兵器化される情動反応――2019年インドネシア大統領選挙にみる選挙テクノロジーの影

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CAは、有権者の情動反応を引き出すメッセージをSNSで拡散することで投票行動を誘導する心理戦で一躍有名になった。これにインドネシアの政治エリートも飛びついた。とくに反ジョコウィ勢力はIT専門家たちにCAの手法を学ばせ、サイバー部隊を次々と準備した。選挙直前、ジョコウィの補佐官は、次のように筆者に嘆いていた。「数多くの勢力が、それぞれサイバー部隊を動かしている。彼らは同床異夢だが、狙いはひとつ。大統領の交代だ。」

 

実際、ジョコウィの選対本部には、SNSによる情報拡散をIPアドレスの足跡をたどってネットワーク分析のマッピングを常に行っている班があり、そのデータを見せてもらったところ、4つほどのクラスターからフェイク・ニュースや偽情報が拡散されていた。それらは、プラボウォ率いるグリンドラ党の関係者が発信するもの、イスラム保守党である福祉正義党(PKS)関係者が発信するもの、武闘派のイスラム強硬派団体であるイスラム擁護戦線(FPI)関係者が流すもの、そして越境的イスラム急進団体である解放党(HTI)関係者が拡散するものである。

 

各々のクラスターが、それぞれサイバー部隊を多数準備し、SNS発信のエンジンを各地に置き、ジョコウィ攻撃のメッセージを組織的・体系的にプログラミングして大量に放射してきた。国家官房のメディア対策担当補佐は、「ウクライナなどの国外にエンジンを置く場合もあり、拠点を分散化させることで摘発を困難にしている」と解説する。

 

このサイバー空間で、どういうメッセージが効果的に流されてきたのか。もっとも広がったのが、「ジョコウィは共産主義者であり、異教徒の操り人形であり、彼が再選したらアザーンが禁止になりLGBTも合法化される」という類のメッセージである。このネタには複数のバージョンがあり、手を変え品を変え、機関銃のごとく撃ち込まれた。こういう情報は、聞く耳を持たない人たちには効果はあまりない。しかし、保守イスラムの支持者たちにとっては、そういう情報こそが、政権が今まで隠してきた「不都合な真実」であると考える。こうして反ジョコウィ勢力の結束力を高めていった。

 

 

アザーン禁止やLGBT合法化を伝えるフェイクニュース(通信情報省の報告書より)

 

 

もちろん、こういう情報はフェイクである。しかし、何がフェイクで何が真実か。その境界に果たして意味があるのか。じつはさほど真実には価値はないのかもしれない。筆者はそのことを今回の選挙で痛感した。大事なのは自分が信じているかどうかである。イスラム保守勢力の多くの人たちは、仲間から送られてくるSNSのメッセージを信じている。そこには感情の力が大きく働いている。理性ではなく感情が政治意識を規定するのである。

 

とくに「キモい」「コワい」「ヤバい」という脳の情動反応を直接刺激するメッセージを大量に受容することによって、「こんな大統領は嫌だ」「怖い時代が到来する」といった嫌悪と不安が脳内をハッキングする。これを脳神経学では扁桃体のハイジャックと呼んでいる。選挙でのSNS戦略は、まさにこの効果を狙ったものである。有権者は、不安から解放されるためにも積極的にプラボウォを支持するという投票行動に誘導されていく。

 

もう読者は気づいていよう。このような展開は、民主選挙にとって危険信号を発している。それは、感情が支配する選挙の危うさとも言える。候補者の業績や政策、ビジョンなどの情報にもとづいて、合理的・論理的に投票行動を決めるという、我々がこれまで「常識」としてきた民主選挙のあり方が大きく問われている。

 

宗教や民族のアイデンティティーが前面に出て、「好きか嫌いか」という感情が投票を決定づける時代に突入しつつあるとするならば、社会分断は深刻化することはあっても緩和することはない。そのことは、他者への不信感を高め、社会的な寛容性を低下させ、マイノリティーのスケープゴート化を助長し、結果的に民主的な政治空間を圧縮させるだけだ。その意味で、選挙テクノロジーの発展は、皮肉にも民主政治を脅かす危険性をはらんでいる。

 

 

「新しい選挙戦」の未来?

 

ジョコウィが所属する闘争民主党の幹部は、今回の大統領選挙がサイバー戦に乗っ取られて史上もっとも醜い選挙になったと回顧する。そして将来はもっと酷くなると展望する。理由は、一部の国で模索されているバイオメトリクス技術の選挙利用であり、遠くない未来にインドネシアにも入ってくるであろうという懸念だ。

 

とくにコンピュータの情報処理能力の飛躍的な向上によって、顔認証がより高精度化すると、表情の変化に表れる嫌悪や不安といった情動反応をもっと正確にデータとして記録できるようになる。そうなると、いかなるメッセージが人に嫌悪感や不安を与えやすいのかについてもビックデータが集積しやすくなる。その膨大なデータをAI(人工知能)が解析し、コミュニティーごとに効果的な扇動情報を作り出し、SNSで大規模に拡散する。その効果が選挙で猛威を振るう。そういう時代が来るかもしれない。そのことに大きな懸念を抱いている。

 

 

AIによる感情認識(写真はここここ

 

 

たしかに、今回の選挙では、キャンペーンの中核にITやサイバーの専門家が大量に動員されていた。彼らは、政治に詳しいわけでも民主選挙に思い入れがあるわけでもない。その彼らが繰り広げる「新しい」選挙戦は、高度な技術の専門知識の塊で、おそらく多くの政治学者や地域研究者とは異次元のレベルで会話が成される世界である。

 

ここに脳神経学やバイオメトリクスといった分野が、これから重要になっていくのであれば、筆者のような伝統的な地域研究者は、ますます選挙という政治競争の重要な場面でプレゼンスが薄れていくかもしれない。そういう「不安」に扁桃体がハイジャックされないよう、地域研究の「復権」を妄想しつつ日々の勉強に励むしかない。

 

そんな私的なことよりも、ひるがえって日本の選挙政治は大丈夫かという心配も当然出てくる。これ以上は筆者のキャパシティーを超えるが、早かれ遅かれ、選挙テクノロジーの進化は、目に見えるかたちで日本の政治にも影響を及ぼしかねない。

 

今は、沖縄など、地域限定的に分断の選挙は存在するが、全国規模ではまだ起きていない。しかし、人口減少や、移民政策、福祉政策などの変化が社会亀裂を深めたとき、情動反応の政治動員が誘発されない保証はどこにもない。世界の多くの民主主義国を蝕む病理に際して、日本はいつまでフリーでいられるのか。同じアジアの一員であるインドネシアの行方を注意深く観察していくことで、心配緩和のヒントが見えてくる可能性がある。

 

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vol.269 

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