2013.05.19

「どうなっているのか」と「どうすべきか」を一緒に考える

教育社会学者・本田由紀氏インタビュー

情報 #教育社会学#教養入門#教育学

大好評「高校生のための教養入門」シリーズ! 今回は、教育社会学者の本田由紀先生にお話を伺ってきました。「教育学はなんとなくわかる気がするけど、教育社会学ってなに?」そんな素朴な疑問をぶつけてきました。すると、思春期の若者のように自らのアイデンティティに苦しんできた教育社会学の姿が……。いじめ問題など、さまざまな教育問題が取りざたされるいま、まずは教育社会学について知っていただければと思います。(構成/金子昂)

教育社会学ってなに?

―― 本田先生のご専門についてお聞かせください。

端的にお答えすると、わたしの専門は教育社会学です。

どの学問にも狭義と広義があると思いますが、教育社会学の場合、狭義は教育という対象を社会学的なアプローチを使って研究する学問、広義は純粋な社会学に限らず、文化人類学や経済学、政治学など、その他の社会科学的なアプローチも使いながら研究する学問といえると思います。どちらにせよ、他分野との境界がはっきりしているというよりは、連携や連接のある学問だと思ってください。

―― 教育学と教育社会学ってなにが違うんでしょうか?

話がややこしくなってしまうかもしれませんが、教育学にも狭義と広義があるんですね。これはわたしなりの見方ですが、まずもっとも狭義の教育学は、教育思想や教育哲学のような、「教育とはどうあるべきか」を思弁的に追及する「規範学としての教育学」。そしてその外側に、やや広義の教育学として、学校現場に入りながら教育の実践をよくするための手法などを提言したり教員を養成したりする、「方法学としての教育学」があります。

このふたつはやり方は違うものの、「どうすべきか」「どうすればいいか」といった価値や規範とは切り離せない点で、共通点がありますよね。これらが教育学のコア部分で、その外側に、さらに広義の教育学として、なんらかの意味で教育に関わる現象を客観的に把握し明らかにする「事実学としての教育学」があります。ここには教育社会学など多様な分野が含まれます。

たとえば東京大学の教育学部には、狭義の教育学に近い「基礎教育学」と呼ばれるコースもあれば、わたしが属している「比較教育社会学」という、社会科学のアプローチを使用するコースもあります。それ以外にも、教育心理学や身体教育学など、非常にさまざまな学問的アプローチを使った研究があるんですね。身体教育学の場合、脳や筋肉の発達を扱っていて医学とかなり接近していますから、自然科学的なアプローチです。

というように、広い意味での教育学は、教育や人間の発達をテーマに扱っていれば、人文科学、社会科学、自然科学など、アプローチの種類を問わない学問です。そのなかに、社会科学のアプローチを使う一群があり、さらにそのなかで主に社会学のアプローチを使って研究をするのが「教育社会学」なんです。

教育社会学は第二次世界大戦後に生まれた

―― 社会学は人によって定義の異なる学問で、なにをやっているのかよくわからないところがあります。社会学的なアプローチをとる教育社会学も「いったいどんな学問なんだろう?」という疑問があるのですが……。

一言で説明するのが難しいんですよね。社会学そのものがさまざまな学問の境界領域にありますし、さらに教育社会学は、社会学と教育学の積集合にあたるところに位置しますので、これまでずっと、「いったい自分は何者なんだ?」とアイデンティティに苦しんできました。

教育社会学は、第二次世界大戦が終わってから、民主主義的な新生日本を担う市民を育成するための新たな教育を創り出すためには、教員を養成する課程において社会学的な知識が必要だろうということで、急ごしらえで発足されました。

それ以前に「教育社会学」を名乗って専門的に研究する組織や研究者はほぼいなかったわけで、教育社会学の学会である教育社会学会は、教育学を研究していた人と社会学を研究していた人の寄り合い所帯のようなかたちで立ち上げられたんですね。教育学寄りの人と社会学寄りの人がいるわけですから、簡単にひとつに融合はできなかった。学会長を決めることもできなかった時期がしばらくあったくらいです。

