2021.09.16

経済学入門、最初の一歩――『教養のための経済学 超ブックガイド』(亜紀書房)

飯田泰之×井上智洋×松尾匡

教養のための経済学 超ブックガイド88

著者:飯田泰之、井上智洋、松尾匡
出版社:亜紀書房

独学で経済学を学びはじめる前に

飯田 この本は、ブックガイドではありますが、同時に経済学・経済学者が様々な問題をどのように考えているかという経済学ガイドでもあります。経済学部ではないけれど経済学が何をしているのかは知っておきたいという学部生、社会人になってからあらためて独学で経済学について学んでみたいと考えているビジネスマンのための本を目指しています。

松尾 経済学を学ぼうと思うと、大学や大学院に入りなおすんじゃない限りは、基本的には独学になりますからね。そうすると、そもそも何から手をつければいいのかという入口のところですごく敷居が高くなってしまう。その結果、いつまでも入口が見つからずにウロウロすることになったりして。だからまず、独学のとっかかりとしてブックガイドみたいなものが必要だろう、というのが私たちが最初に編集者から受けた企画の相談でした。

飯田 それで、「経済学入門って何をすることなんですか?」って聞かれると、多くの経済学者は「ミクロ経済学とマクロ経済学の教科書を読め」って言うと思うんです。だけど、ぶっちゃけミクロとマクロの教科書って、多くの人にとってはつまんなくて読んでられないんですよね。

井上 たしかに(笑)

飯田 経済学部の一年生向け経済学入門ならばミクロ経済学、マクロ経済学の理論からはじめるのはひとつの手だとは思うんです。でもそれって、あくまで大学でミクロ経済学やマクロ経済学を学ばなきゃいけなくて、テストとかもあるし……という縛りがあった上で「いつかやらなきゃいけないんだから、理論的基礎からやろう」と言える。一方で、教養科目や非経済学部生への「経済学入門」としてミクロとマクロの教科書を読むというのは正直あまりおすすめできないです。社会人が独習するという場合も同じですね。ある程度の強制力というか縛りがない中で、ミクロ・マクロから学びはじめるというのはなかなかしんどい。

井上 おっしゃるように、本当に経済学を身につけようと思うなら、ミクロとかマクロのような基礎理論からやった方が効率がいいんですが、そもそも頭にぜんぜん入ってこない可能性が高い(笑)。多分挫折しますよね。大学の授業でも、最初に「景気って何だろう?」とか、そういう身近で具体的な話から入った方が、「あ、景気悪いと就職しても失業しちゃうし、内定とれなくなっちゃうかも」ということで、学生はモチベーションがわきやすい。そういうリアリティを身体に染みこませてからの方が、経済学の理論というのは身につきやすいのかもしれないと思いますね。

松尾 経済学部の教員の間でも、学部生の授業をどうしようかって時に、最初は「新聞経済学」じゃないと関心を持ってもらえない、という話がよくありますよね。まず新聞記事になるような、具体的なトピックから入るべきだっていう。

井上 経済学部の学生でも、ミクロとかマクロの授業が一番つまんないって言うんですよね。たまにそれを「めっちゃ面白いじゃん!」って思う変態がいて、そういう変態が経済学者になっていくんですけど(笑)

飯田 でも、なんとなくミクロ・マクロを学部生とか、大人でもそうなんですけど、いきなり面白いと思える人はかなり変わった人だと思います。だから、独学で経済学を学んでみたい、と思ってミクロ・マクロから入ろうとすると、ほとんどの人が挫折してしまう。一見すると抽象的で、やけに難しそうな数式やグラフが出てくる経済理論のモデルが、現実のどんな問題に関わるものなのか、という具体的なイメージがないと、なかなか頭に入ってこないんじゃないかな。

松尾 それはミクロ・マクロにかかわらず、だいたいの経済学の基礎理論についても言えることじゃないかと思います。例えば、マルクス経済学の教科書とかもそうですよ。私の専門は理論経済学なので、前任校の大学ではいわゆるミクロ・マクロの理論も教えていましたけど、本来の研究対象は経済理論の中でも「数理マルクス経済学」と言われる分野で、今の大学の授業ではマルクス経済学の入門講義を担当しています。数理マルクス経済学は「数理」というくらいだから数式やグラフがたくさん出てくるんで、入門講義で出すのは躊躇しますけど、一般のマルクス経済学の教科書は数式やグラフはそれほど多くは出てこない。じゃあ、そっちはわかりやすいのかっていうと、マル経の教科書も、やけに難しそうな抽象概念が出てきて以下同文、みたいなところがありますし(笑)

井上 かく言う私も、やっぱり大学の学部時代は経済学にあんまり興味がなかったですからね。興味を持ったのは社会人になってからなんです。社会人になって働きだしてから、「やっぱ景気について考えるのは大事だな、デフレ不況から脱却できないとやばいんじゃないか」ということを身に染みて感じるようになって、そうやって、主に「景気」っていうものを通してマクロ経済学に興味を持つようになった。だからと言って、そこからミクロやマクロの理論をがっつりやろうと思うかどうかは人によって違うと思いますけど、私は結構マジにこれやってみようって思ったんです。26歳くらいの時ですけど、そこから変態性が開花して……。

一同(笑)

井上 だからこの本のブックリストをみると、いわゆる経済学ど真ん中の本というよりも、わりとその手前のジャーナリスティックな本とか社会科学っぽい本も結構入っていますよね。やっぱり、そういうところから入った方がとっつきやすいんだろうと思います。

飯田ブックガイドという体裁を通じて、まず各分野の専門家の間でどんな議論がされているのかっていうのを、具体的にみてもらうところからはじめよう、という風につくられています。

