国境を越える舞台芸術――移動するアーティストと変化する舞台表現

都市の劇場で、劇団所属の俳優により演じられてきた近代の舞台芸術。言葉や文化の壁に阻まれ、従来移動性が低いと考えられてきた。しかし、国際化する現代。舞台芸術の現場でも移動性(モビリティ)が起こっている。人の移動、社会構成の変化、新たな時代に求められる舞台芸術の姿とは。内野儀教授に伺った。(聞き手・構成/増田穂)

 

 

舞台芸術は国境を越えない?

 

――舞台芸術はその前提として移動性が低いと考えられていたそうですが、その理由はなんだったのでしょうか。

 

第一の理由は近代以降の舞台「芸術」という概念が、西欧の近代演劇史に規定されていることにあります。もともと舞踊や演劇は古来より存在し、本来ギリシャ・ローマ時代以来、常設の劇場で上演されるという側面と、仮設の劇場や建物を使わないパフォーマンスといった移動性が強い側面の両面をもっています。たとえば中世では吟遊詩人が方々を回っていたとか、芸能者はいつも移動しているイメージもあります。しかし近代に入りヨーロッパを中心に都市への人口集中が進むと、常設の劇場が多く設立されるようになります。すると劇場は動きませんから、そこを拠点として舞台芸術というものが形成されるようになり、定住性が高くなります。

 

たとえば現在、ドイツの公共劇場では、アンサンブルという劇場お抱えの劇団があり、彼/彼女たちはその地域に住み、日々舞台をこなしながら新作の稽古に励み、非常に完成度の高い作品を上演しています。これこそがいわゆる近現代の「舞台芸術」だと認識されていたため、それを支える「移動しない定住性」こそが舞台芸術の特徴だと考えられてきた面があります。

 

第二の理由は演劇の社会性です。個別の文脈にとらわれない普遍性があると考えられているシェイクスピアの作品でも、同時代のさまざまな時事的事象とかかわって戯曲を書いていたことが知られていて、演劇には共同体内部での問題を提起したり、問題意識を共有する役割があったことがわかります。つまり、共通の言語や問題意識、社会認識といったコンテクストを共有していないと理解できない面がある。その意味では、一定の社会文化言語圏に限定された側面を常に持ってもいた。

 

 

――フィジカルな意味でも、ソーシャルな意味でも近代舞台芸術は一定の地域に限定的な側面があったのですね。

 

ええ。さらに観客席の構成も、場合によっては、身分制度と関係し、一般人は土間にたち、後ろの観客席に王侯貴族が座って一般人を見下ろすような社会構造を反映することもありました。ラジオやテレビ、ネットがない時代、劇場は社会の構成員が顔を合わせ、一定の価値意識を共有し、さらには共同体意識、あるいは、国民国家の時代になると、ナショナル・アイデンティティを確認する重要な場としても、機能していたと考えられています。

 

このように、芸術とナショナリズムは非常に親和性が高く、近代西洋では国家が積極的に舞台芸術を保護下におきました。結果として、「移動しない定住性」が増したと考えられます。

 

 

制度化されなかった日本の舞台芸術

 

――日本の公共劇場の社会的影響力はどうだったんですか。

 

日本の場合、歌舞伎や能がマクロのレベルで「日本人」というアイデンティティ構築に影響したということはなかったように思います。明治の近代化の折には、日本も西洋にならって、国家主導で国立の劇場を建設しよう、という試みはあったようですが、伝統芸能をのぞいた現代演劇の場合、20世紀終わりまで、国立劇場、公共劇場といった西洋的制度はできませんでした。

 

 

――なぜなのでしょうか?

 

近代化の過程で、演劇の文化装置としての役割が、共有されなかったことが大きいですが、その役割を国家が期待していなかったからでしょう。教育面から見ても、音楽や美術と違い、舞台芸術は国家規模では制度化されていません。たとえば美術は東京美術学校、のちの東京芸術大学美術学部が、岡倉天心らを中心に設立され、教育機関として人材を育成して美術そのものを保護する動きがありました。音楽も同様です。西洋音楽に関しては、「取り入れなければ近代化できない」という認識があり、いずれにせよ、国がイニシアティブを持って制度化を進めた背景があります。

 