アイデンティティに悩む教育社会学の足跡

ちょうど2012年11月に、日本教育社会学会の大会で「教育社会学(教育)の質保証は可能か」というテーマで、教育社会学がこれまでにどんな研究を行ってきたのかを振り返った研究を発表しました(参照:本田由紀・齋藤崇徳・堤孝晃・加藤真「日本の教育社会学の方法・教育・アイデンティティ―制度的分析の試み―」『東京大学大学院教育学研究科紀要』52巻、2013年3月)。教育社会学会は『教育社会学研究』という学会誌を発行しています。その学会誌で組まれた特集テーマをみれば、その時期に注目されているトピックがわかりますよね。教育社会学の研究者である藤田英典さんによる時期区分も使わせてもらいながら、まとめてみました。

それぞれの時期を簡単にお話しますと、第一期(1951~59年)が「再建と確立の時代(実態調査)」。つまり自分たちがこれからやるべきことはなにかを定義しようとした時代です。学問として独自性を打ち立てようと努力するとともに、戦後の混乱期のむちゃくちゃになった教育において、なにが起きているのかをざっくりと実態調査をし、それを通じて教育を再建しようとしていたんですね。

第二期(1960~69年)が「拡大・発展の時代(機能主義)」です。機能主義とは、タルコット・パーソンズを代表とする、1950年代、60年代のアメリカで大流行した社会学の理論のことです。教育社会学もその影響を受けて、実態調査だけでなく教育事象に対して理論的な解釈を加えて行こうと、つまり「もっと学問っぽくなろう」としていた時期なんです。

さらに第三期(1970~79年)の「構造変容の時代(実証主義)」の頃、統計的な分析手法が発展し、コンピューターも使いやすくなって、いろいろな分析が行えるようになりました。主に統計的、計量的なものを中心に、実証研究がブワッ! と発達したのが第三期ですね。

そして第四期(1980~89年)が「懐疑と調整の時代(脱構築主義)」です。第二期の「拡大・発展の時代(機能主義)」においては「教育は素晴らしいものであり、優れた人材を形成し、産業も発達し、各国の経済発展に貢献する」といった楽観的に考えられていましたが、70年代、80年代にかけて「戦後民主化、経済発展、イエーイ!」というハッピーなムードに陰りがさしてきて、見直しが始まったのが第四期です。

この頃、「教育ってそんなにいいものなのかな?」「階層の再生産に寄与しているだけなんじゃないの?」「教育や学校は人々を支配する装置なんじゃないの?」という疑念が広がっていました。それを決定的にしたのが、フランスの哲学者のミシェル・フーコーでした。フーコーが『監獄の誕生』で行った、遍在する権力という観点から教育をとらえ直そうとする試みは、日本の教育社会学に大きなインパクトを与えました。第三期の、統計的な手法を使って「AはBに何パーセント影響している」といった研究のさらにその先に、「わたしたちは教育というある種の牢獄のなかで、まとわりついてくる権力の視線にさらされて、自ら統治されようとする。近代社会が生み出した、この教育なるものとは……」と、「教育」そのものの奥底へ潜り込んでそれを「脱構築」しようとしていた。第四期はそんな時期でした。

悩んでいる暇なんてない!?

ここまでが藤田英典さんによる時期区分で、この先はわたしが独自に区分したものです。第五期(1990~99年)は、「パラダイムと理論の模索の時代(反省主義)」といえると思います。いままでお話しした一連の流れのなかで、教育社会学は拡大成長を遂げてきました。学会員も増え、知見も積み重ねられてきた。そういう意味では順風満帆だったわけですが、成長を遂げるうちに、いろいろな分派も生まれて、いわばわけがわからなくなっていたんです。そこで「じゃあどうしようか」と、教育社会学をもう一度考え直して統合を模索する時期が90年代でした。

このように教育社会学がうろうろしているうちに、ご存知のようにバブル経済が崩壊し、現在にいたるまで、格差や貧困、若年雇用問題の顕在化など、日本社会は崩れ落ちるように変化を遂げてきました。教育社会学は、世紀が変わるころになってようやく「あれ、自分たちがうろうろしている間に世の中がすげえ変わってる! あんなテーマもこんなテーマもいままで十分に扱ってこなかったけど、大問題じゃないか!」と、なった。これが第六期(2000~現在)の「新たな諸問題への直面の時代(実践主義)」です。

