2019.06.03

これからの校則の話をしよう

山本宏樹 教育科学

教育

1.「ブラック校則」の社会問題化

2018年、日本の教育界で「ブラック校則」を追放しようという機運が高まりました。「ブラック校則」とは「一般社会から見れば明らかにおかしい校則や生徒心得、学校独自ルールなどの総称」のことです(注1)。

この問題が社会から注目を浴びたきっかけは2017年9月の黒髪染髪訴訟でした。これは大阪府の公立高校に通う女子生徒が、生まれつき茶色の髪を黒く染めるよう何度も強要されたことで精神的苦痛を受けたとして、大阪府を相手に損害賠償訴訟を起こしたものです。

報道によれば、女子生徒は4日に1度の頻度で注意を受け、文化祭や修学旅行への参加も拒否されたことで、過呼吸症状となって不登校を余儀なくされたとのこと。この件をめぐってはツイッターなどのSNSで人権侵害との批判が相次ぎ、英BBC放送や米TIME誌など海外メディアにも取り上げられるなど大きな社会的反響がありました(注2)。

事件を受けて、12月には評論家の荻上チキさんやNPO法人理事長の渡辺由美子さんら有志の手によって「ブラック校則をなくそう!プロジェクト」が発足。ツイッター上では「ブラック校則」の告発が1千件以上にのぼり、校則見直しに賛同する署名も3日で2万件を超えました(注3)。

同プロジェクトは2018年3月にインターネット調査の結果報告を行いましたが、そこでは、生まれつき茶髪である人の約2割が高校時代に「黒染め指導」をされた経験があること、10代の回答者の6人に1人が中学時代に校則で「下着の色」を決められていたこと、「スカートの長さ」や「眉毛」「整髪料」など身だしなみに関する校則が増えていること等の結果が紹介され、「3人に2人が中学時代、2人に1人が高校時代に“ブラック校則”を経験している」等と報道されました(注4)。

2.「ブラック校則」追放運動の成果

同年3月には、プロジェクトの調査結果が共産党の吉良佳子議員の手によって国会で取り上げられ、林芳正文科相(当時)から「(校則は)絶えず積極的に見直す必要がある」「児童生徒や保護者が何らかの形で参加した上で決定するということが望ましい」という答弁がなされました(注5)。

そうした動きのなかで、訴訟の舞台となった大阪府では、同年4月の段階で4割の学校で校則や内規の見直しがされ、千葉市のように市議や市長の要請を受けて「日焼け止めの原則禁止」状態から「使用推奨」への転換が果たされた自治体もあります(注6)。

また、9月には、文部科学省から全国の教育委員会などに対し、通学時の荷物の重量などに配慮するよう求める通知が出されました(注7)。これによって「ブラック校則」の一例となっていた「置き勉(教科書などを教室に置いて帰宅すること)」の禁止見直しが全国的に進展しています。

このようにして燎原の火のごとく燃え広がった「ブラック校則」へのレジスタンスは、市民運動の成功事例だと、まずは言えそうです。

今回の動きで特筆に値するのは、「ブラック校則」追放運動が一面的な教師批判になるのではなく、教師の「ブラック労働」問題と同時並行的に議論されている点です。前述のプロジェクトにも協力した教育社会学者の内田良さんの活躍(注8)によるところが大きいと思いますが、こういった状況は校則問題をめぐる議論の歴史のなかでも稀有なことです。

例えば、2018年6月に岐阜県の小学校で次のような事例がありました。PTA役員が子どもの通学時の荷物の重さを改善するための調査を依頼する申し入れ書を作成し、参考資料としてネット記事のQRコードを付けて提出したところ、それを受け取った校長が、子どもの安全と健康を第一に考えて、即座に「置き勉」禁止を見直してくれたというのです(注9)。

教師の苛酷な労働状況を踏まえ、学校に対してクレームをつけるのではなく、保護者が主体となって問題を考えていこうと訴えたPTA役員の呼びかけは素晴らしいものですし、そうした協調的な申し入れに対して教育合理的な判断によって返礼した校長もよい仕事をしたと思います。

「ブラック校則」問題をめぐる議論は、ともすれば「学校VS市民」という単純な対立構図になりがちです。たしかに学校にはいろいろと時代遅れであったり粗雑であったりする部分がありますし、理不尽な教師も少なからず存在します。しかし、現実の学校は一枚岩ではなく、話の分かる教師や「ブラック」な生徒指導体制に組み込まれて苦しんでいる良心的な教師もいます。

そもそも、校則は個々の教師の考えとはある程度独立して存在するものです。教師は数年単位で異動を繰り返す存在であり、異動するたびに新参者として新しい学校の校則や生徒指導内規に馴れるところから新生活が始まります。多忙な日々のなかでは、つい前例踏襲主義になったり、前例を精密化する方向に進みがちになります。

