「自己決定の裏の責任」と「集団のメンバーとしての責任」の悪いとこどり

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「集団のメンバーとしての責任」からの「自己責任」論の受容

 

おそらく日本社会では、従来長いこと「集団のメンバーとしての責任」の方の責任概念が主だったので、決められた道をはずすことが無責任で悪だとか、それで降り掛かる不利益を制裁として甘んじて受けることが責任の取り方だとかという感覚が自然だったのだと思います。そして、この感覚を残したまま、「自己責任」論を受け入れていったのだと思います。

 

そうするとどんなことになりますか。

 

「自己決定の裏の責任」の責任概念に基づく、アメリカ新古典派経済学流自己責任論の、「大草原の小さな家」の世界では、各自自分の足で大地に立って荒野を開墾し、ある人はたくさん収穫を得るためにたくさん働き、別の人は自由時間を大事にして少ない収穫で暮らします。これは、各個人が合理的に知恵をしぼってそれぞれ最適に選んだ結果なのであって、この間に道徳的な優劣はまったくつきません。リッチマン氏は「貧乏氏が貧乏なのは、自分が自由に選んだ結果で自己責任だ。公権力で私から収穫を取り上げて分け与えるいわれはない。必要かどうかは私が自分で判断して実行する」と言うでしょうが、公権力が貧乏氏に「怠け者は悪い。もっと働け」と言ったならば、「人間の自由な選択に対する介入だ。けしからん」と言って、貧乏氏と連帯するでしょう。

 

ところが日本型「自己責任」論では、例えば生活保護を受けている人は、「国家共同体のメンバーとして当然果たすべき役割を果たさず、国家共同体に迷惑をかけている存在」という位置づけにされているのだと思います。道徳的に劣った存在とされているわけです。だから、生活が苦しいのは「悪いこと」をした報いなのだから、甘んじてそれを受けなさいというのが、ここで言う「自己責任」の意味になります。

 

要するに、「人を殺してはいけないという法律を破ったから、甘んじて刑務所に入りなさい」というのも、「妻としてのあるべき行動をはずしたのだから、甘んじて世間のそしりを受けなさい」というのも、「ひとかどの者として働いて世間の役に立つという道をはずしたのだから、甘んじて貧乏生活を続けなさい」というのも、みんな一つながりに同じ理屈で理解されているのだと思います。

 

 

同胞助け合う責任の感覚を残しながら否定

 

もともと、「集団のメンバーとしての責任」という中には、サンデルさんも言っていたとおり、「同胞を助ける責務」が含まれています。その感覚は「自己責任」「自己責任」と言うようになっても、ぬぐい去ることはできないのだと思います。

 

2012年にお笑い芸人の河本準一さんが、普通の庶民よりは多額の所得をあげるようになってからも母親の扶養をせず、母親が生活保護を受け続けていたことが問題にされ、ネットや政治家などによるバッシングの嵐が起こりましたが、本当にピュアな自己責任論者なら、「親は子どもの援助に頼るな」と言うはずです。現役の元気な頃に個人年金をしっかりかけておくべきで、それをしなかったなら暮らしが苦しくなるのも「自己責任」だと言うのが、真に小泉改革の精神を体現した人の言うべき言葉でしょう。

 

実際には日本の「自己責任」論者からはほとんどそんな声は聞かれなかったわけです。やはり、社会関係のコアに血縁共同体があって、その中では、自分で決めたことかどうかにかかわらず、互いに助け合う責任があるという考え方は、いまの日本社会にも強く残っているのです。「親」こそ、自己決定で選べない関係の極例ですよね。

 

従来の日本では、そうした家族共同体を包み込んで会社や地域の共同体があり、そしてそれを包み込んで国家共同体があって、それぞれ、内部の小さな共同体の中では責任がとりきれないケースについては、より大きな単位で、同胞どうし助け合う責務が発動されてきたのだと言えます。

 

それが、会社共同体も地域共同体も崩れ、国家共同体も福祉予算を切り詰めて、いままでのようにはめんどうをみてくれなくなりました。それが「自己責任」の言葉のもとに正当化されているわけですが、実際のところは、各家族に責任が押し付けられているのだと言えます。

 