最初は手打ち野球からはじめよう

松尾 読んでみると、応用経済学の各分野で議論されていることが、なんとなくダイジェストでわかるようにもなっていますよね。応用経済学というのは、例えば「労働経済学」とか「環境経済学」みたいに、経済学を現実の様々な問題に応用したものですが、応用学問なので経済学だけでは完結しないんですよね。やっぱり、現実との関わりから様々な社会の問題に踏み込まざるをえなくなるので、話がより具体的になります。

飯田 だからこの本では、さっき井上さんも言った「景気」みたいな一番身近なトピックからはじめて、「格差・貧困」とか「雇用」とかの問題を経済学ではどう考えているのかということを、テーマ別に分けてそれぞれの専門家の先生方に書いてもらっています。ブックガイドがダイジェスト解説みたいになっているから、極端に言えば、実はほとんど読まなくてもこれ1冊で何十冊も読んだような気になれるというのも狙いのひとつです。

井上 でも、「わかった気になれる」というのはとっかかりとしては大事ですよね。そうしないと勉強しようと思っても続かないから。

飯田 そうそう。ただ、この本を読んだら、一番興味があるものだけでも、ぜひ実物を手にとって読んでほしい。選ばれている本も、リーダブルなものが多いですから。それで実物を読んだら、きっとその後は、やっぱりミクロとマクロもある程度は勉強しなくちゃいけないという風に思ってくれるんじゃないかな。それで、そういう経済の基本理論みたいなものは本の最後に紹介する、という形にしています。

松尾 要するに、普通の経済学部のカリキュラムとは入口と出口が逆になっているということですね。普通はミクロやマクロ、あるいはマルクス経済学だったらマル経の基礎理論からはじめて、それを現実の様々な問題に応用する、という順番で学びますから。

飯田 そうです。空手でも芸事でも「型」の習得は非常に重視されます。ミクロ・マクロって空手でいう「型」に近い性格がある。でも、どうしても「型」ってあんまり面白くないんですよね。やっぱり試合とか組手の方が面白いに決まってる。野球でも本気で上達したいなら素振りや走り込みのような基礎練習が絶対に重要でしょうが―例えば小学校2年生ではじめて野球に興味を持った子に、「下半身の強化と素振りだ!」って言ったら絶対に野球を嫌いになっちゃうと思うんですよ。でも、結構大学教員ってそれをやっているような気がして。

井上 私も日本の教育って基本的に千本ノックしかやっていないんじゃないかって気がしています。データをみてみると、大人になってからの知的好奇心というのは、日本は韓国と並んで主要国ビリレベルなんですよね。考えてみると、どちらも受験戦争が厳しい国。だから、みんな勉強を「修行」としか思っていないんじゃないかな(笑)。ようやく修行から解放されて、社会に出たら出たで仕事が結構大変ですし、もう勉強なんかしたくなくなっちゃうんですよね。

他方で、スウェーデンとか北欧の人たちは大人になっても知的好奇心が高いんですよ。でも、日本も韓国も数学とか国語の読解能力は高いんです。勉強嫌いなんだけど優等生みたいな。中国のデータは持ってないんですが、おそらくこれは東アジア共通の「科挙」的なものなんですよね。伝統的に日本に科挙はなかったけど、明治時代の官僚の登用試験とかは、西洋近代を経由していますが、実態は科挙に近いんですよね。

飯田 やっぱり野球を楽しませるためには、はじめはゴムボールや三角ベースを使って、手打ち野球でもいいからやらせてみて、「なんか楽しいな」っていう感じをつかんでもらうのがいいと思うんですよね。あるいはプロ野球の試合を観戦して、「ああ楽しいな」って思ってもらうとか。テストとかに縛られていない限り、面白くなかったら絶対に続かないんですよ。そして見方さえわかれば、実は経済学というのはとっても面白いものなんです。

例えば、初心者がミクロやマクロの経済理論を勉強したいなら、ひとまずルイズ・アームストロング/ビル・バッソの絵本『レモンをお金にかえる法』を読むとよいかもしれない。いかにも経済学者が考えそうなストーリーです。ちなみに『レモンをお金にかえる法』がミクロ経済学の話、『続 レモンをお金にかえる法』がマクロ経済学です。あるいは、ヨラム・バウマンのマンガでわかる『この世で一番おもしろいミクロ経済学』『この世で一番おもしろいマクロ経済学』などもよいでしょう。

このくらいの本で仕入れた知識でとりあえず試合をみてみるといいと思います。「三回振ったらアウト」とか、「打った後は一塁に走る」とかそういう最低限のルールは一応覚えてもらわないと、試合をみてもわけがわかんないですしね。実際の試合を何個かみてもらって、「ああ、ちゃんと素振りしなきゃ」とか、そう思えた人はミクロ・マクロを勉強するっていうのがいい順番なんじゃないかなって。

「経済学的発想」と「反経済学的発想」の違い

松尾 飯田さんがおっしゃったみたいに、まず「身近な現実の問題がこんなにたくさんあるんだよ」っていうのを最初に示すというのは、つかみとしてはすごくいいと思います。だけど、基礎理論があんまりつまんなくて誰もろくに身についてないから、大学の応用各論の担当者はそれを前提にして、基礎理論を知らなくてもできるレベルの講義でお茶を濁したりするっていう現状もありますよね。今となっては、マルクス経済学の応用各論の人とかでも、実はたいてい『資本論』ろくに読んでないし、信じてもいなかったりするので、ますますそうなっているわけですけど(笑)。だから、最初にざっと応用っぽいことをやって試合を楽しんでもらうことは大事なんですけど、その後にきちんと基礎理論もやって、それをふまえてあらためて応用各論に戻ってくる、という順序が一番いいと思います。

