ソ連型システム崩壊から何を汲み取るか──コルナイの理論から

日本でも見られた典型例──原発事故

 

以上のコルナイさんの議論から言えることを私なりにまとめると、リスクと決定と責任は重ならなければならないということです。これがズレるとおかしなことになっちゃうというわけです。これらがズレてバラバラになっていたシステムを、ちょっとでもこれらが重なるシステムに変えようということが、ソ連型システム崩壊にともなう転換に課せられていた課題だとわかります。

 

こう考えると、この教訓が当てはまるのは、別にソ連型システムだけではないということがわかりますよね。コルナイさんも、西側の資本主義企業だって、みんながみんなガチガチの「ハードな予算制約」になっているわけではないと言います。赤字企業を国有化して救ったり、非効率なプロジェクトに税金を投入し続けたり、大事な企業はつぶれないように、国肝いりの特別の融資をしたりといったケースをあげています(*19)。

 

だからやっぱり私たちの住んでいる普通の資本主義国でも、自分ではリスクを負わないで決定し、何かあったときの責任をとらない仕組みが発生し、そのせいでリスクの高い事業がどんどんと拡大していくといった弊害は、しょっちゅう見られます。

 

このように言うと、誰もが一番典型的なケースとして思い浮かべるのが、原発事故の問題でしょう。

 

もともと日本の電力会社は、資本主義企業のはずなのに「ソフトな予算制約」になっているものの典型です。コストが上がっても、お上が認めれば、その分価格を上乗せして済ませることが公然と認められている事業です。だからただでさえ、電源開発等の設備投資に過剰に手を広げてしまって当然の仕組みになっていると言えます。

 

しかも原発です。

 

いざ事故が起こったときの被害は計り知れないのですが、そのリスクはもっぱら立地している地方の住民にかかってきます。電力会社の原発建設を決めた人たちは、そこから遠く離れたところにいて、自分では事故リスクをかぶりません。そして万一事故があったときに自腹で責任を負いません。そもそも被害が大きすぎて責任を負おうにも負えるものではありません。

 

そのうえ、住民対策にも、廃棄物の処理にも、いざ事故が起こったときの対処にも、結局のところ莫大な税金がつぎ込まれます。その分は、決定者の事業リスクは軽減されていると言えます。

 

そうであるならば、万一のとき危険な原発であっても、どんどん建てていく決定をするのは当然です。福島の原発事故は、こんな仕組みのもとでは、いつかどこかで起こるはずだったものが起こっただけだと言えるでしょう。

 

 

日本型経営者の無責任──「そごう問題」の例

 

電力会社などは、資本主義企業でも特別かもしれません。公的に地域独占が決まっていて、国家権力のバックアップがある。コルナイさんの見た、ソ連型時代のハンガリーの国有企業とたいして変わりません。自由市場派の元祖アダム・スミスがやっきになって批判した東インド会社に似ています。

 

でも、考えてみたら、資本主義企業で一番ポピュラーな「株式会社」というもの自体、株主は会社の借金返済の責任を全部は負いません。失敗して損すると言っても、最悪、出資が返ってこないというだけです。さらにその経営者は、そんな株さえたいして持ってなくて、ただの雇われサラリーマン同然の形をとっている場合が多いです。経営判断の失敗のリスクをどれだけ負うのか、自腹で責任をとれるのかと言われると、とても心もとない存在です。だから、自由市場派の祖スミスは、株式会社という制度に反対しているくらいです。

 