―― ではいまは「自分たちについて悩んでいる暇なんてない! いま起きている具体的な問題について考えなくちゃ!」となっているわけですね。

はい。教育社会学はつねに自分たちのありようを反省してきた学問ですので、すでに、その状況への反省も始まっています。いまは第七期の始まりなのかもしれません。

2012年12月に出た『社会学評論』に、教育社会学者の中村高康さんが、「テーマ別研究動向(教育)―教育社会学的平衡感覚の現在―」という、教育社会学を振り返る論文を書いています。中村さんによれば、教育社会学はどちらかというと自らを社会学の一分枝とみなして、社会学の理論を取り入れ、分析方法を精緻化してきた。つまり教育学よりも社会学として学問を確立させてきたはずなのに、いまは、緊迫している社会的課題に引きずられるかたちで、価値や規範が中心にある教育学に近づきすぎているのではないか。もう一度、社会学としての自分たちのあり方を立て直すべきなのではないか。安易に教育学化して、大ざっぱな調査やいい加減な理論の取り入れに基づいた提案よりも、学問的な知見を実証面でも理論面でも出していくことにより、教育社会学は社会学というアイデンティティを取り戻すべきなのではないかと書かれています。

このように教育社会学は、つねに自分たちを振り返り、「これでは駄目だ」「どうしよう」と、往復運動を続けてきた学問なんです。

教育社会学がもつ複雑な構造

―― なんだか思春期みたいですね。

思春期のまま拡大してきたところがありますよね。

教育学は、「どうすべきか」「どうしたらいいのか」といった規範や価値を積極的に提示しようとする学問であり、社会学は現実から距離をとって、現実を客観的に捉えて行こうとする学問です。ベクトルとしては反対向きなんですね。ここに「越えられない壁」、解決できないアポリア(難題)があります。

教育学も社会学も独自の発展をとげてきました。社会学であれば、理論面での発展と実証面の発展があり、そのなかで社会学内でも分派が生まれます。理論を突き詰めるにしても、実証を突き詰めるにしても大変な作業ですから、研究者は自ずとどこか特定のポイントに自分の位置を見出そうとし、研究分野全体は細分化していくんです。

さらに時代が経過すると、理論や実証のなかでもさらに分岐がうまれてくる。実証方法だけとっても、質的な手法と計量的な手法が、それぞれ高度化すればするほど細かく分かれていきます。質的な研究だけとっても、参与監察、インタビュー、エスノメソドロジー、言説研究などさまざまですし、計量研究も日進月歩でいろんな分析手法が発展しています。また、分析対象である「教育」といっても、学校教育だけでなく、家族、企業、地域もありますし、ミクロな相互作用や長期的なライフコースまで観点を広げると、ありとあらゆるものが広い意味での「教育」といえます。

それだけ多くの分派や要素のある複雑な構造のなかで、それぞれの研究者が自分の力量や問題関心の範囲のなかで、「えいっ! このあたりを研究する!」と選んでいるようなのが現状なわけです。だから「教育社会学とはなんぞや?」という質問に簡単に答えられないんです。

社会全体における「教育」というシステムを把握するために

―― なるほど……。では、本田先生はどのような研究をされているのかをお話いただけますか?

わたしは「教育」「仕事」「家族」という3つの社会領域の間の関係性やその変化、とくに日本固有のあり方に力点をおいて研究を行っています。

わたしは大学院で学んだあと、1994年に、当時の日本労働研究機構、いまは労働政策研究・研修機構という名称になっている、厚生労働省所管の研究機関の研究員として就職しました。若年労働市場を研究する部署に配属され、就職のあり方や、学校を離れた直後の人たちがどのようなキャリアをたどっているかについて研究していました。

2001年まで勤めていたのですが、94年から01年って、バブルが崩壊し、就職氷河期とか超氷河期とか呼ばれていた時期とちょうど重なるんですね。新規高卒者の求人数がどっと減って、大学卒業生は増えて、安定した仕事に就けない若者が大量発生するという、戦後日本では未曾有の現象が若年労働市場において発生した時期です。ですからあの頃は、なにが目の前で起こっているのかを把握するための大きな調査研究プロジェクトがたくさん動いていて、それらに携わっているうちに、自然に「教育」と「仕事」の関係への関心が強くなったんですね。