飯田 それはおっしゃるとおりですね。

松尾 もちろん、この本の読者は経済学者を目指すわけではないから、がっちり基礎理論に取り組む必要まではないですけどね。ただ、この本を読んで経済学に興味を持った人は、最後の章で紹介されているような経済学の基礎理論にさわりだけでも触れてもらって、そこから「経済学的発想」みたいなものをつかんでほしいと思います。この「経済学的発想」というものがわかるようになる、というのが経済学を学ぶことの醍醐味でもありますから。

井上 「経済学的発想」というのはとても大事、というか実はものすごく面白いんですよね。

松尾 昔、自分の本(『対話でわかる:痛快明解 経済学史』)の中でも書いたことがあるんですけど、ぼくは世の中で経済問題を議論する時に、「経済学的発想」と「反経済学的発想」の2種類があると思っていて、経済学を学ぶということは、前者の思考パターンを身につけるということなんです。経済学素人の人が、一般教養として「経済学について学んでみよう」と思った時の着地点というのは、この経済学的発想を身につけるということであってほしいわけです。

例えば、世の中ではいまだに「誰かが得をしたら、その裏では必ず誰かが損をしている」という、いわゆる「ゼロサムゲーム」的な考え方が根強いですよね。

飯田 「中国が発展したからには、日本が衰退するはずである」とかね。

松尾 そうそう、世界経済の中で限られたパイを奪い合っているようなイメージで。ぼくはこういうのはとても反経済学的な発想だと思うんですけど、世の中ではとても多くみられる考え方です。なんか企業が各国ごとにまとまって、それぞれの国の武将として世界経済という戦場で戦っているみたいなノリで、「わが国はこういう産業が弱くなって、他国にやられているからダメだ!」とかさかんに議論が行われている(笑)

飯田 「日本にはAppleがないので、日本経済は衰退する一方だ!」みたいな話も多いですよね。日本経済というプレイヤーがトヨタや三井物産みたいな各企業を武将として、「信長の野望」や「三國志」のような、戦国ゲームを戦っているみたいな感覚なんですよね。国際経済についてそういう勝ち負け視点のイメージを持っているから、スター企業がいないと日本が弱くなる気がしちゃうんだと思うんですよね。

松尾 例えば、国際競争力なんて言っても、円安になれば輸出が増えて自然と高まるっていうこともあるわけで、「強い武将がいないと……」みたいな話は経済学的にはナンセンスなんですけど、世の中にあふれるカギカッコ付きの「経済論説」の多くは、そういう論理になっていることがとても多いんですよ。

井上 経済学者ではない人が「経済学っぽい本」を書くとわりとすぐそうなりがちですよね。

松尾 こういう貿易戦争みたいな話って、実は本格的経済学誕生以前の「重商主義」の発想と根っ子が同じだと思うんですよね。重商主義というのは「一国全体が貿易を通じて貨幣としての金銀を儲けるのが国益である。そのために政府がいろいろな政策をとって自国経済を保護・管理しましょう」っていう考え方ですけども。そうやって国ごとに貨幣争奪戦争をして、貿易黒字をあげるために、なるべく賃金を抑えて競争力を身につけようというのが、重商主義の世界観でした。

でも、そういう発想を否定するところから「経済学の父」アダム・スミス以降の経済学ははじまったわけですよ。貿易というものは本来、自国に足りない(ないしは、自国で生産することが不効率な)ものが他国にあって、他国に足りないものが自国にあったら、お互いに交換し合うと、今まで不足していたものが消費できるようになって、Win-Winだっていうようなものじゃないですか。

飯田 そのとおりで、ミクロ経済学の学びはじめで重要なことっていうのは、「交換が双方向的である」ということを理解するということなんですよね。まず、取引が行われるってことは、双方が何らかのメリットを感じているからだよっていう。それで、ぼくは経済政策の授業をする時は、必ず「比較優位説」からやるようにしています。

読者のために説明しておくと、比較優位説というのはミクロ経済学の基本的な概念で、18世紀まで唱えられていた「絶対優位説」の反対の貿易の捉え方です。絶対優位というのはすごく単純な話で、ある財に対して生産性の高い国の方が多くを輸出できて貿易黒字になり、生産性の低い国がたくさん輸入することになって貿易赤字になる、という説。要するに、今風に言えば国際競争力ですね。

でも、これが変なのはちょっと考えてみればわかることです。例えばこの理屈に基づくと、あらゆる財に対して生産性の高い国は輸出ばかりしていて、生産性の低い国からは輸入しないことになってしまう。当然、現実にそんなことにはなっていません。

松尾 自力でつくるよりもコスト安だったら、自国よりも生産性が高いか低いか関係なく、外国から輸入しますからね。

飯田 そうなんです。絶対優位説が見逃しているのは、労働人口に代表される生産能力が有限だってことです。要するに、あらゆる産業について生産性が高いという国でも、何でもかんでも自分の国でつくるわけにはいかない。生産能力は有限だから、限られた生産能力をどこかにうまく配分しなくちゃいけない。そうすると、ある財に関しては自国でつくって、ある財に関しては他国につくってもらった方が、ずっと効率がいいという話になるわけです。

だから、比較優位というのは、例えば二つの国があったとして、A国がB国に対してあらゆる面で生産力が優っていたとしても、お互いに分業してつくったものを貿易取引した方が、実はどちらにとっても得な結果となるよ、という話なんですよね。

