これからの校則の話をしよう

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1.「ブラック校則」の社会問題化

 

2018年、日本の教育界で「ブラック校則」を追放しようという機運が高まりました。「ブラック校則」とは「一般社会から見れば明らかにおかしい校則や生徒心得、学校独自ルールなどの総称」のことです(注1)。

 

この問題が社会から注目を浴びたきっかけは2017年9月の黒髪染髪訴訟でした。これは大阪府の公立高校に通う女子生徒が、生まれつき茶色の髪を黒く染めるよう何度も強要されたことで精神的苦痛を受けたとして、大阪府を相手に損害賠償訴訟を起こしたものです。

 

報道によれば、女子生徒は4日に1度の頻度で注意を受け、文化祭や修学旅行への参加も拒否されたことで、過呼吸症状となって不登校を余儀なくされたとのこと。この件をめぐってはツイッターなどのSNSで人権侵害との批判が相次ぎ、英BBC放送や米TIME誌など海外メディアにも取り上げられるなど大きな社会的反響がありました(注2)。

 

事件を受けて、12月には評論家の荻上チキさんやNPO法人理事長の渡辺由美子さんら有志の手によって「ブラック校則をなくそう!プロジェクト」が発足。ツイッター上では「ブラック校則」の告発が1千件以上にのぼり、校則見直しに賛同する署名も3日で2万件を超えました(注3)。

 

同プロジェクトは2018年3月にインターネット調査の結果報告を行いましたが、そこでは、生まれつき茶髪である人の約2割が高校時代に「黒染め指導」をされた経験があること、10代の回答者の6人に1人が中学時代に校則で「下着の色」を決められていたこと、「スカートの長さ」や「眉毛」「整髪料」など身だしなみに関する校則が増えていること等の結果が紹介され、「3人に2人が中学時代、2人に1人が高校時代に“ブラック校則”を経験している」等と報道されました(注4)。

 

 

2.「ブラック校則」追放運動の成果

 

同年3月には、プロジェクトの調査結果が共産党の吉良佳子議員の手によって国会で取り上げられ、林芳正文科相(当時)から「(校則は)絶えず積極的に見直す必要がある」「児童生徒や保護者が何らかの形で参加した上で決定するということが望ましい」という答弁がなされました(注5)。

 

そうした動きのなかで、訴訟の舞台となった大阪府では、同年4月の段階で4割の学校で校則や内規の見直しがされ、千葉市のように市議や市長の要請を受けて「日焼け止めの原則禁止」状態から「使用推奨」への転換が果たされた自治体もあります(注6)。

 

また、9月には、文部科学省から全国の教育委員会などに対し、通学時の荷物の重量などに配慮するよう求める通知が出されました(注7)。これによって「ブラック校則」の一例となっていた「置き勉(教科書などを教室に置いて帰宅すること)」の禁止見直しが全国的に進展しています。

 

このようにして燎原の火のごとく燃え広がった「ブラック校則」へのレジスタンスは、市民運動の成功事例だと、まずは言えそうです。

 

今回の動きで特筆に値するのは、「ブラック校則」追放運動が一面的な教師批判になるのではなく、教師の「ブラック労働」問題と同時並行的に議論されている点です。前述のプロジェクトにも協力した教育社会学者の内田良さんの活躍(注8)によるところが大きいと思いますが、こういった状況は校則問題をめぐる議論の歴史のなかでも稀有なことです。

 

例えば、2018年6月に岐阜県の小学校で次のような事例がありました。PTA役員が子どもの通学時の荷物の重さを改善するための調査を依頼する申し入れ書を作成し、参考資料としてネット記事のQRコードを付けて提出したところ、それを受け取った校長が、子どもの安全と健康を第一に考えて、即座に「置き勉」禁止を見直してくれたというのです(注9)。

 

教師の苛酷な労働状況を踏まえ、学校に対してクレームをつけるのではなく、保護者が主体となって問題を考えていこうと訴えたPTA役員の呼びかけは素晴らしいものですし、そうした協調的な申し入れに対して教育合理的な判断によって返礼した校長もよい仕事をしたと思います。

 

「ブラック校則」問題をめぐる議論は、ともすれば「学校VS市民」という単純な対立構図になりがちです。たしかに学校にはいろいろと時代遅れであったり粗雑であったりする部分がありますし、理不尽な教師も少なからず存在します。しかし、現実の学校は一枚岩ではなく、話の分かる教師や「ブラック」な生徒指導体制に組み込まれて苦しんでいる良心的な教師もいます。

 