校長などの管理職には、校則を変えることで教師の負担が増加することへの懸念もあります。たとえば「置き勉」を自由化した場合、学級担任は宿題忘れや保護者宛プリントの未達、計画的な荷物の持ち帰り指導などが必要になるため、担任教師の多忙を知っている管理職としては校則改正に躊躇する部分があります。しかも保護者も一枚岩ではなく「置き勉」禁止に肯定的な保護者もいるのです。そういったわけで、校則の適切なメンテナンスは思うほど簡単ではありません。

「ブラック校則」追放運動は、ともすれば学校の後進性や教師のダメな部分を批判することを通じて、教師をますます「ブラック」な状況へと追い込む方向に作用しがちです(注10)。上記の事例のように、教師と市民が連帯して自分たちの学校の問題を解決していくというスタンスは非常に重要であると思います。そうした意味において、2018年は良心的な運動が連鎖するなかで希望の種が撒かれ、確実な収穫もあった年だと思います。

3.「ブラック校則」追放運動への逆風

しかし、私はこうした改革の好ましい流れは、残念ながらこのままでは長続きしないだろうとも感じています。実際、お気づきの読者もいらっしゃるかと思いますが、「ブラック校則」追放運動の全盛期は2018年の前半です。数ヶ月遅れの成果として、8月に前述のプロジェクトを母体とした著作『ブラック校則』(注11)の出版がなされ、9月には前述のとおり文科省の「置き勉」緩和通知が出されるようにはなりましたが、社会の持続的関心を得るには至っていないように見受けられます。

それどころか、逆風も吹き始めているようです。去る1月18日には、東京都町田市の高校で50代の男性教師が校則指導をめぐって生徒と口論になり男子生徒を殴る様子を撮影した動画がツイッターに投稿された事件が話題になりました。

動画は、授業中の廊下という衆人環視の状況での教師による一方的な暴行という場面を撮影したものでしたが、生徒側の挑発的で侮辱的な態度に教師が逆上する顛末が記録されており、また別の生徒が炎上を狙ってそれを撮影しSNSに投稿したという経緯もあって、ネット上では教師に対する同情票が集まっています。今回の事件を受けて「学校の秩序を維持するためには『ブラック』な校則指導もやむなし」という意見が勢いを取り戻しているように見えるのです(注12)。

混迷する「ブラック校則」問題、今後どのように議論を進めていけばよいでしょうか。以下に検討していきたいと思います。

4.「ブラック校則」をめぐる闘争の歴史と現在

先ほど、改革の好ましい流れは長続きしないだろうと述べました。それは校則の歴史を顧みるに、一時的に見直しの機運が高まったとしても、「ブラック校則」はやがて姿形を変えて増殖を再開するだろうからです。

「ブラック校則」は、近年に突如として姿を現したわけではありません。それは、つる草のようなマインド・ウィルス(ミーム)であって、日本社会に近代学校が誕生した150年前から蔓延しては駆除されることを繰り返してきました。とりわけ明治後期しかり、戦間・戦時期しかり、右傾の時代には「ブラック校則」が繁殖しやすいのです(注13)。

直近では管理主義教育の嵐が吹き荒れた1980年代が「ブラック校則」の最盛期でした。「校則・体罰・内申書」が管理主義教育の「三種の神器」と呼ばれていた時代です。

80年代前半の学校はまさに「戦場」でした。現代の10倍以上にあたる1万人以上の児童・生徒が校内暴力で検挙・補導されており、生徒による「お礼参り」等を恐れて卒業式に警察官を配備した中学・高校も全国で900校を超えました(注14)。

当時において「ブラック校則」は校内暴力の「原因」でもあり「結果」でもあったと言えます。当時は学校当局と暴走族などの学校外非行勢力との闘争状態があり、学校内の治安維持のために「ブラック校則」が用いられていました。厳しい校則で生徒の不規則行為を抑制し、規則から外れた生徒に指導を集中させて「公開処刑」にすることで、生徒の「荒れ」を未然防止するという管理主義的な治安維持戦略が採用されていたのです。

他方、当時は全国の公立中学校の3分の1で男子生徒に対して頭髪丸刈りが強制されるなどしており(注15)、頭髪や服装の規制緩和を求める生徒たちのストライキや訴訟が頻発、学校側が生徒の抵抗を押さえ込むために規制強化をさらに押し進めていくことで、事態は泥沼化していました。

そうした風向きが変わったのは今から30年前の1988年頃です。校内暴力が鎮静化するなかで、頭髪規則違反の生徒の写真を卒業アルバムから外したり、遅刻しそうになった生徒を校門に挟み圧死させるなどの振る舞いが社会問題化し、文部省(当時)が重い腰を上げて是正指導に乗り出したのです。それによって「男子は丸刈り、女子はおかっぱ(耳下10センチまで)」などの「ブラック校則」が生徒手帳から姿を消していきました。

それから歳月が経過し、当時の記憶が風化するなかで、「ブラック校則」が再び増殖を始めたのは2000年代半ば頃ではないかと言われています(注16)。その動きは、子どもの学力低下の社会問題化、少年法の厳罰化、ニート・バッシングの広がりなど、子どもに対する包囲網が敷かれていくプロセスと軌を一にしています。