しかし、演劇に関してはそうした教育機関や、国家が管轄する制度の枠組みに組み込まれることは基本的にはありませんでした。もともと歌舞伎は封建的ないしは下俗なものと見なされていて、明治政府が考える近代化とはあわないところがありました。民間の芸能でしたし、いわゆる「ポリティカリー・インコレクト」な題材が多い。演劇改良運動のように新時代の時代性に合うよう、封建的な内容を「改良する」動きもありましたが、こうした芸能の改革が、制度的に、国家レベルまで押し上げられることはなく、明治政府の方針として、国として演劇を推進する、ないしは守るという方向になりませんでした。

 

また、日本の場合、演劇の近代化を推し進めたのが一部の知的エリートに限られていたことも要因かと思います。歌舞伎を代表格とする芸能としての演劇があり、他方、そうした伝統芸能を旧劇として対象化しようとした新劇と呼ばれる演劇の近代化運動を担った人たちは、明らかに知的エリートだった。つまり、芸能を西洋近代的な意味での芸術に格上げしようとした人たちは、一定の影響力はもちましたが、制度の外での話だった。他方、西欧諸国、たとえば、ドイツの場合、長い歴史のなかで、芸術は国家が支えるものだということが前提になっていった。だから今でも、ドイツの公立劇場の多くは、ドイツ語で行われる演目についてのみ、公的助成金を出せるという規定がある場合さえあります。良くも悪くも、国家や国語という制度の「内」に可視的に位置づけられてきたわけです。先ほど言ったように、だから演劇には、共同体内部での問題を提起したり、問題意識を共有する役割が期待されたのです。劇場にある程度、多様性のある市民たちが集まってきて、すぐれた上演をともに経験し、一体感を感じながら、問題もまた一緒に考える、というモデルです。

 

 

――劇場の公共性が伺えますね。

 

同時に、こうした劇場の持つ一体感は、時として政府や既存の秩序への脅威にもなります。反社会的、反秩序的な意識が共有されて、現在の枠組みが崩されるきっかっけにもなりえます。たとえば英国では、清教徒革命直後、劇場が閉鎖されます。劇場には猥褻なエネルギーが溢れ、危険な場所だと考えられていたことが、閉鎖にいたった一因だと考えられています。

 

 

――日本で演劇が反社会的と取り締まりを受けるようなことはあったんですか?

 

日本の新劇運動は、20世紀初頭には労働運動と結びつき、反社会的、反体制的な活動を展開する場合がありました。経済恐慌から戦争へと向かう時代背景もあり、これはかなりの影響力を持ちましたが、だからこそ、1930年代にはほぼすべての新劇の劇団は解体させられました。

 

しかし全体として、日本の演劇は現行の体制に介入する、ないしは価値転倒的に批判するような方向性はあまり持ってこなかったといえるかもしれません。日本の演劇の主流は、結局のところ、伝統のある能や歌舞伎ではなかったか、と。長く引き継がれてきたこうした芸能は、基本的には、明治維新以降の国家という枠組みの外側ないしは隙間で、過酷なサバイバルへの道を探り、今のところ、生き残りに成功していると考えられます。

 

 

――西洋の舞台芸術は「内」にあったということでしょうか。

 

そうです。言うならば歌舞伎や能は「非」社会性、西洋舞台芸術の反骨精神は、内部から来る「反」社会性ですね。既存の枠組みの中からその体制の問題を見出し、提起し、共有し、変えていこうとする。西洋では、中産階級以上の社会的影響力がある人たちが見に来ているので、その問題認識を共有する事で、実際に改革も起こり得ました。演劇の社会的影響力は大きかったでしょう。日本にはそうした層は必ずしも存在せず、皆無とはいいませんが、演劇の社会的影響力はあまりありませんでした。結果的に、一部の例外を除いて、政府から特に危険視されることもなかった。

 

 

「強度」から「共感」へ

 

――西洋の近代演劇は社会的テーマを現実に影響力のあるものとして発信していたのですね。

 

ヨーロッパの公共劇場の多くは、公的助成金を受けて運営されているので、「税金を使って何をやるのか」という説明責任、社会的使命が生じますからね。体制に対して批判的でも好意的でもいい。しかし現行の体制に対して、何らかの評価や示唆を与えるものでなくてはならないように思えます。いわゆる「社会性」は、あえて口に出すようなことではなく、舞台芸術の暗黙の了解になっている。

 

 

――近代の定住性の高い舞台芸術の強みとはなんだったのでしょうか。

 

