2017.02.24

ジャンルもおもしろみも多様な8作品――第61回岸田國士戯曲賞予想対談

山崎健太(演劇研究・批評)×落雅季子(劇評家)

文化 #岸田國士戯曲賞

去る1月、第61回岸田國士戯曲賞(白水社主催)の候補作8作品が発表されました。昨年に引き続き、演劇研究・批評の山崎健太さんと、劇評家の落雅季子さんによる対談をお届けします。若手劇作家の奨励と育成を目的とし、新人の登竜門とされることから「演劇界の芥川賞」とも呼ばれる岸田戯曲賞。力のこもった8作品とがっちり向き合い、語り合います。受賞作の予想もあり。選考会および受賞作の発表は2月27日です。(構成/長瀬千雅)

ノミネート作品・選考委員

第61回岸田國士戯曲賞最終候補作品一覧(作者五十音順、敬称略)

エントリー

*第61回の候補作品は期間限定で公開されています

https://yondemill.jp/labels/167

選考委員:岩松了、岡田利規、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、野田秀樹、平田オリザ、宮沢章夫(50音順)

受賞作を予想してみる

山崎 去年は、1作品ずつ全部語ったあとに、受賞作を予想したんですよね。今年はまず最初に、それぞれの予想を出してみましょうか。

 じゃあ、せーので。

山崎 上田誠さん。

山崎 被りましたね……。

 去年、岸田賞とは文学でいう芥川賞みたいなものですよという話をしたと思うんですね。でも文学は純文学の芥川賞、大衆文学の直木賞、その他にもその年のすぐれた作品に与える文学賞がいくつかありますが、今回の岸田賞の候補作にはジャンルもおもしろみも多様な作品が集まっていて、直木賞芥川賞ごった煮みたいな、そんな感じがあります。

山崎 2015年から愛知県芸術劇場が主催するAAF戯曲賞がリニューアルして、元快快の篠田千明さん、第七劇場の鳴海康平さん、指輪ホテルの羊屋白玉さん、地点の三浦基さんと4人の演出家が審査員になりました。ご自身で戯曲の執筆もする方も含まれていますが、結果として、AAF戯曲賞は文学で言えば芥川賞寄りに大きくシフトした形になったと思います。

公募制か否かという大きな違いもありますが、今後、劇作家の審査する(と言いつつ現在の審査員は全員、作・演出を兼ねる方ですが)岸田賞と演出家の審査するAAF戯曲賞でカラーがはっきりしてくるとおもしろいのではないかと思います。

では、二人とも受賞作と予想した、上田誠さんの『来てけつかるべき新世界』から。

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山崎健太氏
落雅季子氏
落雅季子氏

上田誠『来てけつかるべき新世界』

あらすじ:時は人工知能やドローンが当たり前の存在になった近未来。主人公は大阪・新世界で、串カツ屋を営んでいるマナツ。店の常連にはダメダメなおっちゃんがいっぱい。ある時、店に謎の東京男子テクノはんが現れ、マナツに求婚?! そこへマナツの幼なじみのへたれ漫才師、キンジが帰ってきてまさかの三角関係に。おっちゃんたちは相変わらずギャンブルに恋に右往左往。物語はやがて人工知能VS人間の戦いに突入! その危機を救ったのは何と……。(落)

うえだ・まこと:1979年生まれ。京都府京都市出身。同志社大学工学部中退。ヨーロッパ企画 代表、劇作家、演出家。

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 言うまでもなく「新世界」には、大阪の「新世界」という地名と、「新しい世界」がかかっていますね。全編関西弁で、コントのように進行していくスタイルの戯曲が俎上に上がるのは珍しいと思いますが、これはコメディとしてもよく練られているし、人工知能との未来をファニーかつシビアに予想していて、笑える。おっちゃんたちがどいつもこいつもろくでなしなんだけど、みんなキュートな部分を持っていますね。キャラクターひとりひとりがガッチリと魅力的で、作品としてのクオリティにつながっていると思います。

山崎 上田さんの作品の多くはいわゆるシチュエーション・コメディで、ある一つの設定から、それによって引き起こされる様々な事態を描くのが巧(うま)い作家です。たとえば、映画化もされた『サマータイムマシン・ブルース』では、タイムマシーンを演劇に登場させるというワンアイディアから作品が膨らんでいる。

タイムマシーンを使って何をするかと思えば、昨日に戻って壊れる前のエアコンのリモコンを取ってくるわけですが、そのしょうもなさ、オーバー・テクノロジーを手にしても変わらずダメな人間のチャーミングさを描いている点にこそ上田作品の魅力はあるのだと思います。

今作はその集大成的な作品。全5話の連作でそれぞれドローン、ロボットによる労働、ディープラーニング、VR(バーチャルリアリティ)、人格のバックアップとSF的な、しかしもはや身近にもなりつつあるガジェットを話の核に据えながら、「新世界という名の、古うて新し」い、変わらないままに変わっていく世界を描いています。タイトルのダブルミーニングも効いてる。

 こういう賞の選考に際して、コメディは評価されづらい傾向がありますが、近未来のシミュレーションとしての物語がすごくおもしろくて、緻密だけどふざけていて、でも人間ってこんなものかもしれないという悲哀も滲んでいて。

山崎 新世界はNHKの連続テレビ小説『ふたりっ子』(1996〜97)の舞台でもありました。頭にビリケンさんを乗せた演歌歌手・歌姫は、頭に通天閣の置物を乗せた演歌歌手・オーロラ輝子へのオマージュでしょう。連作の各話にタイトルがついていて、それぞれがナレーションから始まるのもなんとなく朝ドラを思わせます。朝ドラのフォーマットにSF的なガジェットを導入したのは一つの発明だったと思います。

 去年、戯曲におけるダメなナレーションの話をしましたが、この作品のナレーションは、説明のためのナレーションではないですからね。ナレーションを置くことで「朝ドラみたいに見てね」と作り手側からメタ的に語りかけられている。

山崎 朝ドラの「庶民感」が効いている一方で、ラストで宇宙大戦争みたいになるのも馬鹿馬鹿しくてよかった。電脳社長が経営するサイバーゼリヤとギガスト、ユビキ族が新世界を飛び出して全宇宙で覇権を争う。全宇宙規模の馬鹿馬鹿しさ!