日本社会の経済状況を見ても、当時は「失われた十年」と呼ばれる不況のなかで就職氷河期が続き、子どもたちの将来展望は暗澹としていました。新自由主義改革のさなかにあって「子どもの貧困」が社会問題化する少し前の話です。当時においてまだ「正体不明」であった子どもの荒れを強権によって封じ込めようとするなかで、休眠していた「ブラック校則」体制が各地で目を覚ましていったのかもしれません。

現代の「ブラック校則」は「丸刈り」や「運動中の水分補給の禁止」などといった80年代のそれと比べれば「ソフト」です(注17)。それはこれまでの市民運動が人権論と科学を武器に「ハード」な「ブラック校則」を追いつめ、ようやく根絶に近い状況までたどり着いたからに他なりません。

ただ、「ソフト」になったということは、その分だけ問題化が難しくなったということでもあります。今日の「ブラック校則」追放運動で争われているのは、日焼け止めクリーム、眉剃り、置き勉などの禁止の是非であったり、下着の色、地毛証明、制服などの在り方です。

「茶色の地毛を黒髪に染髪させる」といったような、誰が見ても明らかな人権侵害事例は一部であって、ほとんどの校則は賛否の分かれる論点を内包しています。校則の一つひとつを権利論的・科学的にしっかりと吟味していく必要に迫られているのです。

実際、冒頭で紹介した「置き勉」解禁運動では、保護者が「子どもに体重の1〜2割以上の荷物を背負わせることは有害」という科学的エビデンスを根拠にして、自分の子どもの荷物の重量が体重の25%に達することを指摘しました(注18)。下着の色を白のみに規制する校則の根拠として挙げられることの多い「色物の下着は透けて見えるから」という主張に対し、ツイッター上でランジェリーショップが「実は肌より淡い色のほうが透ける」という事実を写真付きで論証するといった草の根のレジスタンスも行われています(注19)。

校則の内容をめぐる問い直しとともに、校則違反に対する制裁の在り方についても問い直しが進んでいます。ちょっとした校則違反を針小棒大にとらえて長時間にわたって指導したり、登校を禁止したり、全校集会で吊るし上げたりといった過剰な指導が、権利論的にも科学的にも妥当性を持たないことを論証しようという努力が「指導死」遺族などの手によって続けられているのです(注20)。

5.「ブラック校則」体制の代替案

今後、健全な学校づくりを進めるためには、どのような選択肢があるのでしょうか。それを考えるにあたって重要な論点になるのが、「蔓延する『ブラック校則』を駆除した後の焼野が原をどのように管理していくか」です。校則改正によるメリットをデメリットが上回るように体感される状況が続けば、やがて「ブラック校則」体制へのバックラッシュが始まるだろうからです。

目下、有力な選択肢として考えられるのは(1)生徒指導からの撤退、(2)法による学校統治、そして(3)校則づくりへの生徒参加です。以下で簡単に検討していきたいと思います。

(1)生徒指導からの撤退

学校から「ブラック校則」を追放するための第一の選択肢となるのは、教師が生徒指導の厄介な部分から撤退するという方向性です。これはいわば「領地が広すぎると手が回らないので、適正な管理ができる範囲で領地を所有しましょう」という考え方ですね。

この方法に賛成の人もおられることと思います。確かに現実の学校は多くのことを抱え込みすぎているとよく言われます。「髪型や服装など、誰にも迷惑をかけないのだから自由化すればよい」「学校は時代遅れだ」という意見には説得力があります。教師からしても多忙を極めるなかで世間から石を投げられながら生徒と消耗戦を続けるのは苦しいものです。

いじめ研究で有名な社会学者の内藤朝雄さんが15年以上にわたって警鐘を鳴らし続けているとおり(注21)、肥大した学校教育が、連帯責任の地獄である「全体主義」のウイルスを繁殖させる温床になっていることも確かです。全体主義は「おそろい」を好みます。おそろいの制服、おそろいの黒髪、おそろいの人格、一糸乱れぬ隊列行進、一心同体の巨大ピラミッド・・・全体主義は「ブラック校則」体制の温床なのです。全体主義のマインド・ウイルスは極めて危険な「ブラック」化要因であって、これが繁殖しやすい学校環境は絶対に変えていかないといけません。

ただ、学校が集団教育から撤退する方向に進むことで、社会にとってのデメリットが多くなるという可能性は視野に入れておく必要があります。哲学者のジョン・デューイが指摘しているとおり、公教育には個人の発達支援だけでなく、社会統合や社会的平等を維持発展させる役割があります。実際、社会心理学には「異質な者同士が接触交流をすることによって偏見が是正され寛容度が上昇する」という異集団接触に関する研究蓄積があります(注22)。

日本社会には解決すべき問題が山積していますが、他方で学力や治安、平均寿命、国内総生産などの多くの指標で他国と比べて一般に好ましいとされる状態にあることも確かです。海外では、そこに日本式の集団教育が寄与しているとして輸入しようという動きもあるくらいです(注23)。