ただ、そのうち、教育を終えた人が仕事の世界に入るという、「教育の出口」の研究をしているだけではバランスを欠いているように感じて、研究員としての業務とは別に、家族と教育の関係に関心をもつようになりました。親、とくに母親が子供の教育に対してどういう意識をもち、どのように教育しているか、「教育への入口」である、「家族」と「教育」の関係も見なくては、この社会における「教育」というシステムの特徴や位置づけを把握できないという考え方が強くなり、「教育」「仕事」「家族」の三角関係のあり方、そしてそれらを貫く「能力」というものについての人々の考え方や社会的な仕組みについて研究するようになっていたんです。

これまで、日本の教育社会学は、学校教育内部での進路選択に関する研究を「コア」というか「王道」としてきましたので、わたしのような、どちらかといえば教育の外を見ようとしている研究は、教育社会学の中心からは少し外れているかもしれません。

10代、20代を引きずりながら

―― 本田先生が若者の立場に立ってお話をされているのは、労働政策研究・研修機構での研究が影響しているんですね。それ以前はどのような研究をされていたのでしょうか?

わたしはその都度その都度、自分の苦しさを研究テーマにしてきたところがあります。もしかしたらそれが色濃すぎるところがあって、いけないことなのかもしれないと思っています。

中高生のとき、「なんでこんなことを勉強させられているんだろう?」ってしんどい思いをしていました。いまの研究的な言葉でいえば、生活や社会との内容的なレリバンス(関連性)が薄い勉強を強要されて、学ぶことが自分を強くしたり生きやすくしたりしているという実感がぜんぜん得られていませんでした。でも勉強しなければ成績が下がるから勉強するしかない。一応優等生扱いされていましたが、器用なほうじゃないので、「ひえ~!」って頭がおかしくなりながら、とにかく覚えて、書いて、やらなきゃいけないことを必死にこなしていました。

その後の20代は、将来への不安を強く抱いている時期でした。わたしはオーバードクターも含めて大学院に7年間在籍しています。頑張って論文を書いてもなかなか掲載されないし、就職先もない。大学院に行ったのに、奨学金も切れて、塾講師などでしのいでいたけど、どうしてこんなに貧乏で、どこもわたしを必要としてくれなくて……と、とにかく不安な状況が長かったんですね。

10代の勉強の不安と20代の将来の不安を、トラウマのようにいまでも引きずっている。バブル崩壊前のことですから、バブルが崩壊して若者たちが苦しくなるちょっと前に、わたしは一歩早くその苦しさを経験してしまったところがあるので、その後の若者が置かれている状況は、他人事とは思えないんです。とはいえ、いまは職を得ているので「なんでのうのうとしているお前が、若者に共感するようなことをいうんだ」っていわれてしまうこともあります。

―― そういう経験をされているからこそいえることもあると思いますし、それが原動力となっているのかと思いましたが……。

でもね、社会学と名乗るのなら、自分の経験を研究とは切り離して、精緻に、クールに研究したほうがいいんでしょうけど、申し訳ないですけどわたしはできなくて。教育社会学という分野をシノドスで語らせてもらう役割には、もしかしたら適任ではないかもしれません。

文学部か教育学部か

―― 教育社会学を選ばれた理由もご自身の経験が大きいのでしょうか?

また個人的なお話になってしまいますが、わたしは親から医者になることを薦められていたこともあって、高校は理系クラスだったんですね。でも、「やっぱりわたしなんかが人の命を扱う仕事はとてもできない」って感じて、「隠れ文転」をしていたんです。隠れ文転とは、たとえば物理の授業中に世界史をこっそり勉強していることですね。

結局、東大の文三に入りました。東大は3年生に進学するときに、どの学部に進むか選択する仕組みになっています。いちおう文学少女でしたし、国語の教員免許もとりたかったので、文学部の国文学科に行くか、それとも教育学部に進んで、わたしにとって恨みつらみの対象である教育を、なんらかの学問的アプローチで研究するか迷っていました。

結局、文学は趣味として読むこともできるけど、教育については学問として勉強できる機会が大学以外に少ないかなと思って、教育学部を選んだんですね。さらに教育学部のなかのどのコースを選ぶかも迷ったのですが、その頃、母親が「社会学って流行っていて、つぶしが効くみたいよ」っていっていたので、「そういうもんなのか」って教育社会学のコースを選んだんですね。いい加減ですけど。そうしていまに至っています(笑)。