 ずっと昔に死んだマナツのお母ちゃんのライフログが残ってて、人工知能の中で生き続けてマナツを見守っていたところとか、感動的ですよね(笑)。しかし、最後はおかんはサイバーゼリヤペルセウス座のエリアマネージャーになるからもうマナツの側にはおられへん、というオチ(笑)。そしてマナツもひとつ成長するというわけですね。

山崎 笑いあり涙ありでエンターテイメントとしての完成度も高い。

 感動とカタルシスがありますね。すごく良いと思います。

山崎 人間のしょうもなさをチャーミングに描くことができるのは生身の人間が演じるという前提があってこそのことで、小説ではなく戯曲としてこの作品が書かかれていることの意味も十分にある。戯曲賞にふさわしいと思います。

 私も受賞に値すると思います。上田さんは『四畳半神話体系』というアニメーションのシリーズ構成・脚本など、他ジャンルの作品を手がけたり、他の舞台の演出をしたり、地力がとてもある方ですよね。ここで下町人情と近未来のシミュレーションを見事に融合させた手腕は、さすがのベテランだと思いました。人工知能とは何かを突き詰めて考えると、人間の営みを描くことに辿り着く。コメディでしっかり人間と人工知能の対決を見せつつ、どこまでも失われない人間味は感動的でした。

平塚直隆『ここはカナダじゃない』

あらすじ:カナダに行くのを楽しみにやってきた男1と男2。でもどうやらここはカナダじゃなくて……? 現実を認めたくない男と、徐々にあきらかになるそれでもしょうがない事実。名古屋ローカルネタを散りばめながらそれでも「ここは名古屋じゃない、カナダだ!」と言い張る登場人物に対して、観客からの「ここはカナダじゃなーい!」と全力でツッコミ待ちしている作品。(落)

ひらつか・なおたか:1973年生まれ。愛知県名古屋市出身。名城大学商学部卒。オイスターズ 劇作家、演出家、俳優。

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 平塚直隆さんは、「オイスターズ」という劇団で名古屋を中心にずっと活動されています。平塚さんは、あるシチュエーションの中で人が不条理に巻き込まれ、静かに動揺しつつ、その間にだんだん世界がおかしくなっていく……というような作風がうまい方です。

この作品も、タイトルで『ここはカナダじゃない』と言っているのに、最初の台詞が「ここが、カナダか」ですからね。冒頭から胡散くささ満点で、かなり期待して読み始めました。……ですが、結果的に小さくまとまり過ぎてしまったかなと思います。それはシチュエーションが小さいからという理由ではなく、もっともっと登場人物を不条理な出来事に突き落としてもよかったんじゃないかと思うからです。

山崎 不条理風ではあるかもしれないけど不条理ではないんですよね。カナダに行くはずだった男二人がなぜかカナダではなく名古屋に着いてしまうんだけど、それをどうしても認めたくないからカナダだって言い張る話で、そこには別に不条理はない。名古屋に着いた理由は謎のままですが、現実に起き得ないことではないでしょう。

「男1」「男2」という役名の付け方を見て、別役実を意識しているのかなと思ったんですが、別役の戯曲は、少しずつ噛み合わない論理が積み重なっていくことによって日常の足元が突き崩されるような怖さがあって、それがおかしさでもある。この作品では論理は通じています。「認めたくない人」「穏便に済ませたい人」「現実を見させたい人」と役割もはっきりしていて、屁理屈ではあるかもしれないけどほとんど論理によって構成されていると言ってもいいくらいです。でも怖くはない。

 そう、ぞっとする怖さがあるとよかったですよね。

山崎 一方で、現代社会批判めいたことは上手に盛り込まれている。「スマホの地図ばかりを見ていると、いつかとんでもないところへ連れて行かれていることにも気づかないで終わる」とか、日本人であることにやたらこだわる男が出てくるとか。でもそれもこちらの身には迫ってこないんですよね。説明的というか。

 社会的な視線への目配せ的な感じもしますね。

山崎 それを演劇でやることの意味も十分に用意されています。登場人物が「これは演劇ですよ」と明示するような言葉を言ったりするんですね。「じゃあもう三十分経ったって事にして」とか。この作品が上演されたのは三鷹市芸術文化センター星のホールで、そこはもちろん「カナダではない」。でも、もちろん名古屋でもないわけです。アイデンティティの根拠を問うという主題を演劇のお約束を使って巧くやっていると思います。思うんだけど、そういうことが全部飲み込めちゃうから、おもしろかった以上の感想は抱きづらい。

 旅公演の多い劇団なので、コンパクトな舞台設定で、不思議なことが起きるシチュエーションがつくれるのは彼らの良いところでもあると思うんです。

山崎 同じ主題だったらやはり別役のほうが数段上手だと思います。何気ない会話が展開していく中で、なぜだかよくわからないけれど説得されてしまい、気づけば自分から死なざるを得ない状況になっているというようなことが起きるところに別役の凄みがある。しかもそれが笑えるところが本当に怖いんだけど、この作品はそういうことにはならない。

 私ね、戯曲読んだ後のメモに「人が急死とかしたらよかったんじゃないか?」と走り書きしていたんです(苦笑)。誰かを殺すかどうかは別にして、本来の意味の不条理さを、しっかりと感じさせて欲しかった。平塚さんの創作ペースと、クオリティには安定したものがあるので、これからも期待していきたい名古屋の劇団です。

山崎 微温的な怖さという意味では現代的ではあるのかもしれないけど、モチーフとしてアイデンティティの根拠を問うということがあるのに、こちらのアイデンティティが揺るがされないのではやはり作品として弱いと思います。

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長田育恵『SOETSU  −韓くにの白き太陽−』

あらすじ:思想家・美術評論家で民芸運動の中心となった柳宗悦は、朝鮮の白磁に美を見出す。朝鮮人に自分たちの文化の美しさを知り、それを誇ってほしいと願う宗悦は、民族美術館の建設を計画。朝鮮人の協力者も得て計画を推進するが、日本人からも朝鮮人からもなかなか賛同が得られない。ようやく完成した美術館だったが、そこでは朝鮮人による総督暗殺計画が実行されようとしていた……。(山崎)

おさだ・いくえ:1977年生まれ。東京都出身。早稲田大学第一文学部卒。てがみ座 主宰、劇作家。

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山崎 長田育恵さんは、綿密な取材や調査に基づいて戯曲を書くタイプの作家で、井上ひさしさんに師事していました。2013年の『地を渡る舟−1945/アチック・ミューゼアムと記述者たち−』は第58回岸田國士戯曲賞の最終候補になっています。昨年は『蜜柑とユウウツ−茨城のり子異聞−』で第19回鶴屋南北戯曲賞を受賞するなど、すでに高い評価を得ていて、安定して高水準の作品を供給する力のある作家だと思います。

