ソ連型システム崩壊から何を汲み取るか──コルナイの理論から

ソ連型システムの基礎知識

 

ソ連を知っている世代の人にとっては冗長になるかもしれませんが、ソ連型システムがどんなものだったかについて、簡単におさらいしておきましょう。

 

ここで「ソ連型システム」と呼ぶものは、ある程度以上の規模の企業は原則みんな国有にして、国の中央からの指令にしたがって生産する経済の仕組みを指しています。ソ連でだいたい1928年頃確立して、第二次世界大戦後、ソ連が軍事占領した東ヨーロッパの国々や北朝鮮に押し付けられ、その後共産党が武力制覇した中国でも採用されたものです。

 

これらの国々では、政治的には、「マルクス=レーニン主義」を看板に掲げる政党が一党独裁して、マスコミも出版も政府の言いなりに統制し、秘密警察などを使って反政府の動きを厳しく弾圧する体制を敷いていました。当時、これらの国々は「東側」と呼ばれ、アメリカや西ヨーロッパや日本などの「西側」と呼ばれる先進資本主義諸国と、「冷戦」と呼ばれる対抗関係を形作っていたことはご存知ですよね。

 

もともとロシアでは、昔は皇帝の専制政治体制がとられていたのですが、第一次世界大戦で負け続けて人々の暮らしもどんどん苦しくなっていったので、とうとう1917年3月に「パンと平和」を要求する民衆が革命に立ち上がって、長く続いた帝政が打倒されたのです。ところが、その後の臨時政府のもとでも政情不安が収まらず、そんな中で11月にレーニン率いるボルシェビキ(後の共産党)が武装蜂起して政権を奪取します。そして、それに反対する勢力との間で、血みどろの内戦になり、レーニンたちは、秘密警察や強制収容所を作り、逆らう者を情け容赦なく弾圧して内戦を乗り切るのですが、内戦が終わった後もこれらの弾圧システムはまったく緩むことなく残りました。そして、帝国崩壊後に独立したものの、内戦の過程で共産党側が再占領した地域を合わせて、1922年にソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)が成立します。このころには、レーニンは病床でほとんど執務不能になっていて、24年に死去します。

 

このかんに、都市の大工場は国有化されたのですが、革命前からある工場設備がそのまま使われ続けてきました。それがこの頃から、ガタがきて使えなくなってきて、どうやって新しい機械や工場を建設するかが大きな問題になっていました。ここにレーニン死後の権力闘争が絡み、最終的に権力を握ったスターリンが、ソ連型システムを確立させることで決着をつけたわけです。

 

それが、農業集団化と第一次五カ年計画の開始でした。革命で地主から農民たちが獲得した土地を再び取り上げてしまい、彼らを集団農場に閉じ込め、食うや食わずの穀物だけ残してあとはタダ同然で取り上げて、それを元手にして重工業中心に国営工場を上から続々建設していったのです。これを遂行するために、中央で野心的な生産目標を掲げ、各工場にノルマを指令として下ろしていって生産するシステムが作り上げられました(「ノルマ」という日常語はここからきた言葉で、もとはロシア語です)。

 

当然農民は激しく抵抗します。スターリンは、逆らう農民は容赦なく殺し、殺さなくても酷寒のシベリアなどの強制収容所に送って、鉄道や鉱山などの開発のために過酷な労働を強いました。労働者も、「10分遅刻したらシベリア送り」と言われるような厳しい労働強化に見舞われました。そして、古参の革命家たちはごっそりと肉体的に抹殺され、共産党の幹部層は生産管理の専門家たちに入れ替えられました。

 

このかん、スターリンによって、「反革命」とされて死刑にされた人は、ソ連政府公認で78万人余です(*1)。強制収容所に送られた人の数は、数百万人とも数千万人とも見積もられています(*2)。穀物を取り上げられて餓死した農民も多く、穀倉地帯のウクライナでは何百万人もが餓死したとされています(*3)。