「国家の都合より子どもの人権のほうが大事だ」という意見もあると思います。ただ、国民一人ひとりの人権を守ることと、社会統合や平等を守ることは矛盾するものではなく、社会統合や平等が維持されなければ、結局は何らかの形で誰かの人権が損なわれることになります。ここが学校教育のあり方をめぐってアポリア(難問)になっています。

生徒にとってより直接的なデメリットも考えられます。安易に生徒指導から撤退すると、その空隙に弱肉強食の自生的秩序がはびこる可能性があるのです。たとえば髪型や服装の規制緩和を行った場合、髪型や服装をめぐる競争が激化し、生徒が無理な染髪やパーマで健康を損ねたり、身繕いに時間をかけすぎるようになったり、裕福な家に生まれた生徒がブランド物を誇示したり、それの盗難騒ぎが起こったり・・・といったことは十分にありえます。制服を着崩して登下校する生徒を見て恐怖や不快を感じた地域住民からクレームが入ったりネット炎上したりこともあるでしょう。

改革はもちろん必要ですし、学校教育をコンパクトにすることで適正化できる部分もあるでしょう。しかし安易に公教育から手を引くことで、日本社会に蓄積されてきた好ましい社会的共通資本(ソーシャルキャピタル)(注24)を散逸させないようにはしないといけませんし、教師が指導から撤退した後の空隙を何が埋めるのかという点にも目を配る必要があります。

このように、生徒指導の在り方をめぐっては複数の権利がぶつかりあうモラルジレンマ状況が生起しており、原理原則を主張しても埒があきません。まずは国が主導して集団教育のコスト&ベネフィットやリスクについて検証を行うべきでしょう。日本式集団教育の効果検証をめぐっては、個々の研究者では実施が難しいこともあり、厳密な実証研究は皆無といえる状況です。しっかり検証した結果、「集団教育には何の効果もない。むしろ有害だ」という話になれば大手を振って生徒指導から撤退すればよいと思いますし、効果があるのならば、現実を踏まえて、何を削って何を残すか、是々非々で検討していくべきでしょう。

(2)法による学校統治

学校から「ブラック校則」を永久に追放するための第二の選択肢は「法による学校統治(スクール・リーガライゼーション)」です。これは学校内に一般社会の法を移植することで教師たちの「ブラックなマイルール」が繁茂するのを阻もうという方向性です。いわば野焼きをした後に雑草が生えないように芝生を敷き詰めるようなものですね。髪型や服装の基準を一般社会のそれに合わせるという話になれば、第一の選択肢である「生徒指導からの撤退」にも該当することになります。

スクール・リーガライゼーションは、憲法や子どもの権利条約に規定された人権保障を学校内で実現しようという話ですから、理念としては大変望ましいのです。私自身も公教育における人権保障の実質化を切望している人間の一人です(注25)。

ですが、校則問題のこれまでの経緯を見るに、現実には一筋縄ではいかないでしょう。現実の校則指導が「ブラック」化するのと同じく、現実の法執行もまた「ブラック」化する可能性を孕むからです。

・厳罰化の罠

第一に厳罰化の問題があります。たとえばスクール・リーガライゼーションの本場アメリカでは、スクール・ポリスを公立学校に常駐させて法による学校統治を進めようとしていますが、うまくいっていません。

銃やスタンガンを携帯した警官が身体検査と称して女子生徒にセクハラをしたり、持ち物検査と称して高価な所持品を没収・破壊したり、人種差別をしたり、幼稚園児に手錠をかけ、口答えした生徒に暴行を加え、生徒をかばって警察の横暴に抗議した教師まで逮捕したりと、導入した学校側も想定していなかったような問題が起こっています(注26)。

日本でも学校の内部に一般社会の法を移植する実験は、既に試されてきました。2000年代半ば以降、「校内に正義を貫徹するため」「子どもたちに一般社会のルールを教えるため」と言って、暴力行為を警察に通報する生徒指導が「ゼロトレランス」の名のもとに一部の自治体で試行されてきたのです。

ただ、結論から言うと、やはりうまくいきませんでした。たとえば2015年には、広島県の中学校でケンカをしていた中学生を教師が抱えて教室から連れだそうとした際、暴れる生徒の足が校長に当たったとして、対教師暴力で警察に通報した事件がありました。暴れた生徒は衆人環視のなかで逮捕され、パトカーで警察署に連行され、少年鑑別所で3週間の観護措置となりました。

校長は生徒を「見せしめ」にするつもりだったのでしょうが、他の生徒は一斉に反発しました。ちょっかいを出したケンカ相手の生徒はパトカーに泣きながら追いすがり、目撃した生徒も「あんなものは暴力のうちに入らない」として警察の介入に抵抗しました。その後も、一部の生徒が教室への立てこもり行動を起こすなどの抵抗が続き、保護者の理解も得られず、校長は結局休職に至りました(注27)。

こうした「ゼロトレランス」に関してアメリカ心理学会の効果検証タスクフォースの下した結論は「ゼロトレランス、ゼロエビデンス(ゼロトレランスに根拠なし)」というべきものでした(注28)。こうした「荒療治」は大人たちの溜飲を下げる効果はあるかもしれませんが、問題を起こした子どもにスティグマ(負の烙印)を与え、自尊感情を破壊し、更生を阻む場合が多いのです。