なんと言っても「強度」の高い作品で観客を圧倒させられることでしょうね。たとえばドイツでは、俳優はあらゆる役に対応できるよう、演劇学校で教養や技能を叩き込まれます。そして劇場のアンサンブルに採用され、その地域に生活拠点を置き、常に同じメンバーが同じ空間を共有し、お互いが阿吽の呼吸で、名人芸のようなパフォーマンスで作品を作り上げていく。アーティストが移動しながら刹那的に形成する集団では出来ない芸当でしょうね。

 

 

――「強度」ですか。「芸術性」とはまた違うのですか。

 

「芸術性」の意味合いもあるでしょうが、それだけではありません。身体的でも感情的でもいいのですが、とにかくインパクトを与えるもの、圧倒するもの、というイメージです。そういう意味で「強度」は「芸術性」より漠然とした感覚ですね。単に技術が優れて洗練されているだけではないんです。何でインパクトを受けるかは相対的なものですからね。「生」の舞台だから感動するという観客もいるでしょう。ただ、ドイツの場合は鍛え上げられた俳優がチームになって演技をするわけですから、やはりその「強度」は目を見張るものがあると思います。

 

とはいっても、これまでアンサンブル制度を支えてきた公的助成金が削減されるなどして、所属俳優の数が減ったり、劇団間で所属俳優を貸し借りするような動きも出ています。これも移動ですが、それに伴い変化は生まれて来ています。

 

 

――どのように変化が起こっているのでしょうか。

 

「名演技で感動の渦に巻き込む」といった圧倒感が減ってきていると感じています。これまでの演劇の基本で言えば、舞台芸術とは完成した作品を観客に見せることでした。古典であれ、新しく書かれた戯曲であれ、そこには物語があり、登場人物も事前にテクストに書かれている。俳優はその決まった物語・登場人物を、劇場で演じることで「作品」が完成する。

 

しかし移動性の時代の舞台芸術は移動と滞在をしながら上演を繰り返すことで、作品を完成に近づけていく、深化させていくものです。完成作品を短いリハーサル期間で上演するのでなく、プロジェクトとして時間をかけ、それぞれの地域での経験を活かしながら、創造していく過程として、舞台芸術が存在するようになりつつある。舞台芸術における移動性のキーワードはプロジェクト性とコラボレーションといえるでしょう。

 

たとえば、ダンサーのアイサ・ホクソンの『HOST』という作品の場合。彼女はまず、2014年、セゾン文化財団のヴィジティング・フェローとしてリサーチを日本で行います。それから、TPAM in Yokohama 2015において、ワークインプログレスとして発表しました。さらに、2015年5月に、Tanzhaus-nrw Dusseldorf(ドイツ)で世界初演しています。その後、各地で上演を重ねながら、今年再び日本で最終的な作品として上演をしました。この間、上演する場所や環境にともなって、作品はどんどん変化していきました。

 

コラボレーションに関しても、移動に直結するものとしては、たとえばドイツでは難民や移民とコラボレーションして、その当事者性を引き出そうとするプロジェクトがあります。「デバイズド・シアター(Devised Theatre)」 とも呼ばれる方法です。かつては「集団創造」とも言っていましたが、参加者が平等な権利と義務をもって創造に参加するものです。ワークショップを通じて参加者の経験や知識、アイディアを出し合い、ゼロから作品を作っていく。

 

以前にもこうした作品はありましたが、数が増えているように見受けられます。アンサンブルのような決まったメンバーではなく、その時集まったメンバーが、ストーリーが事前に決まっていないような流動的な環境から作品をたちあげていく。演技者もこれまでのように特別な訓練を受けている必要はない。自分たちが主体的に作り上げていくことに意味がある。

 

当然、公共劇場という制度下にあるドイツの演劇に比べると、これまで考えられてきたような芸術性や技術的な意味での「強度」は落ちてきます。何が強度なのかという定義にもよりますが、これまでのように、高い芸術性を持った作品が評価されるべきだという共通認識が薄れてきている。少なくとも、「強度」の中に新たな要素が加わっていると思います。それが「共感」です。今は「強度」より「共感」がキーワードなのかもしれません。

 

 

――より「生」の演劇が求められているということでしょうか。

 

そうですね。そうした作品が以前より評価されるようになってきているのは事実だと思います。ただ、主流かというと、そこまでではないですし、個人的にはそうなるとは考えていません。

