいと思います。街の中心にいるクラウドがハンマーを遠くに投げることで街が広がっていくという設定があって、ハンマーは街の拡張に必須の存在です。ハンマーという名前に杭を打つ、建築の含意もあることを考えると、肉体労働者を意味していると解釈することもできます。

 

しかし、投げ飛ばされたハンマーは周縁へと追いやられてしまう。そういう中心と周縁の関係がまずは一つ、戯曲の核としてあるわけです。維新派のサイトには「衛星都市」という言葉もありましたが、これはそのまま居住地域の問題にもつながってきます。

 

さらに、中心であるクラウドの周囲をぐるぐると回るハンマーの運動はまさに衛星の運動でもあり、衛星の撮影によって地図が出来上がっていく様子もそこに読み込むことができます。都市に潜む複数のレイヤーを描き出す作品ですが、戯曲自体が複数の意味のレイヤーによって構成されている。

 

 そうだね。中心には富裕層が暮らし、労働者は周縁に住む。毎日毎日街の中心には溢れんばかりの人々が通勤し、また周縁に帰ってゆく。

 

山崎 ハンマーが常に中心に戻ってこようとするのは、周縁に追いやられた人たちが再び中心を目指しているのだと理解できます。だから、ハンマーはポータルという穴を開けることができる銃を持つテロリストでもある。

 

ハンマーを隔離するかのように壁が建設される描写もあります。アメリカとメキシコの国境に壁を建設するというあの話を思い出しました。そうすると(壁に)穴を穿つことは今度は格差への抵抗になる。ハンマーは銃の撃鉄でもあるわけです。一方、そんなことは知らぬげにシネコンで映画を見ている平和な家族がいて、その対比に格差が存在することすらも見えないほどに分かれてしまった都市のレイヤーのあり方がはっきりと書き込まれています。

 

託児所「シネマコンプレックス」、インターネットカフェ「予備校」という一見ふざけたネーミングにも、舞台床面に映し出される様々な縮尺の地図にも、レイヤーを一枚めくれば違った景色が見えるという可能性が示唆されています。上演を見ることはできませんでしたが、これがスペクタクルとして舞台上に展開されるのは相当見応えがあったでしょう。

 

 たしかに、周縁が遠くなればなるほど中心が空虚になるという構図もあるし。ただ、私はその虚しさがリアルなところに届いてこないと感じてしまった。記号的にすっきりと気持ちよく見ることが出来すぎてしまうのではないかと。

 

それから、戦う男たちを、ラジオを聞いている女が待っている描写があって、それはバーチャルな戦いとの対比だと思えるんだけど、概念の中で闘う男と生活の中で待つ女という構図は、古いロマンティシズムに思えてしまったな。

 

山崎 なるほど、たしかに男女の関係の書き方はちょっと古いかも。でも記号的であることもこの作品の肝だからそこは判断が難しいです。全体としてはまさに現代を描いた作品だと言うことができると思います。

 

たとえば中心、つまり権力の座にある人物の名前が「クラウド」だというのはとても現代的。クラウドがラジオDJとして街中の人に声を届けていることからもわかるように、中心=権力は遍在していて、抵抗は一筋縄ではいかない。複雑な作品ですが、複雑さをもってしてしか描けないことを描いています。

 

 待合室で体の一部だけ出して待っている体たちがいるのも、「穴」というモチーフにはとても忠実ですよね。

 

山崎 そう、そこでもまた別の広がりが生まれている。人々はレイヤーに分断されている一方で、巧みにレイヤー間を行き来していたりもする。非常におもしろく読みました。……が、だからこそ上演台本問題が立ち上がってきます。

 

そもそもこの上演台本を林慎一郎「作」ということにしてよいのか。テキストは林さんが書かれたと思いますが、五拍子や七拍子のリズムを表すと思われるドットが並ぶ書き方や、舞台のレイアウト図は、維新派の上演台本にそっくりです。

 

実際のところ、どこまで演出の松本さんの手が入っているかは確認しないとわかりませんが、全く入っていないということは考えづらいのではないでしょうか。しかもこのドットは上演時のリズムを表しているだけであってまさに上演台本なわけです。

 

 戯曲としての新しい表記ではないですね。「地図 を ・ 歩 け」「バン ・ バン ・ バン」とか、このリズム通りに聞いていたら気持ちよかろうなとは、思いますけど。というところで、賞の予想に戻りますか。

 

 

ややおとなしかった傾向

 

 全作通して語ってみて、予想は変わりそう?

 

山崎 変わらないなあ。対抗は? 俺はなし。

 

 やっぱり上田さん一択だな。

 

山崎 特定の上演に特化した上演台本で岸田賞を受賞するのは難しいとは思うんだけど、本当におもしろかった『PORTAL』を大穴として挙げておきます。

 

 今回の候補作は、未来やパラレルワールドをシミュレートするような戯曲が少なかったと思う。隠れていた歴史に焦点を当てるとか、お勉強した結果を戯曲にする作品が目につきました。

 

未来をシミュレーションするのはフィクションの大きな役割だと私は思ってる。だから今回SFの要素のある上田作品を推すことになったのは必然だったと思いますが、その他の候補作は、そうしたシミュレートの役割をあまり果たせていなかった。

 

山崎 そこについてはいろいろなスタンスの作品があっていいと思うんだけど、全体としてはおとなしい印象を受けました。それだったらすぐれた先行作品があるからそっちでいいよね、と思ってしまうような。

 

 私は、女性観や女性の描き方みたいなことにもいろいろと口を出してしまいましたが……。

 

山崎 「支える妻」モノ多すぎ問題はあるよね。

 

 家父長制の時代を描く時に、時代背景として夫を献身的に支える妻が出てくるのは致し方ないんですよ。だけど、それをあまりに無垢に肯定しているように見えるので、危機感を持つんです。

 

「支える妻」側の「私がいなかったらこの人ダメなんじゃないか」って思えるのは、矛盾するようだけど関係性としてはこの上ない至福なんです。演劇って、実際にそのシーンを舞台で立ち上げるとグッときちゃうから。相手が男性でも女性でも、一人でも複数でも変わらないと思う。それこそ、こいつ可愛いやつだな、みたいな見くびり合いこそが恋の醍醐味だけれど、でも、そこからふと離れた時にやってくる厳しい孤独に向き合った作品はなかったと思います。

 

 

■白水社・岸田戯曲賞 サイト

http://www.hakusuisha.co.jp/news/n12020.html

 

▽関連サイト

Q http://qqq-qqq-qqq.com/

ヨーロッパ企画 http://www.europe-kikaku.com/

てがみ座 http://tegamiza.net/

趣向 http://shukou.org/

ミナモザ http://minamoza.com/

極東退屈道場 http://taikutsu.info/

オイスターズ http://www.geocities.jp/theatrical_unit_oysters/

オフィスマウンテン http://officemountain.tumblr.com/

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

 

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