我々はこれらの惨状から学ぶべきです。高邁な理念を掲げても、現実には、少年法の理念に沿ったデュープロセス(適正手続)を期待できず、安易な厳罰化が帰結するという現実があるのです。法を導入すれば自動的に問題が解決すると考えるのではなく、学校が法にもとづいて適切に統治されるためのシステム構築のコストを支払い、そのうえで「子どもの人権オンブズマン」のような法の濫用に対する監視機関などを設置して適切に管理していく必要があるでしょう(注29)。

・自己責任化の罠

学校に一般社会の法を移植しようというスクール・リーガライゼージョンのもうひとつの難点は、それが現実には「自己責任」という強力な思考停止ウィルスを学校内に持ちこんでしまいがちだという点です。

「ブラック校則」追放運動が共感を生んだ要因の一つに、学校の「連帯責任指導」に対するトラウマがあります。冒頭の「ブラック校則をなくそう!プロジェクトチーム」の調査では「連帯責任で叱られた」と答えた者が中学時代4人に1人、高校時代6人に1人にのぼっているとされています。これは調査で「理不尽な指導」として挙げられている項目のなかで最多です。

学校では確かに「連帯責任」が濫用されがちです。たとえば、昨年のはじめ、宮崎県の山間部の高校で一部の生徒がストーブで弁当の肉を焼いたことが「ストーブの不適切使用」にあたるとして、以降1ヶ月以上にわたって当該学級のストーブが撤去され、積雪のなか暖房なしで授業が行われているというニュースが話題となりました(注30)。

校則違反をするのは一部の生徒であって、大多数の生徒は理不尽な校則指導にも身を縮めてそれなりに適応します。だから近代法の原則である「連帯責任罰の禁止」を学校に求め、教室のストーブで焼肉をするような「厄介者」個人への天誅を訴える声は生徒のなかにもあるわけです。

最近では、たとえば「服装違反は3回で保護者召喚、5回で退学(中学校では停学)」「施設設備を汚損したら現状復帰(損害賠償)と停学」といったように、あらかじめ明示されたルールに従って、問題を起こした生徒個人に交通違反切符を切るように粛々と懲戒を行う「段階的(累積的)規律指導」(プログレッシブ・ディシプリン)を採用する学校も増えています。これもスクール・リーガライゼーションの一つの形といえます。これは懲戒手続きの透明化という点では良い部分もあります。ただ、現実には前述の厳罰化と結びつくことが少なくありませんし、問題を安易に自己責任化してしまうおそれもあります。

学校現場で自己責任を過度に称揚すると、子どもたちの公正性への感度は高まるかもしれませんが、子どもたちの思いやり(ケア倫理)の感度を鈍麻させる形で機能するおそれがあります。前述のとおり、公教育には個人の発達支援だけでなく、社会統合や社会的平等を維持発展させる役割があります。自己責任論は、人間に自然に備わっている公正倫理に訴え、他者に傷つけられたくないという自己保存欲求を刺激するので、非常に強い感染力を持ちます。しかし、自己責任のマインド・ウイルスは全体主義のマインド・ウイルスと同じく極めて危険な社会の「ブラック」化要因です。だからこそ公教育ではそうした利己心を超える利他性を励まし育てることが望まれるのです。

ストーブで焼肉をした生徒が懲戒されている姿を他の生徒が冷笑して見ているような光景は、公教育のあるべき姿ではないはずです。仮にストーブで焼き肉をした生徒が停学の危機に瀕しているとして、周囲の生徒が「自分たちが止めなかったのも悪かった」「ていうか肉を焼いたくらいで停学はないだろ」「そもそも弁当を温める設備がないのがおかしい」「でも全員で電子レンジを使うのは無理だし・・・」等々、みんなで議論して納得解にたどりつけば、肉を焼いた生徒はクラスメイトに感謝して行いを改めるでしょうし、学校生活の質の改善にも役立ちます。クラス全員にとってもよい学びの場になったはずです。

安易に「自己責任」「連帯責任」などといった責任の所在をめぐる議論に終始せず、みんなで知恵を出し合って問題を集団的に解決していく道を模索すればよいのです。これこそがアクティブ・ラーニングであり、「生きる力」の学びです。

さらにいえば、「トラブルメイカー」の生徒をシステマティックに処罰していけば、反省や更生が深まらないまま停学や退学に至り、人間や社会に対し絶望感や憎悪感情を抱いたまま社会に放り出されることになります。結局そのツケを払うのは社会であったり、より弱い立場の人間だったりします。教育しやすい者だけを選んで教育をするのでは、公教育の社会統合機能にとって本末転倒です。

誤解のないようにいえば、法は物理的暴力や連帯責任罰から人を守るという基盤的な人権保護機能を果たすのであって、私も法の導入を全否定しているわけではありません。暴力を振るう教師や生徒を放置してよいわけがありません。

