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・厳罰化の罠

 

第一に厳罰化の問題があります。たとえばスクール・リーガライゼーションの本場アメリカでは、スクール・ポリスを公立学校に常駐させて法による学校統治を進めようとしていますが、うまくいっていません。

 

銃やスタンガンを携帯した警官が身体検査と称して女子生徒にセクハラをしたり、持ち物検査と称して高価な所持品を没収・破壊したり、人種差別をしたり、幼稚園児に手錠をかけ、口答えした生徒に暴行を加え、生徒をかばって警察の横暴に抗議した教師まで逮捕したりと、導入した学校側も想定していなかったような問題が起こっています(注26)。

 

日本でも学校の内部に一般社会の法を移植する実験は、既に試されてきました。2000年代半ば以降、「校内に正義を貫徹するため」「子どもたちに一般社会のルールを教えるため」と言って、暴力行為を警察に通報する生徒指導が「ゼロトレランス」の名のもとに一部の自治体で試行されてきたのです。

 

ただ、結論から言うと、やはりうまくいきませんでした。たとえば2015年には、広島県の中学校でケンカをしていた中学生を教師が抱えて教室から連れだそうとした際、暴れる生徒の足が校長に当たったとして、対教師暴力で警察に通報した事件がありました。暴れた生徒は衆人環視のなかで逮捕され、パトカーで警察署に連行され、少年鑑別所で3週間の観護措置となりました。

 

校長は生徒を「見せしめ」にするつもりだったのでしょうが、他の生徒は一斉に反発しました。ちょっかいを出したケンカ相手の生徒はパトカーに泣きながら追いすがり、目撃した生徒も「あんなものは暴力のうちに入らない」として警察の介入に抵抗しました。その後も、一部の生徒が教室への立てこもり行動を起こすなどの抵抗が続き、保護者の理解も得られず、校長は結局休職に至りました(注27)。

 

こうした「ゼロトレランス」に関してアメリカ心理学会の効果検証タスクフォースの下した結論は「ゼロトレランス、ゼロエビデンス(ゼロトレランスに根拠なし)」というべきものでした(注28)。こうした「荒療治」は大人たちの溜飲を下げる効果はあるかもしれませんが、問題を起こした子どもにスティグマ(負の烙印)を与え、自尊感情を破壊し、更生を阻む場合が多いのです。

 

我々はこれらの惨状から学ぶべきです。高邁な理念を掲げても、現実には、少年法の理念に沿ったデュープロセス(適正手続)を期待できず、安易な厳罰化が帰結するという現実があるのです。法を導入すれば自動的に問題が解決すると考えるのではなく、学校が法にもとづいて適切に統治されるためのシステム構築のコストを支払い、そのうえで「子どもの人権オンブズマン」のような法の濫用に対する監視機関などを設置して適切に管理していく必要があるでしょう(注29)。

 

 

・自己責任化の罠

 

学校に一般社会の法を移植しようというスクール・リーガライゼージョンのもうひとつの難点は、それが現実には「自己責任」という強力な思考停止ウィルスを学校内に持ちこんでしまいがちだという点です。

 

「ブラック校則」追放運動が共感を生んだ要因の一つに、学校の「連帯責任指導」に対するトラウマがあります。冒頭の「ブラック校則をなくそう!プロジェクトチーム」の調査では「連帯責任で叱られた」と答えた者が中学時代4人に1人、高校時代6人に1人にのぼっているとされています。これは調査で「理不尽な指導」として挙げられている項目のなかで最多です。

 

学校では確かに「連帯責任」が濫用されがちです。たとえば、昨年のはじめ、宮崎県の山間部の高校で一部の生徒がストーブで弁当の肉を焼いたことが「ストーブの不適切使用」にあたるとして、以降1ヶ月以上にわたって当該学級のストーブが撤去され、積雪のなか暖房なしで授業が行われているというニュースが話題となりました(注30)。

 

校則違反をするのは一部の生徒であって、大多数の生徒は理不尽な校則指導にも身を縮めてそれなりに適応します。だから近代法の原則である「連帯責任罰の禁止」を学校に求め、教室のストーブで焼肉をするような「厄介者」個人への天誅を訴える声は生徒のなかにもあるわけです。

 