 

移動性の現場での重要な要素は当事者性です。素人で、演技自体は下手でもかまわない。だけど、テーマないしは扱われる問題に直接的に関与している本人が話していることが重要です。リアルに当事者性が伝わらなければならない。虚構の物語では、よりリアルに見えるように演じることが求められても、当事者性は必ずしも必要だと考えられていませんが、ワークショップでアイディアを出し合えば、それぞれの経験を活かした物語になりやすい。

 

ベルリンにある公共劇場、マキシム・ゴーリキー劇場の演出家、ヤエル・ローエンはこうした当事者性を、作品の核に据えることで知られています。ベルリンにおける移民や難民の身近な問題を扱った『The Situation』では、当事者性を持つアーティストたちから、それぞれの過酷な経験等を聞き、そこから制作を行ったりしています。その結果、この作品では、ドイツの公共劇場では例外的に、主要言語は英語、そこにヘブライ語とアラビア語が混じり、ドイツ語も、といった多言語の舞台になっていました。

 

 

――作品における当事者性の追求は、なぜ起こったのでしょうか。

 

原理的には、代理表象、つまり、当事者ではないアーティストが虚構の人物を演じることへの懐疑ということがあります。それはある意味、演劇だけでなく虚構一般というものの大前提への懐疑でもあり、なかなかやっかいな問題です。ただ、現実社会との実体的なかかわりとか、社会への介入とかいった場合、演技のうまい下手よりも、当事者性がひとつの評価のカテゴリーとして、演劇でも定着しつつある、ということではないでしょうか。

 

冷戦体制が崩壊して、世界中で移動はしやすくなりました。移動が可能になったことによって、これまで国家という境界内に取り込まれていたアーティストたちが外に出始め、自らの個人的経験だけを根拠にするパフォーマンスを行うことが出来るようになった側面もあります。

 

同時に、都市も国際化しています。交通網や経済の発展により、ドイツには若い世代を中心に、世界各国から人が集まっています。ベルリンでは、いわゆる「ドイツ人」は3割程度と言われるほどです。こうした社会構造の変化にあわせて、マキシム・ゴーリキー劇場などでは若い聴衆の感性に合わせ、彼/彼女たちが抱えている身近な問題とその時代環境を反映した作品を打ち出す場合も出てきています。

 

繰り返しになりますが、ドイツの公共劇場の使命は社会への介入です。変化する社会情勢やその中で起こる問題に対し、自分たちなりの関わり方を見せる、ということが第一義的な使命なのです。そう考えると、移動性に伴う近年のドイツ舞台芸術の変化は、忠実に使命を全うしているだけ、とも言えます。

 

 

――より多くの現代の観客から「共感」を得られるような方向性に転換していっているのですね。

 

ええ。こうした動きはマキシム・ゴーリキー劇場以外でも起こっています。ベルリンにあるフォルクスビューネでは、フランク・カストルフという演出家が、長期に渡り劇場総監督を勤めてきました。彼は旧東ドイツの思想を色濃く残した反体制的な演出で知られていて、彼の手がけるマルクス主義的な、知的でありながらある種破壊的な作風と、それを演じる高い技術を持つアンサンブル、そして彼/彼女たち提供する強度の高い作品が名物でした。

 

しかし彼の後任に指名されているクリス・デーコン氏は、アートのキュレーターで、演出家ではありません。言い換えれば、今後のフォルクスビューネはいわゆる作家性の強い演出家による演劇作品ではなく、上演の強度だけが価値ではない多様性をよしとするキュレーションに力点を置いていくということです。これはフォルクスビューネの大きな方向転換の可能性を示しています。

 

今でも、カストルフ氏の築いたフォルクスビューネの重要性は認識されています。しかし、彼が打ち壊そうとしていた、西側的な美術や思想の権威性は、徐々に弱まりつつあり、それに伴って破壊的な演出が受けなくなってきているのも事実です。偉いものを破壊するからこそかっこいいんです。権威がなくなって偉くなくなってしまうと、破壊は単なる身振りになってしまって、相手にされなくなる可能性が高まります。

 

カストルフ的演出は、今後もドイツ国内では需要があるかも知れません。しかしこうした点を考えると、よりグローバルな演劇のニーズに適合するためには、変化が必要とも考えられます。今回の人事は、そうした点を反映しているのかも知れません。【次ページにつづく】

 

 

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