てがみ座を主宰されていますが、今回候補作になったのは、民芸運動の柳宗悦を題材に、劇団民藝に書き下ろした作品ですね。今作も読ませる力はもちろんあるのですが、なんというか……正しすぎるところが引っかかりました。

 作家って、自分自身の「倫理観」からどれだけ逸脱したことを、真実味をもって描写できるかが、ひとつの力だと思うんです。だけどこれは、王道の倫理観が逸脱しそうなことが起きると、先回りして説明して観客を安心させてしまう。たとえば特高警察側に宗悦の昔なじみがいると最初にわかるから、宗悦がひどい目に遭うことはないだろう……とか。

宗悦の妻の兼子は、朝鮮の白磁の壷にしか関心のない夫の代わりに生活費を稼ぎ、育児をする典型的なこの時代の「夫を支える妻」ですが、声楽家の彼女に、美術館設立へのチャリティコンサートを求める高圧的な宗悦に対し、兼子に「じゃあ美術館ができたら今度は私に、ドイツへの音楽留学をさせてね」と言わせることで、夫と妻の不均衡をあらかじめ先回りする……とか。

山崎 単純な善悪の二項対立にしてしまわないというのが徹底されすぎているように感じました。柳宗悦は朝鮮の人たちのためにと思って善意で動いているというのが大筋ではあるわけですが、それは宗悦の独りよがりでもある。あるいは、そのような活動をよしとしたとしても、現在の価値観からすれば夫としてはヒドい男だと。

善悪の価値判断は絶対的なものではないし、人も善悪で割り切れるものではないというのは当然のことですが、最初からそのバランスを取ってしまうので、読み手としては気づきに欠けるように感じました。

 柳宗悦は宗主国の人間でありながら、朝鮮のためにという理想を掲げて運動し、その運動は政治によってつぶされていったわけですよね。その物語を見る観客が安全な場所に置かれては、何のためにこれを描こうとしたのかがわからない。取材すればするほど、どっちの意見もフェアに聞こうと思い過ぎちゃうのかな。

山崎 男と女とか、日本と韓国とか。

 日本と沖縄とか。

山崎 そういう対になるものが全部、最初からどちらかに寄り過ぎないよう配慮されてしまっている。バランスをとるのは「正しい」ことですが、最初から釣り合ってしまっていて、天秤が揺れない。

 長田さん自身が、宗悦の振る舞いを本当はどうジャッジしたのかが見えない。いろいろ調べた上で何を書かなかったのか、取捨選択した様子を読みたかったです。全部バランス取らなくても、観客を信じて、すべてを書くという意味でのフェアにならなくていい。たとえモチーフが偏っていても、それを独りよがりに見せない筆力はお持ちの方だから、できるはず。このままでは、歴史のお勉強のような、大河ドラマになってしまうんですよね。

山崎 あまりに作品のスタンスが正しすぎて入っていけない感じがしました。とにかく宗悦にイライラする。イライラするように書かれている。ナイーブな理想主義で現実を見ないロマンチスト。子供の服を買うはずの金で自分の本を買うクソ野郎です。

 言葉は悪いですが、同感です。そして最後に、亡くなった友人「浅川巧」の葬儀で、「巧さん、この白は……哀しみじゃない。いのちの色だ。」と言い放つ厚顔さに、うんざりしてしまいました。朝鮮のために働いた未来ある若者を政治運動で死なせてしまったことに対して、あまりに「美的」価値に回収しすぎてはいないでしょうか。美しいエンディングであることは間違いないのですが……。

山崎 理想に燃える宗悦のロマンにこちらが乗っかる前に、作者が先回りして宗悦の否定的な面を示してしまうので、両義的な意味を持ち得るはずのラストで読み手が引き裂かれることがない。

 結局、この作品における宗悦自身は、己の美の戦いにおいては破れていないんですよね。この宗悦なら、同じ文化の搾取を沖縄でやろうとしてしまうだろうという傲慢さを感じます。本人はもちろん搾取と思っていない。もちろん、文化の保護は誰かがやらなければならない。でもその泥くさい欺瞞に、戯曲の描写が辿り着いてはいなかったです。

山崎 宗悦のロマンに観客が同化してしまうことを避けようとするあまり、逆の方向に振れてしまっているように感じました。宗悦に対するマイナスのイメージがあまりに大きい。ただただ理想の人物として描くよりは誠実な態度だとは思うのですが。

 次に語る作品にも影響する話ですが、理想を持って生きる人をどう描くかは、作家の価値観が出るところではないかなと思います。

瀬戸山美咲『埒もなく汚れなく』

あらすじ:不器用に生きることしかできない大竹野と妻・小寿枝の関係を中心に、高校時代の演劇との出会い、結婚と、子供ができてなお、アルバイトのように働きながら演劇活動を続け、賞をとって評価されながらもプロになることを拒み、最後には海で行方不明となった劇作家・大竹野正典(1960〜2009)の半生を描いた伝記作品。(山崎)

せとやま・みさき:1977年生まれ。東京都出身。早稲田大学政治経済学部卒。ミナモザ 主宰、劇作家、演出家。

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山崎 『埒もなく汚れなく』は、大竹野正典(1960〜2009)という実在の劇作家を描いた伝記ものです。瀬戸山美咲さんはミナモザというユニットを主宰していますが、この作品はオフィスコットーネのプロデュース公演のために書いたものですね。瀬戸山さんも取材に基づいて戯曲を執筆することの多い作家です。

 多いですね。2013年の『彼らの敵』では第58回岸田國士戯曲賞にもノミネートされていますし、2015年の同作再演は第23回読売演劇大賞優秀作品賞を受賞しています。

山崎 これも『SOETSU』に続き、「夫を支える妻」モノなんですが。

 人間的には弱すぎるが才能がある夫。それを支える妻。彼らの子供も登場するんですが、娘である都も、失踪してしまった父をあらかじめ許しているように見える。作品全体を通して、大竹野を許していない人間が出てこないんです。それだけ魅力があった人間だと思うし、瀬戸山さんもだからこの人を書きたいと思ったのでしょうけれど。