そもそも、校則は個々の教師の考えとはある程度独立して存在するものです。教師は数年単位で異動を繰り返す存在であり、異動するたびに新参者として新しい学校の校則や生徒指導内規に馴れるところから新生活が始まります。多忙な日々のなかでは、つい前例踏襲主義になったり、前例を精密化する方向に進みがちになります。

 

校長などの管理職には、校則を変えることで教師の負担が増加することへの懸念もあります。たとえば「置き勉」を自由化した場合、学級担任は宿題忘れや保護者宛プリントの未達、計画的な荷物の持ち帰り指導などが必要になるため、担任教師の多忙を知っている管理職としては校則改正に躊躇する部分があります。しかも保護者も一枚岩ではなく「置き勉」禁止に肯定的な保護者もいるのです。そういったわけで、校則の適切なメンテナンスは思うほど簡単ではありません。

 

「ブラック校則」追放運動は、ともすれば学校の後進性や教師のダメな部分を批判することを通じて、教師をますます「ブラック」な状況へと追い込む方向に作用しがちです(注10)。上記の事例のように、教師と市民が連帯して自分たちの学校の問題を解決していくというスタンスは非常に重要であると思います。そうした意味において、2018年は良心的な運動が連鎖するなかで希望の種が撒かれ、確実な収穫もあった年だと思います。

 

 

3.「ブラック校則」追放運動への逆風

 

しかし、私はこうした改革の好ましい流れは、残念ながらこのままでは長続きしないだろうとも感じています。実際、お気づきの読者もいらっしゃるかと思いますが、「ブラック校則」追放運動の全盛期は2018年の前半です。数ヶ月遅れの成果として、8月に前述のプロジェクトを母体とした著作『ブラック校則』(注11)の出版がなされ、9月には前述のとおり文科省の「置き勉」緩和通知が出されるようにはなりましたが、社会の持続的関心を得るには至っていないように見受けられます。

 

それどころか、逆風も吹き始めているようです。去る1月18日には、東京都町田市の高校で50代の男性教師が校則指導をめぐって生徒と口論になり男子生徒を殴る様子を撮影した動画がツイッターに投稿された事件が話題になりました。

 

動画は、授業中の廊下という衆人環視の状況での教師による一方的な暴行という場面を撮影したものでしたが、生徒側の挑発的で侮辱的な態度に教師が逆上する顛末が記録されており、また別の生徒が炎上を狙ってそれを撮影しSNSに投稿したという経緯もあって、ネット上では教師に対する同情票が集まっています。今回の事件を受けて「学校の秩序を維持するためには『ブラック』な校則指導もやむなし」という意見が勢いを取り戻しているように見えるのです(注12)。

 

混迷する「ブラック校則」問題、今後どのように議論を進めていけばよいでしょうか。以下に検討していきたいと思います。

 

 

4.「ブラック校則」をめぐる闘争の歴史と現在

 

先ほど、改革の好ましい流れは長続きしないだろうと述べました。それは校則の歴史を顧みるに、一時的に見直しの機運が高まったとしても、「ブラック校則」はやがて姿形を変えて増殖を再開するだろうからです。

 

「ブラック校則」は、近年に突如として姿を現したわけではありません。それは、つる草のようなマインド・ウィルス(ミーム)であって、日本社会に近代学校が誕生した150年前から蔓延しては駆除されることを繰り返してきました。とりわけ明治後期しかり、戦間・戦時期しかり、右傾の時代には「ブラック校則」が繁殖しやすいのです(注13)。

 

直近では管理主義教育の嵐が吹き荒れた1980年代が「ブラック校則」の最盛期でした。「校則・体罰・内申書」が管理主義教育の「三種の神器」と呼ばれていた時代です。

 

80年代前半の学校はまさに「戦場」でした。現代の10倍以上にあたる1万人以上の児童・生徒が校内暴力で検挙・補導されており、生徒による「お礼参り」等を恐れて卒業式に警察官を配備した中学・高校も全国で900校を超えました(注14)。

 

当時において「ブラック校則」は校内暴力の「原因」でもあり「結果」でもあったと言えます。当時は学校当局と暴走族などの学校外非行勢力との闘争状態があり、学校内の治安維持のために「ブラック校則」が用いられていました。厳しい校則で生徒の不規則行為を抑制し、規則から外れた生徒に指導を集中させて「公開処刑」にすることで、生徒の「荒れ」を未然防止するという管理主義的な治安維持戦略が採用されていたのです。

 

他方、当時は全国の公立中学校の3分の1で男子生徒に対して頭髪丸刈りが強制されるなどしており(注15)、頭髪や服装の規制緩和を求める生徒たちのストライキや訴訟が頻発、学校側が生徒の抵抗を押さえ込むために規制強化をさらに押し進めていくことで、事態は泥沼化していました。