最近では、たとえば「服装違反は3回で保護者召喚、5回で退学(中学校では停学)」「施設設備を汚損したら現状復帰(損害賠償)と停学」といったように、あらかじめ明示されたルールに従って、問題を起こした生徒個人に交通違反切符を切るように粛々と懲戒を行う「段階的(累積的)規律指導」(プログレッシブ・ディシプリン)を採用する学校も増えています。これもスクール・リーガライゼーションの一つの形といえます。これは懲戒手続きの透明化という点では良い部分もあります。ただ、現実には前述の厳罰化と結びつくことが少なくありませんし、問題を安易に自己責任化してしまうおそれもあります。

 

学校現場で自己責任を過度に称揚すると、子どもたちの公正性への感度は高まるかもしれませんが、子どもたちの思いやり(ケア倫理)の感度を鈍麻させる形で機能するおそれがあります。前述のとおり、公教育には個人の発達支援だけでなく、社会統合や社会的平等を維持発展させる役割があります。自己責任論は、人間に自然に備わっている公正倫理に訴え、他者に傷つけられたくないという自己保存欲求を刺激するので、非常に強い感染力を持ちます。しかし、自己責任のマインド・ウイルスは全体主義のマインド・ウイルスと同じく極めて危険な社会の「ブラック」化要因です。だからこそ公教育ではそうした利己心を超える利他性を励まし育てることが望まれるのです。

 

ストーブで焼肉をした生徒が懲戒されている姿を他の生徒が冷笑して見ているような光景は、公教育のあるべき姿ではないはずです。仮にストーブで焼き肉をした生徒が停学の危機に瀕しているとして、周囲の生徒が「自分たちが止めなかったのも悪かった」「ていうか肉を焼いたくらいで停学はないだろ」「そもそも弁当を温める設備がないのがおかしい」「でも全員で電子レンジを使うのは無理だし・・・」等々、みんなで議論して納得解にたどりつけば、肉を焼いた生徒はクラスメイトに感謝して行いを改めるでしょうし、学校生活の質の改善にも役立ちます。クラス全員にとってもよい学びの場になったはずです。

 

安易に「自己責任」「連帯責任」などといった責任の所在をめぐる議論に終始せず、みんなで知恵を出し合って問題を集団的に解決していく道を模索すればよいのです。これこそがアクティブ・ラーニングであり、「生きる力」の学びです。

 

さらにいえば、「トラブルメイカー」の生徒をシステマティックに処罰していけば、反省や更生が深まらないまま停学や退学に至り、人間や社会に対し絶望感や憎悪感情を抱いたまま社会に放り出されることになります。結局そのツケを払うのは社会であったり、より弱い立場の人間だったりします。教育しやすい者だけを選んで教育をするのでは、公教育の社会統合機能にとって本末転倒です。

 

誤解のないようにいえば、法は物理的暴力や連帯責任罰から人を守るという基盤的な人権保護機能を果たすのであって、私も法の導入を全否定しているわけではありません。暴力を振るう教師や生徒を放置してよいわけがありません。

 

ただ、自己責任を錦の御旗に掲げ、何かあるとすぐに国家権力の呼び鈴を押して「厄介者」を排除するような「法の消費者」志向が波及すると、社会統合は危機に瀕し、社会の維持コストも増大します。教育基本法にも明記されているとおり、質の良い法秩序を再生産できる「法の形成者」となるための試行錯誤の経験が子どもには必要であって、安易なリーガライゼーションがそのための学習機会を奪うことを懸念しているのです。

 

実際、道徳心理学では、法概念を適切に理解するためには比較的高度な精神的発達が必要だとされています(注31)。学校に法を導入したからといって、生徒にせよ教師にせよ「法の理念」までを自動的に学習するわけではありません。安易に法を導入すると「法の支配」を建前とした「人の支配」「力の支配」が横行する可能性があるわけです。

 

ここまで、学校に法を導入することによって厳罰化・自己責任化が進展する可能性について見てきました。結局のところ「教師のマイルール」が教育的理念に適うか否かと同様、「法の支配」の理念が実現するか否かも「人」次第です。「ブラック校則」ならぬ「ブラック・リーガライゼーション」にならないよう、十分な人的投資や人員配置が求められます。

 

 

(3)校則づくりへの生徒参加

 

