2022.04.28

100年の夢の残滓をかき集める――『サブカルチャーを消費する 20世紀日本における漫画・アニメの歴史社会学』(玉川大学出版部)

貞包英之(著者)社会学、消費社会論

サブカルチャーを消費する 20世紀日本における漫画・アニメの歴史社会学

著者:貞包英之
出版社:玉川大学出版部

消費社会のサブカルチャー

サブカルチャーとは何か? 社会学的には、さまざまに定義がなされてきた。たとえばディック・ヘブディジのように、それをメインカルチャーに対する対抗的な文化(カウンター・カルチャー)とみなす者もいる(『サブカルチャー スタイルの意味するもの』)。既成のファッションに挑戦したモッズを代表に、メインのカルチャーに対する反発こそがサブカルチャーの特徴とされるのである。

あるいは、都市の小集団が愛好する下位文化と考えられることもある(クロード・S・フィッシャー『都市的体験 都市生活の社会心理学』)。この場合、反発という意味は薄れ、巨大な人口集団のなかで、一部の人びとによって愛好され、またそのアイデンティティを定める趣味や習慣を指すことになる。

しかし「消費社会」という現代社会の枠組みからみれば、これらの定義はあまり有効には働かない。サブカルチャーは対抗的なものとばかりはいえず、とくに市場にかかわることで、体制を肯定するものとして現れてくることは、すでにジョセフ・ヒースとアンドルー・ポターが指摘している(『反逆の神話 「反体制」はカネになる』)。また現代のサブカルチャーについていえば、それは商品としてあることで、都市に住まう特定の集団にかぎられず、より広くメディアを通して拡散している場合が多い。

そのためサブカルチャーはもはやメインカルチャーであるとしたり顔にいう者もいる。だが、それだけでは分析にあらたな視点を付け加えたことにならない。もう少し歴史的にサブカルチャーとは何であり、それがいかなる役割をはたしてきたかを具体的に考えたほうが良いだろう。

少なくとも漫画やアニメなどを代表とすれば、サブカルチャーは消費社会的楽しみを補い、またはそこからの「疎外」を償うものとして歴史的に役割を務めてきたようにみえる。サブカルチャーは他の高級商品――住宅や自動車やレストランでの外食やファッションなど――に較べれば比較的安価に買え、またそれを享受するための特別の教養も一般的には必要とされない。だからこそサブカルチャーは購買力や教養が足りないせいで、消費社会で満足に楽しむことができない人びとが、自分も消費社会で生きていることを実感する手段になってきたのではないか。

こうした視点からみれば、近代日本でサブカルチャーが、働き口がなく、それゆえ一人前の「消費者」になれない子どもたちととくに深く結びついてきたことも当然のように思われる。なけなしの金で子どもたちは漫画を買い、またはそうした子どもたち向けに商品を売る企業がスポンサーになったアニメを見る。だからこそしばしば、漫画やアニメは特別の内容を担った。それは子どもたちが他の場所で主張できない趣味や意向を表現し、子どもたちを排除する今の消費社会とは別の社会を夢見る契機になったのである。

おこづかいの変遷――ミッキーマウスの時代

もちろんいつでもつねに、そうだったわけではない。子どもたちと消費社会の関係はこの100年の間に激しく姿を変え、それに応じてサブカルチャーのあり方も大きく変動してきた。

それをみる上でもっとも重要になるのが、子どもと消費社会をむすぶ「おこづかい」の存在である。子どもたちは、学校に行くことや家の手伝いをすることなど、何かしらの代償を支払い、おもに親から「おこづかい」(=消費社会での生存権)を手に入れる。それがいかなる仕方でどれほど与えられるかに応じて、子どもと消費社会の関係、また漫画やアニメのあり方も変わってきたのである。

本書はアンケート調査や雑誌・新聞記事の捜索から、まず第二次世界大戦以前、おこづかいが金額的、階層的、また渡され方においてかなり限定されていたことをあきらかにした。下層の子どもたちは日々都市を生きていく諸経費として、日銭というかたちでおこづかいを渡されていたが、それはせいぜいお菓子を買い、または紙芝居をみればなくなる程度のものだった。他方、増大しつつあった新中間層の子どもたちは、たしかに一定のおこづかいを週や月ぎめで貰い始める。しかしそれはこづかい帳を用いた厳しい監視を前提としたもので、到底、自由に使えるものでなかったのである。

その結果、子どもは消費社会の一員になることを拒まれた。それをよく表現していたのが、映画館からの撤退である。かつて映画館は小僧や女中など働く子どもたちのアジールとしてあり、子どもたちを主要なターゲットとした多くの映画が上映されていた。しかし1930年代に状況は一気に変わる。映画の主要観客は都市の新中間層の親たちに移り、逆に子どもたちは暗闇から追い払われたのである。

もちろんそれでまったく子ども向けのプログラムがなくなったわけではない。1930年代にはミッキーマウスシリーズを中心にした発声漫画映画が子どもたちの人気を集めた。ただしそれはあくまで安価な輸入品としてあり、日本でそれに代わる発声漫画映画の展開が独自にみられたわけではない。階層的な分裂を前提に、集団としての購買力が子どもたちに欠けていたせいで市場が十分には成長しなかったためであり、子ども向けのサブカルチャーとしては紙芝居に加え、大きな意味でアメリカ漫画映画の翻案としてあった面が強い、安価な赤本、連載漫画等がつくられるばかりだったのである。