 

そうした風向きが変わったのは今から30年前の1988年頃です。校内暴力が鎮静化するなかで、頭髪規則違反の生徒の写真を卒業アルバムから外したり、遅刻しそうになった生徒を校門に挟み圧死させるなどの振る舞いが社会問題化し、文部省(当時)が重い腰を上げて是正指導に乗り出したのです。それによって「男子は丸刈り、女子はおかっぱ(耳下10センチまで)」などの「ブラック校則」が生徒手帳から姿を消していきました。

 

それから歳月が経過し、当時の記憶が風化するなかで、「ブラック校則」が再び増殖を始めたのは2000年代半ば頃ではないかと言われています(注16)。その動きは、子どもの学力低下の社会問題化、少年法の厳罰化、ニート・バッシングの広がりなど、子どもに対する包囲網が敷かれていくプロセスと軌を一にしています。

 

日本社会の経済状況を見ても、当時は「失われた十年」と呼ばれる不況のなかで就職氷河期が続き、子どもたちの将来展望は暗澹としていました。新自由主義改革のさなかにあって「子どもの貧困」が社会問題化する少し前の話です。当時においてまだ「正体不明」であった子どもの荒れを強権によって封じ込めようとするなかで、休眠していた「ブラック校則」体制が各地で目を覚ましていったのかもしれません。

 

現代の「ブラック校則」は「丸刈り」や「運動中の水分補給の禁止」などといった80年代のそれと比べれば「ソフト」です(注17)。それはこれまでの市民運動が人権論と科学を武器に「ハード」な「ブラック校則」を追いつめ、ようやく根絶に近い状況までたどり着いたからに他なりません。

 

ただ、「ソフト」になったということは、その分だけ問題化が難しくなったということでもあります。今日の「ブラック校則」追放運動で争われているのは、日焼け止めクリーム、眉剃り、置き勉などの禁止の是非であったり、下着の色、地毛証明、制服などの在り方です。

 

「茶色の地毛を黒髪に染髪させる」といったような、誰が見ても明らかな人権侵害事例は一部であって、ほとんどの校則は賛否の分かれる論点を内包しています。校則の一つひとつを権利論的・科学的にしっかりと吟味していく必要に迫られているのです。

 

実際、冒頭で紹介した「置き勉」解禁運動では、保護者が「子どもに体重の1〜2割以上の荷物を背負わせることは有害」という科学的エビデンスを根拠にして、自分の子どもの荷物の重量が体重の25%に達することを指摘しました(注18)。下着の色を白のみに規制する校則の根拠として挙げられることの多い「色物の下着は透けて見えるから」という主張に対し、ツイッター上でランジェリーショップが「実は肌より淡い色のほうが透ける」という事実を写真付きで論証するといった草の根のレジスタンスも行われています(注19)。

 

校則の内容をめぐる問い直しとともに、校則違反に対する制裁の在り方についても問い直しが進んでいます。ちょっとした校則違反を針小棒大にとらえて長時間にわたって指導したり、登校を禁止したり、全校集会で吊るし上げたりといった過剰な指導が、権利論的にも科学的にも妥当性を持たないことを論証しようという努力が「指導死」遺族などの手によって続けられているのです(注20)。

 

 

5.「ブラック校則」体制の代替案

 

今後、健全な学校づくりを進めるためには、どのような選択肢があるのでしょうか。それを考えるにあたって重要な論点になるのが、「蔓延する『ブラック校則』を駆除した後の焼野が原をどのように管理していくか」です。校則改正によるメリットをデメリットが上回るように体感される状況が続けば、やがて「ブラック校則」体制へのバックラッシュが始まるだろうからです。

 

目下、有力な選択肢として考えられるのは(1)生徒指導からの撤退、(2)法による学校統治、そして(3)校則づくりへの生徒参加です。以下で簡単に検討していきたいと思います。

 

 

(1)生徒指導からの撤退

 

学校から「ブラック校則」を追放するための第一の選択肢となるのは、教師が生徒指導の厄介な部分から撤退するという方向性です。これはいわば「領地が広すぎると手が回らないので、適正な管理ができる範囲で領地を所有しましょう」という考え方ですね。

 

この方法に賛成の人もおられることと思います。確かに現実の学校は多くのことを抱え込みすぎているとよく言われます。「髪型や服装など、誰にも迷惑をかけないのだから自由化すればよい」「学校は時代遅れだ」という意見には説得力があります。教師からしても多忙を極めるなかで世間から石を投げられながら生徒と消耗戦を続けるのは苦しいものです。