学校から「ブラック校則」を追放するための第三の選択肢である「校則づくりへの生徒参加」は、学校内のルールづくりに生徒を参加させることで校則の正当性を調達するという方法です。いわば「ブラック校則」が蔓延しないように、住民が自分たちでその土地を自主管理できるように支援するという方法です。この点を徹底することができれば「ブラック校則」問題はおおよそ解決します。真に自分たちが必要性を感じて合意した校則であれば、それを守らないことこそが「ブラック」だといえるからです。

 

誤解のないように言えば、これは教師が生徒指導から撤退するという話ではありません。全体主義化も自己責任化もしない形で民主的に自治を進めていく必要があるわけで、実現のためには教師による緻密かつ専門的な支援が必要です。生徒自治が最高レベルまで充溢した暁に、はじめて教師は生徒指導から撤退することができるのです。

 

しかし、現代においてこうした学校づくりを真の意味で実現するには、多大な努力が必要です。なぜならば「生徒参加」の母体となる生徒会組織が壊滅状態だからです。

 

生徒会は、理念的にいえば、教職員集団・保護者会とともに学校の三権の一角を占める組織です。三者によってチェック・アンド・バランスができていれば、問題は起こりにくいわけです。実際、長野県辰野高校のように三者協議会によって校則を精査している学校もあります。生徒会が機能すると理不尽な指導だけでなく、いじめも減ります。それは加害的な生徒に対して他の生徒が組織的に対抗できるからです。そうした志を持つ教育実践は、かねてより著名な民間研究団体の一つである全国生活指導研究協議会の手によって取り組まれてもきました(注32)。

 

しかし学校の現実には厳しいものがあります。千葉市で行われた2016年の調査によると、中学校の生徒会長選挙で競争選挙が成立している中学校は7%しかなかったそうです(注33)。多くの学校では教師の立候補要請によってようやく選挙が成り立っている状態であり、「ブラック校則」を監視し、生徒が理不尽な校則や暴力に曝されたときに、一致団結して教師に対抗することなど夢のまた夢という状態です。

 

「ブラック校則」追放運動のきっかけとなった「染髪強要」訴訟もまた、別の見方をすると、当事者の女子生徒が訴訟という手段でしか問題を解決できなかったということです。あれほどの人権侵害ですから、当然周囲に憤りを感じる友人や同級生もいたはずです。それが女子生徒を守りきれなかったのは、生徒会の弱体化の結果でもあるわけです。

 

なぜそのような惨憺たる状況になっているかというと、学校現場が多忙化する中で生徒会活動に費やすコストが削減されてきたからです。生徒会活動は、公教育のカリキュラムでは学校行事や学級活動とともに「特別活動」という領域に位置付けられていますが、この20年のあいだ教科教育と部活動が時間数を増加させるなかで、質的にも量的にも後回しにされたのが「特別活動」なのです。

 

生徒会は「ブラック校則」体制のなかで危険視され、武装解除を進められてきた経緯もあります。生徒会が教職員の労務の下請け機関に成り下がっていたり、生徒総会で採択された校則改正が職員会議で簡単に否決されるなど、生徒の集合的意志決定が軽んじられ無力化されている現状があるのです。

 

教師が生徒と話しあいながら校則を見直し、生徒自身の手による校則制定活動を進めていくことは、生徒の「生きる力」を育てる最強のアクティブラーニングだといえます。教師からしても、この方向性は他の選択肢と比べて悪い話ではないはずです。「ブラック校則」を教師と生徒のコモン・エネミー(共通の敵)として位置づけ、一緒に解決方法を模索していく関係性ができれば、損なわれた信頼関係を回復していくことができます。生徒集団が育って自主管理が進めば、教師の生徒指導業務も減り、より高度な教育実践へと進むことができます。

 

社会の理解を得られないために教育的必要性のある生徒指導を断念せざるをえなかったり、教師不信のなかで教育的裁量権を取り上げられて事務的に生徒に接することを余儀なくされるよりは、生徒や保護者の合意を取り付ける形で学校の教育的自治権を維持するほうが、大局的に見て教師としての本懐を維持できる点で賢明でしょう。

 

もちろん、生徒会活動をはじめとする特別活動は、活性化させさえすれば自動的にうまくいくというものではなく、暴走可能性も常にあります(注34)。生徒会の在り方をめぐっても、結局は全体主義化や自己責任化との闘いが必要なのです。

 

とはいえ、学校には教科教育をめぐって塾や予備校というライバルがいますし、今後は人工知能による個別学習支援もそれに参入してきます。部活動は外部コーチや地域のスポーツクラブ等に委託する流れが生まれつつあります。生徒会活動や学級活動を公教育のアイデンティティとして位置づけ、しっかり手間・暇・金をかけて育てていくという道があって然るべきと思います。