経済のよくある誤解と教養としての経済学

井上 私の場合は学部の授業をだいたい「パレート改善」の話からはじめています。パレート改善というのは、「誰も損をせずに誰かの効用(満足)が高まること」を指すんですけど。なお、パレート改善する余地のない状態を「パレート最適(パレート効率性)」と言います。

飯田 ぼくは冗談で「パレート改悪」って造語を勝手につくったことがあって、それは「相手の効用を下げるためだったら、自分の効用が下がっても構わない」っていう……。

松尾 世の中そんな足の引っ張り合いばっかりですけど(笑)。でも、経済学でいわゆる「競争市場の最適化メカニズム」と言われるものは、本来は「パレート改善」をもたらす取引という意味なんですよね。よくある誤解ですけど、競争と言っても「誰かのパイを奪って自分のものにする」という「食うか食われるかの生存競争」みたいなものとは意味が違います。

井上 市場経済というと強者が弱者を収奪しているようなイメージを持つかもしれないけれど、少なくとも主流派経済学ではそのように考えていない。市場で取引すると、売った方も買った方もよりハッピーになって、Win-Winになるというわけですね。

松尾 もちろん、だからと言って市場は万能だという話ではないので、放っておけばいつでも必ずパレート効率的な結果になるとは限りません。市場だって失敗しますし、パレート効率的な結果にもいろいろあって、完全競争市場がもたらすものがその中で最善だというわけではありません。「経済学的発想」と言うと市場万能主義のように受け止められてしまうかもしれないけれど、ぼくの言う「経済学的発想/反経済学的発想」というのは、そういうこととはぜんぜん別の話なんです。

例えば、ケインズは市場メカニズムの失敗を強調しますが、きちんとした経済学的発想に基づいて論理を展開しています。逆に「国際競争に後れをとらないために、『選択と集中』で今後成長が見込める産業に集中的に投資して、生産性の低い産業は淘汰しよう」みたいな考え方は親市場的ではありますけど、さっき言ったような意味で反経済学的発想です。

「比較優位」とか「パレート改善」みたいな概念を知っていると、さっきの貿易戦争みたいな話は変だなって気が付くと思うんですが、それを知らないとすぐにトンデモ経済論議に巻き込まれてしまう。だから、一般教養として、経済学的発想と反経済学的発想の違いがわかるようになるというのは、とても大事なことなんです。

飯田 そういう反経済学的な主張の典型に、「企業がもっとリストラしてシェイプアップすれば、日本経済は良くなる」っていうのもあります。「信長の野望」経済観にも近いですが、企業が強くなることと日本経済が好くなることはイコールではない。企業が強くなるとリストラされた人は企業から出ていっても日本経済からは出ていかないわけです。だから、日本全体としては単に失業者が増えて経済が悪化しているだけだということになります。

井上 そういう話を聞くと「リストラされた人を日本海に捨てんのかな?」って思ってしまいます(笑)。経営者の優れた人に政治家をやらせるとダメな場合が多いのは、そこなんですよね。

松尾 一企業としての最適な生き残り戦略は何かっていう話と、日本経済全体の話がごっちゃにされているんですよね。経営者というのは、自分の意志で企業を動かしているから、そういう人たちがマクロ経済について意見を言うと、だいたい間違えることになるわけです。企業と同じように経済全体も動かせる、と思ってしまいがちなんですけど、そもそも経済現象というのは、個々のプレーヤーが意図したこととは別の自律した法則によって動いているようなところがありますから、そこを間違えると大変なことになる。

飯田 「経済学的発想が大事」というのは本当に松尾さんのおっしゃるとおりで、ぼくも昔そう思って、「経済学の考え方を身につけると、いろんなものごとを合理的に判断できるようになるよ」という本(『思考の「型」を身につけよう』)を書いたことがあります。

実は昨日もあるところで言われたんですけど、世の中にGDPというものが嫌いな人って意外と多いんですよね。このGDPっていうのは「国内総生産」だから、国内でどれだけのものが生産されたのかっていうのを表す指標じゃないですか。それで、GDPは世の中を「生産」という一面からだけ捉えているからダメで「生産量だけで社会を捉える時代はもう終わった」みたいなことがよく語られているわけです。

井上 「くたばれGNP」っていう標語も昔ありましたしね(GNPは「国民総生産」でGDPに日本企業の海外での生産を足したもの)。

松尾 70年代くらいからずっと言われています。

飯田 でも、これは本文(「景気」の章)でも書いたことですけど、GDPというのは「その年に日本国内で生産された新たな価値(付加価値)」の総和なので、要するに国内の「粗利=生産額-原材料費」のことなんですよね。だけど、この「粗利」というのは、実は最終的に国内の誰かの「所得」になっているものでもあるんですよ。つまり、GDPって「国内居住者の所得の和」でもあるんだから、これが大切じゃないわけがないんですけどね。

井上 そうそう。

飯田 GDPが所得のことだっていうのは忘れられがちなんですよね。直に所得から捉えるのは計測上一番難しいから、生産からとったり、支出(消費)から測ることが多いのもその原因かもしれません。それが、「総生産」という言葉にひっぱられてしまって、GDPについてさえわけのわからない評論がまかり通ってしまっている現状がある。

井上 一応、主流派経済学の内部でもGDPという概念をもう少し検討しなおした方がいいという話自体はあるんですけどね。でもそれは、YouTubeみたいなあまりお金が動かないようなサービスが出てきてしまっているのをどう捉えるのかという話ですし。