わたしたちの世代って、たぶん、進路をいまの若者よりもいい加減に選んでいたと思います。バブル崩壊以前は、それでもなんとかなっていた面があった。でも、いまは社会や経済の状況が変化してしまって、流れや組織に身を任せているだけだと、どんなリスクが降りかかってくるかわからない。だから、いまの若い人にとって、進路選択は、かつてより難しく、かつ重要になってしまっている。その大変さに対して、少しでも手助けができないかと思うんです。

honda

「どうなっているのか」と「どうあるべきなのか」を一緒に

―― 教育社会学を勉強することにはどんな意味があるのでしょうか?

先ほどもお話したように、教育社会学は、教育学と社会学のはざまにありますから、「どうしたらいいのだろう」という発想と、「どうなっているのだろう」と現実を把握する傾向とを両方含みもっています。この両者のバランスをとることは簡単ではないのですが、それでも、実践志向や政策志向をもちながら、実証的な調査によって現実を把握する姿勢を学生が学ぶことは、結局のところ、非常にいいことだと思っています。

教育という現実への関心と、データを集めて、自分の思い込みや社会通念がほんとうに正しいのか、現実と対話し虚心坦懐に確かめていくという往復作業を経験するのは、自分を鍛える上でも非常に良いことです。データを見ていくと、思い込みや「常識」に修正を迫られることがとても多いんです。歴史を振り返ったり、他国との比較をすることができれば、なおさら自分がいま生きているこの社会のあり方を相対化することにつながるでしょう。

さらに、現実を把握するだけでなく、もう一段階抽象度を高めて、これまでに構築されてきた理論や概念を駆使して、解釈を与えていくことも重要です。先に述べたような教育社会学の複雑な構造があるゆえに、現実への関心と、実証的な検証、理論的な解釈という、三つの軸の間を、大きく旋回しないといけない。これを実践して身に付けることは、もちろん直接的には教育や調査に関わる仕事に就く上ではとても重要ですし、それに限らず、より広い様々な社会的な場面で意味があることだと思います。

―― 教育社会学を勉強したいと思ったら、教育学部に入ればいいのでしょうか?

どの大学でも教育社会学を学べるわけではありません。「教育社会学」という学科やコースがあれば勉強できると思いますが、全国に多くあるわけではないんです。たとえば教育学部のなかに教育社会学の教員が一人だけいるとか、あるいは教育学部すらない大学のなかで、教職科目を一手に担当されている教育社会学の先生がぽつんといたりする場合もあります。

さらに、教育社会学を扱う学科やコースがあっても、どういう科目が設定されているかはさまざまです。教員がなにをとくに専門にしているかで大きく違います。だからもし教育社会学を勉強したい方は、それぞれの研究者が、どういう論文や本を書いているか、丁寧に見ていかないと、やりたい勉強ができるとは限らないんですよね。しかもいま、教育社会学のなかで、理論を専門的に研究している研究者がどんどん減っているので、理論をじっくりやりたい人は、なかなか難しいかもしれません……。

過去に覚えた違和感を正面から研究できる

―― 高校生に向けてメッセージをいただけないでしょうか?

うーん、じつはこういうメッセージをお話するのは、一番苦手なんです。わたしは社会の体制について研究したり提言したりすることが多いので、個人がどう振る舞うべきかといった話は、自己責任化につながってしまう気がして、答えに困ってしまうんです。

教育社会学はとても柔軟で、どんなテーマでも取り上げられます。とくに10代、高校生は、いろいろと悩んだり、学校や家族や社会に違和感を覚えながら大人になっていく時期だと思います。その違和感や不満、疑問を捨てることなく、がっつり正面から研究対象にできるのが教育社会学だとは伝えておきたいです。『教室(スクール)カースト( https://synodos.jp/newbook/3691 )』という本で、鈴木翔君が行った研究も、俗っぽいと思われていままで学問的な対象とされてこなかったことを、正面から取り上げたものでした。教育社会学とは、そんな学問です。

絶望せずにいて欲しい

―― 最後に、いま就職活動をしている人たちに向けて一言いただけないでしょうか?