そのうえ、戦後の日本の大会社の場合、長らく、いわゆる株の「相互持ち合い」をしていました。日本の会社支配の仕組みを研究してきた奥村宏さんが『無責任資本主義』(1998年、東洋経済新報社)の中で、わかりやすいようにこんな極論例を作って説明しています。A社が銀行から借金してB社が新規発行する多数株を買い、そのおカネで、B社がA社の新規発行する多数株を買って、戻ってきたおカネをA社が銀行に返せば、A社の経営者とB社の経営者は、一銭も使わずに、何の根拠もなく会社を支配し続けることができます。A社の大株主はB社、B社の大株主はA社ですので、両社の経営者は自分個人ではほとんど出資などしていなくても、互いに会社を代表して信認しあうだけでいい。どんなに経営に失敗しても、自分では一銭も払う必要がないし、辞めさせられる恐れもないことになります(*20)。

 

実際には、二社どうしだけで持ち合いをしているわけではなく、いくつもの会社の間で持ち合いをしていますので、このような極端な話にはなりませんが、本質はここに凝縮されていると言えます。奥村さんは、ここから、戦後日本企業の無責任性を解き明かしているわけです。

 

奥村さんのこの本は1998年の本ですのでまだ載っていませんでしたが、私はこうしたことの典型例として、「そごう問題」を思い出します。2000年4月に、大手百貨店の「そごう」が6800億円余りの負債を抱えて破綻しました。このとき、銀行の債権放棄や国のおカネの投入が巨額にのぼって世間を騒がせました。破綻の原因は、会長として君臨していた水島廣雄さんが、強引な店舗拡張を押し進めたことでしたが、この水島さんは、本人がオーナー大株主というわけではありません。日本興業銀行の出身だったので、そことのつながりをバックにしてワンマン独裁者になり、グループ各社の間の株の相互持ち合いで、少数の持ち株でも全体を支配できる仕組みを作っていたのです。

 

だから、株価が下がっても、持ち株を手放すことに追い込まれても、それほど損というわけではありません。破綻までの10年間だけでも会社から支払われた報酬が44億円にのぼるので、私財で会社に責任を取らせようという意見もあったのですが方法はなく、ある店舗を出店したとき興銀から借りたおカネにつけた個人保証について、やっと支払い命令が出ています。水島さんは、これを見越していたのか、破綻後すぐ資産隠しをしていたのですが、これについては有罪判決が出ています。

 

この水島さん、2000年の破綻直後、経営者の座を退いても、8月4日の写真週刊誌『フライデー』に、大宴会を開いて居並ぶ子分に最敬礼をさせている様子がスクープされて話題になっていましたが、近年になっても、2012年の4月には百歳の誕生日の「百寿を祝う会」が開かれ、海部俊樹元首相(*21)はじめ政財界から250人が出席しています。

 

こんな話は似たようなケースをよく耳にしますよね。株式会社はまだ、株主総会もあるし株主代表訴訟もあるし、経営者は少数でも一応自社株を持たなければならないし、なんとか最後の歯止めがあるかもしれません。しかし、非営利とされる法人には、営利企業をしのぐおカネもうけに走っていながら、この点の歯止めの制度が何もないために、同様の暴走が止められないケースがまま見られます。

 

際限ない拡張路線を続ける私立大学の話とか、ときどき聞くでしょう。創業一族ですらなくて、一銭も自分では出資していない経営者が、どんどん事業拡張していきますが、失敗して法人が損しても自分たちは何も損しない。自腹で賠償しなくていいし、株主総会で追求されることもない。

 

もともと学校法人制度では経営者が責任を取らなくていい仕組みになっている以上、その経営者に決定がゆだねられたら、いい加減なリスク見通しの事業拡張に走ってしまうのは、コルナイさんの分析を応用すれば当然わかる話です。

 

(*19)コルナイ前掲書46-47ページ。

 

(*20)奥村同上書116-119ページ。なお、上記スミスによる株式会社批判は、この本の92-93ページに記述がある。

 

(*21)「水島廣雄先生の百寿をお祝いする会」「海部俊樹公式ブログ」2012年04月16日エントリー(http://blog.goo.ne.jp/kaifu-toshiki/e/759a03ccbf4ef66015236c5006301533)。(2013年11月24日閲覧)

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.278 

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