松尾 今の井上さんの話とは別に、世の中にはGDPだけでは捉えられないものはたくさんあるので、ノーベル経済学者のアマルティア・センなんかが開発に関わった「人間開発指数(HDI)」という多元的な指標ができたりしたということもあります。この本(「格差・貧困」の章)の中でも紹介されていますけど。でも、別にHDIはGDPと対立しているようなものではありませんしね。

経済学は「使えるツール」

井上 一般の人が経済学について学ぶには、というところに話を戻すと、私は経済学の概念の中には、経済学を論じる以外にも役に立つものがたくさんあると思っているんですよね。さっきの「パレート改善」とか「ゼロサムゲーム」とかって言葉は、普通に経済学以外の議論をしている時でも、知っていたらすごい便利じゃないですか。そういう概念ツールを知らないせいで、例えば「それは合成の誤謬じゃん」って言っちゃえば済むようなことが、とてもまどろっこしい議論になっちゃう。「合成の誤謬」っていうのは、個々人が自分の利益を追求しても、社会全体では不利益がもたらされるような状況を表す経済学の用語ですけど。

松尾 合成の誤謬の典型的な例はデフレの長期持続とかですね。例えば、今の日本みたいに、何かのきっかけでいったん不景気になった後に、みんながみんな「この先もずっと不景気が続くに違いない」と予想するような状況ができてしまうと、先行きが不安だからなるべくお金を使わないようにするのが、個々の人たちにとっては合理的な判断じゃないですか。でも、全員がそうやって消費を控えるようになるといつまでたっても景気が持ち直さないから、ますます人はお金を使わないようになってしまう。それで、デフレのままで経済が均衡してしまうというね。

井上 それを解決できるのは、本当は政治(による市場への介入)だけなんですけど、企業経営の頭しかないとそういう政治の役割に気が付かない。財政・金融政策によって合成の誤謬を解消するというケインズ主義的な発想に至らない。

飯田 合成の誤謬で思い出したけど、オイルショックの時も、コロナウィルスの時も、お店でトイレットペーパーが売り切れたじゃないですか。でも、中部から関東地方で使われているトイレットペーパーを生産しているのは8割が静岡県なので、「ウィルスのせいで中国から輸入できなくなって」というストーリーには全く根拠がない。なのになぜ人はトイレットペーパーを求めてお店に並ぶのかと―この問いに対する、多分一番意味のない感想は「みんなバカだから並んでいる」です。でも、経済学者だったら絶対にそんなことは言わないはずで……。

井上 いや、すぐに「バカだから」とか言う人は、経済学者の中にもいるんじゃないですか?(笑)

飯田 そうそう。でも、それは経済学者が言っていても「経済学的発想」ではないですよね。経済学の発想の出発点は、「いやいや、自分以外の人がそんなバカなはずがない」「その人なりにまっとうな理由があるはずだ」というところからはじめて、一見不合理な現象の中にも何らかの合理性があるはずだと考える、というものだから。

例えば「トイレットペーパーが中国から輸入されている」というのがデマだとわかっている人でも、みんなが買いに走っている状況で、今買わないと明日からトイレットペーパーが手に入らなくなってしまうと困るから、結局「自分もちょっと予備を買っておこう」ってお店に並ぶのが合理的な戦略になるわけですよ。その結果、トイレットペーパーは本当に不足し続けてしまう。

松尾 みんなが並ぶ以上は自分も並ばないと損をしてしまうというね。

井上 それは「予言の自己成就」の話としても読み解けます。「予言の自己成就」というのは、言ったことが本当になっちゃうということです。経済の例で言うと、健全経営だったはずの銀行が、「破綻しそう」という噂が流れた瞬間にみんなが預金を引き出そうとして取り付け騒ぎが起こって、本当に破綻してしまうという話です。「トイレットペーパーが不足するぞ」って最初は嘘で言われたことでも、それは自己成就しちゃうんですよね。この理論をつくったロバート・K・マートンは社会学者なんですけど、その息子のロバート・C・マートンはノーベル経済学賞をとる経済学者になりました。

松尾 さっきも言ったけど、経済ってそういう風に人間の意図を離れた自律法則として動いているところがあるわけです。ぼくらみたいな経済学者だったら、それがどんな法則で動いているのかなっていうのを、外側から観察・分析して見つけ出してくるのが仕事なんですけど、反経済学的な発想をしてしまうと、そういう経済現象を「誰かが意図して動かしている/誰かが意図して動かすことができる」って考えになってしまいがちで、どうも危なっかしいんですよね。

飯田 ジョージ・オーウェルのSF小説(『1984年』)に出てくる「ビッグブラザー」みたいなのが背後にいて、世界経済を動かしている、みたいな妄想ですね。

松尾 経済現象では、あたかも自然法則みたいな人為を離れた法則の結果として、なんかよくわからないけど整合的なことが起こるわけですよね。結果からみるとつじつまがあったようなことが起こって、そのもとで得をする人が出たり、損をする人が出たりする。そうすると、あまりにつじつまがあっているもんだから、どうも人は「そこで得をした人が意図的にそういう事態をもたらしている」って解釈をしがちなのかなと思います。

飯田 『陰謀の日本中世史』での呉座勇一さんの指摘もそこが核心ですね。陰謀論の特徴のひとつが「得をした人間がそう仕組んだに違いない」っていうストーリーなんです。例えば、「本能寺の変で一番得をしたのは豊臣秀吉だから、秀吉が黒幕に決まっている」っていうような考え方ですね。これは、推理小説を読み解く時の技法なんですよね。でも、本格ミステリでもだいたいそれはミスリード(導線)です。いまどき「動機が一番強いやつが犯人でした」ってミステリ書いたらタコ殴りにされます。

一同 (笑)