そして、これは心理学しろうとの私の憶測にすぎませんけど、日本社会の中に実は「同胞は助け合う責任がある」という「集団のメンバーとしての責任」の感覚が強く残っているところに、「自己責任」「自己責任」と言って、弱者を切り捨てる動きが広がっていることから、一種の無意識の後ろめたさがわだかまっているのではないかという気がします。そして、この後ろめたさを否定して、心理的な安心感を得るために、ことさらに、福祉の対象者を、救済に値しない、道徳的に劣った悪い人たちだと思い込もうとする心の動きが働くのではないかと思います。

 

従来の日本社会は、世間的にノーマルとされる役割を果たさない人たちを、一種の「二級市民」として差別してきたわけですが、その代わり、同胞として最後にはめんどうをみる責任を果たしてきたと思います。アメリカ新自由主義流の自己責任論では、暮らしに困った人々は、自由な自己決定の結果とされて、冷たくのたれ死にするにまかされるかもしれません。しかし、あるべき人生像を押し付けてそこからはずれた人を差別することはないはずです。今日の日本の「自己責任」論は、この両者を「悪いとこどり」したような印象があります。

 

 

イラク拘束事件での「自己責任」論の「悪いとこどり」

 

さて、以上のように見てくると、最初にあげたイラク拘束事件で「自己責任」という言葉の使い方がねじれていた理由がわかります。

 

つまり、擁護側もバッシング側も、「共同体の同胞は助け合う責務がある」という、「集団のメンバーとしての責任」の方の責任概念に基づく倫理観から、一般論としては、「日本人の危機を救うために日本政府は努力するべきだ」という原則を共有していたわけです。そのうえで擁護側は、この原則の適用を主張して、自衛隊を使うことに後年道を開きかねないことを言ってしまったわけです。

 

他方バッシング側は、やはりこの原則に立った上で、救出に値しない道徳的に劣った存在として、対象者を認識したわけです。つまり、世間や政府が敷いた道で、与えられた役割を全うしていれば安全なのに、わざわざそこをはずれてリスクのあることをしにいくこと事態が、もともと「悪いこと」。冒険的チャレンジが称揚されるようになってきた時代へのフラストレーションのようなものもあったかもしれません。「自己責任」という言葉は、「こんな道徳的に劣った人は助けなくてもいい」という理屈のために機能したわけです。

 

「自己決定の裏の責任」の方の責任概念に基づく自己責任論ならば、リスクのある挑戦はもともと「いいこと」です。ましてやヒトのために危険を顧みない行動をするのですから、誉められてしかるべきです。責められるべきは、そのリスク管理技術の未熟さというレベルのことですが、それは、危機に陥ることによって自分で引き受けているのであり、わざわざ政府が助ける必要はないというのが原則になります。つまり、「道徳的に誉めて、政府は何もしない」というのが答になります。費用がかかるならば、その挑戦に意義を感じた世界の市民が、自由意志でカンパするのが筋になるでしょう。

 

逆に、「集団のメンバーとしての責任」の方の責任概念の筋を通すならば、「政府が同胞として救出した上で、道徳的に非難する」というのが答でしょう。ところが当時の「自己責任」論者の主張は、「政府は何もせず、道徳的に非難もする」という見事な「悪いとこどり」だったわけで、まさしく日本型「自己責任」論のスタートを象徴する出来事だったと言えます。

 

さて次回は、このような責任概念の違いをもたらす人間関係のシステムの違いについて考察しようと思います。ここには、「リスク」というものをどう管理するのかの違いがかかわってきます。

 

(本連載はPHP研究所より書籍化される予定です)

 

連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

第一回:「『小さな政府』という誤解

第二回:「ソ連型システム崩壊から何を汲み取るか──コルナイの理論から

第三回:「ハイエクは何を目指したのか ―― 一般的ルールかさじ加減の判断か

第四回:「反ケインズ派マクロ経済学が着目したもの──フリードマンとルーカスと『予想』

第五回:「ゲーム理論による制度分析と「予想」

第六回:「なぜベーシックインカムは賛否両論を巻き起こすのか――「転換X」にのっとる政策その1

第七回:「ケインズ復権とインフレ目標政策──「転換X」にのっとる政策その2

第八回:「新スウェーデンモデルに見る協同組合と政府──「転換X」にのっとる政策その3

 

サムネイル「Dots」Ian D. Keating

http://www.flickr.com/photos/ian-arlett/14012223974

 

 

 

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