「自己決定の裏の責任」と「集団のメンバーとしての責任」の悪いとこどり

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与えられた役割を果たすのが日本社会の「責任」

 

こんなことがなぜ起きるのだろうかを考えるときに、ヒントになるのが東京大学の安冨歩さんの説明です。安冨さんは、外見がまったく同等な百一の扉を自由に選択するよう魔王から迫られて悩む人の物語について、「可能な選択肢がすべて与えられていれば、その人は「自由」であり、それゆえその状態で選んだ扉を開けて生じた結果は、自分で引き受けねばならない。これが「責任」をとることである。こうして自由と責任が結びつく」[*2]と解説したあと、次のように書いています。

 

 

「……日本人にとって、「自由」という言葉から、多数の扉のついた部屋を想像するのは普通ではない。私たちが「自由」という言葉から思い浮かべるのは、たとえばフーテンの寅さんである。/(中略)/日本語の「自由」が与えるイメージが、無縁者の姿であるとすると、それが「責任」と結びつくことは考えられない。なぜなら日本語の「責任」とは、どんなに嫌でもその場にとどまり、与えられた「役」を果たすことだからである。役を果たせない者は「役立たず」であり、人間扱いしてもらえなくても文句は言えない。たとえば、『大辞泉』の「責任」の項には、「立場上当然負わなければならない任務や義務」という説明が与えられている。日本語の責任は「立場」から生じるのであり、「選択」から生じるのではない。/日本人が「自由は責任をともなう」などと言われても、サッパリ腑に落ちないのは当然である。せいぜい思いつくことは、「人間を自由(=無縁)にすると、何をしでかすかわからないので、多少は責任(=縁)で縛り付けておく必要がある、ということだな」というような理解である。」[*3]

 

[*2] 安冨歩『生きるための経済学──〈選択の自由〉からの脱却』(日本放送出版協会、2008年)、70ページ。

 

[*3] 同上書70-71ページ。

 

安冨さんの、この引用元の本は、安冨さんが「西欧的」とみなす「自己決定の裏の責任」の方の責任概念を批判したものです。「選択の自由」の「自由」はたいがい欺瞞で、自由な選択など本当はできるわけがないというのです。返す刀で、安冨さんは近著『ジャパン・イズ・バック――安倍政権にみる近代日本「立場主義」の矛盾』(明石書店、2014年)で、「集団のメンバーとしての責任」の責任概念のもたらす日本社会の病理について、「立場主義」と名付けて痛烈に批判しています。

 

そういえば、このような議論はすでに戦争直後からなされていたのでした。丸山眞男が「軍国支配者の精神形態」[*4]で描いた、ナチスリーダーと日本軍国主義リーダーの鮮やかな対比はまさにこれです。ナチスのトップリーダーたちは、意識的に「悪」を決断して実行し、その責任をすべて引き受けようとしたのに対して、日本の戦争指導者達は、誰もがみな、満州事変にも日中戦争にもドイツとの同盟にも日米開戦にも「反対」であったと称しながら、現実にはそのすべてを粛々と遂行し、結局誰も自らその責任を認めないのです!

 

[*4] 杉田敦編『丸山眞男セレクション』(平凡社、2010年)、131-184ページ。

 

つまり、ナチスのトップリーダーにとって戦争犯罪は自己決定で選択したことで、「責任」とはその結果を引き受けることだったのに対して、日本の戦争指導者にとっての「責任」とは、事態の成り行きの中で、自分に与えられた役割を自己の意思にかかわらず着実に全うすることだった[*5]のです。

 

[*5] 拙著『新しい左翼入門』(講談社、2012年)の丸山評の箇所でも書いたように、原発推進者が事故責任を認めない態度はこれとそっくりである。

 

 

集団の中の人間関係を規律するための責任概念

 

しかし本当は、自己決定するかしないかにかかわりなく発生する「責任」というのは、別に日本にだけ特有なものではありません。例の「ハーバード白熱教室」で大ブレークしたサンデルさんも、たとえ自己決定していなくても発生する責任というものはあるのだということを強調しています[*6]。合意があるかどうかにかかわらず、同じコミュニティの同胞を助ける責任があるのだということです。

 

[*6] ベストセラーになった『これからの「正義」の話をしよう』(鬼澤忍訳、早川書房、2010年)では、第9章で詳しく論じている。

 

そして、自分が個人的に合意したことでなかったとしても、所属するコミュニティの罪について責任を持つのだと言います。だから、現代アメリカの白人は、自分が生まれるよりはるか昔の黒人奴隷制という罪に関して、現代アメリカの黒人に対して謝罪する責任があるのだと言います。

 