飯田 だから、人々が何かしらの統一的な意思によって動かされているというのは、あまり経済学的発想ではないんですよね。個々人のレベルでみると人はその人なりに合理的なインセンティブに動かされている。そのインセンティブが合成された結果どこに向かうか、というのが重要なんです。

井上 経済学のツールを知っていると、そういう単純な陰謀論みたいなものに足元をすくわれにくくなるというメリットもあるかもしれない。

松尾 これであなたも本格ミステリ読みになれる、みたいな(笑)

経済のフィードバックメカニズムを理解しよう

井上 経済学的発想ということで言うと、私は「マクロ経済学的な思考のパターン」っていうのがあるなって思っていまして、これは数式が読めるというような話とはぜんぜん関係がないものです。例えば、「お金は使ってもなくならない」っていうのは、経済学者にとっては自明のことですけど、多くの人にはちょっと理解しにくいことですよね。みんな、お金って使ったら消えてなくなるものだと思っちゃってる。でも、先のGDPは所得の話だってことにもつながりますけど、誰かの使ったお金は、実はめぐりめぐって別の誰かのお金になるわけです。これはすごく大事なことで、単に「金は天下の回りもの」っていうことなんですけどね。自分がお金を使うと誰かの所得になる。

飯田 マクロ経済学で重要なのはフィードバックがあることです。自分一人がお金を使っても自分が貧乏になるだけだけど、全員でお金を使うと景気が良くなって、なんかみんなでハッピーになる。こういうことが理解できるかどうか、というのがマクロ経済学の肝ですよね。

松尾 経済の自律的法則っていうのは、そういうフィードバックの結果起こることなんですよね。「合成の誤謬」のところでも例に出したデフレ不況の場合は、今飯田さんが言ったのとは逆のメカニズムによってもたらされます。つまり、自分だけお金を貯めていれば生き残れると思って全員でそうすると、なぜか景気が悪くなってみんなアンハッピーになるという。

井上 私は今の日本経済の大きな問題のひとつは、デフレ不況が長引きすぎて、デフレマインドが染みついて企業が思い切った投資をしなくなってしまったことにあると思っています。投資もしなければ賃金も上げずに、ひたすらお金を貯めこんでしまっている。これが20、30年かけて日本企業の体質として身についちゃった。ゆるやかなインフレ状態を10年は持続させないと、デフレマインドは払しょくできないでしょう。そうしない限り、日本経済も復活しません。

飯田 企業とかでもデフレ勝ち組だと、例えば外食チェーンとかファスト・ファッション店とか、デフレに適応することにめちゃくちゃな労力と投資をしているんですよね。でも、その結果としてその企業は儲かっても、社会全体の底上げにはつながらない。デフレの状態にあって、局所的に、そのひとつの企業だけをみると生き残りの戦略としてはものすごく合理的なんです。でも、全員でそれをやった結果、「誰にとっても合理的ではない社会」っていうのができてしまう。これは「全員がバカだから」とか「どこかに諸悪の根源がいる」とかそういうことではなくて、全員が必死こいて努力した結果、社会全体としてはどんどん悪い方向に向かっているという話なんです。

井上 まさに「合成の誤謬」ですね。

松尾 今の話にもつながると思うんですが、結局、「マクロ的な思考のパターン」ってどういうことかと言うと、ぼくの考えでは、「一般均衡的に思考する」ってことだと思うんです。マル経的に言えば「再生産」という見方と言い換えてもいいです。

経済学素人の人が「均衡」って言われてまずイメージするのは、だいたい需要と供給の曲線が一致するあのグラフですよね。ミクロ経済学で言うところの「マーシャリアン・クロス」っていうやつです。あれは「部分均衡」のモデルをグラフにしたものなんですけど、例えば紅茶なら紅茶の、世の中全体に出回っている紅茶の需給の均衡価格を表しています。

でも、市場均衡論って部分均衡の分析だけでは不十分なんですよね。紅茶が値上がりしたら、そのかわりにコーヒーの需要が増えてコーヒーの需要曲線が右側にシフトするかもしれないし、小麦の高騰などでパンが値上がりすれば、それに合わせてマーガリンの需要も減るかもしれない。そしてパンの需要が減れば、パンをつくっていた人が失業して労働移動が起こる。その結果、労働市場がどう変化するのかという問題も考えなければいけません。

こういう風に、各市場は一見独立しているようにみえても、実はお互いに影響し合っている。世の中には無数の商品の市場があって、普通のマクロ経済学では、おおざっぱには「財市場」「債券市場」「貨幣市場」「労働市場」という4種に分けるわけですが、この4つの市場も相互に影響し合っているんですよね。

飯田 お互いにフィードバックメカニズムを形成している。

松尾 そうそう。だから、一商品だけみていたのでは決してわからないようなフィードバック作用が必ずどこかにある、というのが経済の自律法則というものなんです。それで、それらの相互関係をみながら、市場全体の均衡というものを考える、というのがミクロ経済学やマクロ経済学で言うところの「一般均衡」です。

こういうフィードバックメカニズムの分析は、例えばマルクス経済学にもあって、さっきもちょっと言いましたけど、そちらでは「再生産」という風に呼んでいます。マルクス経済学の場合だと、だいたい2部門モデルになっているのですが、例えば、「再生産表式」では「生産手段」と「消費財」の2種類に生産部門を分けて、お互いが影響し合うメカニズムを考察します。また、本文のぼくの章(「経済学説史」)であげたマルクスの『賃金・価格・利潤』という本や『資本論』第2巻のある箇所では、経済を大きく「必需品部門」と「贅沢品部門」の2種類に分けてモデル化して、利潤と賃金の間の所得分配のあり方と、両部門間の生産配分が、互いに影響し合う表裏の関係になっていることを示しています。

