排外主義(移民や外国製品の国内流入に対する否定的態度)、より一般的には「ナショナリズム」は、しばしば思想や理論的研究の対象となってきた。
ナショナリズムと排外主義
有名なB.アンダーソンの『想像の共同体』では、「国民」の誕生(国というまとまりがメディア上で成立する過程)に焦点が当てられたが、近年では人間の国際移動(移民)が様々な地域で活発化していることを背景に、排外主義の浸透に注目が集まっている。
排外主義については、一部の急進的グループ(日本では「在特会」があてはまるだろう)の行動が報道されるなどをきっかけとして、メディアを通じて様々なコメントが聞かれることがある。が、多くは経験的証拠をもとにしたものというよりは、漠然とした印象にもとづいたものであることが多い。
しばしば聞かれるのは、「失業者や貧困層が右傾化し、排外主義的態度を強くしている」「福祉国家では排外主義的態度が強くなる傾向がある」などである。こういったコメントは理論的には筋が通っており、したがって経験的に確かめる価値のある仮説となる。
研究成果の数は決して多くはないが、社会学では「排外主義的態度をもっているのはどういう人びとなのか?」という問いをたて、それに対して信頼できるデータを使って答えを出してきた。1980年代までは主に一国内のデータを使った実証研究が多かったが、1990年代以降はユーロバロメータ(Eurobarometer)やISSP(International Social Surveys Programme)などの国際比較可能なデータを使って、いくつかの研究成果が査読誌上で報告されてきた。
もちろんこういった経験的な研究は、それ自体で強いメッセージを含んでいるわけではないし、露骨な排外主義を実際に経験した(あるいは目の当たりにした)人の意味的世界を必ずしも再現できているわけではない。
そういう意味ではまあ、退屈なものである。が、経験的に確かめられた知識をもとにすれば、それまで憶測をもとに行なわれていた討議がより効率的になることを期待できるというメリットもある(これがSynodos Journalの趣旨のひとつなのだ、と理解している)。また、排外主義的態度をもつ人たちに対しても、何らかの「相対化」効果はあるかもしれない。
さて、まず「ナショナリズム」といっても、複数の異なった態度を含んでいる可能性がある。これについて一部の社会学者は、ナショナリズム的であると考えられる態度がどのように分離できるのかを(因子分析等の手法で)経験的に明らかにしている。
大まかな成果として、排外主義はナショナリズム的であるとされるいくつかの態度(国民としてのプライド、など)のうちのひとつとして「まとまり」を形成していることが明らかになっている。
排外主義の決定モデル
排外主義に話を限定するとして、比較的頑健な経験的証拠にもとづいた排外主義の決定モデルは図のようになっている。
まず排外主義的態度の獲得に貢献するのは、移民の存在を主観的に「競争的脅威」あるいは「均一性への脅威」と受け止めているかどうかにかかっている。
「競争的脅威」とは「移民が国内の雇用を奪っていると認識しているかどうか」、対して「均一性への脅威」とは「移民によって国のアイデンティティが脅かされていると認識しているかどうか」である。
人びとがこういった認知をするかどうかに対しては、いくつかのマクロ要因(国の経済的豊かさ、マイノリティの人口比率、極右政党の有無)が関連していることが分かっている。さらに実証結果によると、こういったマクロ要因によって全体的に高まってきた「脅威」を感じている個人が、必ず排外主義低態度を持つというわけではない、ということも分かっている。
移民を競争的脅威としてとらえているのは、経済的に不利な状況にあるグループ(たとえば失業者)である。さらに移民を国民アイデンティティへの脅威としてとらえている者は、保守的態度をもったグループに多い。
国によってある程度のばらつきもあるが、経済的に恵まれないグループが排外主義的態度をもつ傾向が強いのは間違いないにしろ、それは「自分たちの国の一体感が脅かされる」といった抽象的な感情ではなく、どちらかといえば「移民が増えると仕事を取られる」という実際的な感情を経由してである、ということになる。
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