ただ、自己責任を錦の御旗に掲げ、何かあるとすぐに国家権力の呼び鈴を押して「厄介者」を排除するような「法の消費者」志向が波及すると、社会統合は危機に瀕し、社会の維持コストも増大します。教育基本法にも明記されているとおり、質の良い法秩序を再生産できる「法の形成者」となるための試行錯誤の経験が子どもには必要であって、安易なリーガライゼーションがそのための学習機会を奪うことを懸念しているのです。

実際、道徳心理学では、法概念を適切に理解するためには比較的高度な精神的発達が必要だとされています(注31)。学校に法を導入したからといって、生徒にせよ教師にせよ「法の理念」までを自動的に学習するわけではありません。安易に法を導入すると「法の支配」を建前とした「人の支配」「力の支配」が横行する可能性があるわけです。

ここまで、学校に法を導入することによって厳罰化・自己責任化が進展する可能性について見てきました。結局のところ「教師のマイルール」が教育的理念に適うか否かと同様、「法の支配」の理念が実現するか否かも「人」次第です。「ブラック校則」ならぬ「ブラック・リーガライゼーション」にならないよう、十分な人的投資や人員配置が求められます。

(3)校則づくりへの生徒参加

学校から「ブラック校則」を追放するための第三の選択肢である「校則づくりへの生徒参加」は、学校内のルールづくりに生徒を参加させることで校則の正当性を調達するという方法です。いわば「ブラック校則」が蔓延しないように、住民が自分たちでその土地を自主管理できるように支援するという方法です。この点を徹底することができれば「ブラック校則」問題はおおよそ解決します。真に自分たちが必要性を感じて合意した校則であれば、それを守らないことこそが「ブラック」だといえるからです。

誤解のないように言えば、これは教師が生徒指導から撤退するという話ではありません。全体主義化も自己責任化もしない形で民主的に自治を進めていく必要があるわけで、実現のためには教師による緻密かつ専門的な支援が必要です。生徒自治が最高レベルまで充溢した暁に、はじめて教師は生徒指導から撤退することができるのです。

しかし、現代においてこうした学校づくりを真の意味で実現するには、多大な努力が必要です。なぜならば「生徒参加」の母体となる生徒会組織が壊滅状態だからです。

生徒会は、理念的にいえば、教職員集団・保護者会とともに学校の三権の一角を占める組織です。三者によってチェック・アンド・バランスができていれば、問題は起こりにくいわけです。実際、長野県辰野高校のように三者協議会によって校則を精査している学校もあります。生徒会が機能すると理不尽な指導だけでなく、いじめも減ります。それは加害的な生徒に対して他の生徒が組織的に対抗できるからです。そうした志を持つ教育実践は、かねてより著名な民間研究団体の一つである全国生活指導研究協議会の手によって取り組まれてもきました(注32)。

しかし学校の現実には厳しいものがあります。千葉市で行われた2016年の調査によると、中学校の生徒会長選挙で競争選挙が成立している中学校は7%しかなかったそうです(注33)。多くの学校では教師の立候補要請によってようやく選挙が成り立っている状態であり、「ブラック校則」を監視し、生徒が理不尽な校則や暴力に曝されたときに、一致団結して教師に対抗することなど夢のまた夢という状態です。

「ブラック校則」追放運動のきっかけとなった「染髪強要」訴訟もまた、別の見方をすると、当事者の女子生徒が訴訟という手段でしか問題を解決できなかったということです。あれほどの人権侵害ですから、当然周囲に憤りを感じる友人や同級生もいたはずです。それが女子生徒を守りきれなかったのは、生徒会の弱体化の結果でもあるわけです。

なぜそのような惨憺たる状況になっているかというと、学校現場が多忙化する中で生徒会活動に費やすコストが削減されてきたからです。生徒会活動は、公教育のカリキュラムでは学校行事や学級活動とともに「特別活動」という領域に位置付けられていますが、この20年のあいだ教科教育と部活動が時間数を増加させるなかで、質的にも量的にも後回しにされたのが「特別活動」なのです。

生徒会は「ブラック校則」体制のなかで危険視され、武装解除を進められてきた経緯もあります。生徒会が教職員の労務の下請け機関に成り下がっていたり、生徒総会で採択された校則改正が職員会議で簡単に否決されるなど、生徒の集合的意志決定が軽んじられ無力化されている現状があるのです。

教師が生徒と話しあいながら校則を見直し、生徒自身の手による校則制定活動を進めていくことは、生徒の「生きる力」を育てる最強のアクティブラーニングだといえます。教師からしても、この方向性は他の選択肢と比べて悪い話ではないはずです。「ブラック校則」を教師と生徒のコモン・エネミー(共通の敵)として位置づけ、一緒に解決方法を模索していく関係性ができれば、損なわれた信頼関係を回復していくことができます。生徒集団が育って自主管理が進めば、教師の生徒指導業務も減り、より高度な教育実践へと進むことができます。

社会の理解を得られないために教育的必要性のある生徒指導を断念せざるをえなかったり、教師不信のなかで教育的裁量権を取り上げられて事務的に生徒に接することを余儀なくされるよりは、生徒や保護者の合意を取り付ける形で学校の教育的自治権を維持するほうが、大局的に見て教師としての本懐を維持できる点で賢明でしょう。