山崎 ラストで、大竹野の遺作となった『山の声』と大竹野自身とが重ね合わせられるところは巧いなと思いました。『山の声』は、実際に山に魅了されていた大竹野が、登山家加藤文太郎の手記を下敷きに、冬山での遭難事故をモチーフに書かれた作品です。そのクライマックスシーンで、死んでいく男が妻と子供に会いたいと口にする。すでに死んでしまっている大竹野と残された妻・小寿枝がその場面の台詞を読み合うところはグッときました。

 あのね……この作品の大竹野のような才能ある男に尽くすのって、幸せなんですよね……。給料を全部パチンコに使ってきちゃう夫をどやしつけながらも、才能を信じて尽くすというのは、妻本人にも陶酔的なものをもたらすんですけど、でも、それが本当に生き方としていいのか……私は考えてしまいます。結局、大竹野が弱いまま死んでいくということを肯定してしまう。そのヒロイズムには付き合えないと、私は思いました。私はです。

山崎 取材した現実に基づいているんでしょうし、強くなればいいのかと言ったらそういうことでもないので難しいところですが、なぜそのような物語を描く必要があったのかというところは引っかかりました。娘の存在感のなさも気になります。都合よく使われている感じもあって。

 そうだね。都の台詞は、状況説明のためのナレーションになっているところがある。

山崎 説明する必要があるからという以上の、登場人物としてそれを語る理由がないと感じられるナレーションはやはり引っかかります。また、作品全体が大竹野の死後から過去を振り返るような構成になっているのですが、その「過去」に登場するプロデューサーの「女」は明らかに未来の視点からものを言っている。この女がいる意味、女にそういう台詞を言わせる意図がわかりませんでした。大竹野はすでに亡くなっているのだということが、この女の言葉で明らかになる、ということならまあわかります。でもそういうことでもないですし……。

 未来からやってきたプロデューサー(瀬戸山美咲を思わせる)に「私のために新作を書いてほしい」と言わせることで、現在でも上演される価値がある作家であるということを伝えたい、再発掘したいという意図があったのかもしれないとは思いますが。

山崎 海で行方不明になった大竹野を案じる人々の様子を描いた場面に挟み込む形で、高校時代からの大竹野の人生を短い場面を連ねていく手さばきは巧みでした。大竹野という人物の魅力も十分に感じられたのですが……。

 大竹野が、本質的にどうしようもなく孤独な人だったということはわかります。そういう男が魅力的であることもわかったうえで、戯曲として、本当に書かれるべき彼の人生がどの部分だったのかは、私もよく考えてみたいと思います。

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オノマリコ『THE GAME OF POLYAMORY LIFE』

あらすじ:エンジェルは、ムーン、タイガーという二人の男性の恋人と暮らすポリアモリー(複数愛)の女性教師。エンジェルのことを昔から好きなアリスは、彼女のそんな暮らし方に反発を覚えつつ、関係が壊れるのが怖くて言い出せない。ポリアモリーの家族としてどう生きるべきか考えるエンジェルとムーン、そしてタイガー。そこに、エンジェルに恋をする彼女の教え子ガンダムが現れて……。(落)

オノマ・リコ:1983年生まれ。神奈川県出身。東京女子大学卒。演劇ユニット 趣向 主宰、劇作家。

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 『THE GAME OF POLYAMORY LIFE』は、ポリアモリーという、複数愛のセクシュアルマイノリティーの生活を描いています。よくモノガミー(一夫一妻、単婚)と対比されますが、複数の人と同時に恋愛関係を持ち、しかもそれが開かれているというライフスタイルです。

舞台は「2016年の豊かな国」と指示されていて、現代日本と酷似しているけれども、日本とは明示されていない。エンジェルという名前の女性を中心に、付き合っている男性たち、彼女に思いを寄せる女性や男性の姿が描かれる中で、幸せとは何かを描こうとしている作品だと思います。

山崎 正直に言うと、登場人物名と最初のト書きでだいぶ読む気が削がれました。ト書きに「豊かな国」とだけ書いてあって、冷蔵庫には「デルモントのケチャップ」や「ディジョンのマスタード」が入っているという指定から、海外ドラマ風なのかなとも思いましたが、ガンダムという単語が登場人物同士で簡単に了解されていることからも日本以外の国と考える必要があるとは思えませんでした。

 登場人物の名前は、エンジェルとか、ムーンとか、しかも「全部本名」だと何度も言及される。非常にファンタジックで少女趣味で、その名前によって、物語にフォーカスが合わなくなってしまうんですよね。

山崎 ポリアモリーが、ということではなく、戯曲の設定や言葉遣いに非現実的な印象を受けました。

 この作品の登場人物は、それぞれに真摯だし、悩んでいるように見えるけど、基本的には恋愛のキレイな上澄みしか描いてないように見えました。たとえば、アリスがエンジェルを好きなあまり嫉妬をするという描写があるけれども、執着にともなう葛藤がまったく見られないのが、上滑りだなと。恋愛っていくら複数好きな人がいても、やっぱり執着と嫉妬心との戦いだったりするのでは?

山崎 エンジェルは後半になるとわりとそんな感じじゃなかった?

 自分のことを好きなアリスと、一緒に暮らしている男性2人のうちの1人のタイガーが付き合うことになった時に、そんな感じもあったかもしれないけど、もっと煩悶してもいいと思う。むしろ自分の中に初めて芽生えた感情にもっと動揺するとか。

山崎 全体的に図式的ではあります。作家がそう思っているかどうかは別として、ポリアモリーについて取材したから私が教えてあげますよ、という感じを作品からは受けました。実際、作中のポリアモリストはとにかく説明する。書き手の腕の見せどころは、多くの観客にとって馴染みの薄い題材を、いかに説明的でなく描くかというところにあると思うのですが……。もちろん、作中のポリアモリストは非ポリアモリストに対して説明する必要があって説明しているのですが、その設定がすでに巧くない。

 勉強したわりに、到達している底が浅いです。「人を愛し愛されることが幸せ」という、そのファンタジーに立脚するなら、登場人物も背景もファンタジックにまとめては弱すぎますよ。ポリアモリーって、複数のパートナーがいて、それぞれの相手にちゃんと公にして付き合うんですが、何もかも共有する、全員に等しくするということはできなくて、その中でどうバランスを取り、お互いの、そして自分の最大の幸せを目指していくかという生き方だと思う。