サンデルさんは「コミュニタリアン」という哲学の一派の人です。日本語では「共同体主義」派と訳すのでしょうか。論敵の「リベラル」や「リバタリアン」といった自由主義系の思想が、個人の決定から積み上げて社会を説明しようとするのに反対して、個人というのはあらかじめ社会から作られた存在だということを強調します。このコミュニタリアン流の「集団の中で生きる人間」というものを想定したときに、それとつじつまの合う責任概念は、「集団のメンバーとしての責任」ということになるわけです。だからこれは、日本だけにあてはまることではなくて、集団内部の人間関係を規律するときには普遍的に必要になる責任概念だということになると思います。

 

考えてみれば、ナチス戦犯だって、凡庸で有能な中間管理職アイヒマンともなれば、とった態度は丸山眞男描く軍国日本のリーダーたちと同じでした。おびただしいユダヤ人をいかに効率的にガス室に送るかに心を配ったことは、ただ粛々と与えられた任務を果たしただけだというのです。アイヒマンは組織の中にどっぷり浸かり、内部メンバーだけを相手にして生きていた人です。その責任概念がもっぱら集団内部の人間関係を規律するためのものであったのは、ある意味で理にかなったことだったと言えます。

 

本連載第五回で触れましたように、80年代頃までとられていた日本型の企業システムは、終身雇用や年功序列、サプライヤーシステム等々、いずれも流動的な市場取引にまかせる割合が低く、なるべく固定的な関係の中でものごとをすませようとする仕組みでした。これは日本人の遺伝子に組み込まれているわけでもなければ文化的宿命でもなくて、一旦この仕組みの中におかれたならば、アメリカ人だろうが中国人だろうが、各個人が合理的選択で振る舞った合成結果として再生産されるものでした。日本における責任概念が、「集団のメンバーとしての責任」の方に重心があったのは、このような固定的な社会の仕組みを反映した合理的なものだったと言えます。

 

それがやがて「行き詰まった」とされて崩れ出し、小泉「構造改革」で雇用流動化や系列解体が押し進められるに及んで、責任概念もまたそれに合わせて「自己責任」が強調されるようになったというわけです。しかし、雇用や取引のシステムは簡単に変えることができても──とはいえ十年やそこらでコロっと変わるわけにはいかないと思いますが──責任概念のような内面の価値観は、そう簡単には変わらないでしょう。表面だけ変えただけの勘違いみたいなものが横行するのは、しばらくは避けられない現象だったと言えます。

 

 

自己決定は善か悪か、「補償」か「詰め腹」か

 

「自己決定の裏の責任」の場合、リスクのある未知の試みに自由にトライすることは、権利として立派に認められる「いいこと」です。ただしその結果が悪ければ、結果について責任をとるというだけです。

 

この場合、自分だけが損をしたならば、たとえ「愚か」と言われることがあったとしても、倫理的に「悪いこと」とはされません。他人に損害を与えた場合は、もちろんその責任をとることが倫理的に要請されますが、ここで「責任をとる」とは、典型的には「補償する」ということです。元の状態に戻す。戻せないものがあれば、代わりになるような償いをするということです。つまりここで言う「責任」とは、もっぱら「民事的責任」のことです。

 

それに対して「集団のメンバーとしての責任」の方は違います。集団の中であらかじめ与えられた役割にのっとるかぎりリスクはありません。これをはずすと、集団の中にリスクが発生します。したがってこれをはずす行為は、それ自体が道徳的に「悪いこと」とされます。だから本来は、その時点で罰せられてしかるべきものです。もっとも日本社会の場合、結果としてその行為が集団にとってプラスになったならば大目にみられる場合が多いのですが、逆に、結果的に集団に迷惑をかけたならば、「責任をとれ」ということになります。

 

この場合の「責任をとる」とは、典型的には「補償する」ではありません。「詰め腹を切る」です。犯罪をして刑罰を受けることと、地続きの事態として理解されているのです。形として「民事責任」の見かけをとって、補償金をとるケースがあるかもしれませんが、実は被害をもとに戻すことにはあまり重きはなくて、本当の意味は「罰金」だったりします。つまり、本質的には「刑事的責任」なのです。

 

軍隊で、命じられた軍事行動に失敗しても、上官から賠償を求められたりはしないでしょう。政治家が公金着服したことがバレたとき、そのおカネを多少多めに返したとしても、それだけで責任がとれたとは誰も思わないでしょう。下請けが長年の納期や品質を守れなかったとき、本来なら賠償訴訟されてもおかしくないのですが、旧来の日本型システムではあまり見られないケースだと思います。取引停止などの「制裁」が普通だったのではないでしょうか。

 

それに対して、武士が切腹する姿は、潔い責任の取り方の見本のように人々にイメージされています。それによって被害者が一銭も補償されるわけではないのですけど。

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.269 

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