もちろん、生徒会活動をはじめとする特別活動は、活性化させさえすれば自動的にうまくいくというものではなく、暴走可能性も常にあります(注34)。生徒会の在り方をめぐっても、結局は全体主義化や自己責任化との闘いが必要なのです。

とはいえ、学校には教科教育をめぐって塾や予備校というライバルがいますし、今後は人工知能による個別学習支援もそれに参入してきます。部活動は外部コーチや地域のスポーツクラブ等に委託する流れが生まれつつあります。生徒会活動や学級活動を公教育のアイデンティティとして位置づけ、しっかり手間・暇・金をかけて育てていくという道があって然るべきと思います。

6.おわりに

学校から「ブラック校則」を追放するための選択肢としてここで紹介した(1)生徒指導からの撤退、(2)法による学校統治、(3)校則づくりへの生徒参加の3つには、それぞれにメリットとデメリットの両面があります。個々の学校の状況を踏まえながら、うまく組み合わせていく必要があるでしょう。

いずれにせよ、学校は民主主義のバロメーター(指標)でありインキュベーター(孵卵器)でもあります。法と科学の力によって学校を変え、社会を変えていかないといけません。「ブラック校則」問題は、そのためのきっかけを私たちに与えてくれています。

【注】

(注1)「ブラック校則をなくそう!」プロジェクトWEBサイト「ブラック校則とは

(注2 )産経新聞「地毛茶色なのに「黒髪強要」で不登校…修学旅行も「参加認めない」大阪府立高の女子生徒が提訴」2017年10月27日, BBC “Japan teen ‘forced to dye hair black’ for school” 2017年10月27日, TIME “Japanese Teen Says School Told Her to Dye Her Natural Hair Black or Drop Out” 2017年10月27日など。

(注3 )荻上チキ・内田良[編著]『ブラック校則——理不尽な苦しみの現実』東洋館出版社、2018年、15ページ, BuzzFeed「『“ #ブラック校則 “をなくそう!プロジェクト』始まる 署名すでに2万人、全国調査も実施」2017年12月14日

(注4 )BuzzFeed「6人に1人が中学で『下着の色』を決められていた。“ブラック校則”実態調査でわかった9つのこと」2018年3月8日

ただし、経験率が高いのは「スカートの長さが決められている」(中学57.0%、高校48.1%)「チャイムの前に着席をする」(中学51.9%、高校26.6%)などで、これらを「ブラック校則」と呼んでよいかどうかは論争のあるところでしょう。

(注5)国会会議録「第196回 参議院 文教科学委員会 平成30年3月29日 第4号

(注6 )大阪府教育庁教育振興室「校則等の点検・見直しに関する調査公表について」2018年4月16日, 毎日新聞「大阪府教委 校則、4割強で見直し」2018年4月16日, 毎日新聞「千葉市教委『日焼け止め使用許可を』全中学に通知へ」2018年4月26日

(注7 )朝日新聞「文科省が『置き勉』認める通知 重いランドセル解消へ」2018年9月6日

(注8 )『教育という病——子どもと先生を苦しめる「教育リスク」』光文社新書 2015年6月20日, 内田良・斉藤ひでみ『教師のブラック残業』 学陽書房 、2018年8月10日など。

(注9)ねとらぼ「『児童の健康が全てに優先される』“置き勉”自由化を即決した小学校校長の対応に称賛集まる」(2018年7月1日)

 (注10)拙稿「なぜ学校で体罰や指導死が起こるのか?社会に蔓延する“ダークペダゴジー(闇の教授法)”教育社会学・教育科学、山本宏樹氏インタビュー

(注11)荻上チキ・内田良[編著]『ブラック校則——理不尽な苦しみの現実』東洋館出版社、2018年

(注12 )WEZZY編集部「都立町田総合高校暴力事件に大人たちが示した異常な過剰反応、『どんな良い先生だろうが殴ったら駄目なんだ』と冷静なのは武井壮だけ」2019年1月26日

(注13)高野桂一『生徒規範の研究——生徒規則の法社会学的見方・考え方』ぎょうせい、1987年。坂本秀夫『校則の研究』三一書房、1986年, 拙稿「校則・スタンダードに法と科学を——法治型ゼロトレランスと『管理教育2.0』」『教育』2018年9月号、pp.13-21など。

(注14)『平成30年版 犯罪白書』第3編/第1章/第4節2, 文部省初等中等教育局中学校課長通知「校内暴力等に関する調査について」1984年7月11日付

(注15)坂本秀夫『生徒規則マニュアル』ぎょうせい、1987年。

(注16)高橋英児「『スタンダード』化の背景を探る」『生活指導』720号、2015年6・7月号、p.18など。

(注17)荻上チキ・内田良[編著]『ブラック校則——理不尽な苦しみの現実』東洋館出版社、2018年、p.226。

(注 18 )ねとらぼ「『児童の健康が全てに優先される』“置き勉”自由化を即決した小学校校長の対応に称賛集まる」2018年7月1日

(注19)BODY FOCUS ツイート 2018年8月22日

(注20)大貫隆志[編著]住友剛・武田さち子[著]『指導死——追いつめられ、死を選んだ七人の子どもたち』高文研、2013年, 渋井哲也 「行き過ぎた指導で、子供を死なせてしまう『指導死』。横暴な教師はなぜ減らないのか」ハーバービジネスオンライン、2018年1月12日など。