そこには必ず傷付け合いや、苦しみが伴うはずですが、この作品の中では、このムーンという人が、あらかじめそれを超越したスーパーマンとして存在している。その他の登場人物の葛藤を受け止めるのにちょうどよすぎる。しかも「僕は世界を破滅から守るために使わされた月の化身。セーラー戦士なんだ」とか「月面星人」とか、ロマンティックすぎることを言ってしまう。ポリアモリーが結局異星人の愛し方で、本当の地球に住む人間同士の絡み合いだということがこのムーンの台詞でわからなくなってしまうんですよね。

本当にロマンティックな人間は全員を本気で愛するから、めちゃくちゃタフですよ。そのぶん、根気よく相手に説明をして、恋人たちを不安にさせないようにする。でも、ムーンはロマンティシズムを言い訳にしていて、誰かを本気で愛しているタフさがないんです。「ムーンは、感情のコントロールができてて、いいね」とエンジェルに言われて、一応「そうでもないよ、エンジェル」という台詞はあるのですが、結局カッコつけてる。恋愛の人間味みたいなものに全然到達していない。あ、月の人間だから人間味とかなくていいのか? でもそれって地球の観客には響かないですよ。

山崎 戯曲を読む限り、オノマさんが、ポリアモリーに対して理想を抱きすぎているのか、マイノリティーに対する配慮が過ぎるのか、何か大事にしすぎているように感じました。ポリアモリーの実情に合っているかどうかは別にしても、美化されすぎている感じはある。

 エンジェルは、職場では自分の生活を秘密にしているというダブルスタンダードがある。なぜ秘密にしなければいけないのかということを、教え子であるガンダムに語ったりもしますが、その説明は非常に表層的で、もっと踏み込んでもいいのにって思うんですね。セクシュアリティって本当に多様なものだと思うんです。

エンジェルは、ムーンとタイガー二人の子供が欲しいと言いますよね。セックスするのか人工授精なのかわからないけど、やっぱり身体的な結びつきって、パートナー同士なかなか心情的に折り合いがつかないところだと思う。いつセックスしてるかは秘密にしているポリアモリストもいるし。

「所有しない愛」というフレーズが出てくると思いますが「所有という概念を拡張し、相手のために折り合いをつけ、おのおの納得して複数の愛を持つ」というのがポリアモリーだと思います。タイガーが遭っていたDV被害の逃げ場のようになってしまう描写は、安易ですね。アリスとのパートで、そういう執着とか所有欲の根源にタッチしかかるんだけれども、もっと踏み込まないと本当の意味でタイガーはDV体験を克服することはできないように思います。

そして、結局、エンジェルの「好きな人ができました。デートをしました」という台詞、それに対するムーンとタイガーからの「おめでとう!」というほんわかムードで終わってしまうのはどうかと思います。もちろん、どんな恋愛も、まず好きになることから始まるわけですけれど!

山崎 フィクションでマイノリティーを書くときに、説明して教えてあげるというやり方は、もう全然有効じゃないと思うんです。ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』にさらっとゲイの登場人物がいたように、普通にいて当たり前のようにして登場させるか、もっと踏み込むか。

松尾スズキが障害者を描くときはどっちもやるわけです。現実に普通にいるから舞台上にも普通に登場させるし、障害者にだって悪いやつもいるから普通に悪事をさせたりもする。この作品にはそれがない。

あと、タイトルの「GAME」は駆け引きという意味で使われているのだと思うのですが、日本語話者にとってGAMEという単語は「遊び」のイメージが強すぎて、複数の人と愛を交わすポリアモリストの恋愛はやはりゲームのようなものである、という誤解も招きかねないものだと感じました。

 恋愛はゲームじゃないよ。真剣勝負です。作家自身が恋愛をどう考えているか、作家自身の恋愛体験がどうであるかなんて、私はどんな作家に対してもいっさい問いません。だって作品には直接関係ないから。ただ、作家として物語を書く以上は、もっともっと引き受ける覚悟があってほしい。理想の恋愛の姿を突き詰めるなら、もっと痛みが伴うと私は、思います。

市原佐都子『毛美子不毛話』

あらすじ:「私」は本革のパンプスを求めて路地裏をさまよっている。付き合っている会社の先輩は「私」の言うことを端から否定する傲慢な男だ。本革のパンプスを手に入れることで自信を取り戻そうとする「私」は路地裏で「もう一人の私」や胸から巨根を生やした「カチコンおじさん」、合皮のパンプスの呪いを解く鍵を握る中国人歌手マオ・メイジーの代理人と出会うが、本革のパンプスは手に入らないのであった……。(山崎)

いちはら・さとこ:1988年生まれ。福岡県出身。桜美林大学卒。Q 劇作家、演出家。

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(写真撮影:佐藤瑞季)

山崎 『毛美子不毛話』は二人芝居で、登場人物は「私」と「私」が出会う人々。戯曲には、「『私』は俳優A、それ以外の役は俳優Bが演じる。」と指定されています。市原さんは近作では特に、一貫して女性をテーマにしていて、体毛や排泄行為など、一般的には忌避されたり見て見ぬフリをされるポイントをあえて取り出して見せるような作風が特徴です。

 市原さんが主宰するQでは、そもそも女性の前に、犬などの動物をモチーフにした作品を発表していましたよね。

山崎 2013年の『いのちのちQⅡ』なんかは、生物としての人間そのものを問い直すような広がりがあって、おもしろく見ました。

 最近、小説の流れでいうと、村田沙耶香の『消滅世界』など、男も女も妊娠できるようになったり、子宮がいらなくなったり、性を均した世界が舞台になっている作品が目立ってきています。最近では、古谷田奈月の『リリース』もすごかった。あれはあらゆるセクシャリティを尊重しながらぶっ壊し、足下揺さぶってくる恐ろしい小説だった。そういう一度、男女の性を均してみて、そこからの新しいシミュレートが文学の世界では今試されているように思うんですね。

でも、市原さんは、巨乳もつけるし男性器もつけて最強になるみたいな、とにかく足して足していく方向性。だから巨乳の象徴としてのホルスタインや両性具有のケンタウロスに執着があるのかなと思いますが、「本革のパンプスを求めるのは世の女性の常なのです!」というふうに、台詞でざざっと女性を代表しちゃうんですよね。

その瞬間、いや、私は私の思う「女性」の要素として、パンプスを求めるっていうのは思ってないですけど……大事なとこすっ飛ばして女を一般化する台詞は、わざとなのは分かるけどちょっと嫌です……と引っかかってしまって、非常に入り込みづらかったです。