 

いじめ研究で有名な社会学者の内藤朝雄さんが15年以上にわたって警鐘を鳴らし続けているとおり(注21)、肥大した学校教育が、連帯責任の地獄である「全体主義」のウイルスを繁殖させる温床になっていることも確かです。全体主義は「おそろい」を好みます。おそろいの制服、おそろいの黒髪、おそろいの人格、一糸乱れぬ隊列行進、一心同体の巨大ピラミッド・・・全体主義は「ブラック校則」体制の温床なのです。全体主義のマインド・ウイルスは極めて危険な「ブラック」化要因であって、これが繁殖しやすい学校環境は絶対に変えていかないといけません。

 

ただ、学校が集団教育から撤退する方向に進むことで、社会にとってのデメリットが多くなるという可能性は視野に入れておく必要があります。哲学者のジョン・デューイが指摘しているとおり、公教育には個人の発達支援だけでなく、社会統合や社会的平等を維持発展させる役割があります。実際、社会心理学には「異質な者同士が接触交流をすることによって偏見が是正され寛容度が上昇する」という異集団接触に関する研究蓄積があります(注22)。

 

日本社会には解決すべき問題が山積していますが、他方で学力や治安、平均寿命、国内総生産などの多くの指標で他国と比べて一般に好ましいとされる状態にあることも確かです。海外では、そこに日本式の集団教育が寄与しているとして輸入しようという動きもあるくらいです(注23)。

 

「国家の都合より子どもの人権のほうが大事だ」という意見もあると思います。ただ、国民一人ひとりの人権を守ることと、社会統合や平等を守ることは矛盾するものではなく、社会統合や平等が維持されなければ、結局は何らかの形で誰かの人権が損なわれることになります。ここが学校教育のあり方をめぐってアポリア(難問)になっています。

 

生徒にとってより直接的なデメリットも考えられます。安易に生徒指導から撤退すると、その空隙に弱肉強食の自生的秩序がはびこる可能性があるのです。たとえば髪型や服装の規制緩和を行った場合、髪型や服装をめぐる競争が激化し、生徒が無理な染髪やパーマで健康を損ねたり、身繕いに時間をかけすぎるようになったり、裕福な家に生まれた生徒がブランド物を誇示したり、それの盗難騒ぎが起こったり・・・といったことは十分にありえます。制服を着崩して登下校する生徒を見て恐怖や不快を感じた地域住民からクレームが入ったりネット炎上したりこともあるでしょう。

 

改革はもちろん必要ですし、学校教育をコンパクトにすることで適正化できる部分もあるでしょう。しかし安易に公教育から手を引くことで、日本社会に蓄積されてきた好ましい社会的共通資本(ソーシャルキャピタル)(注24)を散逸させないようにはしないといけませんし、教師が指導から撤退した後の空隙を何が埋めるのかという点にも目を配る必要があります。

 

このように、生徒指導の在り方をめぐっては複数の権利がぶつかりあうモラルジレンマ状況が生起しており、原理原則を主張しても埒があきません。まずは国が主導して集団教育のコスト&ベネフィットやリスクについて検証を行うべきでしょう。日本式集団教育の効果検証をめぐっては、個々の研究者では実施が難しいこともあり、厳密な実証研究は皆無といえる状況です。しっかり検証した結果、「集団教育には何の効果もない。むしろ有害だ」という話になれば大手を振って生徒指導から撤退すればよいと思いますし、効果があるのならば、現実を踏まえて、何を削って何を残すか、是々非々で検討していくべきでしょう。

 

 

(2)法による学校統治

 

学校から「ブラック校則」を永久に追放するための第二の選択肢は「法による学校統治(スクール・リーガライゼーション)」です。これは学校内に一般社会の法を移植することで教師たちの「ブラックなマイルール」が繁茂するのを阻もうという方向性です。いわば野焼きをした後に雑草が生えないように芝生を敷き詰めるようなものですね。髪型や服装の基準を一般社会のそれに合わせるという話になれば、第一の選択肢である「生徒指導からの撤退」にも該当することになります。

 

スクール・リーガライゼーションは、憲法や子どもの権利条約に規定された人権保障を学校内で実現しようという話ですから、理念としては大変望ましいのです。私自身も公教育における人権保障の実質化を切望している人間の一人です(注25)。

 

ですが、校則問題のこれまでの経緯を見るに、現実には一筋縄ではいかないでしょう。現実の校則指導が「ブラック」化するのと同じく、現実の法執行もまた「ブラック」化する可能性を孕むからです。【次ページにつづく】

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.268 

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