いずれにしても重要なポイントになるのは、この「お互いに影響し合う表裏の関係」、つまりフィードバックメカニズムなんです。さっき井上さんが「お金は使ってもなくならない」というのがマクロ経済学的な思考パターンだって言いましたけど、誰かの消費は誰かの所得につながっているし、そうやって世の中を出回っているお金の量(マネーストック)が失業率に影響を与えたりもする。そういう相互作用のメカニズムを理解するってことが、経済学を本当に学ぶということだと思うんですよ。

飯田 ぼくの考えでは、マクロ経済の特徴というか、重要性というのは「モデルが閉じている(閉鎖系)」ということなんです。要するにシステムの「外部」がない状態でものを考えることの大切さというか、ひとつの財の需要供給の変化が別の財の需要供給の変化をもたらす、ということまで含みこんでシステム全体の相互作用を考えるっていうことです。

前の「企業がもっとリストラしてシェイプアップすれば、日本経済は良くなる」というのは間違いだという話にも関連しますけど、ひとつの企業の場合は、リストラすれば雇われていた人は企業の「外部」に出すことができる、つまり一企業というのは開放系のシステムだから、あとは気にしなくてもいい。でも、「外部」がない、モデルが閉じた状態っていうのは、リストラされた人も日本経済全体の中にとどまり続ける―小野善康(大阪大学名誉教授)先生の言葉を借りれば「国民をリストラすることはできない」って状況を考えるということなんです。

これは局所的には最適にみえることが、全体からすると最適じゃないかもしれない、あるいは部分均衡だけではなくて、一般均衡を考えなくてはいけない、という話とも重なることです。

「モデル思考」としての経済学

飯田 だから、松尾さんの言葉で言えば「経済学的発想」、ぼくの言葉で言えば「思考の型」ですが、そういうものがないと、人は合理的に考えた結果、すぐに不合理なことを行ってしまうものだということに、なかなか気が付かないんですよね。

井上 最初に飯田さんがミクロとマクロの理論は「空手の型」だっておっしゃっていましたけど、空手の型というのは練習するのはつまらないけれど、喧嘩が強くなるにはやっぱり必須のものですよね。いきなり喧嘩が強い人もいますけど、普通は型を身につけて、それを応用して戦うわけじゃないですか。ぼくはその型を、多く身につけたもの勝ちだと思っていて、「金持ちになりたかったら思考のパターンを身につけろ」とかよく言ってるんですけど(笑)

松尾 経済学を理解するのと金持ちになるのとはちょっと違うけどね(笑)

井上 経済学は直接的にはお金儲けの役に立たないんだけど、一応「お金儲けのためになる」って言っておいた方が、みんな勉強してくれるじゃないですか(笑)。ただ、経済学者ではなくても、世の中の複雑な現象を単純なモデルにして、さらにブロックを組み替えるようにそのモデルを変形させて、「こうやって変形させると問題が解決します」っていうソリューションを提供できるっていうことは、学生でも、一般企業に勤めている人でもとても役に立つってことはたしかだと思います。コンサルティング会社なんかに勤めていっぱい稼いでいる人は、そういうモデリング能力に長けています。

松尾 経済学的に考える時のひとつの重要なキーというのは、たしかに「モデル思考」です。

井上 みんな、高校までの授業で「現実の複雑な社会を簡単なモデルにして抽象化する」っていう頭の使い方をしたことがないので、ミクロとかマクロとかをやると「何? このわけのわからないものは?」って思っちゃう。数学ができるはずの人でも、一体なんのためにそれをやっているのかわからないと感じるみたいです。モデル化するという思考の訓練を、本当は高校くらいからやってほしいんですけどね。

松尾 ただ、今後の専門家がやる経済学の趨勢を考えると、徐々に経済学は「モデル思考」じゃなくなってきている、という側面もあるんですよね。最近ではデータサイエンス化がものすごく進んでいるから。ビッグデータとかの巨大な統計情報をコンピュータで処理すれば、モデルはいらないということにもなりはじめています。でも本当にそれでいいのかと言うと……。

井上 私は、経済学ってもともとは物理学を目指していたと思うんですよ。経済現象をゴリゴリに数理モデル化して、余計なものをどんどんそぎ落としていった。そして、そういう傾向への批判として、人間の感情とか不合理な行為とかも組み込もうという行動経済学なんかが出てきたんだと思います。言わば、心理学のマネをしていた。でも、最近のデータサイエンス化の様子をみていると、どうも今は医学のマネをしているんじゃないかという印象を持ちます。経済学も変わってきているんです。

最近、「ランダム化比較実験」というものに私も関わっているんですけど、母集団の中からランダムに人を抽出してきて、「介入グループ」と「比較グループ」とに分けるんです。医学だったら、例えば新しい薬品を投薬した人(介入グループ)としない人(比較グループ)とを比較して、「こっちは治ったけど、こっちは治っていない。じゃあこの薬品は有効でした」ってやるじゃないですか。要するにそれを経済学でもやろうという話なんですね。

例えば、お金をドーンと100万円もらった人ともらっていない人で、消費におけるふるまいとか、生活満足度がどれくらい違ってくるのかを比較調査する。たくさんデータをとって、統計的に分析するというやり方です。今までの数理モデルとは別のものが出てきた、という感じがしますね。

飯田 経済学がなんで物理学みたいな理論モデルをつくろうとしたのか。これは想像の域を出ませんが、データの量が不足していたからじゃないかと思っているんですよ。理論モデルがなんで必要かといったら、事前の理論がないと推計式が複雑になりすぎて推計できないからですよね。データが限定されているから、仕方がないのでモデルが必要である、ということだったんだと思います。