山崎 全体の構造について言えば、「私」が路地裏で何人かの人と出会うわけですが、その中に「もう一人の私」がいます。本物と偽物、憧れと現実といった二項対立が二人芝居であることの意味になっている。「私2」は、最初は男社会の価値観にとらわれない自由な女性であるかのように描かれますが、実は男にモテるとかそういうことに価値を見出していて、「私」と大差ないことがわかってしまいます。

 結局、「私」は「私2」に誘われてスカーフを胸に詰め込まれ、「巨乳」であるホルスタインになってしまう。つまり、男を誘惑できる体を得るわけです。でも、誘惑の価値を定めるのは「男性」ですから、結局勝ってない。

そもそも、「私2」が登場したときの「私は特別に自由よ、他の女と違うのよ」という特別視の方法は、女性がミソジニー(女性嫌悪)から逃れる手段として使い古されているんですよ。しかもそれは、特別になれない他の女性への差別を再生産しているだけなので、見ていて苦しくなってしまう。……何度も言うとおり、わかってやっているんだと思いますが、わかってやっているから何なのって思っちゃう。

山崎 男性的価値観に対するアンチに見えたものが、結局は男性的価値観を内面化しているだけだった。マッチョになることによって特別になろうとしているんだということが、最終的に胸の谷間から男性器が生えてくることで表現されています。結局、内面化を乗り越えるつもりが、ますます内面化してしまってそこから逃れられないという話なんだと思います。逃れられないならもう踊るしかないよね! と言って、自分から踊ることを選ぶ。

 「私」がずるずると付き合うことになる会社の先輩ひろしは、「私」を馬鹿にすることでしか自分の優位を確かめられないわけですが、その成れの果てが、後半の登場する、胸から生えている巨根にしか自尊心の拠り所のない「カチコンおじさん」というのは悲哀溢れるストーリーですよね。それは結局、女を馬鹿にできるという意味の男の規範の中で強く男らしくありたかった、でもそうなれなかった男の姿なんですよね。

山崎 既存の価値観から抜け出すことの困難を描いた作品だと思うから、抜け出せていないというところを取り出して批判しても意味がないとは思います。だからといって単に抜け出すことの困難を描いているというだけでは俺は評価できないです。

 私が思ういちばんの問題点は、既存の価値観に自己言及的であることこそが、見る側に、ミソジニーなり、既存の価値観に安住することへの免罪符になっているのではないか、ということです。

山崎 この作品の上演を見て、自分の問題として捉える男性はそれほど多くないと思います。男性があまりに戯画化されているので、俺はあんなにマッチョじゃないよ、と安心して見ることができてしまう。一方、女性は嫌なものを見せられたと思う人が多いのではないかと思うのですが、そのことに果たしてどれほどの意味があるのか。

 派手に戦っているようで、本当はミソジニーとの対決を避けているんじゃないかな。たったひとりで戦えるものじゃない、という絶望はわかる。だけど戦っているように見えてしまうというのは、不幸なことだと思う。

山崎 終盤で「私」は、怪しい中国人歌手の代理人になぜ女は合皮のパンプスを買わされるのかと問われて、「はい 女性支配のためです パンプスのせいでお金が常にないので 男性に媚びてご飯をおごってもらおうとしてしまいます」と言わされます。

男性の欲望を「私」が代弁させられているわけですが、この戯曲では同じ構造が形を変えて繰り返されています。カチコンおじさんにフェラチオする人形がおじさんの腹話術でしゃべる場面が顕著ですが、中国人歌手マオ・メイジーもおそらく「毛美子」だし、実際に登場するのはその代理人で、「私」はさらにその代弁をすることになる。

俳優2が今回の上演では男性で、しかも一人で複数役をやることの意味がここにあるのは明らかです。構造としては極めて巧みで、手を替え品を替え同じ構造を繰り返すことでその逃れがたさが浮かび上がってきます。

ミソジニーを自分に向けることによってそこから逃れようというある種倒錯した試みが行われていて、当然だけどそんなことをしても苦しいだけ。逃れられるわけがない、ということが書かれているわけですが……。

 うん。「自分に向ける」というか「私」に、よね。だから、この「私」は十分に傷ついているから、観客が「私」を悪く言うのはやめてあげようみたいな気になりかけるのも、危ないところなんだよね。作品自身が、もっと突き抜けた自己肯定に辿り着ける力を、いつの日か見たいなと思いますが、今作は、先人の女性劇作家たちが築き上げてきた女性の地位を、スタート地点に戻してしまいかねないものなので、受賞するべきではないと思います。

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■山縣太一『ドッグマンノーライフ』

あらすじ:男1〜4、女1〜4による演劇作品。ある夫婦がおり、どうやら夫は失業した模様。かわりにスーパーのパートに出るようになった妻が最近、外で輝きを増していて、男ができたんじゃないかとか、なんとなく不安だったりそうじゃなかったりの毎日。スーパーで駒になって働くむなしさ、恋人とのだらだらした関係。人間は所詮、犬のように誰かに飼われ囲われるしかないのか? 発話によるさまざまな体の変化を通して、演劇と言葉の関係性を見つめ直す意欲作。(落)

やまがた・たいち:1979年生まれ。神奈川県横浜市出身。自由の森学園高等部卒。オフィスマウンテン 主宰、劇作家、演出家、俳優。

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 山縣太一さんは、チェルフィッチュに長く出演してきた俳優でもあり、現在はオフィスマウンテンというカンパニーで作・演出を手がけるようになっています。今回の『ドッグマンノーライフ』は、音楽家の大谷能生さんと組んだシリーズの第2回公演として発表された作品です。男1〜4、女1〜4の登場人物がダベりながら話が進んでいきます。いちおうの筋立てとしては、ある夫婦がいて、夫が仕事を失い、妻がスーパーのパートに出るようになってから、なんだかどうも輝き出していて、ちょっと不安、という話を延々としている。

山崎 最初にザッと読んだとき、話の筋がほとんど頭に残りませんでした。

 タイトルは『犬人間能生』の英訳らしいよ。『ドッグマン(犬人間)・ノー(能)ライフ(生)』

山崎 まじか(笑)

 それくらい、意味には重きを置かれていない。つまり、これが評価されたのは、身体と一体化した言語のグルーヴィーさにあるのではないか。戯曲の中でも「っていや演劇っぽくないですか? こういうの?」とか、「演劇っぽくなってきたぞっと」とか、台詞での演劇への自己言及があって。発話と身体、音楽的な言葉の流れというものが現代的ということ……かなあ。