 

この体制のもとで猛烈なスピードで工業化が成し遂げられ、スターリンが1953年に死んだあとをついだフルシチョフの支配した時代には、国民総生産がアメリカについで世界第二位にまでなり、水爆実験にも成功し、アメリカより先に人工衛星を飛ばすまでになりました。

 

これに合わせ、スターリン時代のような見境のない大弾圧は姿を消し、多くの人々が強制収容所から故郷に帰ってきました。思想や言論の統制は相変わらず続きましたが、本当の反体制派だけに的を絞った抑圧に変わったわけです。農民からの搾取も和らぎ、一定の給料が保証されるようになり、やがて逆に農業に補助金がつぎ込まれるようになっていきます。

 

そうするうちに、経済停滞が長引いていきました。企業に利潤原理を導入するような改革が試みられたりもしましたが、フルシチョフ失脚後のブレジネフ統治下の時代には、やがてそんな改革も行き詰まってしまいます。東ヨーロッパでは、ハンガリーのように市場メカニズムを導入する改革がかなり進んだところもありましたが、それでもうまくいきません。

 

人々は、暮らしに必要なものがなかなか手に入らず、我慢を強いられましたが、西側の先進資本主義国との格差はどんどんと開いていき、これらの国々の豊かな暮らしが知れ渡っていきます。その一方で、エリート幹部の人たちは、欲しいものが簡単に手に入り、幹部とその家族用の特別上等の住居や保養所や別荘、病院や学校、劇場・列車の客席等を利用する特権を享受できました(*4)ので、庶民の不満が高まっていきました。

 

1985年にソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフが、閉塞した体制を打開するために、言論の自由化を進めていくと、これまで抑え込まれていた不満が爆発し、1989年には東ヨーロッパで一党独裁政権が次々と崩壊しました。そして1991年にはソ連で、共産党保守派のクーデタを、市民が立ち上がって三日で粉砕。ついにその年末にはソ連が崩壊するに至ります。

 

そして、ロシアはじめ崩壊後の旧ソ連諸国の多くでも、東ヨーロッパ諸国でも、私有の企業が営利目的で市場取引する普通の資本主義経済への怒濤の移行が起こったのでした。

 

(*1)A・ゲッティ、O・V・ナウーモフ編『ソ連極秘資料集 大粛清への道』(川上洸、萩原直訳、大月書店、2001年)623ページ。同書はソ連崩壊後公開された多くの資料が紹介されている本で、622ページには、ロシア連邦国立文書館が公開した内務人民委員部の資料に基づく毎年の犠牲者数が掲載されている。これらは、日本語版Wikipedia「大粛清」(2013年11月23日閲覧)で読むことができる。ニコラ・ヴェルト「流刑、強制収容所、飢饉…ソ連あるいはテロルの支配」福田玲三訳『労働運動研究No.376』(2001年2月号)も参照のこと。「宮地健一のホームページ(http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/giseisha.htm)」に転載(2013年11月23日閲覧)。

 

(*2)日本語版Wikipedia「強制収容所」(2013年11月23日閲覧)。ヴェルト前掲論文も。ゲッティ、ナウーモフ前掲書621ページでは、大粛清時代の囚人数は、最大350万人前後と推定されている。624ページでは、収容所等で死んだ人も加えた、1930年代の弾圧死者数は150万人に近いとされている。

 

(*3)日本語版Wikipedia「ホロドモール」(2013年11月23日閲覧)。ヴェルト前掲論文も。

 

(*4)こうした特権階級は、ノーメンクラトゥーラと呼ばれる。ミハイル・S・ヴォスレンスキー『ノーメンクラツーラ』(佐久間穆訳、中央公論社、1981)参照。「太陽と月のソムリエ」サイト内の下記ページに、内容抜粋がある。http://www.oct.zaq.ne.jp/poppo456/in/b_nomenklatura2.htm (2013年11月24日閲覧)。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.278 

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