(注21)内藤朝雄『いじめの社会理論——その生態学的秩序の生成と解体』柏書房, 2001年。内藤朝雄『〈いじめ学〉の時代』柏書房、2007年など。

(注22)デューイ・J『民主主義と教育』松野安男訳、岩波書店、1975年, ブラウン・R『偏見の社会心理学』橋口捷久・黒川正流編訳、北大路書房、1999年

(注23)朝日新聞『授業以外の「特活」に海外関心 考える力、視察相次ぐ』2015年10月25日, 中島悠介『エジプトにおける「特別活動」を通した 日本式教育の導入と課題に関する考察』大阪大谷大学教育学会『教育研究』2017年、pp.47-55

(注24)宇沢弘文『社会的共通資本』岩波新書、2000年

(注25)拙稿「校則・スタンダードに法と科学を——法治型ゼロトレランスと『管理教育2.0』」『教育』2018年9月号、pp.13-21, 拙稿「教育機会確保法案の政治社会学——情勢分析と権利保障実質化のための試論」『〈教育と社会〉研究』(26)、2016年、pp. 5-21

(注26)船木正文「教室の刑罰化——ニューヨーク市学校の過剰警察化」『大東文化大学紀要〈社会科学〉』46号、2008年、pp.187-215, 鈴木大裕『崩壊するアメリカの公教育——日本への警告』岩波書店、2016年など。

(注27)北川保行「『生徒指導規程』の徹底がもたらした現実」『教育』2016年6月号(特集:「学校スタンダード」が変えるもの)pp.46-53, 共同通信「私たちの平成 正しさからこぼれ落ちる 管理教育再び(1)「今、蹴ったよね」」『大阪日日新聞』2018年7月23日付朝刊他、ほか。

(注28)American Psychological Association Zero Tolerance Task Force. (2008). Are zero tolerance policies effective in the schools?: An evidentiary review and recommendations. American Psychologist, 63(9), pp.852-862, Russell J. Skiba. (2000). Zero Tolerance, Zero Evidence: An Analysis of School Disciplinary Practice Policy Research Report #SRS2 August, 2000, Indiana Education Policy Center().

(注 29)拙稿「なぜ学校で体罰や指導死が起こるのか?社会に蔓延する“ダークペダゴジー(闇の教授法)”教育社会学・教育科学、山本宏樹氏インタビュー」SYNODOS

(注30)朝日新聞「肉焼いたから…教室のストーブ没収 外は雪、授業寒い?」2018年1月11日

(注31)荒木紀幸[監修]道徳性発達研究会[編集]『モラルジレンマ教材でする白熱討論の道徳授業——中学校・高等学校編』明治図書出版、2013年, 拙稿「道徳的行為としてのいじめ対応実践」日本生活指導学会大会自由研究発表III、2014年8月27日、ほか。

(注32)全生研常任委員会『学級集団づくり入門(第二版)』1971年。全生研常任委員会[企画]竹内常一[編集代表]『シリーズ 教師のしごと』全4巻(竹内常一・折出健二[編著]『[1]生活指導とは何か』, 小渕朝男・関口武[編著]『[2]生活指導と学級集団づくり 小学校』, 照本祥敬・加納昌美[編著]『[3]生活指導と学級集団づくり 中学校』, 子安潤・坂田和子[編著]『[4]学びに取り組む教師』高文研、2015-2016年など。

(注33)高橋亮平「データ調査をしたら『生徒会長選挙実施はわずか7%』だった。千葉市の先導的取り組み」yahoo!ニュース 2017年4月24日

(注34)原武史著『滝山コミューン1974』講談社文庫、2010年, 拙稿「特別活動の潜在的機能——社会関係資本・主観的意義・生徒界秩序 」東京電機大学『総合文化研究』(15)、2017年12月、99-107など。

プロフィール

山本宏樹教育科学

大東文化大学文学部准教授。専門は教育科学。不登校・いじめ・体罰など教育関連の諸事象について広く研究するかたわら、結成から80年を数える民間教育研究団体の老舗「教育科学研究会」の常任委員を務める。著書に『だれが校則を決めるのか――民主主義と教育』(共編著、岩波書店、2022年)『〈悪〉という希望――「生そのもの」のための政治社会学』(共著、教育評論社、2016年)など。WEB記事に「これからの校則の話をしよう」(SYNODOS 2019年6月)「『ダークペダゴジー』が、危険タックルを引き起こした。教育学者が指摘」(ハフポスト 2018年5月)「なぜ学校で体罰や指導死が起こるのか?――社会に蔓延する”ダークペダゴジー(闇の教授法)」(SYNODOS 2017年6月)などがある。

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