山崎 「かなあ」(笑)。でも、そうなるよね。

 どうしても、上演ありきというか、会話から身体以外のものが浮かび上がってこない感じがあって。

山崎 同感です。それで何が悪いと言われても、いや別に悪くないです、みたいな。それはそれでいいと思うけど、でもそれに戯曲賞を与えるかと聞かれると、考え込んでしまいます。

 そうなんです。

山崎 身体にグルーヴを生じさせるための装置として戯曲、という評価はあり得るか。戯「曲」ですから、「曲として評価している」といわれたら、なるほどと思うところもあります。

 これラップだとしたらけっこういいリリックですよ。声に出して読んでみたけど、韻も悪くない。

山崎 ほとんどそれしか考えてないんじゃないかという印象を受けました。駄洒落という意味では、去年の候補作の神里雄大作『+51 アビアシオン, サンボルハ』とどう違うんだ、と言う人もいるかもしれないけど。

 やっぱり神里雄大とは、駄洒落における背景と思想が違うんじゃないかな。

山崎 『アビアシオン〜』は駄洒落で連なる言葉がイメージを広げる役割を果たすけど、『ドッグマン〜』の駄洒落は音でしかない。身体以外に立ち上げたいものがない感じがします。

 身体のゆるさや柔軟性、移動を引き出すための駄洒落、言葉の滑り。それがこうして賞の俎上に乗っているわけですが、この形式に戯曲賞という権威を与えるのは、良いことなのだろうか。

山崎 演劇のためのものというより、ダンスのためのものだと言ったほうがまだ納得できるかもしれません。

 「ダンスのため」というのはつまり「身体を動かすため」の言葉という意味になるよね。この作品は、結果的に言葉で身体が動かされたことによって、観客なり、俳優の心なりが動くものだと思うので、戯曲の段階で心動かされるということは、私は起きなかったです。

山崎 単純に読み物として評価するとおもしろくない。「女3 女2の話の途中で登場。スーパーのピークタイムの店員、もしくはライブ会場で盛り上がった客のような忙しない動きをしている」みたいなト書きからは、台詞ほどグルーヴを感じられなかったのも気になりました。

いずれにせよ、この戯曲を評価するか否かという問題は、戯曲をどのようなものとして捉えるかという問題になってくると思います。グルーヴを生むことのきっかけとして優れているかどうかという点で評価しなければならないのであれば、俺にはそれを評価するための十分な基準がないです。

今日、作品を扱う順番は、作品のタイプやモチーフが近いものごとにグループ分けして並べてみたんだけど、結果的に戯曲から上演台本へという並びにもなっているように思います。というわけで最後は『PORTAL』です。

林慎一郎『PORTAL』

あらすじ:街の中心にいる男・クラウドは日夜、街の住民をナビゲートしている。一方、クラウドによって街の外れへと飛ばされる男・ハンマーはポータル(入り口)を作る銃を手に中心を目指す。託児所、レンタルビデオ店、パチンコ、インターネットカフェ、スタジアム。日常の街の風景の裏側では、スマートフォンを手にしたエージェントたちによる画面越しの戦争が行われている。(山崎)

はやし・しんいちろう:1977年生まれ。北海道函館市出身。京都大学総合人間学部卒。極東退屈道場 主宰、劇作家、演出家。

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(写真撮影:清水俊洋)

山崎 林慎一郎さんは、極東退屈道場という関西の演劇ユニットを主宰しています。今回の作品はご自身のユニットで上演したものではなく、昨年亡くなった松本雄吉さんの演出で「KYOTO EXPERIMENT 2016 春」で上演されたもの。イングレスというスマホの陣取りゲームが題材です。

物語を追うのは少々難しい作品ですが、スマホの画面を通じてしかアクセスできない都市のレイヤーというところからはじまって、都市の中にたしかにあるけど見えていない、見ないことにしている風景の存在、周縁からの中心の転覆の可能性といったことが書かれた作品だと理解しました。

 視覚、聴覚、穴を開けるという手応え、いろんな感覚をフルで動員する作品だなとまず思いました。だけど、最後まで通して読んでみても、その「街」の概念が概念のままでありすぎて、取り合いの虚しさがリアルなところに届いてこないなと思った。

街の概念を拡張するというゲーム的な空虚さと、戯曲の概念的な台詞の空虚さはリンクするんだけど、これはやっぱり、維新派(松本雄吉演出)ならではの建築物のような舞台美術とセットでないと、文字だけではそのリアリティに迫れないのではないかと思いました。

山崎 上演台本問題にはあとで戻ってくることにして、もう少し戯曲の内容に踏み込みたいと思います。街の中心にいるクラウドがハンマーを遠くに投げることで街が広がっていくという設定があって、ハンマーは街の拡張に必須の存在です。ハンマーという名前に杭を打つ、建築の含意もあることを考えると、肉体労働者を意味していると解釈することもできます。

しかし、投げ飛ばされたハンマーは周縁へと追いやられてしまう。そういう中心と周縁の関係がまずは一つ、戯曲の核としてあるわけです。維新派のサイトには「衛星都市」という言葉もありましたが、これはそのまま居住地域の問題にもつながってきます。

さらに、中心であるクラウドの周囲をぐるぐると回るハンマーの運動はまさに衛星の運動でもあり、衛星の撮影によって地図が出来上がっていく様子もそこに読み込むことができます。都市に潜む複数のレイヤーを描き出す作品ですが、戯曲自体が複数の意味のレイヤーによって構成されている。

 そうだね。中心には富裕層が暮らし、労働者は周縁に住む。毎日毎日街の中心には溢れんばかりの人々が通勤し、また周縁に帰ってゆく。

山崎 ハンマーが常に中心に戻ってこようとするのは、周縁に追いやられた人たちが再び中心を目指しているのだと理解できます。だから、ハンマーはポータルという穴を開けることができる銃を持つテロリストでもある。

ハンマーを隔離するかのように壁が建設される描写もあります。アメリカとメキシコの国境に壁を建設するというあの話を思い出しました。そうすると(壁に)穴を穿つことは今度は格差への抵抗になる。ハンマーは銃の撃鉄でもあるわけです。一方、そんなことは知らぬげにシネコンで映画を見ている平和な家族がいて、その対比に格差が存在することすらも見えないほどに分かれてしまった都市のレイヤーのあり方がはっきりと書き込まれています。