サブカルチャーの離陸――戦記漫画とバレエ漫画

しかし敗戦後、①新中間層が全国的に増大し、さらに、②消費社会が成熟し子ども向けの商品も多くなっていくなかで、おこづかいのあり方も変わり始める。高額化し、定額化したことも大きかったが、おこづかいが「権利」化したことがさらに重要になる。誰もがおこづかいを貰い始めるなかで、おこづかいは当然与えられるべきものとみなされ、そのせいで使途の管理や制限もむずかしくなる。適切に使わなければ取り上げるという脅しが通じなくなってしまうためである。

そのおかげで子どもたちは、自由な購買力として集団的な勢力を形成し始めた。貸本屋で本を借り、あるいは雑誌や単行本を買って学校で回し読みし始めるのであり、そうした集団的な消費の厚みを追い風として、ついに日本でも独自の漫画やアニメ文化が花開く。親たちが文句をつけようが、子どもたちは好きなものを読んだり見たりできるようになっていくのであり、そうした流れのなかで1950年代なかばから60年代にかけて急成長をみせたのが、戦記漫画とバレエ漫画だった。

そのどちらにも共通するのが、大人たち、より正確にいえば、アメリカの支配のもと消費社会化の進む戦後社会を生き始めた年長者たちに対する反発である。たとえば戦記漫画は、戦争に負けた大人たちをからかい、自分たちならもっとうまくやれたと主張する。そうしてアメリカに負けた大人たちに挑戦する独自の戦争表現をつくりだしていったのである。

他方、ヨーロッパ由来のバレエを主題として、グローバル化するアメリカ的生活様式に対抗的な文化のあり方を描き出す漫画も人気を呼んだ。それは敗戦日本の慰めになったが、さらに重要になるのは、それが女の子たちに職業的、生きがい的に男性に依存しなくてよいライフコースを提示していったことである。アメリカナイズが進み、その中心にある核家族的生活様式も受け入れられていくさなかに、バレエ漫画は親たちのライフスタイルとは異なる生き方を女の子たちにみせていったのである。

日本型サブカルチャーの破産と継承

それらを代表として、漫画・アニメを中心とした日本のサブカルチャーは、ディズニーを中心としたアメリカアニメーションの模倣をやめ、独自の内容を持つものとして自立していく。親たちは消費社会に飲み込まれ、戦後日本的な国家と家庭と企業の共犯関係のなかに深く閉じ込められていった。しかし一定の購買力として成長した子どもたちは、日本の消費社会が求めるアメリカナイズされた生き方に挑戦し、別の生き方をサブカルチャーのなかに夢見ていくのである。

ただし以後、それが順調に成長したかといえば、そうとはいえない。何より大きな影響を及ぼしたのは、継続的な少子化である。戦争直後には20%を越えていた5歳から14歳の総人口に対する割合は、1970年ごろには15%前後、その後第二次ベビブーマーの成長とともに若干の回復をみせたものの、今では10%を割り込んでいる。それに応じて子どもたちの購買力は集団として縮小し、そのせいでサブカルチャーの市場はむしろ青年層以上の者によって占拠されていくのである。

結果、漫画・アニメ文化には独自の屈折や、あるいは逆にあられもない欲望の投影も目立ち始める。その現在形はコミケや秋葉原で観察されるが、そうした文化は、もちろん一概に否定されるべきものではない。ただしそれは、消費社会から排除された者のための文化(=サブカルチャー)ともいいがたい。それは子どもを脇に追いやり、可処分所得の多い大人たち(たとえば男性、独身者)の欲望に仕え形成された、この国のむしろ主流の文化というべきなのである。

とはいえそれで日本のサブカルチャーが終焉したわけではない。消費社会から相対的に排除された者がいなくなったわけではないからである。子どもたちもなおそうだが、夫や父に収入を依存する女性、年金という鎖で国家に繋がれた高齢者、あるいはそもそも資本主義から排除された下層労働者など、満足な購買力を持たない人びとがこの国には残り続けている。

そうした人が集団として購買力を発揮し始めるとき、いかなる文化が生まれるのだろうか。たしかに消費社会では購買力が一定量に達しないかぎり、あらたな市場は生まれにくい。しかし一方、グローバル化を前提に、国内では限定された購買力がときに熱いムーブメント――たとえば全世界の若者にファンを作り出している韓流文化など――をつくりだしていることも事実である。

ではかつてはアメリカから自立し、ナショナルなものとしてつくられたサブカルチャーは、グローバルな市場のなかでいかに変貌していくのだろうか。漫画やアニメを中心とした日本のサブカルチャーは、子どもたちの声を代弁し、現在の消費社会を支配する企業、家庭、国家が織りなす文化にたいする違和をくりかえし小さな声で語ってきた。それに対して、今後のサブカルチャーが、たしかに漫画やアニメというかたちを取るかどうかはわからない。とはいえこの社会が消費社会として続くかぎり、今後もそれに違和を突きつけ、別の社会を夢見る試みは、何らかの仕方で人びとを魅了していくはずなのである。

プロフィール

貞包英之社会学、消費社会論

1973年生まれ。立教大学教授。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程単位取得満期退学。専攻は社会学・消費社会論・歴史社会学。著書に『地方都市を考える「消費社会」の先端から』(花伝社、2015年)、『消費は誘惑する 遊廓・白米・変化朝顔~一八、一九世紀日本の消費の歴史社会学~』(青土社、2016年)、『サブカルチャーを消費する 20世紀日本における漫画・アニメの歴史社会学』(玉川大学出版部、2021年)、『消費社会を問いなおす』(筑摩書房、2023年)など。

 

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