 

 

6.おわりに

 

学校から「ブラック校則」を追放するための選択肢としてここで紹介した(1)生徒指導からの撤退、(2)法による学校統治、(3)校則づくりへの生徒参加の3つには、それぞれにメリットとデメリットの両面があります。個々の学校の状況を踏まえながら、うまく組み合わせていく必要があるでしょう。

 

いずれにせよ、学校は民主主義のバロメーター(指標)でありインキュベーター(孵卵器)でもあります。法と科学の力によって学校を変え、社会を変えていかないといけません。「ブラック校則」問題は、そのためのきっかけを私たちに与えてくれています。

 

【注】

(注1)「ブラック校則をなくそう!」プロジェクトWEBサイト「ブラック校則とは

(注2 )産経新聞「地毛茶色なのに「黒髪強要」で不登校…修学旅行も「参加認めない」大阪府立高の女子生徒が提訴」2017年10月27日, BBC “Japan teen ‘forced to dye hair black’ for school” 2017年10月27日, TIME “Japanese Teen Says School Told Her to Dye Her Natural Hair Black or Drop Out” 2017年10月27日など。

(注3 )荻上チキ・内田良[編著]『ブラック校則——理不尽な苦しみの現実』東洋館出版社、2018年、15ページ, BuzzFeed「『“ #ブラック校則 “をなくそう!プロジェクト』始まる 署名すでに2万人、全国調査も実施」2017年12月14日

(注4 )BuzzFeed「6人に1人が中学で『下着の色』を決められていた。“ブラック校則”実態調査でわかった9つのこと」2018年3月8日

ただし、経験率が高いのは「スカートの長さが決められている」(中学57.0%、高校48.1%)「チャイムの前に着席をする」(中学51.9%、高校26.6%)などで、これらを「ブラック校則」と呼んでよいかどうかは論争のあるところでしょう。

(注5)国会会議録「第196回 参議院 文教科学委員会 平成30年3月29日 第4号

(注6 )大阪府教育庁教育振興室「校則等の点検・見直しに関する調査公表について」2018年4月16日, 毎日新聞「大阪府教委 校則、4割強で見直し」2018年4月16日, 毎日新聞「千葉市教委『日焼け止め使用許可を』全中学に通知へ」2018年4月26日

(注7 )朝日新聞「文科省が『置き勉』認める通知 重いランドセル解消へ」2018年9月6日

(注8 )『教育という病——子どもと先生を苦しめる「教育リスク」』光文社新書 2015年6月20日, 内田良・斉藤ひでみ『教師のブラック残業』 学陽書房 、2018年8月10日など。

(注9)ねとらぼ「『児童の健康が全てに優先される』“置き勉”自由化を即決した小学校校長の対応に称賛集まる」(2018年7月1日)

 (注10)拙稿「なぜ学校で体罰や指導死が起こるのか?社会に蔓延する“ダークペダゴジー(闇の教授法)”教育社会学・教育科学、山本宏樹氏インタビュー

(注11)荻上チキ・内田良[編著]『ブラック校則——理不尽な苦しみの現実』東洋館出版社、2018年

(注12 )WEZZY編集部「都立町田総合高校暴力事件に大人たちが示した異常な過剰反応、『どんな良い先生だろうが殴ったら駄目なんだ』と冷静なのは武井壮だけ」2019年1月26日

(注13)高野桂一『生徒規範の研究——生徒規則の法社会学的見方・考え方』ぎょうせい、1987年。坂本秀夫『校則の研究』三一書房、1986年, 拙稿「校則・スタンダードに法と科学を——法治型ゼロトレランスと『管理教育2.0』」『教育』2018年9月号、pp.13-21など。