松尾 たしかに、そういう側面はありますよね。

飯田 例えば、消費の決定要因を考える時に、あらかじめ理論的に「消費は何と何の関数」であるという風に絞り込んでおかないとデータ検証ができない。理論モデルがあると事前情報で推計式の形を絞り込めるので便利です。

そうすると、逆に「無限にデータがあるんだったら、理論いらなくね?」って話にもなりますよね。もちろん、そうなるのはずっと先のことだし、完全なデータなんてないからやっぱり理論モデルは必要なんですが、比重がものすごく変わってくると思います。少なくとも、いわゆる「DSGE(動学的確率的一般均衡)モデル」がはまった罠みたいな、もはやモデルのためのモデルとすら言えるような、あんな微に入り細に入りのモデルをくみ上げる必要はなくなっていくんではないでしょうか。

井上 実際主流派経済学も結構いい加減なんですよね。物理学をマネると実際の人間のふるまいとかもかなり無視することになってしまう。

飯田 それを正当化してきたのは、「データプアなのでそれくらいまで理論を厳密化しないと推計に堪えません」っていう話だったわけです。でも、データが豊富になってくると、厳密なモデルがなくても推計できるからいいということになる。

とはいえ、一方で「IS-LM」(ジョン・ヒックスがケインズの理論から引き出した一般均衡のモデル)くらいのざっくりとしたモデルはないと推計のアタリもつけられないので、これからは理論をより精緻な物理学にしていくってよりは、「ゆるめのモデル+データサイエンス」で足りない部分を相互補完するみたいな方向性になってくるんじゃないかなと思っています。

根底にあるのは思考力とイマジネーション

井上 ただ、理論モデルという話とは少し違いますけど、いくらデータがあってもやっぱり思考力はないとダメだなって思う時があるんですよね。例えば、先日新聞を読んでいたら「AIを導入した企業が雇用を増やしているので、AIが人の仕事を奪うことはないであろう」という論説が載っていました。

Amazonのレコメンデーション(本などのおすすめ)は一種のAIですし、たしかにAmazonなんかは雇用を増やしてはいると思うんですよ。でも、その裏では、実はAmazonはそれ以外の会社の雇用を減らしてもいるわけです。そういうのは、ちょっとした思考力とかイマジネーションがないと気が付かないと思います。

やっぱりデータ分析だけしていると、一面だけ切り取った局所的な分析で終わってしまう可能性があるので、間違った方向に行ってしまう場合もある。データ分析だけすごく得意な人が、マクロ的な経済政策で大局的な良い方針を示せるのかっていうと、かなり的外れな方向に行っちゃう可能性もある。

飯田 たしかに、さっきお話ししたマクロ経済のフィードバックモデル、もう少し厳密に言うならば一般均衡であることは思考の型としての経済学の大きな特徴であり、素晴らしいところなんじゃないかと思うんです。局所的に合理的にみえることが、別のところでは思ってもみない効果をもたらすかもしれないという点に独力でたどり着く人もいるでしょうが、それを経済学は一種の型として教えてくれる。

これからはデータサイエンス化が進んでいく一方で、一般均衡的であること、つまり「モデルが閉じていること」の重要性がますます上がっていくんじゃないかと思います。ビッグデータをAIで解析という究理の方法も重要ですが、それよりもっと荒削りなものであっても「フィードバックを十分に考えているんですよ、外がないんですよ」っていうモデルには大きな利点があるでしょう。この先、経済学と経営学との違いがいつまでも残るとしたら、そこじゃないかなと。

松尾 そのとおりだと思います。経済学を勉強して何がいいんですか? どんなことが経済学を使うってことなんですか? っていうと、やっぱり素人でもある程度学んでみれば大枠がわかるような、非常に単純なモデルというのがいくつかあって、それを使って一般均衡的(あるいは再生産論的)に考えられるってことなんじゃないかなと思います。さっき飯田さんが言った「ゆるめのモデル」というのは、そういうことじゃないですか。

飯田 はい。経済学の方も、むしろデータサイエンスに助けられることで、これからはもっとイマジネーションを働かせた新モデルが出てくるようになるといいな、と思います。

井上 だから、経済学な思考ができる人っていうのは、数学ができるってことともそんなに関係ないし、頭の回転の速さともそれほどは関係ないんじゃないかな。(『教養のための経済学 超ブックガイド88』より転載)

プロフィール

松尾匡経済学

1964年、石川県生まれ。1992年、神戸大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。1992年から久留米大学に奉職。2008年から立命館大学経済学部教授。

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井上智洋マクロ経済学

駒澤大学経済学部准教授。慶應義塾大学環境情報学部卒業、早稲田大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。2017年4月から現職。博士(経済学)。専門はマクロ経済学。最近は人工知能が経済に与える影響について論じることが多い。著書に『新しいJavaの教科書』、『人工知能と経済の未来』、『ヘリコプターマネー』、『人工超知能』などがある。

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飯田泰之マクロ経済学、経済政策

1975年東京生まれ。エコノミスト、明治大学准教授。東京大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。著書は『経済は損得で理解しろ!』(エンターブレイン)、『ゼミナール 経済政策入門』(共著、日本経済新聞社)、『歴史が教えるマネーの理論』(ダイヤモンド社)、『ダメな議論』(ちくま新書)、『ゼロから学ぶ経済政策』(角川Oneテーマ21)、『脱貧困の経済学』(共著、ちくま文庫)など多数。

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