わたしは最近、「あなたは仕事でどんな「強み」をもっていますか」という質問を含んでいる質問紙調査の分析を担当しました。調査対象である30代の人たちに、この質問に自由記述で答えていただいた結果を、資格のような具体的なスキルとしての「強み」と、対人能力や時間を守るといった漠然とした「強み」の二つに分けて分析しました。

この二種類の「強み」のそれぞれをもっている人と、強味がない人、合わせて三つのタイプに分けて、その三タイプの人たちがそれぞれどんな意識をもって仕事に取り組んでいるか調べてみると、対人能力や行動様式が強みだといっている人は、女性の場合は、将来の生活の向上や安定よりも、いまが楽しければいいと考える傾向が見えますし、男性の場合は、「俺はビッグになるぜ」といった意識をもっている傾向がある。

それに対して、資格やスキルなどの明確な「強み」をもっている人は、専門性を高めたい、社会に貢献したいという意識が強いようです。社会のなかの自分の位置づけを意識しながら、堅実に暮らしている。社会の諸問題にも敏感です。もちろん世の中にはいろんな人がいて構わないと思いますが、こういうタイプの方が増えたら頼りがいのある社会だなって思います。

先ほどもいいましたが、いまは企業に身をゆだねるような世の中ではありません。自分になにができるのか、いまの社会でなにをやるべきなのかといった、それぞれのテーマに即して、進路を選ぶことがこれから必要になってくると思います。

自分のテーマや、それに即したスキルや資格などの「強み」をナビとして生きてゆけるような道は、いまの日本では依然「けもの道」で、いろいろ提言などもしていてもまだ環境も全然整っていなくて申し訳ないですが、そこを歩く人たちが増えれば、けもの道は整っていきます。こんなことをいまの若者にいうのは酷だと思うのですが、従来の、組織に抱きかかえてもらって安心するようなルートが失われても、どうか絶望せずにいて欲しいと思います。

教育社会学がわかる! 高校生のための3冊

まず、文字通りわかりやすい教科書として、酒井朗・中村高康・多賀太編著『よくわかる教育社会学』(ミネルヴァ書房)をあげておきます。階層と教育、マイノリティと教育、ジェンダーと教育、教師の社会学など、教育社会学の主な研究内容が一望できるような構成になっています。

加えて、個別のテーマをかみ砕いて論じたものの例として、矢野眞和『「習慣病」になったニッポンの大学―18歳主義・卒業主義・親負担主義からの解放』や、加野芳正『なぜ、人は平気で「いじめ」をするのか?―透明な暴力と向き合うために』などを含む、日本図書センターの「黄色い本」シリーズがお薦めです。

もう少し難しくなりますが、若手の教育社会学者ががっつり取り組んだ最近の著作としては、牧野智和『自己啓発の時代-「自己」の文化社会学的探究』(勁草書房)、須藤康介『学校の教育効果と階層-中学生の理数系学力の計量分析』(東洋館出版社)、澁谷知美『立身出世と下半身-男子学生の性的身体の管理の歴史』(洛北出版)などがあります。いずれも博士論文を書籍化したものですが、教育社会学の研究手法やとりあげるテーマの多様性、それが教育や社会を解き明かすやり方の魅力を実感していただけると思います。

★高校生のための教養入門コーナー記事一覧

https://synodos.jp/intro

プロフィール

本田由紀教育社会学

東京大学大学院教育学研究科教授/日本学術会議連携会員。

東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。博士(教育学)。日本労働研究機構研究員、東京大学社会科学研究所助教授等を経て、2008年より現職。専門は教育社会学。主な著書に、『若者と仕事』(東京大学出版会)、『多元化する「能力」と日本社会』(NTT出版、第6回大佛次郎論壇賞奨励賞)、『「家庭教育」の隘路』(勁草書房)、『軋む社会』(河出文庫)、『教育の職業的意義』(ちくま新書)、『学校の「空気」』(岩波書店)、『「ニート」って言うな!』(共著、光文社新書)、『大卒就職の社会学』(編著、東京大学出版会)、『労働再審1 転換期の労働と〈能力〉』(編著、大月書店)ほか。

この執筆者の記事