託児所「シネマコンプレックス」、インターネットカフェ「予備校」という一見ふざけたネーミングにも、舞台床面に映し出される様々な縮尺の地図にも、レイヤーを一枚めくれば違った景色が見えるという可能性が示唆されています。上演を見ることはできませんでしたが、これがスペクタクルとして舞台上に展開されるのは相当見応えがあったでしょう。

 たしかに、周縁が遠くなればなるほど中心が空虚になるという構図もあるし。ただ、私はその虚しさがリアルなところに届いてこないと感じてしまった。記号的にすっきりと気持ちよく見ることが出来すぎてしまうのではないかと。

それから、戦う男たちを、ラジオを聞いている女が待っている描写があって、それはバーチャルな戦いとの対比だと思えるんだけど、概念の中で闘う男と生活の中で待つ女という構図は、古いロマンティシズムに思えてしまったな。

山崎 なるほど、たしかに男女の関係の書き方はちょっと古いかも。でも記号的であることもこの作品の肝だからそこは判断が難しいです。全体としてはまさに現代を描いた作品だと言うことができると思います。

たとえば中心、つまり権力の座にある人物の名前が「クラウド」だというのはとても現代的。クラウドがラジオDJとして街中の人に声を届けていることからもわかるように、中心=権力は遍在していて、抵抗は一筋縄ではいかない。複雑な作品ですが、複雑さをもってしてしか描けないことを描いています。

 待合室で体の一部だけ出して待っている体たちがいるのも、「穴」というモチーフにはとても忠実ですよね。

山崎 そう、そこでもまた別の広がりが生まれている。人々はレイヤーに分断されている一方で、巧みにレイヤー間を行き来していたりもする。非常におもしろく読みました。……が、だからこそ上演台本問題が立ち上がってきます。

そもそもこの上演台本を林慎一郎「作」ということにしてよいのか。テキストは林さんが書かれたと思いますが、五拍子や七拍子のリズムを表すと思われるドットが並ぶ書き方や、舞台のレイアウト図は、維新派の上演台本にそっくりです。

実際のところ、どこまで演出の松本さんの手が入っているかは確認しないとわかりませんが、全く入っていないということは考えづらいのではないでしょうか。しかもこのドットは上演時のリズムを表しているだけであってまさに上演台本なわけです。

 戯曲としての新しい表記ではないですね。「地図 を ・ 歩 け」「バン ・ バン ・ バン」とか、このリズム通りに聞いていたら気持ちよかろうなとは、思いますけど。というところで、賞の予想に戻りますか。

ややおとなしかった傾向

 全作通して語ってみて、予想は変わりそう?

山崎 変わらないなあ。対抗は? 俺はなし。

 やっぱり上田さん一択だな。

山崎 特定の上演に特化した上演台本で岸田賞を受賞するのは難しいとは思うんだけど、本当におもしろかった『PORTAL』を大穴として挙げておきます。

 今回の候補作は、未来やパラレルワールドをシミュレートするような戯曲が少なかったと思う。隠れていた歴史に焦点を当てるとか、お勉強した結果を戯曲にする作品が目につきました。

未来をシミュレーションするのはフィクションの大きな役割だと私は思ってる。だから今回SFの要素のある上田作品を推すことになったのは必然だったと思いますが、その他の候補作は、そうしたシミュレートの役割をあまり果たせていなかった。

山崎 そこについてはいろいろなスタンスの作品があっていいと思うんだけど、全体としてはおとなしい印象を受けました。それだったらすぐれた先行作品があるからそっちでいいよね、と思ってしまうような。

 私は、女性観や女性の描き方みたいなことにもいろいろと口を出してしまいましたが……。

山崎 「支える妻」モノ多すぎ問題はあるよね。

 家父長制の時代を描く時に、時代背景として夫を献身的に支える妻が出てくるのは致し方ないんですよ。だけど、それをあまりに無垢に肯定しているように見えるので、危機感を持つんです。

「支える妻」側の「私がいなかったらこの人ダメなんじゃないか」って思えるのは、矛盾するようだけど関係性としてはこの上ない至福なんです。演劇って、実際にそのシーンを舞台で立ち上げるとグッときちゃうから。相手が男性でも女性でも、一人でも複数でも変わらないと思う。それこそ、こいつ可愛いやつだな、みたいな見くびり合いこそが恋の醍醐味だけれど、でも、そこからふと離れた時にやってくる厳しい孤独に向き合った作品はなかったと思います。

■白水社・岸田戯曲賞 サイト

http://www.hakusuisha.co.jp/news/n12020.html

▽関連サイト

Q http://qqq-qqq-qqq.com/

ヨーロッパ企画 http://www.europe-kikaku.com/

てがみ座 http://tegamiza.net/

趣向 http://shukou.org/

ミナモザ http://minamoza.com/

極東退屈道場 http://taikutsu.info/

オイスターズ http://www.geocities.jp/theatrical_unit_oysters/

オフィスマウンテン http://officemountain.tumblr.com/

プロフィール

山﨑健太演劇研究・批評

1983年生まれ。批評家、ドラマトゥルク。演劇批評誌『紙背』編集長。WEBマガジンartscapeでショートレビューを連載。他に「現代日本演劇のSF的諸相」(『S-Fマガジン』(早川書房)、2014年2月〜2017年2月)など。2019年からは演出家・俳優の橋本清とともにy/nとして舞台作品を発表。主な作品に『カミングアウトレッスン』(2020)、『セックス/ワーク/アート』(2021)。

artscape: http://artscape.jp/report/review/author/10141637_1838.html

Twitter: @yamakenta

この執筆者の記事

落雅季子劇評家・LittleSophy主宰

LittleSophy主宰。1983年東京生まれ。一橋大学法学部卒業。「CoRich!舞台芸術まつり!」2014、2016審査員。BricolaQ(http://bricolaq.com)にて毎月のおすすめ演劇コーナー(マンスリー・ブリコメンド)やインタビューのシリーズ(セルフ・ナラタージュ)を担当し、ドラマトゥルクとして遊歩型ツアープロジェクト『演劇クエスト』を各地で創作した後に、2017年に独立。演劇人による文芸メールマガジン「ガーデン・パーティ」(http://www.mag2.com/m/0001678567.html)編集長。戯曲と批評誌「紙背」などに寄稿。Twitter:@maki_co

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