(注14)『平成30年版 犯罪白書』第3編/第1章/第4節2, 文部省初等中等教育局中学校課長通知「校内暴力等に関する調査について」1984年7月11日付

(注15)坂本秀夫『生徒規則マニュアル』ぎょうせい、1987年。

(注16)高橋英児「『スタンダード』化の背景を探る」『生活指導』720号、2015年6・7月号、p.18など。

(注17)荻上チキ・内田良[編著]『ブラック校則——理不尽な苦しみの現実』東洋館出版社、2018年、p.226。

(注 18 )ねとらぼ「『児童の健康が全てに優先される』“置き勉”自由化を即決した小学校校長の対応に称賛集まる」2018年7月1日

(注19)BODY FOCUS ツイート 2018年8月22日

(注20)大貫隆志[編著]住友剛・武田さち子[著]『指導死——追いつめられ、死を選んだ七人の子どもたち』高文研、2013年, 渋井哲也 「行き過ぎた指導で、子供を死なせてしまう『指導死』。横暴な教師はなぜ減らないのか」ハーバービジネスオンライン、2018年1月12日など。

(注21)内藤朝雄『いじめの社会理論——その生態学的秩序の生成と解体』柏書房, 2001年。内藤朝雄『〈いじめ学〉の時代』柏書房、2007年など。

(注22)デューイ・J『民主主義と教育』松野安男訳、岩波書店、1975年, ブラウン・R『偏見の社会心理学』橋口捷久・黒川正流編訳、北大路書房、1999年

(注23)朝日新聞『授業以外の「特活」に海外関心 考える力、視察相次ぐ』2015年10月25日, 中島悠介『エジプトにおける「特別活動」を通した 日本式教育の導入と課題に関する考察』大阪大谷大学教育学会『教育研究』2017年、pp.47-55

(注24)宇沢弘文『社会的共通資本』岩波新書、2000年

(注25)拙稿「校則・スタンダードに法と科学を——法治型ゼロトレランスと『管理教育2.0』」『教育』2018年9月号、pp.13-21, 拙稿「教育機会確保法案の政治社会学——情勢分析と権利保障実質化のための試論」『〈教育と社会〉研究』(26)、2016年、pp. 5-21

(注26)船木正文「教室の刑罰化——ニューヨーク市学校の過剰警察化」『大東文化大学紀要〈社会科学〉』46号、2008年、pp.187-215, 鈴木大裕『崩壊するアメリカの公教育——日本への警告』岩波書店、2016年など。

(注27)北川保行「『生徒指導規程』の徹底がもたらした現実」『教育』2016年6月号(特集:「学校スタンダード」が変えるもの)pp.46-53, 共同通信「私たちの平成 正しさからこぼれ落ちる 管理教育再び(1)「今、蹴ったよね」」『大阪日日新聞』2018年7月23日付朝刊他、ほか。

(注28)American Psychological Association Zero Tolerance Task Force. (2008). Are zero tolerance policies effective in the schools?: An evidentiary review and recommendations. American Psychologist, 63(9), pp.852-862, Russell J. Skiba. (2000). Zero Tolerance, Zero Evidence: An Analysis of School Disciplinary Practice Policy Research Report #SRS2 August, 2000, Indiana Education Policy Center().

(注 29)拙稿「なぜ学校で体罰や指導死が起こるのか?社会に蔓延する“ダークペダゴジー(闇の教授法)”教育社会学・教育科学、山本宏樹氏インタビュー」SYNODOS

(注30)朝日新聞「肉焼いたから…教室のストーブ没収 外は雪、授業寒い?」2018年1月11日

(注31)荒木紀幸[監修]道徳性発達研究会[編集]『モラルジレンマ教材でする白熱討論の道徳授業——中学校・高等学校編』明治図書出版、2013年, 拙稿「道徳的行為としてのいじめ対応実践」日本生活指導学会大会自由研究発表III、2014年8月27日、ほか。

(注32)全生研常任委員会『学級集団づくり入門(第二版)』1971年。全生研常任委員会[企画]竹内常一[編集代表]『シリーズ 教師のしごと』全4巻(竹内常一・折出健二[編著]『[1]生活指導とは何か』, 小渕朝男・関口武[編著]『[2]生活指導と学級集団づくり 小学校』, 照本祥敬・加納昌美[編著]『[3]生活指導と学級集団づくり 中学校』, 子安潤・坂田和子[編著]『[4]学びに取り組む教師』高文研、2015-2016年など。

(注33)高橋亮平「データ調査をしたら『生徒会長選挙実施はわずか7%』だった。千葉市の先導的取り組み」yahoo!ニュース 2017年4月24日

(注34)原武史著『滝山コミューン1974』講談社文庫、2010年, 拙稿「特別活動の潜在的機能——社会関係資本・主観的意義・生徒界秩序 」東京電機大学『総合文化研究』(15)、2017年12月、99-107など。

 

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